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13:奈落のクイズマスター
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白衣の男は、桐生と名乗った。
桐生に肩を貸され、僕らは建物の上階にある、桐生の部屋へ運ばれた。
このあたりは電気が通じているようで、廊下や個室に照明が点いていた。各部屋には家電とベッドが置かれ、多くの人間が生活している様子があった。ただ、誰の姿もなかったが。
ベッドに寝かされ手当を受ける。ネズミ除けの分厚い防備をしていたおかげで、蹴られた身体にひどい怪我はなかったものの、顔はあちこち切れ、派手に腫れていた。
「君の名前は?」
細身だが背が高く、目つきの鋭い研究者然とした桐生が、静かで通りの良い声で聞いてくる。
「晶です。そっちは、アヤカ」
破られていた服を着替え、そういうことをされた者特有の、心がここに戻って来ないような、憔悴した表情で、椅子に腰かけているアヤカをちらりと見てから、桐生が言う。
「こんな状況で申し訳ないが、君たちに、聞きたいことがある」
こっちも山ほどある。まずは、確認しておきたい。
「あの、その前に、ここでこうしていて、大丈夫なんですか? その、さっきの男の仲間が他にいて、襲ってこないかとか……」
仲間か、と呟き、私がそうだ、と桐生は答えた。
「あの男は友井という、ここで私たちと一緒に暮らしていた仲間のひとりだった。私とアカリを襲うつもりでいたのだろうが、君たちを巻き込んでしまった」
下の階で、頭を打ちぬかれて息絶えている、友井という男も、アカリの名前を口にしていた。ココが話していた女性は、やはりここから来たのか。
「君たちが乗ってきたキャンピングカーは、アカリが遠征に使っていたものだ。アカリを、知っているか? アカリではなく、君たちが乗ってここに来た理由を、聞かせてもらえるだろうか」
僕は桐生に、これまでの顛末をかいつまんで話した。
「アカリさんってひとの名前は、道中で聞きました。ココさんってひとから」
「愛知のココさんか……」
桐生は眼鏡に手をかけ、顔を横に向けて、深く息をつく。
「そうか……。アカリは、行ってしまったのか……」
この人は、僕らの知らない、多くを知っているのだろう。危険も無いように思える。
「……あの、ここに、医者はいませんか? あの子の兄が、あの子と同じ病気か何かで、死んじゃったんです。僕らだけじゃどうしようもないから、誰か助けてくれる人をと思って、ここまで来ました」
「そうか。その判断は、間違ってなかったな。けれども、遅かった。ここにはもう、誰もいないんだ。ここまで来てもらったのに、申し訳ない」
どういうことだ。ここには人が集まっていたのではないか。
「あの、ここでは、人類に何が起こったのか、調べているって聞きました。一体、何が起こったんですか?」
手当を終え、ガーゼと包帯と消毒液にまみれた僕は言う。机のある椅子に座った桐生は、しばらく考えてから答える。
「……せめて、話せることを話そう。ただ、君たちが期待するような答えではないと思う。それでも、いいか?」
はいと答える僕。アヤカも放心から戻りきらない心を保ち、桐生の話に耳を傾けようとしている。
主の性格がそのまま出ているような、効率的に整理された部屋の中で、滑らかで聞き取りやすく、どこか色気すら感じられる、桐生の声が響いてゆく。
「四月のあの日、世界からひとが消えた。ごく一部の、極めて少数の人間だけが、消えずに残った。私はそのひとりで、この大学の研究員だった。その日のうちに、市内で見つけたアカリと合流した。河原町で店員をやっていた女性だ。人口百五十万を数える京都市内で、残っていたのはそのふたりだけだった」
目覚めた朝には、音も消えていたというあたり、僕と同じような状況で、桐生もそれに遭遇したのだろう。
「私はすぐにここ、職場でもあった大学のキャンバスに向かった。ここには大規模なソーラー発電と、蓄電池が設置されていたからだ。研究用でもあるんだが、災害拠点としても有用にと、多くの大学で導入されている。一時期、ちょっとしたブームだったんだ。ここも、このエリア程度であれば、安定して電気の供給が可能だ」
電気が使える中で、桐生が最初に試みたのは、他の生き残りとの交信だったという。
「交信? ネットも電話も使えないのに、どうやって?」
「無線機だよ。あの車にも積んでいたんだがな……。ハムとか、アマチュア無線を知っているか?」
首を振る僕に、桐生はそう面倒でもなさそうに、説明を続ける。
「一般家庭でも手軽に使える機器で、誰でも誰とでも無線通信ができる技術だ。短波帯を使い、電離層と地表の反射を利用することで、運もあるが、地球の裏側と通信することも可能だ。昔はわりと、趣味として広まっていたんだ。ネットに置き換えられた今でも、緊急時に有用だとして見直され、一部で使われ続けていた。世界の終わりを描いたフィクションでも、このアマチュア無線はよく登場する。文明が滅びようとも、電源さえ確保できれば、世界中と音声や共通の符丁で、交信ができるからな」
