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第一部
保護作戦開始
しおりを挟むティアトタン国が投降要請を蹴ったことで、リュオクス国による軍の進行が開始されたとの通達が来た。フィアはビアンカに促進魔法をかけてもらうように頼む。
王都の軍を取り仕切るのは、総督だ。フィアの読みが正しければ総督におさまるのは、ゼクス・シュレーベン以外にはありえない。
宰相の娘であるアリーセとの婚約からしばらく経ち、恐らく総督の座はゼクスに渡っているだろう。
チャンスは一度きりだ。
作戦をビアンカとアルフレートに話せば、
「いくら頑丈なフィアでも、さすがに無茶よ」
とビアンカには反対される。アルフレートも難色を示していたが、フィアは一度言いはじめたら聞かないだろうな、と諦めの色すら浮かんでいた。
タイミングは混乱の中での出産であること、様々な要因によりテオドールの関心を逸らせる状況であることが望ましい。
ヴォルモント公爵の領地近辺までリュオクス国の進行が進んだとの報告があがったところで、フィアは事を起こすことにした。
痛みの感覚が均等になって来た、と告げ、出産に際し産屋に籠る、とテオドールに告げる。
混乱の中での出産により、もしいずれかの命の危険に晒された場合には、
「私はこの子を優先させるわ」
とフィアが言えば、
「お前が生き残ることを優先しろ」
とテオドールは言う。
「お前の出自は明らかだが、子どもの親は明らかではないからな」
と言うのだ。
「さすが、慎重なテオ」とフィアは言うに留める。
産屋に籠り、ビアンカの促進魔法により出産を急いだ。ビアンカを始めとして、侍女達で周りを固め、半日がかりで産み落としたのは男児であった。
ビアンカは即座に、睡眠魔法で周りの侍女たちを眠らせる。
「目の色を確認して」
とフィアが言えば、ビアンカは赤子の目をやや強引に開かせ、そしてため息をついた。
「フィア、言い訳の余地はなさそうね。一刻も早く逃がしましょ」と言うのだ。
「灰褐色?」
と聞けば、ビアンカは首を横に振る。
「見て」
と言って、生まれたての赤子をフィアの隣に寝かせた。フィアはその子の金色の瞳を見て、息を飲む。
「黄金の瞳は、たしかリュオクス国の王族にしか現れない色。王の瞳も確か黄金だった」
「フィア、あなたのいい人は随分と高貴な身分だったようね」
「危ないとは思っていたのに……。最後の最後で失敗したみたい」
「きっと、いい人の方があなたのことを離したくなかったんじゃない?」
「そんなわけないわ。私の完全な片思い。彼からすれば、一夜の過ち。据え膳食わぬはなんとやらじゃない」
「そんなに、軽い男なの?」
「まったく、軽くない。彼には陥落が難しいという意味の二つ名があったように思う。退場願いのシュレーベン?」
フィアが言えば、ビアンカは何か言いたげにしながらも、
「それじゃ、作戦開始ね」
と言い、フィアの腰に晒しをきつく巻いた。
「産褥のティアトタン国女王様が、戦地を駆けるなんて。本来非難ものよ」
フィアは身体を起こすと、ティアトタン国の騎士団の正装を身につける。
「テオはまだ即位していないもの。私は王妃でも、女王でもないわ。怪力姫のままよ。怪力姫は戦いの場が大好き」
フィアは着替えをすませると、胎脂をふき取られ赤い肌を見せた赤子に授乳した。
最初で最後の授乳ね、とフィアは思う。二重になった防具の内側に布でくるんだ赤子を隠し、マントを羽織った。
「愛しい人の元へ行って、戻ってこないって手もあるのよ」
とビアンカは言うけれど、
「そしたら、自分に幻滅するわ」
とフィアは返す。
「必ず戻る」
と言って、フィアは産屋を出た。
見張り兵がいない隙を見計らって、壁の上に上る。
夜空に明かりが見え、戦火が広がる気配があった。石壁は開門されており、ティアトタン国の軍も控えている。テオドールが指揮を執ることは分かっていたので、ここで見つかるわけにはいかない。
フィアは両耳のカフスに触れ、呪文を唱える。姿が消えるのを見て、ホッとした。ティアトタン国の中でも、後継者に託されるとされるカフスであり、恐らくフィア以外にこの存在を知る者はいない。フィアは母からこのカフスを受け取ったと記憶していた。
「これは、あなたの身を護るはずよ」
と記憶の中の母は言っている。その顔は思い出せないけれど。
フィアはかぎ爪を使って丁重に壁を降りていく。一気に飛びおりてしまえば、地面に衝撃が及び、自軍の兵に気づかれる可能性があるため、慎重を期する必要があった。降りたったときには、軍の進行が見えており、中心には黒衣の騎士団が遠目に見えた。
王立総督府の精鋭騎士。そして軍部を統括する総督、と思い、フィアは胸がギュッと押しつぶられるように感じる。
けれど、迷っている暇はない。フードを目深にかぶる。自軍内の屯所に繋がれている馬を見つけ、フィアはまたがった。
出産間もないからか、手足の動きに多少不自由を感じたが、元来戦闘の中で生きる一族であるティアトタンの王族は、身体の回復が早い。
前線で戦闘が開始されたことを確認し、馬を進めた。一見すれば馬が勝手に暴走しているようにしか見えないだろう。兵や騎士がこちらをふり返るのを横目に見ながら、フィアは前線に馬を馳せる。
黒衣の騎士団の中央に、その人物を見つけた。姿を消したままでは剣を振るえない。呪文を唱えて、姿を現し馬の上に立ちあがった。その人物の視線がこちらに向くのを感じ、フィアは剣を抜く。
「シュレーベン様、お相手ください」
そう告げて、飛びかかるようにして剣を振るった。見開かれる瞳が何を悟ったのかは、フィアには読み取れない。
けれど、しっかりと剣を受けとめられる。この剣の重みや受けとめ方には、身体に刻まれた記憶が懐かしんでいた。馬に戻ろうとすれば、地上戦が開始され、剣が返って来る。
読み通りだ。
「指揮官が持ち場を離れていいの」
との問いには剣が返って来るので、好戦的な指揮官様ね、とフィアは言う。
鍔迫り合いの後、一度距離を取る。見れば周りも混戦状態になってきており、こちらの意識を向ける者はいない。
「今の名前を聞いても構わないか?」
「フィア・ティアトタン」
「王族だな」
「第一師団長様は、今や総督様ね」
「やめてくれ、その名前は退屈だ」
とゼクスは吐き捨てる。
「しかし、ヴォルモント公爵は、随分と協力的だな。そして、元第二師団長殿は持ち場を離れれば、存外しおらしい」
との言葉を聞き、言付けの存在を思い出す。
また会えたら、嬉しい。
その言葉が伝わっていたことを暗に示されて、頬が熱くなる。本音を告げることは決して許されないと思っていた。
こうして、会話をかわすことは奇跡のようだと思う。いずれにしても、まずは目的を達成しなければ、いけない。
「読みが当たっていてよかったわ。あなたがここに来てくれなければ、作戦は成功しなかった」
「作戦?」
フィアは二重にしていた防具を外した。ゼクスの視線が注がれ、驚きの色が一瞬走るのを見逃さない。とはいえ、さすがに場慣れしているだけあって、次の瞬間には取り澄ました顔になり、
「その者は?」
と問う。
「一夜の過ちに、お心当たりは?」
とフィアの探るような視線にも顔色一つ変えない。
「夢じゃないのか」
と白を切る。
でも、それでいい、とフィアは思う。
「先ほど生まれたばかりよ。黄金の瞳はそちらの王族の印。殺されるわ、私の夫に」
夫の単語に目が合う。互いに身動きのとりがたい立場にいるのは間違いない。
「随分と趣味のいい婚姻をしたものだな」と皮肉を言われる。
「育てて」
あなたの子よ、と指笛で言う。
指笛はかつて、二人きりで災害支援時に取り残されたときに、遊び程度に教授したものだ。ヴォルモント公爵とも共有している言語体系で会話が出来る。ゼクスに伝わっていたかどうかは、分からない。
「赤子の強奪は、我々の役割ではないな。盗賊に任せればいい」
とゼクスは言うが、フィアの意図は伝わったようだ。フィアは布にくるまれた赤子を手渡した。
「和平が私の目的。けれど、そちらの王の意図が力による支配ならば、今のように戦うわ。恐らくこちらの王のお望みも、戦争だから」
