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苦くて苦い
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しおりを挟むオレは半ば逃げ腰で、椅子を立つ。帰ろうと思った。後で藤堂さんには説明すればいい。
リビングのソファの上にあったショルダーバッグを取りに戻ったところで、雨に手を引かれ、ソファの上に引き倒された。のしかかって来た雨は、オレのスウェットを引きずりおろすと、チューブから手にジェルとしぼる。オレの身体を腿の間にはさんで固定し、強引に足をあげさせた。足をバタつかせれば、腿の裏の体重をかけられて動けなくなる。
「何すんだよ!変態!」
「変態ってマジで思ってる?」
「思ってるよ、離せよ!」
声をあげて足をバタつかせて暴れてみても、体格差で抑え込まれてしまう。
「嘘だね。目が潤んでるし、本気では抵抗してない」
「それは、だって、あんたがあんまりも」
兄貴に似ている?それを言ったら、逆におかしい話だ。
「黎、ずっとこうしたかった」
オレは目を見開いて、硬直したと思う。その名前をその口で、その瞳で、その声で言ったらいけない。そう思った。
同じようなことを何度も想像したし、想像の中ではもっとオレにとって都合のいいいセリフを言っていたと思うけど、それをリアルな世界で言っちゃいけない。そのときには、何かが終わってしまうから。
「兄ちゃん」
オレもまた言ってはいけない単語を、言ってはいけない状況で言っている。ジェルのついた指が入り込んできて、身体が緊張した。湿った音が中で響き、信じられないような声があがる。ブルブルブルッと背筋を駆けあがってくる仄暗い熱が、下腹部に溜まっていくのだ。目の前で高まるそれから目をそらしたくて、オレは顔を手で覆った。
「健気じゃん、黎」
と白けたように言って、ぐいぐいとえぐって来る。自分でも信じられないような甘い声があがり、驚いた。これは罠だと思う。こいつは兄貴じゃない。こんなことをしても、何かが変わるわけじゃないし、完全ななぐさめ行為だと思った。
けど、
「黎、好きだよ」
とそう明らかな嘘を言われても、なぜか腰がうずいてしまう。
指が抜かれて替わりにグイッと入り込んできた雨の高まりに、自分の内部が絡みついていく感覚が分かった。雨は眉を寄せ吐息を漏らす。当たり前だけど、兄貴のそんな顔は見たことがない。
こんなのは異様で、倒錯している。雨がピアスの穴を舌が舐めてきて、オレの高まりは絶頂に達した。吐き出した液を手にとり、見せしめのように、腹部に塗りたくってくる。
「やめろよ!」
と言う声は弱弱しい。打ち込まれる刺激や、雨の表情にすっかり気持ちが向かってしまっていた。
「黎、気持ちいい?」
と雨は言う。
「ダメだ、そんな風に呼ばないで」
とオレは言った。
「黎」
雨はなおも呼ぶ。
「イヤだ……!」
兄貴に彼女が出来たのを知った日、オレは仲のいい女の子を誘って初体験をした。兄貴のことを思いながら、「黎」と呼ばれることを考えながら。オレのことを好きだという子を抱いた。最低だ。
だから今、こんな罰を受けているんだと思う。打ちつけのテンポが速くなり、ぐりぐりと半ば強引に最奥をついて、雨は達した。
終わった後、雨はすぐにオレの上から降り、スキンをゴミ箱に投げ捨てた。腹部を汚していたオレを見て、片眉をあげて「片しとけよ」と言ったきり、椅子に座ってテレビをつけて見始める。オレはベッドわきのティッシュで腹部を拭いて下着やスウェットを穿いた。
それから間もなく、藤堂さんが帰って来る。身体がむやみにほてっていたから、椅子に腰を落ち着けるのも微妙だ。「ちょうど帰ろうと思ってて」と方便を言ってカバンを手に取れば、藤堂さんは「送るよ」と言うのだった。
車を発進させてから、藤堂さんは、
「創にそっくりだけど、まったく創じゃないな」
と言う。オレはうん、と頷くだけに留めた。藤堂さんはどこまで気づいたんだろう?と思ったからだ。ゴミ箱に適当に捨てられたスキンやティッシュ、位置の動いているジェル。綺麗に片付いている部屋の中では、きっと悪目立ちするものばかりだ。
「創は奔放に見えたかもしれないけど、自制心を働かせてる奴だったよ。大切なものを守るためなら、欲をしっかりと抑えるような奴だ」
急に兄貴の話をし始めたので、オレは驚いた。藤堂さんがこうやって兄貴の話をするのを見たことがない。
「なんで急に、そんな話してるの?」
「雨が出てきたから。それに、あいつは創とは違って、剥き身の好奇心と欲望で動く奴だって分かったからだね。創とは違う」
剥き身の好奇心と欲望、の単語を口にした藤堂さんの視線は、オレのピアスの穴に向かっていた。湿ってるよ、と言う。目の中にポッと熱が宿るのが見えた。オレは耳を触り、指で拭きとる。
「あいつは、兄貴とは全然似ていないよ」
とオレは言った。でも、あいつの声や表情に、心がぐしゃぐしゃに乱されていた罪悪感とあいまって、あまりにもその口調は弱弱しい。
「そう思うよ。黎をそんな風にするなんて、創じゃない」
「そんな風にって、藤堂さんは、つまり」
「ごめん、黎。想像よりも、自分に腹が立っているんだ。それに雨にも」
「何のこと、意味分かんないんだけど」
オレがそう言うと、藤堂さんはポツリと言った。
「黎の気持ちも創の気持ちも、俺は知っていたんだ。仲介人みたいなものだったから。もし、俺が協力していれば、黎も創も傷つかずにすんだかもしれない」
それは罪の告白のように聞こえる。オレの気持ち、兄貴の気持ち?
