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第五章 池谷邑子は恋をしない

第二話

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 こんな私にも、恋人がいた。大学生の頃だ。
 彼との出会いは、高校から始まる。彼はひとつ上の先輩だった。校内でも人気のある先輩で、勉強もスポーツもできる非の打ちどころのない人だった。当然、恋人の噂は絶えなかった。バレンタインになれば大量のチョコレートをもらっていた。私は高校在学中、一度もチョコを渡せなかった。告白する勇気がなかったのだ。
 人気者の先輩と、地味で可愛くもない後輩とでは、どの世界でも物語は始まらない。わかっていた。だから、そっと先輩を見つめることしかできなかった。
 高校一年生のときに、同じ生徒会で知り合ってからずっと片想いをしていた。苦しかったけれど、同時に幸せも感じていた。複雑な気持ちだ。先輩を校内で見かけるたび、胸が高鳴って、苦しかった。でもその苦しさが、私を心地よくさせていた。こんなにも誰かを好きになれる。愛おしく思える。それが嬉しかった。

 必死で勉強した。先輩は完璧だ。カッコいいだけではない。頭もいい。
 先輩と同じ大学に通うため、塾へ行きとにかく勉強だけをして、高校時代を過ごした。特に、先輩が卒業したあとは勉強に身が入った。
 先輩が通う大学は、都内でも有名な国立大学だった。両親は有名校に受かったことだけに喜んでいた。私がなぜその大学へ行きたいかは、どうでもいいのだ。

 晴れて先輩と同じ大学に合格し、先輩と同じサークルに入った。先輩は天文サークルに入っていた。なにひとつ迷うことなくそこに入って、頑張って先輩に近づいた。高校時代は勉強ばかりしてきたので、大学に入ってからはファッションやメイクの勉強が始まった。雑誌なんて一度も買ったことがなかったが、とにかくいろんなファッション誌を読み漁った。大学ではみんなおしゃれだし、私がダサいという事実は誰が見ても丸わかりだった。8つも年下の妹の方が、私よりはるかにおしゃれだ。さすがに妹の真似はできなかったが、同じ大学に通う女の子たちの服装や雰囲気を手本にして、先輩が好きな女になろうと努力した。

 神様が私にくれた最大のプレゼントは、先輩だった。大学1年の終わりに、なんと先輩から告白されたのだ。一度も想いを伝えていないものの、諦めずに想い続ければ相手に届くんだ。そのときの私は、そう思っていた。夢は叶う。願いも叶う。いつか努力は報われるのだ、と。
 私たちは大学在学中、ずっと付き合っていた。喧嘩することもなく、平和で穏やかな日常だった。毎日が嘘かと思うくらい、幸せだった。

 先輩は一足早く卒業し、社会人になった。それからは会う頻度が減った。当然だ。大学時代は同じサークルだし、ずっと一緒にいられた。けれど、社会人になれば話は変わって来る。だから、仕事が忙しくて会えないと言われても、先輩の重荷にならないようわがままも言わなかった。会いたい、なんて困らせたくもなかった。
 私も無事に就職先が決まり、先輩も喜んでくれた。
 大学4年生最後のバレンタインデー。先輩にはなかなか会えない日々が続いていた。だからこの日、一人暮らしをしている先輩の家でご馳走を作って、サプライズしようと計画していた。料理の勉強をして、母にもいくつか教えてもらっていた。しかし、先輩から風邪をひいてしまったと連絡をもらい、急きょ予定を変更しておかゆかうどんか、消化にいいものを作ってあげようと彼の家に行った。連絡しないで突然押しかけてしまったのが、事の発端だった。

 部屋にいたのは、先輩だけではなかった。それも、先輩と見知らぬ女は同棲していた。それも、もうずっと前から。
 先輩は至って冷静に「あー、来ちゃったの」と面倒くさそうだった。そして言った。

「邑子ちゃん、つまらないんだよね。いっつもいい子だし。単純っていうかさ。かわいいけど、それだけって感じ」

 言われたときは、陳腐で使い古された表現だけれど、心臓を握り潰されたみたいに胸が苦しくなった。辛くて、涙も言葉もなにも出なかった。
 だけど今は、思い出してもなんにも感じない。痛くも痒くもない。

「もう半年以上会ってないんだから。自然消滅、狙ったのに」

 先輩はそう言って、同棲している女と困ったように笑っていた。
 フラれた後、私は当てもなくさ迷い歩いた。途中で、同じサークルの後輩が言っていた言葉を思い出す。

 恋に傷ついたとき、野良神社で猫神様に「もう恋なんてしない」とお祈りすると、〈恋心〉をもらってくれるんだって。そうすると、恋に傷ついたことを忘れて恋に悩んだりしなくなる。もし、いつか恋したい相手が現れたら――。

 もし、いつか恋したい相手が現れたら……なんて言っていたんだっけ。その先は忘れてしまった。
 だけど、〈恋心〉なんて返してもらわなくたっていい。今の気持ちから救われるなら、なんだっていいと思った。私は野良神社へ行き、賽銭箱にお金を入れ、願った。もう恋なんてしません、と。
 所詮はただの噂。願いなんて、そんな簡単には叶わない。そうバカにしていた。けれど、翌朝心がスッと軽くなっているような気がした。これが猫神様のおかげなら、ありがたい。これで心を閉ざして、恋とは無縁に生きるだけ。そうすれば、もう二度と辛い思いをしないで済む。

 今はもう、失恋の痛みを忘れているけれど、痛かったことだけは覚えている。恋なんて、しない方が楽だ。

 シャンパングラスの中身を一気に喉の奥へ流し込み、立ち上がった。

 ――君には心がないみたいだ。

 先ほど言われた言葉を反芻する。でも、ちっとも悲しくない。むしろこれから先、どうするかという不安だけが残された。
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