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第五章 池谷邑子は恋をしない
第四話
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仕事を終え、杏子に連絡するとすぐに電話がかかって来て「今、近くまで来てる」と言った。
「ご飯は?」
訊ねると「うん、食べに行こう」と杏子は答えた。
合流して、てきとうに駅近くの空いている店に入る。サラリーマンやOLたちから愛される、こじんまりとした定食屋だ。店に入ると、まさに〈お母さん〉と呼びたくなるような割烹着を着た店員が目に入る。母と同じくらいの年齢だろうか。
私もこの店はたまに利用していた。実家よりも、ここでひとり食事をする方が落ち着く。
「会いたいなんて、珍しいね」
席に座りながら私が言うと、
「姉妹なんだから、別にいいじゃん」
と、なにかイライラした口調だった。妹はいつもそうだ。いつもちょっと怒っている。私のせいだろうか。
私は黙ってメニューを広げた。杏子も黙ったまま、メニューを眺めている。
煮魚定食、チキン南蛮定食、ハンバーグ定食、モツ煮定食……いろいろある。きょうの気分は、煮魚定食かな。最近、煮魚は作っていない。料理するのが面倒で、誰かに食べさせるような料理は作っていなかった。ひとり暮らしが長く続くと、こうなる。納豆にご飯に味噌汁。その程度だ。
しばらくして「決まった?」と訊ねると、杏子はうんと頷くので、店員を呼んで注文した。杏子はハンバーグ定食を頼んだ。
杏子が話し始めるまで、私はただぼんやり店内を見回して、時々杏子をチラッと盗み見て様子を伺っていた。自分の妹ながら、なにを考えているのかさっぱりわからない。おそらく、向こうも同じことを思っているのだろうけれど。
「お姉ちゃんは、どうして彼氏作んないの?」
へ? と間の抜けた声が出た。
神妙な顔をしているから、てっきり重大な話かと思っていたのに。なんだ、恋愛の話か。
「彼氏ねぇ……」
杏子にも両親にも、プロポーズされたことは話していない。しかも断ったなんて、絶対に言えるはずがない。もしかしたら、私の妄想かなにかだと疑われるのではないだろうか。
「この間、誕生日だったでしょ。結婚のこと、お母さんたちも言ってるし」
「私、一生結婚なんてできないかも」
なぜプロポ―ズを断ってしまったのか。結婚するには最高の相手と出会えたいうのに、私は未だに恋を信じたいと心のどこかで思っているのか。
だから、断ってしまったんだ。三窪の顔が浮かんだのもそうかもしれない。バカだ。
「恭介と会ってる?」
杏子が小さな声で訊ねた。
「たまに、かな」
「彼、またきっと告白してくるよ」
「え? 前に断ったよ。たぶん、してこないと思うな」
気持ち悪いです、と言った自分の言葉を思い出す。あのときは、ずいぶんひどい言葉を投げかけてしまった。でも、それくらいはっきり言わなければ、彼は諦めてくれないような気がした。傷つけるのはかわいそうだったけれど、仕方がない。だって、私と三窪が付き合うなんて、考えられない。年は離れているし、三十手前のおばさんだ。まだまだ若い三窪には、もっといい人がいる。
「あたし、恭介が好きなの」
煮魚定食が先に運ばれてきた。私はそれを受け取って、つやつやとした煮魚を眺めた。もくもくと湯気が立ち込めている。
「お姉ちゃん、恭介には興味ない、どうでもいいって言ったよね。だったら、断って」
そうか。杏子はそれで、険しい顔をしていたのだ。
もう断っている。かなりひどい言葉で告白を断った。次に告白されるなんて、到底考えられない。
杏子の普段の様子はあまり知らないが、時折男連れで歩く姿を目撃している。それも、相手はいつも違う。杏子もそうかもしれないが、相手の男たちも、きっと今が楽しければすべてよし、という感じだろう。
だけど、杏子の眼差しは真剣そのものだった。
ああ、本気なんだ。本気で、三窪恭介が好きなんだ。
「わかった」
私はそれだけ言って、煮魚に箸をつけた。すぐ後にハンバーグ定食がやって来る。じゅうじゅうと熱い鉄板の上で、肉汁が踊っている。ハンバーグの上にはとろんとした目玉焼きも乗っていた。絶対、半熟だ。
杏子は黙って食べた。私もそれ以上なにも声をかけなかった。
店内に、仕事帰りのサラリーマンたちが入ってきて、私たちふたり以外はみんな賑やかな夕飯を楽しんでいた。
食べ終わり、私たちは「おやすみ」と別々の方へ歩いて別れた。
妹と同い年の男の子が私を好きで、妹はその男の子が好き。いまどきこんな話、小説にもならない。バカみたいな話だ。当然、私ではなくふたりが結ばれるのが自然だろう。話も合うだろうし、三窪は見た目のわりにしっかりした青年だ。杏子を大切にしてくれるだろう。少なくとも、杏子が度々遊ぶ男たちより断然いいはず。
