42 / 58
第五章 池谷邑子は恋をしない
第二話
しおりを挟む
こんな私にも、恋人がいた。大学生の頃だ。
彼との出会いは、高校から始まる。彼はひとつ上の先輩だった。校内でも人気のある先輩で、勉強もスポーツもできる非の打ちどころのない人だった。当然、恋人の噂は絶えなかった。バレンタインになれば大量のチョコレートをもらっていた。私は高校在学中、一度もチョコを渡せなかった。告白する勇気がなかったのだ。
人気者の先輩と、地味で可愛くもない後輩とでは、どの世界でも物語は始まらない。わかっていた。だから、そっと先輩を見つめることしかできなかった。
高校一年生のときに、同じ生徒会で知り合ってからずっと片想いをしていた。苦しかったけれど、同時に幸せも感じていた。複雑な気持ちだ。先輩を校内で見かけるたび、胸が高鳴って、苦しかった。でもその苦しさが、私を心地よくさせていた。こんなにも誰かを好きになれる。愛おしく思える。それが嬉しかった。
必死で勉強した。先輩は完璧だ。カッコいいだけではない。頭もいい。
先輩と同じ大学に通うため、塾へ行きとにかく勉強だけをして、高校時代を過ごした。特に、先輩が卒業したあとは勉強に身が入った。
先輩が通う大学は、都内でも有名な国立大学だった。両親は有名校に受かったことだけに喜んでいた。私がなぜその大学へ行きたいかは、どうでもいいのだ。
晴れて先輩と同じ大学に合格し、先輩と同じサークルに入った。先輩は天文サークルに入っていた。なにひとつ迷うことなくそこに入って、頑張って先輩に近づいた。高校時代は勉強ばかりしてきたので、大学に入ってからはファッションやメイクの勉強が始まった。雑誌なんて一度も買ったことがなかったが、とにかくいろんなファッション誌を読み漁った。大学ではみんなおしゃれだし、私がダサいという事実は誰が見ても丸わかりだった。8つも年下の妹の方が、私よりはるかにおしゃれだ。さすがに妹の真似はできなかったが、同じ大学に通う女の子たちの服装や雰囲気を手本にして、先輩が好きな女になろうと努力した。
神様が私にくれた最大のプレゼントは、先輩だった。大学1年の終わりに、なんと先輩から告白されたのだ。一度も想いを伝えていないものの、諦めずに想い続ければ相手に届くんだ。そのときの私は、そう思っていた。夢は叶う。願いも叶う。いつか努力は報われるのだ、と。
私たちは大学在学中、ずっと付き合っていた。喧嘩することもなく、平和で穏やかな日常だった。毎日が嘘かと思うくらい、幸せだった。
先輩は一足早く卒業し、社会人になった。それからは会う頻度が減った。当然だ。大学時代は同じサークルだし、ずっと一緒にいられた。けれど、社会人になれば話は変わって来る。だから、仕事が忙しくて会えないと言われても、先輩の重荷にならないようわがままも言わなかった。会いたい、なんて困らせたくもなかった。
私も無事に就職先が決まり、先輩も喜んでくれた。
大学4年生最後のバレンタインデー。先輩にはなかなか会えない日々が続いていた。だからこの日、一人暮らしをしている先輩の家でご馳走を作って、サプライズしようと計画していた。料理の勉強をして、母にもいくつか教えてもらっていた。しかし、先輩から風邪をひいてしまったと連絡をもらい、急きょ予定を変更しておかゆかうどんか、消化にいいものを作ってあげようと彼の家に行った。連絡しないで突然押しかけてしまったのが、事の発端だった。
部屋にいたのは、先輩だけではなかった。それも、先輩と見知らぬ女は同棲していた。それも、もうずっと前から。
先輩は至って冷静に「あー、来ちゃったの」と面倒くさそうだった。そして言った。
「邑子ちゃん、つまらないんだよね。いっつもいい子だし。単純っていうかさ。かわいいけど、それだけって感じ」
言われたときは、陳腐で使い古された表現だけれど、心臓を握り潰されたみたいに胸が苦しくなった。辛くて、涙も言葉もなにも出なかった。
だけど今は、思い出してもなんにも感じない。痛くも痒くもない。
「もう半年以上会ってないんだから。自然消滅、狙ったのに」
先輩はそう言って、同棲している女と困ったように笑っていた。
フラれた後、私は当てもなくさ迷い歩いた。途中で、同じサークルの後輩が言っていた言葉を思い出す。
恋に傷ついたとき、野良神社で猫神様に「もう恋なんてしない」とお祈りすると、〈恋心〉をもらってくれるんだって。そうすると、恋に傷ついたことを忘れて恋に悩んだりしなくなる。もし、いつか恋したい相手が現れたら――。
もし、いつか恋したい相手が現れたら……なんて言っていたんだっけ。その先は忘れてしまった。