縁の無かった知識に、へえと声を出す。アヤカを見ると、小さく頷いている。本好きは知っているようだ。
「私はこれを使い、国内と海外にいる生き残りとの通信に成功した。それと並行して、車での捜索も行い、日本中から生き残りを探して、この場所に募っていた。何をするにしても、人手が必要だからな。ココさんのように、合流を拒むひともいたが、おとといまでここには、八十数人の生き残りが生活していた。多い時は、もっといた」
「日本中から集めて、八十人、ですか……?」
そうだと答える桐生。僕は驚く。たった、それだけなのか。
「海外との通信と、ここに集まった生き残りの証言をすり合わせて、世界が終わったあの日に、何が起こったのかを検証した。状況だけは大体判明した。状況だけは、な」
僕は息を吞む。わかるはずもなく、興味もなかった謎に、一転して惹かれてゆく。
「起きていた者たちの証言によると、深夜の二時頃だった。全ての人間が一斉に目覚め、家を出て、どこかへと向かって歩き出した。全世界同時に、それは発生したようだ」
いきなり現実離れした、ホラーテイストたっぷりの話が繰り出されてきた。一体どういう現象なんだそれは。
「無意識での行動や、夢遊病のような状態とは違っていたようだ。裸だった者は服を着て、部屋を出る時には靴を履き、照明を落として、火の始末を済ませてから行動を始めている。そうして夜の町に、無数の人間が群れを成して行進を始めた。……異様な光景だったそうだ。それこそ、ホラー映画の、ゾンビの群れを連想させるような」
桐生の口から、あまり似つかわしくない表現が出てくるが、それが一番相応しいのだろう。
「行進を続ける人間に、声をかける者もいたが、反応は全く無かった。どんなに話しかけても返事はなく、脇目もふらずに歩き続けるばかりで、前に立ってもよけて進むだけ。強引に、手や身体を掴み、行進を止めようと試みた者もいたが、……その結果は、後で話そう」
どうして後にするのか。気になるけれど、口を挟まず先を聞くことにする。
「無言の行進を始めた人間が向かった先は、基本として、海だ」
海。やはり、そうなのか。湘南の海岸で見た、水づく屍の群れを思い出す。
「島国日本だから、そうなったようだが、正しくは徒歩圏内の、大きな水場だ。海外では河川や湖沼、もしくは用水路や貯水池、極端な例では、狭い井戸に集団で入り込むといったものもあったそうだ。そうしてそのまま水の中に入り、抗うことなく全ての者が溺死した。人類全体規模での集団入水自殺、といったところが、有り体な表現かな」
ぽかんとする。元から信じられない状況ではあったけれど、さらに信じがたい上に、何かひどく嫌な内容だった。
「レミングのあれ、みたいなやつですか?」
驚いたことに、うわの空で聞いていたと思っていたアヤカが、桐生に何かを質問する。桐生はほうと、目を見開く。
「ここでレミングの名前が出るのは、読書家さんかな。まあ、あれは、八割方否定された風説なんだが、二割は、事実だ」
何の話かと聞くと、北極圏に住むネズミの仲間で、集団で海に投身自殺する習性があると、アヤカが本で見た知識を話す。でも、風説なんですねと聞くと、桐生は頷き、講師のように説明を続ける。
「ここに集まった人間の中には、運のいいことに、医者や、医療関係者が複数いた他、学者のように博学な年配者もいた。彼らと私を含めた数人のメンバーで、調査班を立ち上げた。人類が消えたこの現象の究明を目的としてだ。そうしないではいられなかった」
やっぱり、医者がいたのか。その医者は今、どこへ行ったのか。
「原因の仮説としては、やはり、未知のウィルスと、寄生虫症だ」
「え? 寄生虫、ですか?」
奇妙な単語に、僕は反応する。
「寄生虫というと、うねうねした回虫のようなイメージを持つだろうが、昆虫の幼体や微生物、細菌等も含めた、宿主に寄生する生物全般かな。まあ、ここではまとめて、寄生虫と呼ぼう」
未知のウィルスというのはわかる。便利であり定番であり鉄板だからだ。だが、寄生虫と言えば、グロい存在の代表ではないか。そいつがどうやって、その役割を果たすのか。
「寄生虫は、宿主の脳に、毒や菌、化学物質を注入することで、体を巧妙に操作し、異様な行動を取らせる。移動先の次の宿主に見つかりやすいように、そして捕食されやすいように」
虫の話、それも、寄生虫の話となると、苦手な向きには遠慮したい内容になりそうだが、アヤカは興味深そうに耳をそばだてている。
「いくつか例を挙げれば、エメラルドゴキブリバチや、テントウハラボソコマユバチといったハチの仲間は、卵を植え付けたアリやゴキブリ、テントウムシなど宿主の体を、化学物質と一緒に、DCPVというウィルスを送り込んで乗っ取り、さながら動く屍、ゾンビのような状態にする」
また、桐生の口から出てくる、その単語。まさかこの話の帰結は、人間のゾンビ化というものではなかろうか。
「卵からかえった幼虫は、そのまま宿主の体内に棲み、内臓を食べて成長を続け、食い尽くした宿主の体から脱出すると、今度は羽化するまで身を守らせた末に飛び立ってゆく。穴だらけになって残された宿主は、大体衰弱して死ぬが、たまに生き残る。生き残った個体によっては、再度同じハチに卵を植え付けられ、もう一度食われながらの支配を受けるものもいる」