オレの気持ちはともかく、オレには兄貴の気持ちは分からない。それがどうして、藤堂さんのせいになるのかも、分からなかった。
「黎はしばらく、雨と付き合うのはどうかと思ったんだ」
「な、何言ってんの。オレがいつあいつと付き合いたいなんて言った?」
「言ってない。でも、創にそっくりだ」
「それは、つまり藤堂さんは……」
オレが兄貴を思っていたことを知っているってことだ。藤堂さんは頷いた。
「けど、さっきも言ったように、腹が立っている。黎を乱暴に扱うのも、それを雨にけしかけたのも」
「藤堂さんが、雨に?どうしてそんなこと」
「創の声や創の表情は、俺じゃ与えられないものだからだよ。黎は優しさや愛情を俺からもらいたいわけじゃない、だからだよ」
ああ、と声が漏れてしまう。藤堂さんにはすべて見透かされていたんだ、と思った。兄貴への気持ちも、藤堂さんへの気持ちも。でも、最後の言葉だけは間違っていた。藤堂さんはの掛け値なしの愛情を、いらないと思ってるわけじゃない。藤堂さんが優しさや理性を取り崩すほどの熱を、オレに向けて欲しいだけだ。
「全部気づいてたなら。じゃあ、今までオレといてくれたのは、同情?好きな人に残されて、可哀そうだから?」
「違うよ」
「兄貴と顔や声が似てるだけの、別の奴をあてがっとけばいい。そんな風に思う程度なら、やっぱり同情だよ。そんな同情なら、いらない」
オレの言葉は全部、間違っている。雨と兄貴とを重ねて、倒錯した思いで熱を吐き出した自分。身体の芯から感じていた自分への罪悪感を、藤堂さんにぶつけているだけだ。
「もし同情だけなら、どんなにいいか分からない」
藤堂さんはそう言って、それ以降は口をつぐむ。オレもまた、心が波打ってしまい、何を口にしても上手くいかない気がして、押し黙っていた。
アパートに車がついたとき、オレは藤堂さんとの関係の終わりを予感する。思いが食い違っている付き合いが、上手くいくはずない、と思った。でも車を駐車した藤堂さんは、オレの身体を抱き寄せる。オレにとってはそれが一番の驚きだ。
「黎にどう見えているか分からないけど、俺は優しくもなければ紳士でもない。利用できるものがあれば、利用しようとしているだけのズルい奴だよ」
「唐突過ぎて、意味が分からないよ」
「最終的に黎がそばにいてくれるなら、どんな手でも使おうと思っている。創がいなくなってしまって責任が取れないなら、雨が代わってくれればいいと思っている」
「責任なんてもの、兄貴と関係ないよ」
「黎の心はいつも、創に繋がってる。なのに、先に逝ってしまったのは罪深いよ。雨が最悪な方法で、黎の中の創を壊してくれればいいって思ってる」
「なに言ってんの、藤堂さんっぽくない」
「これが俺だよ。黎はきっと、俺のことをそんなに知らないんだ」
そう言って藤堂さんは身体を離した。理知的な顔立ちの中で、少し熱でうるんだ瞳が印象的だ。顔を寄せてきてキスの気配がしたので、
「雨と、さっき」
と言う。
でも藤堂さんは構うことなく、キスをしてきた。むしろいつも以上に深く、強引で驚く。ビリビリっと腰がうずく気配がして、自分でも驚いた。
でも、藤堂さんはそれ以上続けずに、
「今日はこれで。これ以上したら、これだけで収まりそうにない」と言って、離れていった。
とてつもなく名残惜しくなったけれど、オレも頷いて、藤堂さんに気づかれないように、腰を引く。そして助手席から降りた。窓を開けて、「おやすみ、黎」と言って手を振るので、オレも手を振り返す。
この先どうなるのか分からなかった。ただ、兄貴に似た雨が来たことで、オレと藤堂さんの関係に変化の機会が訪れたのはたしかだ。
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