だけど、〈恋心〉なんて返してもらわなくたっていい。今の気持ちから救われるなら、なんだっていいと思った。私は野良神社へ行き、賽銭箱にお金を入れ、願った。もう恋なんてしません、と。
所詮はただの噂。願いなんて、そんな簡単には叶わない。そうバカにしていた。けれど、翌朝心がスッと軽くなっているような気がした。これが猫神様のおかげなら、ありがたい。これで心を閉ざして、恋とは無縁に生きるだけ。そうすれば、もう二度と辛い思いをしないで済む。
今はもう、失恋の痛みを忘れているけれど、痛かったことだけは覚えている。恋なんて、しない方が楽だ。
シャンパングラスの中身を一気に喉の奥へ流し込み、立ち上がった。
――君には心がないみたいだ。
先ほど言われた言葉を反芻する。でも、ちっとも悲しくない。むしろこれから先、どうするかという不安だけが残された。
彼との出会いは、高校から始まる。彼はひとつ上の先輩だった。校内でも人気のある先輩で、勉強もスポーツもできる非の打ちどころのない人だった。当然、恋人の噂は絶えなかった。バレンタインになれば大量のチョコレートをもらっていた。私は高校在学中、一度もチョコを渡せなかった。告白する勇気がなかったのだ。
人気者の先輩と、地味で可愛くもない後輩とでは、どの世界でも物語は始まらない。わかっていた。だから、そっと先輩を見つめることしかできなかった。
高校一年生のときに、同じ生徒会で知り合ってからずっと片想いをしていた。苦しかったけれど、同時に幸せも感じていた。複雑な気持ちだ。先輩を校内で見かけるたび、胸が高鳴って、苦しかった。でもその苦しさが、私を心地よくさせていた。こんなにも誰かを好きになれる。愛おしく思える。それが嬉しかった。
必死で勉強した。先輩は完璧だ。カッコいいだけではない。頭もいい。
先輩と同じ大学に通うため、塾へ行きとにかく勉強だけをして、高校時代を過ごした。特に、先輩が卒業したあとは勉強に身が入った。
先輩が通う大学は、都内でも有名な国立大学だった。両親は有名校に受かったことだけに喜んでいた。私がなぜその大学へ行きたいかは、どうでもいいのだ。
晴れて先輩と同じ大学に合格し、先輩と同じサークルに入った。先輩は天文サークルに入っていた。なにひとつ迷うことなくそこに入って、頑張って先輩に近づいた。高校時代は勉強ばかりしてきたので、大学に入ってからはファッションやメイクの勉強が始まった。雑誌なんて一度も買ったことがなかったが、とにかくいろんなファッション誌を読み漁った。大学ではみんなおしゃれだし、私がダサいという事実は誰が見ても丸わかりだった。8つも年下の妹の方が、私よりはるかにおしゃれだ。さすがに妹の真似はできなかったが、同じ大学に通う女の子たちの服装や雰囲気を手本にして、先輩が好きな女になろうと努力した。
神様が私にくれた最大のプレゼントは、先輩だった。大学1年の終わりに、なんと先輩から告白されたのだ。一度も想いを伝えていないものの、諦めずに想い続ければ相手に届くんだ。そのときの私は、そう思っていた。夢は叶う。願いも叶う。いつか努力は報われるのだ、と。
私たちは大学在学中、ずっと付き合っていた。喧嘩することもなく、平和で穏やかな日常だった。毎日が嘘かと思うくらい、幸せだった。
先輩は一足早く卒業し、社会人になった。それからは会う頻度が減った。当然だ。大学時代は同じサークルだし、ずっと一緒にいられた。けれど、社会人になれば話は変わって来る。だから、仕事が忙しくて会えないと言われても、先輩の重荷にならないようわがままも言わなかった。会いたい、なんて困らせたくもなかった。
私も無事に就職先が決まり、先輩も喜んでくれた。
大学4年生最後のバレンタインデー。先輩にはなかなか会えない日々が続いていた。だからこの日、一人暮らしをしている先輩の家でご馳走を作って、サプライズしようと計画していた。料理の勉強をして、母にもいくつか教えてもらっていた。しかし、先輩から風邪をひいてしまったと連絡をもらい、急きょ予定を変更しておかゆかうどんか、消化にいいものを作ってあげようと彼の家に行った。連絡しないで突然押しかけてしまったのが、事の発端だった。
部屋にいたのは、先輩だけではなかった。それも、先輩と見知らぬ女は同棲していた。それも、もうずっと前から。
先輩は至って冷静に「あー、来ちゃったの」と面倒くさそうだった。そして言った。
「邑子ちゃん、つまらないんだよね。いっつもいい子だし。単純っていうかさ。かわいいけど、それだけって感じ」
