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第四章 三谷隆弘のキスでは誰も目覚めない

第八話

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 恋人がいないバレンタインなんて、何年振りだろう。もしかしたら、杏子が三窪にチョコを渡すかもしれないと考えるだけでおかしくなりそうだった。だから、1日中バイトを入れた。働いていた方が、余計な心配をせずに済む。

 三窪はきょう一日ずっとソワソワしていた。たぶん、邑子さんと会う約束でもしているんだろう。まさか、邑子さんが三窪に告白するのか? 邑子さんから呼び出されたのだろうか。
 毎年あるはずのチョコがないのは、やっぱりなんだか寂しかった。中学の頃も、高校の頃も、たくさんチョコを抱えて帰った。毎年バレンタインデーは俺にとってモテることを周囲に証明できる一日だ。でも今年は違う。恋人もいない。他の誰からもチョコはもらえない。こんなの久々だ。
 バイト帰りにふらっとコンビニに立ち寄り、もう安売りされているバレンタイン用のチョコを買った。今年はもう、思いっきり自分を惨めにする。とことん追い詰めてやる。やけくそだ。
 店員の若い女の子が「この人、チョコもらえなかったから自分で買いに来たんだろうな。かわいそうに」という目を俺に向けてくる。こんなにも切ないバレンタインデーは、ある意味忘れられないだろう。

 歩きながら、チョコの包み紙を破いて口に入れた。甘い。ただ甘いだけの塊が、口の中でドロッと溶けた。口の中に入れてから気づく。俺、あんまり甘いものが好きじゃない。
 いつもチョコをもらうと、家族にあげていたくらいだ。
 道行くカップルたちをぼんやりと眺める。あの人たちも、この人たちも、チョコをもらったんだろうな。
 俺と同じ、寂しい人なんてこの世界にはいないような気がした。みんなカップルになって、恋人繋ぎで指を絡ませ肩を寄せ合い歩いている。ぎゅっと、胸のあたりが痛くなった。
 ふと前方から歩いて来る人と目が合う。あれ。邑子さんだ。
 すぐにチョコを噛み砕いて飲み込む。

「邑子さん」

 目が合ったのに、俺を通り過ぎてそそくさと逃げるように歩いて行く。

「邑子さん、ちょっと」

 俺は慌てて追いかけ、呼び止めた。邑子さんは軽く会釈して、また歩き出そうとする。

「え、ちょ、どうしたんですか?」

 きょうは、いつもより肌が白く見えた。顔が青白い。体調でも悪いのか。

「いえ……なんでもないです」

 ただ俺と話したくないだけ、か。相変わらずだ。

「邑子さん、聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
「……はい?」
「三窪のこと、嫌いなんですか?」

 三窪の名前を出したとたん、目があちこち泳ぐ。三窪となにかあったのか。
 邑子さんは一言も答えてくれなかった。ただ薄っすら開いた唇から漏れる白い息だけがはっきりと見えた。
 邑子さんのことだから、なにを言っても答えてくれないだろう。わかっている。

「答えなくていいです。でも、これだけは言わせてください」

 俺は、黙ったままの邑子さんに向かって勝手に話しかけた。

「三窪は、諦めませんよ。邑子さんのこと本気なんです」

 邑子さんは俯き、じっと動かなかった。
 俺たちの横を幸せそうなカップルたちが何組も通り過ぎていく。恋から遠ざかっているのは、俺だけじゃない。邑子さんも、三窪も、杏子もそうだ。

「だから付き合ってやってください、とは言いません。でも、もう少しくらい心を開いてあげてもいいんじゃないですか? 人見知りだからって、そんなふうにしていたら誰もあなたがわからないですよ」

 言い過ぎたかな。邑子さんの顔色を伺いたいが、俯いているからよくわからない。たぶん真正面から見てもわからないだろう。怒っているだろうか。俺はぶん殴られるだろうか。他人なんかに、こんなこと言われたくないだろう。
 少しだけ顔を上げた邑子さんの目は、赤かった。泣いていたんだろうか。

「邑子さんを知りたいと思ってるんです。あいつ、いい奴ですよ」

 認めるのは癪だけど、本当だから仕方がない。三窪はいい奴だ。バカみたいに正直で、真っすぐだ。

「だから俺も、諦めません。……あ、邑子さんじゃなくて、別の人ですからね」

 俺も今まで散々嘘をついてきた。だから、本音で話すって難しい。言葉の選び方がわからない。
 邑子さんはそのまま固まり、動かない。言葉もない。
 それじゃあ、と俺は邑子さんに一個チョコを手渡して、退散した。邑子さんの言葉を待てなかった。だって、自分が言った数々の恥ずかしい言葉たちをさっさと消し去りたかった。
 このチョコ、アルコールでも入っているのか。思わず、パッケージ裏の原材料名を確認する。書いていない。バレンタインデーにやけくそになった間抜けな男、ってことか。

 歩きながら、何個もチョコを口に入れる。口の中が甘ったるい。でも、なぜかやめられなかった。
 途中、野良神社の前を通りかかると真っ白い猫が鳥居の前に座っているのが見えた。この神社は野良猫のたまり場になっていて、それで野良神社と呼ばれていると聞いたが、本当らしい。いや、でも白猫は首輪をしていた。飼い猫か。
 それにしても、白い猫とは。まさか神様だったりして。
 なんて、ふざけたことを考えながら猫を手招きする。しかし、猫は全然動かない。それどころか、俺をふてぶてしい顔で見ているような気がした。
 チョコをやろうとして、手を止める。
 猫って、チョコ食べるか?

「悪い、猫が食べられそうなもの持ってねぇや。チョコなんて食べないだろ」

 白猫はすました顔をして、俺がなにもくれないとわかると神社の奥へ消えて行った。
 なんだ。ツンとしやがって。
 俺はまたチョコを口に入れて、いつもよりのんびり歩きながら家へ向かった。ちょっと上を見上げると、空には星が瞬いている。綺麗だ。なぜだろう、いつもよりも輝いているように見える。
 ふーっと息を吐くと、白い煙が広がりすぐに消える。チョコの甘い香りがした。
 家に着く頃には、チョコはもう残っていなかった。

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