生きてたまるか

黒白さん

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15:死神の岬へ

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 橘邸は野犬だらけだった。猫の姿は全く見えず、唸りを上げる犬が群れを成し、周囲を徘徊していた。
 声をかけても、ココの姿は見えず、開け放たれた門やドアから、邸内に野犬が侵入しており、食料は残らず漁られていた。鶏小屋は網が破れ、血まみれの羽が散乱しており、鶏の姿はなかった。
 猫がいたおかげで、近づかなかったのだろうネズミも走り回り、三人で飲み食いしていたリビングや庭のテーブルには、大きなネズミと野犬がたむろしており、危険で近づけそうにない。
「行こう」
 アヤカを促し、キャンピングカーに戻る。
「ココさんも、行っちゃったのかな……」
 ここにアヤカを預けられないものかと期待していた。どうあれもう一度、ココに会いたかった。
「寒い」
「エアコン強くするよ」
 暖かい部屋の中で、ココの出してくれる料理と、酒にまみれ、酔いつぶれた後に敷いてくれるふかふかの布団を楽しみにやって来た。今度は何日かかるかなと思っていた橘邸への再訪は、ほんの数分で終わった。
 冬空の下で、再び車を発進させる。
「どうしようか」
 京都にはもう誰もおらず、ココももういない。東京へ帰ろうと、僕らはそれだけを決め、重く分厚い雲が覆う冬空の下を、また走り続ける。
「寝たい」
 アヤカが言うので、後ろで寝なよと言うと、そうじゃないと首を振る。
「ちゃんとした寝床で寝たい。疲れた」
 そうだよなと頷く。長い道中、車中泊が続いた上に、暴行に遭ったのだ。どこか落ち着く場所で、ゆっくり休ませようと思ったその時、元から細身だったアヤカの首筋が、さらに尋常ではないほどに痩せていることに気づく。
「……同じか?」
「何よ、同じかって。主語がないよ」
「トシキと同じか? 症状」
「ずっと、そうだよ」
「アザは出てる? あと、用を足した時の……」
 そこまで聞きかけて、言葉が止まる。アヤカの息は荒く、寒さの中で汗を滲ませ、時折眉間に皺を寄せている。
「お兄ちゃんのそばに、帰りたい」
 わかったと応え、高速のICに車を向かわせる。下道など使わず、急いで東京まで戻ろう。
 高速道路に乗り入れ、少し走ると、重くて低い雲の空から、ちらほらと雪が降ってきた。
「アヤカ、ほら、雪だよ」
「……ほんとだ」
 弱々しい声を聞きながら、がらんと開けた高速道を、出したことのない速度で飛ばしてゆく。
 ナビによれば、高速を巡行すれば、半日もせずに東京まで着くはずだ。このまま小林邸に戻ろう。勝手知ったあそこならば、アヤカも休めるだろう。
 長いトンネルを抜けた途端、ぱらぱらと舞っていた雪が本降りになっており、道は真っ白に色を変えて積もっていた。
 危ない。そう思い、慌てて減速したのがまずかった。キャンピングカーはグリップを失い滑り始め、立て直す暇もなく横転し、激しく火花を上げて路上を滑っていった。
 他に走行している車もなく、雪がクッションになったこともあり、分離帯に激突する時には、かなり速度は落ちており、車体がひしゃげたり燃えたり大破することはなかった。
 けれども、車内への衝撃は甚大で、僕はしばらく気を失ってしまった。
「……アヤカ?」
 ほんの数分だったろうか。目が覚めたら、割れたフロントガラスからの雪が、ひどく痛む顔に吹き込んでいた。
「だ、大丈夫か?」
 アヤカは助手席でぐったりし、返事はなかった。ふたりともシートベルトをしていたのと、起動したのだろうエアバックのおかげで、骨折したり内臓に損傷を負うことはなかったようだ。そう信じたい。
「アヤカ、アヤカ」
 シートベルトを外し、アヤカに触れて声をかけると、うっすらと目を開けて、弱々しい声で返事をしてくれる。