思った通りに、グロい話になってきた。見たくもない種類の画像や動画の内容そのものではないか。
「アリに寄生する槍型吸虫は、ゾンビ化させた宿主を操り、草の先端まで登らせ、そこに噛みつかせて終の場とさせ、次の宿主の牛に食べられるまで動かないようにさせる。カタツムリに寄生するある寄生虫は、本来捕食者である鳥から見つからないよう避けていた、明るい場所ばかりに宿主を活発に移動させ、鳥の好物の芋虫に似せるために、死の脈動を行う」
なんだかそれ、ネットの動画や、テレビで見たことがある気がする。そしてあまり思い出したくない。
「身近な例では、ハリガネムシがある。カマキリの尻からよく出ている、それを見たことはあるか?」
ありません、と言いたかったけれど、カマキリは嫌いではなく、怖くもなかったので、小さい頃たまに触っていたのだが、そいつから黒い尻尾みたいなのが出ていたのは、覚えているし忘れたい。
「ハリガネムシに寄生されたカマキリは、やはりゾンビ化という表現が相応しい、魂を喪失したような異様な徘徊を始める。あちこち歩き回って車に轢かれたり、泳げもしないのに水に近づくようになる。これは、ハリガネムシが水中でなければ繁殖できないため、宿主のカマキリの脳を操り、水場を求めるよう誘因するからなんだ。結果としてカマキリは入水自殺することになる。他にもカマドウマ等、ハリガネムシに寄生され、入水させられる昆虫の数は非常に多いことが知られている。それを食べる魚類のエネルギー源の六割を占めるという研究結果さえ出ている」
入水自殺と聞き、驚く僕。人間に起こった出来事と同じだというのか。
それ以上に、桐生が連呼する単語が気になり、僕はとうとう、話の途中で口を挟む。
「あの、さっきから、ゾンビ、って言葉が出てきますけど、まさか、ゾンビって実在してて、そうなったのが原因だって言うんですか?」
「そもそも、ゾンビ、という概念は、狂犬病の症状から産まれたものだという説がある。狂犬病は、知ってるかな?」
アヤカは首を縦に振り、僕は横に振る。桐生はその反応を見て、説明を続ける。
「ウイルス性の感染症だ。哺乳類全般、特に病名の由来である、犬に噛まれて伝染する病気として知られている。最も危険で死亡率が高い病気と言われ、対処のために先進国では野犬が徹底して駆除された歴史がある。日本でも昭和までは目にしていた野犬は、平成に入る頃には完全にいなくなっている。……今また増え始めているけどな」
人間に一番近い動物であり続けた犬猫の中で、野良猫は残り、野良犬は姿を消していったのには、そのような理由があったのか。
「狂犬病ウィルスに侵された者は、錯乱し、凶暴になり、言語不明瞭となり唸り声を上げ、ウィルスまみれの唾液を垂らして、他人に噛みつくようにさえなる。噛まれて感染させられた者は、同じ症状を発現してゆく。その様子はまさに、映画のゾンビそのものだ」
桐生がひとくさり、過去に狂犬病が大流行したケースなどを話すが、短くまとめて本題に戻る。
「つまり人間は、細菌や寄生虫、そしてウィルスに操られることで、意識を保ったまま、異常ではあるが複雑な、時には高度に知的な行動さえも取らされるということだ。……今回、人類に起こった現象も、おそらくはこれによるものだろう。未知のウィルスか、あるいは、人類と共存していた無害なウィルスが変異し、何らかの脳内物質などによって、意識と行動を乗っ取り操作し、さながらハリガネムシに寄生されたカマキリのように、人間を入水自殺させたのだろう」
「……そんな、そんなことが……」
呆然とする。そんなことが、できるはずがあるのか。およそ信じられないといった僕の反応を受けて、桐生が続ける。
「ウィルスや寄生虫は、人間の行動や性格さえも操るんだ。そんな例はいくらでもある。世界人口の三分の一、南米では半数の人間が寄生されているというトキソプラズマは、宿主に活動的な行動を、悪く言えば破滅的な行動を起こさせることが判明している。失敗を恐れさせず、警戒心を弱めさせ、危険に身を投じるようにさせる。ラテン系と呼ばれる陽気な気質は、これが原因ではないかとさえ言われている。起業家に感染者が多いなど、有益な側面もありそうだが、交通事故死が多く、精神疾患のリスク要因となり、自殺率が高いという報告もあるがな」
そんな話も、今まで聞いたことがない。何らかのタブーでもあったのか。
それらが事実であるなら、今回の原因はやはり、ウィルスによるものなのかと聞くと、桐生は俯いて首を振る。
「結局のところ、仮説に過ぎないんだ。ウィルスの分離、特定は、この大学のこの施設、この人数では不可能だった。ネットが生きていて、他の生き残りの研究所との連絡ができれば、時間をかけて可能だったかもしれないが……」
ひとつ息をつき、眼鏡の縁を指で上げ、声を落とす桐生。
「全世界で全人類が、同日、同時刻に、一斉に発症したメカニズムに関しては、もう仮説の立てようもない。それこそ古いSFのネタとして消化され尽くした、シンクロニシティ説を持ち出すか、その説の提唱者の言う、集合的無意識に導かれた、とでも言いたいところだ」
メカニズム、という単語に、ひっかかるものを感じる。
そうだ。トシキの言っていた、プログラムと同じなのだ。僕らを形作った何者かの、意図や痕跡を感じさせられるのだ。
「類似例が全く探せないわけでもない。サンゴは満月の大潮の夜に、一斉に産卵を行う。生と死の違いこそあれ、同じ種が同時に行動を起こすそのメカニズムは、今も解明されていない。人間での例を探せば、集団行動による自殺や、集団消失は、歴史上いくつか散見されるが、どれも科学的考証は望むべくもない俗説であり、今回の人類規模の事象とは比較にもならない。つまり、説明がつかないんだ」
箱根のホテルで、トシキが語っていたことだ。やはりそれくらいしか、似たような例はないのか。
「我々調査班は行き詰り、科学的考証などできようもない仮説と、妄想を走らせるしかなくなった。たとえば、全ての生物には、そのような自滅のプログラムが、もとより遺伝子に組み込まれているのではないか。ある条件が揃うことで、それが一斉に発動するのではないか。今回、我々人類は、その条件を揃えてしまったのではないか……」
人間というハードウェアに組み込まれた、命という名のプログラム。トシキとの与太話と、桐生の仮説が、おぼろげに重なってゆく。
「まあ、たとえそれらが真実だとしても、もはや知る由もないことだ。私たちが調査に及んだ動機は、もっと切実なことだ。それは、私たちが生き残った理由だ」
そうだ。僕もそれは知りたい。生き残った中のひとりとして。
「何らかの例外で、たまたま自滅プログラムが発症しなかっただけなのかもしれないが、今後もその幸運は続くのか、遅れていただけの発症が、時間差でもたらされるのではないか、という懸念だ」
それは……考えてもいなかった。消えなかった僕らは、このまま消えないままでいられる、とは限らないのか。
「私たちはこの建物に集まり、互いに無事を確認しながら暮らすことにした。ひとりひと部屋を持ち、食糧は配給とし、エネルギーを公平に分配するようにして、体調の変化がないか等を毎日チェックした。残された者たちで寄り添い、終末を生きてゆく中で、それなりに人間らしい暮らしは享受され、むしろ今の方がいいと、黄昏の世界を満喫する者も増えていた。……一か月、二ヶ月と、穏やかな日々が続いていた。だが……」
ひとつ、言葉を切ってから、桐生は続ける。もったいぶっているわけではなく、その時の痛みを鎮めている。
「……ひとり、ひとりと、遅れていた発症は始まった。それに前触れも何も無かった。ほとんどが寝ている時に起きるんだ。すうと目覚めたかと思うと、用を足しにゆくように、自然な様子で部屋を出る。けれども、彼ら彼女らと、意思の疎通はもうできない。意識の回路が遮断された状態で、ただ足を進めてゆく。建物を出て、琵琶湖か海に向かってゆく。一度そうなってしまった彼ら彼女らを、元に戻すことはできなかった」
終わりは一度に済ませず、その後も五月雨式に終わり続けるのか。なぜ、一度に全てを終わらせないのか。どこかの誰かに対しての、疑念が増してゆく。
「ここにいた医者は努力を尽くした。抗ウィルス剤の投与など、可能性のある手立てを試してみたが、その後も発症は続いた。我々がそれを阻止するために、考えついた手段は、物理的に入水を止めることだ」
そうだ、その手があるではないか。施錠した部屋にでも閉じ込めてしまえばいい。施錠した部屋に……。
「……つまり、発症する前に、外に出られない状態にしておく、とかですよね。それは、実際にやってみたんですか?」
桐生は頷き、それでどうなりました? と聞く僕に、みんな死んだ、と、重い声で答えた。
「発症者は、拘束された状態や、外に出られない状態が続くと、意識を失い、間を置かず死んでしまうんだ。死亡原因は心停止と推測されたが、発症者の入水を妨げられないように、自滅プログラムに仕組まれた機序だろう」
寝たきり老人などが、床の中で死んでいるのは、餓死したのだろうと考えていたけれど、閉鎖された空間などで、多くの人間が死んでいた理由はわからなかった。これが原因だったのか。
「ここで縁を持った友人や恋人が、目の前で発症すれば、抱きしめてでも止めようとするだろう。結果、腕の中で、自らの手で、大切な者を死なせてしまうことが繰り返された。私たちは発症者を止めることをやめた。互いの観察も行わなくなった。朝、ドアが開いたままで、部屋が空になっていたら、そうなのだと受け入れることにした。一番多い時には、ここには二百人近くの人間が集まっていが、発症は続き、最後は八十人に減っていた」
発生から九カ月を経て、半数が発症したのか。人間に組み込まれた自滅プログラムの作用であるならば、ずいぶんと残酷で、手の込んだ嫌がらせの作りではないか。
「これで、人類に起こったこと、ここで行われてきたことの、話は終わりだ」
「え?」
終わり? その後、ここはどうして無人になったのか。
「……あの、その後は? 八十人に減った他のひとたちは、どうしたんですか?」
「ここからは、話が全く変わるんだ。もっと愉快ではない内容になる。……それでも、聞きたいか?」
アヤカを見ると、アヤカも僕を見ていて、小さく呟く。お互いもう気持ちは同じだろう。知れることがあるならば、知っておきたい。
僕らの返事を受けた桐生は、なぜか質問を返してくる。
「君たちは、現代社会が崩壊した後に、生き残った人間にふりかかる、一番の脅威は、何だと思う?」
桐生に肩を貸され、僕らは建物の上階にある、桐生の部屋へ運ばれた。
このあたりは電気が通じているようで、廊下や個室に照明が点いていた。各部屋には家電とベッドが置かれ、多くの人間が生活している様子があった。ただ、誰の姿もなかったが。
ベッドに寝かされ手当を受ける。ネズミ除けの分厚い防備をしていたおかげで、蹴られた身体にひどい怪我はなかったものの、顔はあちこち切れ、派手に腫れていた。
「君の名前は?」
細身だが背が高く、目つきの鋭い研究者然とした桐生が、静かで通りの良い声で聞いてくる。
「晶です。そっちは、アヤカ」
破られていた服を着替え、そういうことをされた者特有の、心がここに戻って来ないような、憔悴した表情で、椅子に腰かけているアヤカをちらりと見てから、桐生が言う。
「こんな状況で申し訳ないが、君たちに、聞きたいことがある」
こっちも山ほどある。まずは、確認しておきたい。
「あの、その前に、ここでこうしていて、大丈夫なんですか? その、さっきの男の仲間が他にいて、襲ってこないかとか……」
仲間か、と呟き、私がそうだ、と桐生は答えた。
「あの男は友井という、ここで私たちと一緒に暮らしていた仲間のひとりだった。私とアカリを襲うつもりでいたのだろうが、君たちを巻き込んでしまった」
下の階で、頭を打ちぬかれて息絶えている、友井という男も、アカリの名前を口にしていた。ココが話していた女性は、やはりここから来たのか。
「君たちが乗ってきたキャンピングカーは、アカリが遠征に使っていたものだ。アカリを、知っているか? アカリではなく、君たちが乗ってここに来た理由を、聞かせてもらえるだろうか」
僕は桐生に、これまでの顛末をかいつまんで話した。
「アカリさんってひとの名前は、道中で聞きました。ココさんってひとから」
「愛知のココさんか……」
桐生は眼鏡に手をかけ、顔を横に向けて、深く息をつく。
「そうか……。アカリは、行ってしまったのか……」
この人は、僕らの知らない、多くを知っているのだろう。危険も無いように思える。
「……あの、ここに、医者はいませんか? あの子の兄が、あの子と同じ病気か何かで、死んじゃったんです。僕らだけじゃどうしようもないから、誰か助けてくれる人をと思って、ここまで来ました」
「そうか。その判断は、間違ってなかったな。けれども、遅かった。ここにはもう、誰もいないんだ。ここまで来てもらったのに、申し訳ない」
どういうことだ。ここには人が集まっていたのではないか。
「あの、ここでは、人類に何が起こったのか、調べているって聞きました。一体、何が起こったんですか?」
手当を終え、ガーゼと包帯と消毒液にまみれた僕は言う。机のある椅子に座った桐生は、しばらく考えてから答える。
「……せめて、話せることを話そう。ただ、君たちが期待するような答えではないと思う。それでも、いいか?」
はいと答える僕。アヤカも放心から戻りきらない心を保ち、桐生の話に耳を傾けようとしている。
主の性格がそのまま出ているような、効率的に整理された部屋の中で、滑らかで聞き取りやすく、どこか色気すら感じられる、桐生の声が響いてゆく。
「四月のあの日、世界からひとが消えた。ごく一部の、極めて少数の人間だけが、消えずに残った。私はそのひとりで、この大学の研究員だった。その日のうちに、市内で見つけたアカリと合流した。河原町で店員をやっていた女性だ。人口百五十万を数える京都市内で、残っていたのはそのふたりだけだった」
目覚めた朝には、音も消えていたというあたり、僕と同じような状況で、桐生もそれに遭遇したのだろう。
「私はすぐにここ、職場でもあった大学のキャンバスに向かった。ここには大規模なソーラー発電と、蓄電池が設置されていたからだ。研究用でもあるんだが、災害拠点としても有用にと、多くの大学で導入されている。一時期、ちょっとしたブームだったんだ。ここも、このエリア程度であれば、安定して電気の供給が可能だ」
電気が使える中で、桐生が最初に試みたのは、他の生き残りとの交信だったという。
「交信? ネットも電話も使えないのに、どうやって?」
「無線機だよ。あの車にも積んでいたんだがな……。ハムとか、アマチュア無線を知っているか?」
首を振る僕に、桐生はそう面倒でもなさそうに、説明を続ける。
「一般家庭でも手軽に使える機器で、誰でも誰とでも無線通信ができる技術だ。短波帯を使い、電離層と地表の反射を利用することで、運もあるが、地球の裏側と通信することも可能だ。昔はわりと、趣味として広まっていたんだ。ネットに置き換えられた今でも、緊急時に有用だとして見直され、一部で使われ続けていた。世界の終わりを描いたフィクションでも、このアマチュア無線はよく登場する。文明が滅びようとも、電源さえ確保できれば、世界中と音声や共通の符丁で、交信ができるからな」
縁の無かった知識に、へえと声を出す。アヤカを見ると、小さく頷いている。本好きは知っているようだ。
「私はこれを使い、国内と海外にいる生き残りとの通信に成功した。それと並行して、車での捜索も行い、日本中から生き残りを探して、この場所に募っていた。何をするにしても、人手が必要だからな。ココさんのように、合流を拒むひともいたが、おとといまでここには、八十数人の生き残りが生活していた。多い時は、もっといた」
「日本中から集めて、八十人、ですか……?」
そうだと答える桐生。僕は驚く。たった、それだけなのか。
「海外との通信と、ここに集まった生き残りの証言をすり合わせて、世界が終わったあの日に、何が起こったのかを検証した。状況だけは大体判明した。状況だけは、な」
僕は息を吞む。わかるはずもなく、興味もなかった謎に、一転して惹かれてゆく。
「起きていた者たちの証言によると、深夜の二時頃だった。全ての人間が一斉に目覚め、家を出て、どこかへと向かって歩き出した。全世界同時に、それは発生したようだ」
いきなり現実離れした、ホラーテイストたっぷりの話が繰り出されてきた。一体どういう現象なんだそれは。
「無意識での行動や、夢遊病のような状態とは違っていたようだ。裸だった者は服を着て、部屋を出る時には靴を履き、照明を落として、火の始末を済ませてから行動を始めている。そうして夜の町に、無数の人間が群れを成して行進を始めた。……異様な光景だったそうだ。それこそ、ホラー映画の、ゾンビの群れを連想させるような」
桐生の口から、あまり似つかわしくない表現が出てくるが、それが一番相応しいのだろう。
「行進を続ける人間に、声をかける者もいたが、反応は全く無かった。どんなに話しかけても返事はなく、脇目もふらずに歩き続けるばかりで、前に立ってもよけて進むだけ。強引に、手や身体を掴み、行進を止めようと試みた者もいたが、……その結果は、後で話そう」
どうして後にするのか。気になるけれど、口を挟まず先を聞くことにする。
「無言の行進を始めた人間が向かった先は、基本として、海だ」
海。やはり、そうなのか。湘南の海岸で見た、水づく屍の群れを思い出す。
「島国日本だから、そうなったようだが、正しくは徒歩圏内の、大きな水場だ。海外では河川や湖沼、もしくは用水路や貯水池、極端な例では、狭い井戸に集団で入り込むといったものもあったそうだ。そうしてそのまま水の中に入り、抗うことなく全ての者が溺死した。人類全体規模での集団入水自殺、といったところが、有り体な表現かな」
ぽかんとする。元から信じられない状況ではあったけれど、さらに信じがたい上に、何かひどく嫌な内容だった。
「レミングのあれ、みたいなやつですか?」
驚いたことに、うわの空で聞いていたと思っていたアヤカが、桐生に何かを質問する。桐生はほうと、目を見開く。
「ここでレミングの名前が出るのは、読書家さんかな。まあ、あれは、八割方否定された風説なんだが、二割は、事実だ」
何の話かと聞くと、北極圏に住むネズミの仲間で、集団で海に投身自殺する習性があると、アヤカが本で見た知識を話す。でも、風説なんですねと聞くと、桐生は頷き、講師のように説明を続ける。
「ここに集まった人間の中には、運のいいことに、医者や、医療関係者が複数いた他、学者のように博学な年配者もいた。彼らと私を含めた数人のメンバーで、調査班を立ち上げた。人類が消えたこの現象の究明を目的としてだ。そうしないではいられなかった」
やっぱり、医者がいたのか。その医者は今、どこへ行ったのか。
「原因の仮説としては、やはり、未知のウィルスと、寄生虫症だ」
「え? 寄生虫、ですか?」
奇妙な単語に、僕は反応する。
「寄生虫というと、うねうねした回虫のようなイメージを持つだろうが、昆虫の幼体や微生物、細菌等も含めた、宿主に寄生する生物全般かな。まあ、ここではまとめて、寄生虫と呼ぼう」
未知のウィルスというのはわかる。便利であり定番であり鉄板だからだ。だが、寄生虫と言えば、グロい存在の代表ではないか。そいつがどうやって、その役割を果たすのか。
「寄生虫は、宿主の脳に、毒や菌、化学物質を注入することで、体を巧妙に操作し、異様な行動を取らせる。移動先の次の宿主に見つかりやすいように、そして捕食されやすいように」
虫の話、それも、寄生虫の話となると、苦手な向きには遠慮したい内容になりそうだが、アヤカは興味深そうに耳をそばだてている。
「いくつか例を挙げれば、エメラルドゴキブリバチや、テントウハラボソコマユバチといったハチの仲間は、卵を植え付けたアリやゴキブリ、テントウムシなど宿主の体を、化学物質と一緒に、DCPVというウィルスを送り込んで乗っ取り、さながら動く屍、ゾンビのような状態にする」
また、桐生の口から出てくる、その単語。まさかこの話の帰結は、人間のゾンビ化というものではなかろうか。
「卵からかえった幼虫は、そのまま宿主の体内に棲み、内臓を食べて成長を続け、食い尽くした宿主の体から脱出すると、今度は羽化するまで身を守らせた末に飛び立ってゆく。穴だらけになって残された宿主は、大体衰弱して死ぬが、たまに生き残る。生き残った個体によっては、再度同じハチに卵を植え付けられ、もう一度食われながらの支配を受けるものもいる」
思った通りに、グロい話になってきた。見たくもない種類の画像や動画の内容そのものではないか。
「アリに寄生する槍型吸虫は、ゾンビ化させた宿主を操り、草の先端まで登らせ、そこに噛みつかせて終の場とさせ、次の宿主の牛に食べられるまで動かないようにさせる。カタツムリに寄生するある寄生虫は、本来捕食者である鳥から見つからないよう避けていた、明るい場所ばかりに宿主を活発に移動させ、鳥の好物の芋虫に似せるために、死の脈動を行う」
なんだかそれ、ネットの動画や、テレビで見たことがある気がする。そしてあまり思い出したくない。
「身近な例では、ハリガネムシがある。カマキリの尻からよく出ている、それを見たことはあるか?」
ありません、と言いたかったけれど、カマキリは嫌いではなく、怖くもなかったので、小さい頃たまに触っていたのだが、そいつから黒い尻尾みたいなのが出ていたのは、覚えているし忘れたい。
「ハリガネムシに寄生されたカマキリは、やはりゾンビ化という表現が相応しい、魂を喪失したような異様な徘徊を始める。あちこち歩き回って車に轢かれたり、泳げもしないのに水に近づくようになる。これは、ハリガネムシが水中でなければ繁殖できないため、宿主のカマキリの脳を操り、水場を求めるよう誘因するからなんだ。結果としてカマキリは入水自殺することになる。他にもカマドウマ等、ハリガネムシに寄生され、入水させられる昆虫の数は非常に多いことが知られている。それを食べる魚類のエネルギー源の六割を占めるという研究結果さえ出ている」
入水自殺と聞き、驚く僕。人間に起こった出来事と同じだというのか。
それ以上に、桐生が連呼する単語が気になり、僕はとうとう、話の途中で口を挟む。
「あの、さっきから、ゾンビ、って言葉が出てきますけど、まさか、ゾンビって実在してて、そうなったのが原因だって言うんですか?」
「そもそも、ゾンビ、という概念は、狂犬病の症状から産まれたものだという説がある。狂犬病は、知ってるかな?」
アヤカは首を縦に振り、僕は横に振る。桐生はその反応を見て、説明を続ける。
「ウイルス性の感染症だ。哺乳類全般、特に病名の由来である、犬に噛まれて伝染する病気として知られている。最も危険で死亡率が高い病気と言われ、対処のために先進国では野犬が徹底して駆除された歴史がある。日本でも昭和までは目にしていた野犬は、平成に入る頃には完全にいなくなっている。……今また増え始めているけどな」
人間に一番近い動物であり続けた犬猫の中で、野良猫は残り、野良犬は姿を消していったのには、そのような理由があったのか。
「狂犬病ウィルスに侵された者は、錯乱し、凶暴になり、言語不明瞭となり唸り声を上げ、ウィルスまみれの唾液を垂らして、他人に噛みつくようにさえなる。噛まれて感染させられた者は、同じ症状を発現してゆく。その様子はまさに、映画のゾンビそのものだ」
桐生がひとくさり、過去に狂犬病が大流行したケースなどを話すが、短くまとめて本題に戻る。
「つまり人間は、細菌や寄生虫、そしてウィルスに操られることで、意識を保ったまま、異常ではあるが複雑な、時には高度に知的な行動さえも取らされるということだ。……今回、人類に起こった現象も、おそらくはこれによるものだろう。未知のウィルスか、あるいは、人類と共存していた無害なウィルスが変異し、何らかの脳内物質などによって、意識と行動を乗っ取り操作し、さながらハリガネムシに寄生されたカマキリのように、人間を入水自殺させたのだろう」
「……そんな、そんなことが……」
呆然とする。そんなことが、できるはずがあるのか。およそ信じられないといった僕の反応を受けて、桐生が続ける。
「ウィルスや寄生虫は、人間の行動や性格さえも操るんだ。そんな例はいくらでもある。世界人口の三分の一、南米では半数の人間が寄生されているというトキソプラズマは、宿主に活動的な行動を、悪く言えば破滅的な行動を起こさせることが判明している。失敗を恐れさせず、警戒心を弱めさせ、危険に身を投じるようにさせる。ラテン系と呼ばれる陽気な気質は、これが原因ではないかとさえ言われている。起業家に感染者が多いなど、有益な側面もありそうだが、交通事故死が多く、精神疾患のリスク要因となり、自殺率が高いという報告もあるがな」
そんな話も、今まで聞いたことがない。何らかのタブーでもあったのか。
それらが事実であるなら、今回の原因はやはり、ウィルスによるものなのかと聞くと、桐生は俯いて首を振る。
「結局のところ、仮説に過ぎないんだ。ウィルスの分離、特定は、この大学のこの施設、この人数では不可能だった。ネットが生きていて、他の生き残りの研究所との連絡ができれば、時間をかけて可能だったかもしれないが……」
ひとつ息をつき、眼鏡の縁を指で上げ、声を落とす桐生。
「全世界で全人類が、同日、同時刻に、一斉に発症したメカニズムに関しては、もう仮説の立てようもない。それこそ古いSFのネタとして消化され尽くした、シンクロニシティ説を持ち出すか、その説の提唱者の言う、集合的無意識に導かれた、とでも言いたいところだ」
メカニズム、という単語に、ひっかかるものを感じる。
そうだ。トシキの言っていた、プログラムと同じなのだ。僕らを形作った何者かの、意図や痕跡を感じさせられるのだ。