吐く息が白く浮かび上がる。それを目で追うと、空に浮かぶ月が寂しげに見えた。
「ご飯は?」
訊ねると「うん、食べに行こう」と杏子は答えた。
合流して、てきとうに駅近くの空いている店に入る。サラリーマンやOLたちから愛される、こじんまりとした定食屋だ。店に入ると、まさに〈お母さん〉と呼びたくなるような割烹着を着た店員が目に入る。母と同じくらいの年齢だろうか。
私もこの店はたまに利用していた。実家よりも、ここでひとり食事をする方が落ち着く。
「会いたいなんて、珍しいね」
席に座りながら私が言うと、
「姉妹なんだから、別にいいじゃん」
と、なにかイライラした口調だった。妹はいつもそうだ。いつもちょっと怒っている。私のせいだろうか。
私は黙ってメニューを広げた。杏子も黙ったまま、メニューを眺めている。
煮魚定食、チキン南蛮定食、ハンバーグ定食、モツ煮定食……いろいろある。きょうの気分は、煮魚定食かな。最近、煮魚は作っていない。料理するのが面倒で、誰かに食べさせるような料理は作っていなかった。ひとり暮らしが長く続くと、こうなる。納豆にご飯に味噌汁。その程度だ。
しばらくして「決まった?」と訊ねると、杏子はうんと頷くので、店員を呼んで注文した。杏子はハンバーグ定食を頼んだ。
杏子が話し始めるまで、私はただぼんやり店内を見回して、時々杏子をチラッと盗み見て様子を伺っていた。自分の妹ながら、なにを考えているのかさっぱりわからない。おそらく、向こうも同じことを思っているのだろうけれど。
「お姉ちゃんは、どうして彼氏作んないの?」
へ? と間の抜けた声が出た。
神妙な顔をしているから、てっきり重大な話かと思っていたのに。なんだ、恋愛の話か。
「彼氏ねぇ……」
杏子にも両親にも、プロポーズされたことは話していない。しかも断ったなんて、絶対に言えるはずがない。もしかしたら、私の妄想かなにかだと疑われるのではないだろうか。
「この間、誕生日だったでしょ。結婚のこと、お母さんたちも言ってるし」
「私、一生結婚なんてできないかも」
なぜプロポ―ズを断ってしまったのか。結婚するには最高の相手と出会えたいうのに、私は未だに恋を信じたいと心のどこかで思っているのか。
だから、断ってしまったんだ。三窪の顔が浮かんだのもそうかもしれない。バカだ。
「恭介と会ってる?」
杏子が小さな声で訊ねた。
「たまに、かな」
「彼、またきっと告白してくるよ」
「え? 前に断ったよ。たぶん、してこないと思うな」
気持ち悪いです、と言った自分の言葉を思い出す。あのときは、ずいぶんひどい言葉を投げかけてしまった。でも、それくらいはっきり言わなければ、彼は諦めてくれないような気がした。傷つけるのはかわいそうだったけれど、仕方がない。だって、私と三窪が付き合うなんて、考えられない。年は離れているし、三十手前のおばさんだ。まだまだ若い三窪には、もっといい人がいる。
「あたし、恭介が好きなの」
煮魚定食が先に運ばれてきた。私はそれを受け取って、つやつやとした煮魚を眺めた。もくもくと湯気が立ち込めている。
「お姉ちゃん、恭介には興味ない、どうでもいいって言ったよね。だったら、断って」
そうか。杏子はそれで、険しい顔をしていたのだ。
もう断っている。かなりひどい言葉で告白を断った。次に告白されるなんて、到底考えられない。
杏子の普段の様子はあまり知らないが、時折男連れで歩く姿を目撃している。それも、相手はいつも違う。杏子もそうかもしれないが、相手の男たちも、きっと今が楽しければすべてよし、という感じだろう。
だけど、杏子の眼差しは真剣そのものだった。
ああ、本気なんだ。本気で、三窪恭介が好きなんだ。
「わかった」
私はそれだけ言って、煮魚に箸をつけた。すぐ後にハンバーグ定食がやって来る。じゅうじゅうと熱い鉄板の上で、肉汁が踊っている。ハンバーグの上にはとろんとした目玉焼きも乗っていた。絶対、半熟だ。
杏子は黙って食べた。私もそれ以上なにも声をかけなかった。
店内に、仕事帰りのサラリーマンたちが入ってきて、私たちふたり以外はみんな賑やかな夕飯を楽しんでいた。
食べ終わり、私たちは「おやすみ」と別々の方へ歩いて別れた。
妹と同い年の男の子が私を好きで、妹はその男の子が好き。いまどきこんな話、小説にもならない。バカみたいな話だ。当然、私ではなくふたりが結ばれるのが自然だろう。話も合うだろうし、三窪は見た目のわりにしっかりした青年だ。杏子を大切にしてくれるだろう。少なくとも、杏子が度々遊ぶ男たちより断然いいはず。
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