「晶……大丈夫……?」
「ああ! よかった。僕は大丈夫」
「あっちこっち、切れてるよ……」
 顔が痛いのは破片で切れているからか。アヤカも額が切れ、流れた血が凍りかけている。
 不幸中の幸いと言うか、横転したはずのキャンピングカーは、事故動画でよく見るように、衝突の衝撃で一回転し、元に戻ったようだ。
 フロントガラスは大きく割れ、雪と外気が遠慮なく吹き込んでいる。エンジンは止まり、試してみてもかかる様子はない。ここにいたら凍えてしまう。後部の方がましだ。アヤカのシートベルトを外し、なんとか後ろのベットまで運んで横にさせる。
「腹や、胸が痛いとか、苦しいのとかはないか?」
「……ずっと苦しいけど、新しいのの追加はない」
 あるだけの毛布をかけてやり、ちょっと待っててと、車から出る。
 雪は勢いを増し、吹雪の様相を呈してきている。乏しい視界の先に、他の車は一台も見えない。
「どうしよ……」
 車内に戻り、あちこち割れたガラスを、衣服やタオルなどでできるだけ塞ぎ、運転席との間にあるカーテンを閉める。密閉は乏しく、寒気は遠慮なく入ってくる。
「ごめん。雪道はこんなに滑るなんて、知らなかった……」
「うん。雪って、危ないんだね」
 アヤカは横になったままで、体を動かせないようだ。事故の衝撃のせいか、体調の悪化のせいか……。
「ここ、高速の真ん中だからさ、他の車もないし、家もない。雪が止むまで、ここでじっとしてよう」
「凍えちゃうよ」
「あれがある」
 車に積んでいた練炭をコンロで焚く。暖気はすぐに車内を満たしてくれる。
「あったかいね。すごい」
「もともと隙間風が入るのが前提の、古い木造家屋なんかで使われてたものだからな。なんか自殺用のアイテムに、用途間違って使われてたんだよな」
「もっといいのができて、使われなくなったんだっけ」

 アヤカの隣で転がり、雪が収まるのを待つ。
 日が暮れ、夜になっても、雪は一向に止まず、降り積もる雪はキャンピングカーを埋め始めていた。
「地図で見るとさ、このへんって、山の中なんだな。特に雪が多い場所なのかも」
 ここで待っていても、誰も助けは来ない。日本にはもう、人間はいないのだ。
「あたしたちここで、死んじゃうのかな」
「大丈夫だよ。雪がやめば、そのへんから降りて、下道に出れば家も車もあるよ。食べるものいっぱいあるし」
 練炭はひと袋あり、十数個入っていたけれど、どのくらい持つのだろうか。
 コンロの下の窓の部分を開け閉めすることで、燃焼具合を調節できるようだが、吹き込む風と冷気は、夜と共に次第に強くなっており、全開にしていないと耐えられない。最初の練炭は五時間足らずで燃え尽きた。ずっと燃やし続けていれば、一日半くらいか。それまでに、雪が止んでくれれば……。
 夜が明け、外が明るくなってきても、雪は勢いそのまま降り続けていた。室内に入り込んだ雪のせいか、寒気はさらに強まってゆく。
「ねえ、晶」
「うん」
「ちゃんと密閉したら、このまま死ねるじゃん」
「…………」
「もう、いいよ。そうしよう」
 荒い息が、さらに弱くなってきている。僕はそうだなと答える。
「いいけど、密閉するためのガムテープとかビニールシート、持ってきてないんだ」
「じゃあ、コンロ消して、ふたりで寝ようよ」
「お、凍死か? 昔よく使われてたやつだな。酒飲んだり睡眠薬を飲んで、雪山で寝ちゃうと、苦しまずに死ねるって。……でも、そりゃウソだな。こんなに寒いのは、ちょっと無理だわ」
「あたし、なんだか寒いのかどうかもわからない」
「僕は寒い。寒いの苦手なの。だから、ヤダ」
「そう。わかった。ねえ、一緒に寝て」
「……うん、そうだな。寒いしな」
「暖めて」

 二度目の夜が明けた頃、練炭は使い切った。
 アヤカはもうほとんど、声をかけても返事をすることができなくなっていて、寝ているのか意識が朦朧としているのかの判別がつかなかった。
 雪は止んでいないが、勢いは弱まり、風は収まっている。
「アヤカ。出かけるよ」
 骨と皮のようになっているアヤカの身体を起こし、おんぶする形で背負い、落ちないように両手首を手拭いで縛る。
 前の方に向けたリュックには、必要最低限のものだけを詰めた。桐生に渡されたタブレットも入れた。他は全て、置いてゆくしかない。
「高速道路には一キロごとくらいに非常階段があって、そこから降りられるんだって。今なら行けるだろ。行っちゃお」
 空元気を出して言った言葉に、アヤカの返事は無い。ひどく弱いが、まだ息はしている。
 車から外に出ると、白だけの世界に、雪が空から舞い降りていた。他には何も無かった。
「あはは、すげえや。こりゃ大変だ」
 足首どころか、腰まである雪の中を、アヤカを背負い、漕ぐように歩いてゆく。
「はあ……、はあ……、くそっ」
 数百メートルも歩いたところで、息は切れ、膝が折れそうになる。リュックとアヤカの重さもあるけれど、深い雪の中を歩いてゆくのは、想像以上に大変だった。
「除雪もされないと、道はそのまま、雪野原なんだなあ」
 重い泥のような雪の中を、聞こえているのかわからないアヤカに話しかけながら進む。非常口の扉をようやく見つけ、その先にある長い階段を降りてゆく。
「ありゃあ、降りてもほら、山の中だよここ。雪しか見えないし、どうするかなあ」
 高速道路から下りたところから伸びる、峠道のような下道を、さらに雪をかき分け、あてなく歩いてゆく。また風が強くなってきて、雪と共に頬を叩く。
「痛いな。シモヤケになるな。てか、アヤカさあ、ごめんな、僕、もうすぐ、限界みたいだわ。あはは。ちょっと、倒れさせてもらうわ。いや、身体が勝手に倒れるんだよ。なるほど、こうなるんだなあ……。小説でしか読んだことなかったけど、実感してる」
 軽いはずのアヤカが、石のように重く感じる。足がもう動かない。
 もう一歩だけ、あと一歩だけと、最後の一歩を先延ばししていると、何か見えてきた。
「あれ……」
 少し先に、雪をかぶって定かではないが、車の形がある。
「……諦めかけた時に、救いの何かが現れるって、本当なんだな。実話での冒険譚なんかでも、絶対そうだもんな。まったくさ、誰が作ったのかな、こんなルールの世界」
 どこにも残ってなかった力を、無理矢理に集めて、車までよろばい歩く。
「開いてる。よかった」
 雪をどかし、ハイトワゴンタイプの軽自動車の助手席のドアを開け、倒したシートにアヤカを寝かせる。僕は運転席に移り、差しっぱなしのキーを回す。
「だめ……? ここまで来て……」
 イグニッションは動くけれど、何度試してもエンジンはかからない。
 倒れるように座席にもたれ、深く息をつく。
「ここで、終わりか」
 アヤカを見ると、雪のように白い顔色で、弱い息だけを繰り返している。身体に触れると、氷のように冷たい。
「……お兄ちゃん」
 寒さで軋むような車内に、アヤカの細い声が漏れる。
「…………」
 何も望まないアヤカが、たったひとつ願ったこと。
 そのくらい、叶えろよ。……そのくらい、叶えてやれよ、神様。
 いや、叶えろよ、僕。
 もう一度、キーを捻る。かからない。何度も繰り返す。寒さのせいなのか、ガソリンが劣化しているのか。モーターの音が、次第に弱くなってゆく。
「かかれポンコツ。ぶっ壊すぞ」
 車体を蹴とばしたついでに、唱えた呪文が効いたのか、力強い音を立てて、ようやくエンジンはかかった。
 排気ガスが車内に入らないように、車外に出てマフラーのあたりの雪をどかし、ヒーターを目いっぱい強くする。精も根も尽き果てて、運転席で気を失う。
 どれだけ経った頃か、目が覚める。何時間眠ったのか。
「アヤカ……」
 助手席で眠ったままのアヤカに触れると、まだ静かに息をしている。
 外は晴れている。朝の光が木の隙間から差し込む。かけっぱなしのヒーターのおかげで、車内は暑いくらいだ。凍死寸前だっただろう体も動く。