言われたときは、陳腐で使い古された表現だけれど、心臓を握り潰されたみたいに胸が苦しくなった。辛くて、涙も言葉もなにも出なかった。
だけど今は、思い出してもなんにも感じない。痛くも痒くもない。
「もう半年以上会ってないんだから。自然消滅、狙ったのに」
先輩はそう言って、同棲している女と困ったように笑っていた。
フラれた後、私は当てもなくさ迷い歩いた。途中で、同じサークルの後輩が言っていた言葉を思い出す。
恋に傷ついたとき、野良神社で猫神様に「もう恋なんてしない」とお祈りすると、〈恋心〉をもらってくれるんだって。そうすると、恋に傷ついたことを忘れて恋に悩んだりしなくなる。もし、いつか恋したい相手が現れたら――。
もし、いつか恋したい相手が現れたら……なんて言っていたんだっけ。その先は忘れてしまった。
だけど、〈恋心〉なんて返してもらわなくたっていい。今の気持ちから救われるなら、なんだっていいと思った。私は野良神社へ行き、賽銭箱にお金を入れ、願った。もう恋なんてしません、と。
所詮はただの噂。願いなんて、そんな簡単には叶わない。そうバカにしていた。けれど、翌朝心がスッと軽くなっているような気がした。これが猫神様のおかげなら、ありがたい。これで心を閉ざして、恋とは無縁に生きるだけ。そうすれば、もう二度と辛い思いをしないで済む。
今はもう、失恋の痛みを忘れているけれど、痛かったことだけは覚えている。恋なんて、しない方が楽だ。
シャンパングラスの中身を一気に喉の奥へ流し込み、立ち上がった。
――君には心がないみたいだ。
先ほど言われた言葉を反芻する。でも、ちっとも悲しくない。むしろこれから先、どうするかという不安だけが残された。
2
お気に入りに追加
28
あなたにおすすめの小説
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】
橘
ライト文芸
《5/31 その後のお話の更新を始めました》
私は――
気付けばずっと、孤独だった。
いつも心は寂しくて。その寂しさから目を逸らすように生きていた。
僕は――
気付けばずっと、苦しい日々だった。
それでも、自分の人生を恨んだりはしなかった。恨んだところで、別の人生をやり直せるわけでもない。
そう思っていた。そう、思えていたはずだった――。
孤独な男女の、静かで哀しい出会いと関わり。
そこから生まれたのは、慰め? 居場所? それともーー。
"キミの孤独を利用したんだ"
※注意……暗いです。かつ、禁断要素ありです。
以前他サイトにて掲載しておりましたものを、修正しております。
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
2番目の1番【完】
綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。
騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。
それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。
王女様には私は勝てない。
結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。
※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです
自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。
批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…
この度、仮面夫婦の妊婦妻になりまして。
天織 みお
恋愛
「おめでとうございます。奥様はご懐妊されています」
目が覚めたらいきなり知らない老人に言われた私。どうやら私、妊娠していたらしい。
「だが!彼女と子供が出来るような心当たりは一度しかないんだぞ!!」
そして、子供を作ったイケメン王太子様との仲はあまり良くないようで――?
そこに私の元婚約者らしい隣国の王太子様とそのお妃様まで新婚旅行でやって来た!
っていうか、私ただの女子高生なんですけど、いつの間に結婚していたの?!ファーストキスすらまだなんだけど!!
っていうか、ここどこ?!
※完結まで毎日2話更新予定でしたが、3話に変更しました
※他サイトにも掲載中
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる