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第一章 猫神様と泣きぼくろ君

第二話

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 さて、実はここ数年オレは仕事をしていない。くだらない恋の願いばかりで、仕事する気さえおきないっていうのが本音だ。だいたい、みんな自分で叶えられる願いだ。神頼みなんてしてないで、てめえで叶えやがれ。

 それでも一応神様だ。なにかしら仕事はしなければならない。それならば、誰の願いを叶えるか。人間の見た目や願い事から、さっき言ったふたつのタイプを見極めるのは難しい。とりあえず、願いの内容に耳を傾け続けるしかない。

「お願いお願いお願い、お願いっ」

 お願いという言葉だけを、延々と心の中で繰り返している。
 面白い奴が来た。

「お願いします! お願いお願い……」

 お願いの、中身を言え。
 そっと、男の顔を天井から覗く。見たところ、十代後半くらいだろうか。茶色い髪、右の目元にはほくろ。きょうはずいぶん寒い。それなのに、泣きぼくろ君は上着も着ないで擦り切れたトレーナー姿で必死に願っていた。寒さのせいか、頬が赤い。それとも興奮しているのか。

「お願いお願いお願いお願い、お願いします!」

 だから、お願いの中身はなんだ。
 泣きぼくろ君は、手のひらから火でも起こせそうなくらい、一生懸命こすり合わせている。それからすぐにパッと顔を上げると、口元をだらしなく緩め、神社を立ち去った。これで、願いが叶ったと勘違いしているのだろう。
 神社の中から見ていると、人間の表情は面白い。眉間に皺を寄せ真剣に願う奴もいれば、形だけしてなんにも願わない奴もいる。ご丁寧に名前と住所まで伝えてくれる奴までいる。泣きぼくろ君のように、願った後にニヤついて帰る奴も多い。願った後にニヤついて帰る奴は、ここに願いに来たらなんだって叶うと勘違いしているので、大抵は叶わない。
 結局、泣きぼくろ君は「お願い」だけかけていって、中身は言わなかった。
 バカだな。願い事の詳細を言わなきゃ、さすがに神様だって叶えられないだろうが。

 しかし、面白い。
 男、というのがまた珍しい。神社を訪れる男女を比例すると、圧倒的に女が多い。特にここは恋愛成就の神社だ。年齢に幅はあるが、女ばかりがやって来る。たまに男も来るが、大抵はカップルで訪れる。「いつまでもラブラブでいられますように」という、自己満足的な願い事をして帰る。そんなもの、願い事でもなんでもない。
 丁寧に全身を毛づくろいして、満足したら眠ることにした。面白そうな奴が来たけれど、きょうもオレの出番はなさそうだ。

「30歳になるまでに結婚させて! お願いっ!」

 まずは相手を見つけろ。そこまでオレの世話になるつもりか。
 ……やれやれ。
 昼間はうとうとしていても、人間たちの願いが頭の中でひっきりなしに聞こえてくる。眠れない。目を閉じたまま、ただ人間の声だけを聞いていた。


 夕方になると、また公子がやって来る。夕飯の時間だ。

「今夜はちょっと冷えるねぇ。温かくするんだよ」

 撫ですぎず、足りなさすぎない。ちょうどいい撫で方。公子のよしよしは、日本一だ。他の猫たちにとっても、公子は特別な様子だった。
 食べ終わり、満足しながら夜空を見上げる。月が大きく、まん丸だ。雲の途切れから月が顔を覗かせるたび、この小さな神社をぼんやり照らす。風が吹くと、木々が揺れた。何かを囁き合っているみたいに聞こえる。
 都心の真ん中にある野良神社には、星の光が届かない。それでも、冬だけは違って見える。夏の星よりも、冬の星の方が輝いて見えるのはなぜだろう。都会の光に埋もれる夜空でも、星が美しく瞬く。「空気が冷たいと星が綺麗に見えるんだ」と公子は冬がやって来るたび必ず言っていた。本当だ。

 囁き合う木々の向こうから、荒い吐息が聞こえた。誰か、来る。
 気配を消すなんて微塵も考えていない足音が、近づいて来る。
 たまに、夜中に人目を避けるようにして願いをかけに来る人間がいる。そういう奴らは、自分ではもうどうしようもできないと切羽詰まって、最終手段として神頼みしに来る。願いを叶えてほしい人間か、はたまた夜の神社に身を隠す変態か。どちらかだ。
 鳥居をくぐり、やって来たのは泣きぼくろ君だった。

「……もう俺、神様にしか頼ることができないんです」

 なんだ。泣いているのか。
 顔中ぐちゃぐちゃにして、泣きぼくろ君はしゃくり上げながらオレに頼み込んだ。

「お願いします。どうしても俺、彼女を諦められないんです。彼女じゃなきゃ、ダメなんです……」

 片想いの女がいるのか。昼間にちゃんと願い事の詳細を言ってくれたらよかったのに。
 俺が願いを叶えるのは簡単だ。願い事の詳細を聞き、あくびをひとつしてから右耳の後ろを掻けばいいだけ。嘘と思うかもしれないが、本当の話だ。
 泣きぼくろ君は、子どもみたいに泣きながら賽銭箱の前に蹲った。苦しそうに泣いて、しゃくりあげている。あまりに痛ましいその姿に、つい、頭を手でポンと叩いた。

「………へ?」

 涙と鼻水まみれの顔で、オレを見る。目が、バチっと合った。

「猫ちゃん………どうしてこんなところに」

 泣きぼくろ君は涙と鼻水で袖を拭い「よいしょ」とオレを持ち上げた。
 やめろ、おろせ! ………っちょ、鼻水付くだろ!

「首輪ついてるじゃん。飼い主さんは?」

 さてはこいつ、猫神様の存在を知らないでお参りに来たな。

「飼い主さん、探してあげるよ。きょうは寒いし。俺の家に来なよ」

 さっきまで泣いていたのに、今は笑っている。忙しい男だ。
 オレは泣きぼくろ君に抱きかかえられたまま、野良神社を後にした。野良猫たちは、のんきに眠ったままだった。
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