チベット・ブルー

黒白さん

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第5章

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 一見、禁欲的な雰囲気のあるチベット男性だが、交友を持った女性に言わせるとそんなことはなく、むしろ本能のままでイヤらしく、節操がないという。
 僕らをランクルに乗せ、ステアリングを握る中年男性も、無愛想な様子とは裏腹に、乗り込む英恵のことを上から下までしつこく目で追っていた。英恵は小柄で華奢なわりに、隠しようがないほど胸が大きいのだ。まあ仕方ない。ちなみにぱっと見少年にも見える佳代には、一瞥もくれなかった。わかりやすくて好感が持てる。
「揺れるなあ」
「ほとんど道じゃないわよね、これ」
「ライン取りとかしてないだろ、この人」
「あはは、楽しいです」
 僕ら四人を乗せて、巨乳好きチベタンが運転する古いランクルは、最初こそ車の轍をなぞっていたけれど、やがて何も見えない荒野を走るようになった。
「またあの丘越えるのか。もうちょいスピード落とせよ。道間違えて、あの先が崖だったらどうするんだよ」
「この人さあ、本当に道わかって走ってるのかしら」
「なんか具合悪くなってきた」
「楽しいです」
 夜明け前に夏藩を出て、走り続けてそろそろ二時間が過ぎようか。どこまでも何も見えないチベット高原の、青空の下に広がる月面のような景色の中を、ランクルは馬車のように疾走してゆく。
「ちょっと休憩するってよ。トイレだろう」
 ランクルは小さな川のそばに停まる。運転手は河原の物陰で用を足す。僕らも外に出て腕を伸ばす。
「人間なんて、どこにも見えないわね……」
 所々に湖をたたえた草原と荒野が、視界の極みまで広がっている。湖は絵の具の空色のような不思議な彩色をしている。どこまでも、誰もいない。
「夢の中みたい。夢でこんな景色見たことあります。天上の世界みたいなのを」
「英恵ちゃん、詩人だね。カムパネルラの台詞みたいだ」
「誰それ? イタリア人だかスペイン人の知り合い?」
「岩手県民」
 速く清らかな流れのたもとで、めいめい固まった体をほぐす。水音と風の音が、穏やかな音楽のように流れる陽だまりで、そっと息をつく。命を育む安らぎに満ちた、豊かな場所に立っている気がする。けれどもここには、何もない。
「もうすぐ!」
 再び走り出したランクルの助手席から、石川さんが騒音の中で言う。
「え? なに? 聞こえない」
「もうすぐ到着だって!」
 小高い丘が入り組んだ場所を抜けると、荒野の真ん中に、それは現れた。
「おお? なんだ、あれは」
 非常に横幅が大きく、上が平べったい山が現れた。山というよりも丘だろうか。その麓に、ランクルは停車する。
「なんだ、これ?」
 皆で車から降り、横幅ばかりが大きい、山だか丘だかわからない、不思議な大地の隆起を眺める。
「こりゃなんだろう? 石川さん、わかります?」
「わからない。見たことない」
「上から押しつぶされて、横に間延びした、ミニ富士山みたいですね」
 妙な表現をする英恵。運転手によると、聖なる地はこの丘の向こう側にあり、ここからは歩きなのだという。
「え? この向こう? 車で行ってくれないの? この上まで、歩いて登れっての?」
 冗談じゃないわよと、頭を掻く佳代。石川さんが運転手に交渉するけれど、車では登れないんだと拒否される。
「運転手はここで待ってるから、ゆっくり見てきてくれってよ」
「この人も登りたくないんでしょ」
 ここまで来て、見ないで帰れるはずがないので、登ろう、ということになった。それじゃあ行こうかと言う石川さんについて、皆で斜面を登り始める。
「はあ、はあ」
