40 / 58
第四章 三谷隆弘のキスでは誰も目覚めない
第八話
しおりを挟む
恋人がいないバレンタインなんて、何年振りだろう。もしかしたら、杏子が三窪にチョコを渡すかもしれないと考えるだけでおかしくなりそうだった。だから、1日中バイトを入れた。働いていた方が、余計な心配をせずに済む。
三窪はきょう一日ずっとソワソワしていた。たぶん、邑子さんと会う約束でもしているんだろう。まさか、邑子さんが三窪に告白するのか? 邑子さんから呼び出されたのだろうか。
毎年あるはずのチョコがないのは、やっぱりなんだか寂しかった。中学の頃も、高校の頃も、たくさんチョコを抱えて帰った。毎年バレンタインデーは俺にとってモテることを周囲に証明できる一日だ。でも今年は違う。恋人もいない。他の誰からもチョコはもらえない。こんなの久々だ。
バイト帰りにふらっとコンビニに立ち寄り、もう安売りされているバレンタイン用のチョコを買った。今年はもう、思いっきり自分を惨めにする。とことん追い詰めてやる。やけくそだ。
店員の若い女の子が「この人、チョコもらえなかったから自分で買いに来たんだろうな。かわいそうに」という目を俺に向けてくる。こんなにも切ないバレンタインデーは、ある意味忘れられないだろう。
歩きながら、チョコの包み紙を破いて口に入れた。甘い。ただ甘いだけの塊が、口の中でドロッと溶けた。口の中に入れてから気づく。俺、あんまり甘いものが好きじゃない。
いつもチョコをもらうと、家族にあげていたくらいだ。
道行くカップルたちをぼんやりと眺める。あの人たちも、この人たちも、チョコをもらったんだろうな。
俺と同じ、寂しい人なんてこの世界にはいないような気がした。みんなカップルになって、恋人繋ぎで指を絡ませ肩を寄せ合い歩いている。ぎゅっと、胸のあたりが痛くなった。
ふと前方から歩いて来る人と目が合う。あれ。邑子さんだ。
すぐにチョコを噛み砕いて飲み込む。
「邑子さん」
目が合ったのに、俺を通り過ぎてそそくさと逃げるように歩いて行く。
「邑子さん、ちょっと」
俺は慌てて追いかけ、呼び止めた。邑子さんは軽く会釈して、また歩き出そうとする。
「え、ちょ、どうしたんですか?」
きょうは、いつもより肌が白く見えた。顔が青白い。体調でも悪いのか。
「いえ……なんでもないです」
ただ俺と話したくないだけ、か。相変わらずだ。
「邑子さん、聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
「……はい?」
「三窪のこと、嫌いなんですか?」
三窪の名前を出したとたん、目があちこち泳ぐ。三窪となにかあったのか。
邑子さんは一言も答えてくれなかった。ただ薄っすら開いた唇から漏れる白い息だけがはっきりと見えた。
邑子さんのことだから、なにを言っても答えてくれないだろう。わかっている。
「答えなくていいです。でも、これだけは言わせてください」
俺は、黙ったままの邑子さんに向かって勝手に話しかけた。
「三窪は、諦めませんよ。邑子さんのこと本気なんです」
邑子さんは俯き、じっと動かなかった。
俺たちの横を幸せそうなカップルたちが何組も通り過ぎていく。恋から遠ざかっているのは、俺だけじゃない。邑子さんも、三窪も、杏子もそうだ。
「だから付き合ってやってください、とは言いません。でも、もう少しくらい心を開いてあげてもいいんじゃないですか? 人見知りだからって、そんなふうにしていたら誰もあなたがわからないですよ」
言い過ぎたかな。邑子さんの顔色を伺いたいが、俯いているからよくわからない。たぶん真正面から見てもわからないだろう。怒っているだろうか。俺はぶん殴られるだろうか。他人なんかに、こんなこと言われたくないだろう。
少しだけ顔を上げた邑子さんの目は、赤かった。泣いていたんだろうか。
「邑子さんを知りたいと思ってるんです。あいつ、いい奴ですよ」
認めるのは癪だけど、本当だから仕方がない。三窪はいい奴だ。バカみたいに正直で、真っすぐだ。
「だから俺も、諦めません。……あ、邑子さんじゃなくて、別の人ですからね」
俺も今まで散々嘘をついてきた。だから、本音で話すって難しい。言葉の選び方がわからない。
邑子さんはそのまま固まり、動かない。言葉もない。
それじゃあ、と俺は邑子さんに一個チョコを手渡して、退散した。邑子さんの言葉を待てなかった。だって、自分が言った数々の恥ずかしい言葉たちをさっさと消し去りたかった。
このチョコ、アルコールでも入っているのか。思わず、パッケージ裏の原材料名を確認する。書いていない。バレンタインデーにやけくそになった間抜けな男、ってことか。
歩きながら、何個もチョコを口に入れる。口の中が甘ったるい。でも、なぜかやめられなかった。
途中、野良神社の前を通りかかると真っ白い猫が鳥居の前に座っているのが見えた。この神社は野良猫のたまり場になっていて、それで野良神社と呼ばれていると聞いたが、本当らしい。いや、でも白猫は首輪をしていた。飼い猫か。
それにしても、白い猫とは。まさか神様だったりして。
なんて、ふざけたことを考えながら猫を手招きする。しかし、猫は全然動かない。それどころか、俺をふてぶてしい顔で見ているような気がした。
チョコをやろうとして、手を止める。
猫って、チョコ食べるか?