フィアは肩をすくめる。
「こちらの王の意図は非常に見えにくい。大陸統一を名目に西方征伐に拘っているが、未だに王都の魔法や封印が解かれていない。どうやら王は探し物をしているようだ。西方地域への探索を急いでいる」
ゼクスの言葉に、フィアは驚きを隠せない。魔法がかかっていることを、なぜ王都の人間であるゼクスが知っているの?と思う。
「ゼクス。なぜあなたが魔法を感じられるの」
フィアの問いに、ゼクスは口元にうっすら笑みを浮かべる。
「フィア・リウゼンシュタインの記憶にない、もう一つの過ちがあった、ということだ」
「もう一つの過ち?」
「そろそろ潮時だ、一旦引く。そちらには魔法がある。こちらにとっては分が悪い」
ゼクスが剣を振るい、フィアは受けた。片腕に抱かれる赤子を見て、心臓が握りつぶされるような思いが生まれる。先ほどまで自分の中にいた存在と、分かたれてしまう。強烈な寂しさがあった。
「安心しろ。安全は必ず確保する」
そして、この場を去りがたく思うのは、我が子を手渡してしまったことだけが、理由ではない。目の前の人物に、フィア自身の心が大きく揺れ動いているからだ。
心はあの日を経ても、離れていない。
「さよなら」
とフィアは告げる。
「またな」
とゼクスは言いなおす。
そんな期待を持たせる言葉を言わないで欲しい、と思い、剣先をぶつけた。押し返されたときに、視線が交わる。伝えられない言葉は、視線に乗せた。届くわけはないけれど。
その瞬間に、ゼクスが剣先を天に向ける。稲光が走った。轟音と共に閃光があり、その場にいた皆が空を仰ぐ。フィアもまた目を見張ったときに、ゼクスのマントで身体ごと覆われた。
腕を引かれて、抱き寄せられたかと思えば、唇に口づけが一度やって来る。
唇に触れた吐息は、夢ではない。しかし、次の瞬間には離れていた。
なぜ魔法が使えるの、とフィアは思う。そしてまだ唇に残る感触に、心臓が早鐘を打っていた。
――――なぜ、こんなことを?
いずれにしても目的は果たせたのだ。
急いで帰らなければ、と思ってフィアは踵を返し、自軍が戦う前線へと戻っていく。後ろから指笛の音がした。聞こえた音に、心が再び揺さぶられる。
フィアが伝えたかったことと同じことを、ゼクスが笛の音に乗せてくるとは思わなかった。
心の水面に、波が立つ。
――――それは、いけないことよ。ゼクス。
フィアはフードを目深にかぶり直し、呪文を唱えて身を隠した。馬にまたがり兵の流れに逆らって戻っていく。戻る途中で自国の兵が明らかに押されている場面に出くわした場合のみ、剣を地面に差し衝撃波を送ってみる。どちらかが圧勝するのは望ましくない。願わくば、拮抗を保ったまま和平に持ち込みたいのだ。
石壁が遠目に見え、門は開かれていた。門の周辺には軍の司令部がおかれ、テオドールの姿も見える。フィアは馬を乗り捨て、姿を隠しながら産屋に戻ることにした。
テオドールの脇を通り抜ける瞬間だけ、息を止める。
その時、足元に冷気を感じた。
こちらを見ることなく、「悪い女だな」とテオドールが低く言うのを聞く。
心臓が大きく跳ね上がった。気づかれているのだ。
急いで産屋に戻れば、侍女やビアンカが倒れているのが見える。駆け寄って心音や呼吸を確認するが、いずれも問題はなさそうだった。気を失っているだけのようだ。けれど、恐らくテオドールはこの場所に来たのだと思う。フィアが子を産み落とし、壁の外に出たことをテオドールは知っているのだ。
マズいことになった、とフィアは思った。唇に残る感覚と、耳に残る指笛の音が自分の悪事の名残だ。
状況は最悪にもかかわらず、僅かな逢瀬に心が熱くなり、その感覚を永遠に閉じこめたいと望んでしまう。
テオドールの言うように、悪い女に違いない。
愛してる。
後も先もない関係だと思っていたのに。放り込まれた言葉に、未来を期待しそうになってしまう。
とても罪深く、いけないことを言ったのよ、ゼクス。
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