「やばいやばい。本当にきっつい」
 ここらは夏藩以上に標高が高いようで、すぐに息が切れてゆく。こっちで全く散歩もしていない運動不足の佳代が、幾度も立ち止まり激しく息を切らす。
「みんな大丈夫か。ちょっとした山登りだね」
「ちょっとした、じゃないわよ」
「あ痛たたた」
 英恵がこける。大丈夫かと駆け寄るが、こけることを前提に歩いてるから大丈夫ですと、よくわからない返事が返ってくる。
「山の上に、町とかあるのかな。下からは見えなかったな」
 さすがに石川さんは、一定のペースを保ち、軽口を叩きながら、悠々と斜面を登ってゆく。エベレスト帰りは伊達ではない。時々立ち止まり、僕らがついてくるのを待っていてくれる。
「ねえ、まだあ?」
 佳代が言う。もう帰りたいというような声色だった。少し休もうかと言いかけた石川さんが、丘の先に何かを見つけたのか、表情と声色を変える。
「これは……」
「え? なになに?」
「何か見えたの? 聖なる地に着いたの?」
「……ともかく、来て見てごらん」
 元気を取り戻すと、やがて登り斜面は終わり、頂上からはまさにその『向こう側』が見渡せていた。
「……なに、これ?」
「うわ……」
「え?」
 後から追いついた三人が皆、それぞれ違ったリアクションを使って、驚嘆の声を漏らす。それほど、そこに見えていた景色は、奇妙で不思議なものだった。
 斜面を登りきると、その先で、大穴が空いていた。いや、穴と言うには、それは大きすぎた。
 すり鉢状に広大な範囲に渡って、大地がはるか下の方に円形に落ち込んでいるのだ。火山の外輪に立ち、火口を見下ろしているようだった。
「カルデラか? ここは火山の頂上なのか? いや、こんなに低くて、平べったい火山なんてないよな……。どういう地形なんだ、これは?」
 僕らの立っている場所からもう少し進むと、崖のような下り傾斜が始まっており、穴の底まではかなり深い。数十メートルか、百メートル近くも落ち込んでいるだろうか。うっかり落ちたら、間違いなく死ぬ。近づかなければ大丈夫だけれど、けっこう怖い。
 荒野の真ん中に現れた、周囲が盛り上がった直径数キロもの巨大な穴。それだけでも、かなり異様で壮観だったが、僕らが驚いたのは、それだけではなかった。
「見ろ、あそこを」
 石川さんが指差す、穴の底は平坦で、草が生い茂り、草原が崖に囲まれ閉ざされているようだったが、その中央部あたりに、空を映した青い湖があり、湖のほとりには、古い作りの建物が並んでいるのだ。……あれか。
「町がある……」
「あれだよね」
「あれ、ですよね」
 佳代がそのまま力尽きたように、草の上に腰を下ろす。英恵も息を切らせてしゃがみ込む。
「ここから見る限り、遺跡かどうかはわからないな。たしかに、ずいぶんと不思議な場所にあるもんだな……」
 強い陽射しに手をかざしながら僕は言う。佳代がそれに応える。
「でも、あたしはもうゴメンだよ。ここで眺めていれば充分。あんな所まで降りて行くのなんて、冗談じゃないわよ。でもまあ、ここはほんとに、いい眺めだね」
 英恵がほんとですねと、眼鏡を輝かせて頷く。
「空の色がすごい。なんていう色なんだろうこれは。あそこに見える湖、空よりも青い気がする」
 高い山の上から、はるかな下界を眺め下ろしているような爽快感があった。確かにいい場所だ。目に映る全てが青かった。空も湖も草原も、まぶしく青い。
 そのまましばらく、僕らは丘の上で腰を下ろし、または寝転がって休憩する。石川さんは何やらそこらを歩き回り、地面や草を触ったりしている。
「あそこ、どうやって行ったらいいんだろう……」
 町を眺めながら、僕はつぶやく。佳代の言う通り、ここから降りて行くのは、ひどく難儀だろう。穴を囲む崖はひどく急で……。

――崖?――

 え?