「悪い、猫が食べられそうなもの持ってねぇや。チョコなんて食べないだろ」
白猫はすました顔をして、俺がなにもくれないとわかると神社の奥へ消えて行った。
なんだ。ツンとしやがって。
俺はまたチョコを口に入れて、いつもよりのんびり歩きながら家へ向かった。ちょっと上を見上げると、空には星が瞬いている。綺麗だ。なぜだろう、いつもよりも輝いているように見える。
ふーっと息を吐くと、白い煙が広がりすぐに消える。チョコの甘い香りがした。
家に着く頃には、チョコはもう残っていなかった。
三窪はきょう一日ずっとソワソワしていた。たぶん、邑子さんと会う約束でもしているんだろう。まさか、邑子さんが三窪に告白するのか? 邑子さんから呼び出されたのだろうか。
毎年あるはずのチョコがないのは、やっぱりなんだか寂しかった。中学の頃も、高校の頃も、たくさんチョコを抱えて帰った。毎年バレンタインデーは俺にとってモテることを周囲に証明できる一日だ。でも今年は違う。恋人もいない。他の誰からもチョコはもらえない。こんなの久々だ。
バイト帰りにふらっとコンビニに立ち寄り、もう安売りされているバレンタイン用のチョコを買った。今年はもう、思いっきり自分を惨めにする。とことん追い詰めてやる。やけくそだ。
店員の若い女の子が「この人、チョコもらえなかったから自分で買いに来たんだろうな。かわいそうに」という目を俺に向けてくる。こんなにも切ないバレンタインデーは、ある意味忘れられないだろう。
歩きながら、チョコの包み紙を破いて口に入れた。甘い。ただ甘いだけの塊が、口の中でドロッと溶けた。口の中に入れてから気づく。俺、あんまり甘いものが好きじゃない。
いつもチョコをもらうと、家族にあげていたくらいだ。
道行くカップルたちをぼんやりと眺める。あの人たちも、この人たちも、チョコをもらったんだろうな。
俺と同じ、寂しい人なんてこの世界にはいないような気がした。みんなカップルになって、恋人繋ぎで指を絡ませ肩を寄せ合い歩いている。ぎゅっと、胸のあたりが痛くなった。
ふと前方から歩いて来る人と目が合う。あれ。邑子さんだ。
すぐにチョコを噛み砕いて飲み込む。
「邑子さん」
目が合ったのに、俺を通り過ぎてそそくさと逃げるように歩いて行く。
「邑子さん、ちょっと」
俺は慌てて追いかけ、呼び止めた。邑子さんは軽く会釈して、また歩き出そうとする。
「え、ちょ、どうしたんですか?」
きょうは、いつもより肌が白く見えた。顔が青白い。体調でも悪いのか。
「いえ……なんでもないです」
ただ俺と話したくないだけ、か。相変わらずだ。
「邑子さん、聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
「……はい?」
「三窪のこと、嫌いなんですか?」
三窪の名前を出したとたん、目があちこち泳ぐ。三窪となにかあったのか。
邑子さんは一言も答えてくれなかった。ただ薄っすら開いた唇から漏れる白い息だけがはっきりと見えた。
邑子さんのことだから、なにを言っても答えてくれないだろう。わかっている。
「答えなくていいです。でも、これだけは言わせてください」
俺は、黙ったままの邑子さんに向かって勝手に話しかけた。
「三窪は、諦めませんよ。邑子さんのこと本気なんです」
邑子さんは俯き、じっと動かなかった。
俺たちの横を幸せそうなカップルたちが何組も通り過ぎていく。恋から遠ざかっているのは、俺だけじゃない。邑子さんも、三窪も、杏子もそうだ。
「だから付き合ってやってください、とは言いません。でも、もう少しくらい心を開いてあげてもいいんじゃないですか? 人見知りだからって、そんなふうにしていたら誰もあなたがわからないですよ」
言い過ぎたかな。邑子さんの顔色を伺いたいが、俯いているからよくわからない。たぶん真正面から見てもわからないだろう。怒っているだろうか。俺はぶん殴られるだろうか。他人なんかに、こんなこと言われたくないだろう。
少しだけ顔を上げた邑子さんの目は、赤かった。泣いていたんだろうか。
「邑子さんを知りたいと思ってるんです。あいつ、いい奴ですよ」
認めるのは癪だけど、本当だから仕方がない。三窪はいい奴だ。バカみたいに正直で、真っすぐだ。
「だから俺も、諦めません。……あ、邑子さんじゃなくて、別の人ですからね」
俺も今まで散々嘘をついてきた。だから、本音で話すって難しい。言葉の選び方がわからない。
邑子さんはそのまま固まり、動かない。言葉もない。