 雪はまだ積もっているけれど、見る間に溶けてゆくのがわかる。車を少し動かしてみると、スリップすることなく動いてくれる。
「死に損ねちゃったな。ほら、アヤカ、東京へ戻れそうだぞ。帰ろう。トシキのとこへ、帰ろう」
 慎重に、峠道を下ってゆく。三十分も走らないうちに、道は平地になり、積雪は僅かになっていた。自分たちのいた山の中は、ピンポイントの豪雪地帯だったのか。
「車……違うのじゃん」
 アヤカが目を覚ました。
「覚えてないのか? ちょっと、気分変えたんだ。もう事故らないから、安心しててくれ」
「事故しても、いいけど」
「よくねえよ。何?」
「やるなら、ひと思いに死ねるくらいに、思いっきりやって」
「了解。でも、明日には東京へ着くよ」
 所々雪が残る中を、まる一日東へと向かい、夜が来た頃に力尽きて、海の近くの街道沿いの駐車場で車を止める。
「……よし、休もう。明日まで、生きてろよ」
「やだ。今死にたい」
「だめ」
「つらい」
「……苦しいか?」
「ずっと、苦しいよ。ずっとずっと、いつも、苦しかったよ」
 アヤカの手を握る。細く冷たい、小さな手から、かすかな鼓動が伝わる。
「今だって苦しいし、何もない時は、昔を思い出して苦しい。さもなければ、明日の不安で苦しかった。やっぱりさ、欠陥品なんだね、あたし」
「僕も欠陥品だよ。でも、僕らはその品質で、やれるだけやってきたじゃん」
 ほんの少し、アヤカが笑った。

 夜明け頃、アヤカが身体を起こした。
 外へ出ようとしている気配に気づき、トイレかい? と声をかけようとしてやめる。デリカシーが無さすぎるだろう。
 よろよろと車外へ出たアヤカは、ドアを閉めなかった。
「…………」
 跳ね起き、ドアを開けて外へ出る。
 空はもう明るく、冬の静かな空気の中で、遠くに波の音が聞こえていた。
 細い道の先、波の音がする方へと、静かに歩いてゆくアヤカの後姿を見つける。
「ね、どこ行くの?」
 横に並び、アヤカに声をかける。返事は無い。ただ前だけを見て、残りの力を最後の道行きに捧げている。
「アヤカ、こら、マジで? それちょっとダメじゃね? な、戻ろうよ」
 反応もなく、表情も変えず、線路の先に消えて行った女性と同じように、アヤカは歩き続ける。道の先が開けてきて、広い砂浜と、海が見えてきた。
「ひどいよなあ……。これ、捕まえたらだめなんだろ? なんか回避できる隠しコマンドとかないのかよ。なあ、止まってくれよ。たのむ。行かないでくれ」
 自分の声が、かすれて上ずる。どうしたのかと思うと、ぽろぽろ涙をこぼして泣いていた。なんだこれ。誰かのために泣くなんて、どうしたんだ。なんか変だよ、アヤカ。
 静かな波音が寄せる、波打ち際まで来た。東の空から陽光が射す。ざぶざぶと海の中に入った途端、おぼつかない足を取られて、アヤカがばしゃりと転ぶ。
「あはは、大丈夫? ……冷たあ。この寒いのに、こんな中に入ってくのなんて、もうやめないか?」
 なかなか起き上がれずにいるアヤカを抱え上げ、水の中から引き上げる。
 もう意識がないのか、手足をふらふらとだけ動かすアヤカの身体を、僕は支えるために抱きしめる形になる。
 アヤカの動きが止まり、そっと顔を上げた先で、僕と目が合う。
「…………」
 朝日の中で、消えていたアヤカの表情が和らぎ、ちょっとだけ笑う。無邪気な少女が、ただ朝を感じてそうするように。
「……あ、気がついた? よかった」
 僕も笑う。ずっとそうしていたように。痛みも苦しみも、みんな笑って受け止めていたように。
 そうだ。この先もふたりで、世界を笑い合って生きてゆこう。古い物語の終わりみたいに、ひとの消えた夜の街で、月あかりの降る道の上を、手をつないで歩いてゆこう。
 腕の中のアヤカの身体から、がくりと全ての力が抜け落ちる。
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