「あれ? あそこ、どうやって……」
「あぎさん、気がついたかい?」
 石川さんが隣に立って言う。
「あそこは、行けない。見えるけれど、行くことはできない」
 僕はもう一度、このあたりの地形をキョロキョロと眺め回し、そしてこくりと頷く。
「ほんとだ。じゃあ、あれは……」
「何? どうしたの?」
 不思議そうにしている僕らに気づき、佳代が聞いてくる。石川さんが説明する。
「下の草原には降りられない。ロープを使うとか、ヘリコプターでもあれば、行けないこともないけれど」
「そうなの? まあ、確かに危ないよね。この崖すごく高いし、急斜面だしね。崩れそうでおっかない」
「たとえ降りても、登ってこられない」
 皆がその意味を考えるようにして、少し沈黙が置かれる。英恵が口を開く。
「エベレストに登った石川さんでも、登れないんですか?」
「硬い岩ならば、垂直の崖でもオーバーハングしていようとも、登れる。でも、ちょっと調べてみた限り、ここらはもろい土に草が浮いている感じで、こういう場所は、ロッククライミングでの登坂は無理なんだ。ブッシュをつかんでゆく技術もあるけれど、地肌の見えている土の崖だし、できないよ」
 英恵も佳代も、いまいちわからないようで、キョトンとしている。
「じゃあ、あの町のひとたち、どうやって出入りしていたのかしら?」
「どこかに道があるんじゃ……」
 英恵が言いかけて止める。そんなもの、どこにもない。この、巨大なすり鉢の下にある町は、完全に外界との往来を遮断されている。
「あれは湖ですよね。火口湖ですか?」
 英恵が聞く。石川さんが答える。
「ここは火山じゃない。阿蘇みたいに巨大で広大なカルデラは存在するけれど、だとしたら外輪山はもっと高くて険しいはずだ。車を止めた場所からここまでは、たかだか数十メートル登っただけだろう。なのに、この崖の落差は百メートル近くもある。つまりここは、外側の麓よりも、内側の穴の方が低いんだ」
 ふんふんと頷く英恵はともかく、佳代はそもそも、なにが不思議なのかがわからない様子だった。
「ちょっと、ぐるっと周ってくる」
 石川さんが言い、佳代が目をむいて驚く。
「ちょっと石川さん、ぐるっとって、すっごい距離あるよ?」
「一周してくるわけじゃない。死角になってる、ここの真下が見えるあたりまで行ってきて、すぐに戻る」
 あたしはここにいますと言う佳代。英恵も苦笑いをして、ここで待ってますと言う。
「僕も行きます」
 僕らは外輪を成す丘の稜線を歩いてゆく。しばらく歩いて眺めてみても、下との往来の手段は何も見つからない。
「もしかしたら、僕らのいた真下とか、見えない位置に、トンネルとか階段でもあるのかとも思ったけれど、それもないな。あそこは一体、どうやって作って、どうやって出入りしていた町なんだろうなあ」
 僕よりも頭ひとつ分高い所で、石川さんが興味深そうにつぶやく。僕は見上げて聞く。
「石川さん、身長いくつ?」
「なんだいきなり。190だよ」
「いえ、なんとなく」
「よし、戻ろうか」
「ちょっと休んでいっていいですか」
 僕が言うと、そうしようかと石川さんは頷く。草の上に並んで座り休憩する。
 ちらりと横目で窺う。高く長い鼻と、薄い唇。頬からあごにかけてのシャープなライン。大きくて少し切れ長の印象的な目。長身痩躯の颯爽とした体型。
「……石川さんって、背も高いしカッコいいし、すごくモテますよね」
 僕のいきなりのぶしつけな質問にも、石川さんは伸びた髪を無造作にかき上げながら、普通にああと答える。
「今までどのくらいの相手と、セックスしたことあります?」
 あぐらのような格好で、町を眺めながら、うーんと唸って、石川さんは答える。
「二百人くらいまでは、二十代の頃に数えてみたけど、その後はもう、わからないな」
 なんだかここで出会う人間は、こんなのばかりだ。まさか英恵もそうじゃなかろうか。違うと思うが。
「好きな時に、したい相手とセックスができるって、きっと、すごく安定や、安寧に繋がりますよね」
 苦笑して、石川さんは答える。
「おいおい。好きな時にって、そんなわけないよ。こいつとは寝れるな、とわかれば、寝れるけれど、そうじゃない相手とは、その気になっても無理だよ」
「こいつとは寝れる、って思うのは、どのくらいの割合なんですか?」
「まあ、大体は」
 佳代とは微妙に違うのだろうけれど、こいつらは似たり寄ったりなのだろう。
「あの、人生がそんな特等席だと、なんて言うか、ストレスが無いのや、満たされているのが普通になっちゃって、そういうポジションの自分を喪失した時に、どうしていいのかわからなくなったりしません?」
「佳代ちゃんのことか?」
「…………」
 湖には雲ひとつない空が映り、草原の中に空が切り取られているようだった。
「……石川さんも、何か、聞いてるの?」
「いや別に。あの子ほら、あんなんだし、この先の行程を聞いても、何も決めていないし、予算もビザもいいかげんにほったらかしてたから、もしかしたらと思ってな」
 ふうと鼻で小さくひとつ息をつき、僕は言葉を続ける。
「告白されたんです。ここで死んで、鳥葬されたいって。ああいう子に、どう言ってあげればいいのか、見当もつかなくて」
「それで、同類っぽい俺に遠まわしな質問か。やめとけ。放っておくしかないよ」
「…………」
 隣に座る大きな身体に対し、ひりつくような感情が湧いてくる。
「……石川さんくらいになるとさ、目の前で誰に泣かれようと、死なれようと、どうとも思わないんでしょうね」
 怒るかと思った。怒られても良かった。
「そんなこと、ないぞ」
 けれども、石川さんは穏やかな口調のままで答えた。
「前に、そういうひとがいた。やれるだけやった。時間もかけて、言葉も尽くして、自分のできることは全てした。でもな、人間って、魂を持っていかれてしまったら、もう、どうしようもないんだ」
 誰かの面影を、空に映しているような遠い瞳を浮かべて、石川さんは言う。
「まだそうじゃなければ、きっと大丈夫だよ。場所も選んでる、方法も選んでる、あぎさんにも話しているのなら、最後の一歩は、佳代ちゃんの中の、目に見えない何かが止めてくれる。そういうものさ」
「…………」
 その言葉に、美也子を重ねてしまう。魂を持っていかれる……。
 だとしたら僕には、やはり何もできなかったのか。あきらめるしかなかったのか。たとえそうだとしても、あきらめきれるものだろうか……。
「……すみません。変なこと聞いて、変な言い方しちゃって」
 いいよとそっけなく言い、それよりもと石川さんは続ける。
「あぎさんは、大丈夫かい」
 草原から吹いてくる風が耳をくすぐる。地形のせいで、ここは風が駆け上ってくるのだろうか。
「どういう意味ですか?」
 石川さんは頭を掻き、首を鳴らして答える。
「ずっと、親に捨てられた、仔猫みたいな表情してるぞ。佳代ちゃんよりも、あぎさんの方が、俺はよっぽど心配だよ。まったく、この村に来る連中は、みんなどうなってるんだか」
 石川さんの言葉の意味を巡らせてから、僕は答える。
「僕は、大丈夫ですよ」
 それよりもと話を戻して、僕は聞く。
「あの、魂を持っていかれるって話してましたけど」
「うん」
「僕、前にはここに、恋人と来ていたんです」
「そうなのか」
「そいつがひとりで、鳥葬を見て以来、変わってしまったんです。変わったというか、おかしくなってしまったというか……。そういうのとは、また違いますよね」
「わからないぞ」
 ひときわ大きな風が草原を渡り、草を波立たせてここまでやってくる。
「旅先で、どういうわけか、自分だけが縁がない、そういうものがあることがある。誰かが行っても、当たり前にそこにあるようなものが、自分が行くと、なぜかいつも無いとかな。そういう場所には、行かない方がいいし、触れない方がいい。そいつと自分とは、交わっちゃいけないってことだからな」
「なんですかそれ。オカルトか何か?」
 からかう僕を無視して、石川さんは続ける。
「それは、鳥葬みたいな儀式だったり、何らかの行為だったり、ある種の人間そのものだったりする。俺らはそういう、自分とは折り合えないものから、無意識に自分を守ったり、何かに守られたりして生きているんだ。けれども、ちょっとしたはずみや、気の迷いで、悪魔の誘いってやつかな、そういうものに惹かれて、守られてる手の中から抜け出した時に、運悪くぶつかったりすると、あっけなく持っていかれることがある。それが、ほんのわずかな間であっても。他の人間にとっては、なんでもないものであっても」
「…………」
「いいか、運悪く、タイミングを逃して、手に入るはずだったものがすり抜けていった時、残念だろうし、もう一度手を伸ばしたくなるだろう。けれどもそれは、守られたのかもしれない。縁がなかったと諦めて、さっさと忘れた方がいい」
 足元で群生する小さな野花が、風に揺れるのをじっと見つめる。何かに意識をそらしたかった。石川さんの話は、どこか触れたくない種類の内容だった。
「鳥葬、明日もだめだったなら、俺はあきらめるよ。いいかげん、縁がなかったってことだろうし」
 ……え?
「石川さん、ここから、夏藩から離れちゃうの?」
「ああ」
 石川さんが、どこかへ行く……?
「あの、その先石川さんは……あ、あれ?」
 出しかけた言葉が、途中で止まった。はるかな視線の先に、何かが見えたからだった。
「どうした?」
 目をまばたかせ、首を振って自分に言い聞かせる。そんなはずはないか、と。
「いえ、何でもないです」
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