それじゃあ、と俺は邑子さんに一個チョコを手渡して、退散した。邑子さんの言葉を待てなかった。だって、自分が言った数々の恥ずかしい言葉たちをさっさと消し去りたかった。
このチョコ、アルコールでも入っているのか。思わず、パッケージ裏の原材料名を確認する。書いていない。バレンタインデーにやけくそになった間抜けな男、ってことか。
歩きながら、何個もチョコを口に入れる。口の中が甘ったるい。でも、なぜかやめられなかった。
途中、野良神社の前を通りかかると真っ白い猫が鳥居の前に座っているのが見えた。この神社は野良猫のたまり場になっていて、それで野良神社と呼ばれていると聞いたが、本当らしい。いや、でも白猫は首輪をしていた。飼い猫か。
それにしても、白い猫とは。まさか神様だったりして。
なんて、ふざけたことを考えながら猫を手招きする。しかし、猫は全然動かない。それどころか、俺をふてぶてしい顔で見ているような気がした。
チョコをやろうとして、手を止める。
猫って、チョコ食べるか?
「悪い、猫が食べられそうなもの持ってねぇや。チョコなんて食べないだろ」
白猫はすました顔をして、俺がなにもくれないとわかると神社の奥へ消えて行った。
なんだ。ツンとしやがって。
俺はまたチョコを口に入れて、いつもよりのんびり歩きながら家へ向かった。ちょっと上を見上げると、空には星が瞬いている。綺麗だ。なぜだろう、いつもよりも輝いているように見える。
ふーっと息を吐くと、白い煙が広がりすぐに消える。チョコの甘い香りがした。
家に着く頃には、チョコはもう残っていなかった。
2
お気に入りに追加
28
あなたにおすすめの小説
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】
橘
ライト文芸
《5/31 その後のお話の更新を始めました》
私は――
気付けばずっと、孤独だった。
いつも心は寂しくて。その寂しさから目を逸らすように生きていた。
僕は――
気付けばずっと、苦しい日々だった。
それでも、自分の人生を恨んだりはしなかった。恨んだところで、別の人生をやり直せるわけでもない。
そう思っていた。そう、思えていたはずだった――。
孤独な男女の、静かで哀しい出会いと関わり。
そこから生まれたのは、慰め? 居場所? それともーー。
"キミの孤独を利用したんだ"
※注意……暗いです。かつ、禁断要素ありです。
以前他サイトにて掲載しておりましたものを、修正しております。
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
2番目の1番【完】
綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。
騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。
それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。
王女様には私は勝てない。
結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。
※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです
自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。
批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…
この度、仮面夫婦の妊婦妻になりまして。
天織 みお
恋愛
「おめでとうございます。奥様はご懐妊されています」
目が覚めたらいきなり知らない老人に言われた私。どうやら私、妊娠していたらしい。
「だが!彼女と子供が出来るような心当たりは一度しかないんだぞ!!」
そして、子供を作ったイケメン王太子様との仲はあまり良くないようで――?
そこに私の元婚約者らしい隣国の王太子様とそのお妃様まで新婚旅行でやって来た!
っていうか、私ただの女子高生なんですけど、いつの間に結婚していたの?!ファーストキスすらまだなんだけど!!
っていうか、ここどこ?!
※完結まで毎日2話更新予定でしたが、3話に変更しました
※他サイトにも掲載中
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる