生きてたまるか

黒白さん

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04:レールのその向こう

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 小林邸に移動してから、一ヵ月が経った。
 五月という移り変わる一番いい季節の中で、ひとりの世界を充分に満喫し尽くし、やりたいことがほぼなくなった。
 冷凍肉はほとんど食べ終え、新しいそれはどこにもなかった。
 退屈しのぎと運動のためにと、毎日のようにドライブがてら、スーパーやコンビニで食料漁りをしていたおかげで、小林邸とその向かいの家には、うず高く缶詰やレトルト食品などの保存食、そして飲料水が積まれて備蓄されていたけれど、別にそれを食べて生き延びることは目的ではなかった。
 小林邸の高級AVシステムで、毎日毎晩、映画を見て、音楽を聴き、ゲームをやっていたある時、ふと思った。……もう、いいかな、と。
 夕日を眺めたり、朝日を迎えたりするのは、ずっと変わらず好きな時間だったけれど、それもやり辛くなってきた。
 野犬が現れたのだ。
 飼い犬が逃げて群れを成したのか、食糧漁りに行く先々で目にするようになり、威嚇され吠えつかれ、しまいには追いかけられた。
 人間を気にしなくてよくなったと思ったら、野犬の脅威が現れ、外を歩くのすら危険になったのだ。
 また、ネズミの数はさらに増し、食糧が残っている場所には、無数の群れが異音と異臭を放って蠢き、近づくことすらままならなくなった。
「ま、そんなわけで」
 今日、死ぬことにした。
 ホームセンターで入手し、練炭コンロと練炭は準備してある。あとはそれを閉めきった部屋で燃やし、冷房でもつけながら横になって眠ればいい。
「二階の寝室でやればいいか。睡眠剤でも薬局から持ってきた方がいいかな」
 間違えのないやり方を反芻しながら、夜明けの踏切に佇む。
 以前、線路をどこまでも歩く、というのをやってみたら、なかなかに楽しかった。
 その中で気がついたのが、線路上や踏切から眺める、夕暮れや夜明けの景色が、影絵のようですごく好きなのだった。
 小林邸から少し離れた、お気に入りのこの踏切で、この世の見納めを焼き付けることにした。
「明けてきた……」
 夜明けの空。
 未明の淡く柔らかい光。
 ゆるくカーブして登ってゆく高架線。線路沿いの住宅街の屋根。立ち並ぶ電柱。張り巡らされた電線。全てがシルエットになり、影絵のよう。
 なだらかな、とても優しいらせんを描き、暗い地上から明るい空へと登ってゆく鉄路の向こう側。
 見とれていたそこから、何かが近づいてくる。
 ……?
 それは、人だった。
 線路を歩いて、こちらに歩いてくるのだ。
「……え……え?」
 思考が止まった。何が起こっているのかわからなかった。
 しっかりとした足取りでやってくるその影は、やがて女性なのだとわかった。
 人が……? ど、どうして……? てか、いたの?
 すらりとした体躯の若い女性は、男性のようにラフな格好をし、ただ静かな佇まいで歩き続けている。急ぐこともとどまることもないような、穏やかな確かな足取りで。
 踏切にさしかかり、僕の前を通り過ぎる時に、顔も姿もはっきりと見えた。
 そこに浮かべている表情は何もなく、すれ違う僕に目を向けることもなかった。
「…………」
 ただ、美しかった。
 心でしか見えないような煌めきを纏っている、そんな気がした。
 そのまま線路を歩き続け、夜の帳が残る闇の中へと、女性は消えていった。何かが起こり、そして終わった。
 フリーズした脳が、なかなか再起動してくれず、夜明けの空の下で呆けたように立ち尽くす僕の背後に、朝日がゆっくりと昇り始めた。

 あれは一体、何だったのか。
 気になってしょうがないので、このまま死ねるかと、少し延期することにした。
「あのまますぐに、追いかければ良かったかなあ……」
 自分以外は消えたと思っていた人間が、他にも残っていたのだ。これまで都内をかなりウロついていたけれど、誰ひとり見つからなかったのに。
 正直、他の人間が残っていても、怖いだけで嬉しいことはなにもない。けれどもあれは女性であり、そしてひどく気になった。まあそりゃ気になる。
 翌日、女性が消えていった線路の先を、バイクでたどって探してみたけれど、野犬に追われて吠えつかれ、悲鳴を上げて逃げてきた。奴らはともかく群れたがるようで、漫画でも描かれていたが、狩りをされて襲われたらひとたまりもない。
「猛獣よけの武器みたいなのが……」
 ホームセンターでそれを探し回ったところ、一番良さそうだったのは、クマ除けスプレーだった。ホルター付きの本格的な輸入品など多数あり、強そうなのを入手する。
 練習で、野外でスプレーを試してみたところ、薬剤はとんでもない勢いで噴射され、さらに匂いは自分の方までやってきて、目から喉まで猛烈な痛みに襲われた。
「む、虫よけスプレーくらいに思ってたのに……」
 これならば、匂いに敏感な犬には、効果は絶大だろう。想像したら可哀そうなくらいで、あまり使いたくはなかった。
「これだけだと、ちょっと頼りないな」
 アウトドアグッズには、アーミーナイフなどもあったけれど、リーチは短いし、自分に使いこなせる気がしない。
「やっぱり、あれ……か」
 車を少し走らせて、これまで入ったことのない建物の前で止める。
 警察署。
「やっぱり、銃でしょ。ゾンビにも効くらしいしな」
 日本で銃がある場所といえば、ここだろう。面白そうでもなく、入る気もしなかったここの厳めしさは、権力を感じさせる独特なもので、はっきり言えば感じ悪かった。
「無いなあ……」
 あちこちの部屋に入り、拳銃を探す。どこかには保管されているはず。うっかりそのへんの机に転がっていないだろうか。
「なんだ……? この匂い」
 どこかから、悪臭がしてくる。スーパーやコンビニで嗅ぎ慣れた、食品が腐る匂いとは少し違う。肉というよりも、魚の腐ったような匂いだろうか……。
 廊下を進んだ先、ライトの光の中に、鉄格子の檻が並んでいる。留置場だろう。匂いはここからだ。こんなところに、拳銃はないだろうが、匂いの正体を確かめたい気持ちが先に立つ。
「アクリル板じゃないのか。昔のドラマなんかで見る、ブタ箱そのま……まっ?」
 ライトで照らされた光景に、ひっと息を呑む。
「……う……わああ」
 そこには、久しぶりに見る、大勢の人間がいた。
 ただ、ようやく再会したその人間たちは、みんな溶けていた。
 無残な様子の、人間の死体が、檻の中で折り重なっていた。
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