「類似例が全く探せないわけでもない。サンゴは満月の大潮の夜に、一斉に産卵を行う。生と死の違いこそあれ、同じ種が同時に行動を起こすそのメカニズムは、今も解明されていない。人間での例を探せば、集団行動による自殺や、集団消失は、歴史上いくつか散見されるが、どれも科学的考証は望むべくもない俗説であり、今回の人類規模の事象とは比較にもならない。つまり、説明がつかないんだ」
箱根のホテルで、トシキが語っていたことだ。やはりそれくらいしか、似たような例はないのか。
「我々調査班は行き詰り、科学的考証などできようもない仮説と、妄想を走らせるしかなくなった。たとえば、全ての生物には、そのような自滅のプログラムが、もとより遺伝子に組み込まれているのではないか。ある条件が揃うことで、それが一斉に発動するのではないか。今回、我々人類は、その条件を揃えてしまったのではないか……」
人間というハードウェアに組み込まれた、命という名のプログラム。トシキとの与太話と、桐生の仮説が、おぼろげに重なってゆく。
「まあ、たとえそれらが真実だとしても、もはや知る由もないことだ。私たちが調査に及んだ動機は、もっと切実なことだ。それは、私たちが生き残った理由だ」
そうだ。僕もそれは知りたい。生き残った中のひとりとして。
「何らかの例外で、たまたま自滅プログラムが発症しなかっただけなのかもしれないが、今後もその幸運は続くのか、遅れていただけの発症が、時間差でもたらされるのではないか、という懸念だ」
それは……考えてもいなかった。消えなかった僕らは、このまま消えないままでいられる、とは限らないのか。
「私たちはこの建物に集まり、互いに無事を確認しながら暮らすことにした。ひとりひと部屋を持ち、食糧は配給とし、エネルギーを公平に分配するようにして、体調の変化がないか等を毎日チェックした。残された者たちで寄り添い、終末を生きてゆく中で、それなりに人間らしい暮らしは享受され、むしろ今の方がいいと、黄昏の世界を満喫する者も増えていた。……一か月、二ヶ月と、穏やかな日々が続いていた。だが……」
ひとつ、言葉を切ってから、桐生は続ける。もったいぶっているわけではなく、その時の痛みを鎮めている。
「……ひとり、ひとりと、遅れていた発症は始まった。それに前触れも何も無かった。ほとんどが寝ている時に起きるんだ。すうと目覚めたかと思うと、用を足しにゆくように、自然な様子で部屋を出る。けれども、彼ら彼女らと、意思の疎通はもうできない。意識の回路が遮断された状態で、ただ足を進めてゆく。建物を出て、琵琶湖か海に向かってゆく。一度そうなってしまった彼ら彼女らを、元に戻すことはできなかった」
終わりは一度に済ませず、その後も五月雨式に終わり続けるのか。なぜ、一度に全てを終わらせないのか。どこかの誰かに対しての、疑念が増してゆく。
「ここにいた医者は努力を尽くした。抗ウィルス剤の投与など、可能性のある手立てを試してみたが、その後も発症は続いた。我々がそれを阻止するために、考えついた手段は、物理的に入水を止めることだ」
そうだ、その手があるではないか。施錠した部屋にでも閉じ込めてしまえばいい。施錠した部屋に……。
「……つまり、発症する前に、外に出られない状態にしておく、とかですよね。それは、実際にやってみたんですか?」
桐生は頷き、それでどうなりました? と聞く僕に、みんな死んだ、と、重い声で答えた。
「発症者は、拘束された状態や、外に出られない状態が続くと、意識を失い、間を置かず死んでしまうんだ。死亡原因は心停止と推測されたが、発症者の入水を妨げられないように、自滅プログラムに仕組まれた機序だろう」
寝たきり老人などが、床の中で死んでいるのは、餓死したのだろうと考えていたけれど、閉鎖された空間などで、多くの人間が死んでいた理由はわからなかった。これが原因だったのか。
「ここで縁を持った友人や恋人が、目の前で発症すれば、抱きしめてでも止めようとするだろう。結果、腕の中で、自らの手で、大切な者を死なせてしまうことが繰り返された。私たちは発症者を止めることをやめた。互いの観察も行わなくなった。朝、ドアが開いたままで、部屋が空になっていたら、そうなのだと受け入れることにした。一番多い時には、ここには二百人近くの人間が集まっていが、発症は続き、最後は八十人に減っていた」
発生から九カ月を経て、半数が発症したのか。人間に組み込まれた自滅プログラムの作用であるならば、ずいぶんと残酷で、手の込んだ嫌がらせの作りではないか。
「これで、人類に起こったこと、ここで行われてきたことの、話は終わりだ」
「え?」
終わり? その後、ここはどうして無人になったのか。
「……あの、その後は? 八十人に減った他のひとたちは、どうしたんですか?」
「ここからは、話が全く変わるんだ。もっと愉快ではない内容になる。……それでも、聞きたいか?」
アヤカを見ると、アヤカも僕を見ていて、小さく呟く。お互いもう気持ちは同じだろう。知れることがあるならば、知っておきたい。
僕らの返事を受けた桐生は、なぜか質問を返してくる。
「君たちは、現代社会が崩壊した後に、生き残った人間にふりかかる、一番の脅威は、何だと思う?」
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