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サイドストーリィ
プリマヴェーラ~出逢い~
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――フランツは身が竦んで動けなかった。
数日前に、イタリアの都市ミラノへ両親の仕事の関係で移り住んできたフランツは、新しい家にわくわくしていた。暮らしていたドイツの街とはまた違う――知らないおもちゃがいっぱい詰まった宝箱のような雰囲気に、子供ながら興奮していた。それはまるで、見知らぬ土地へ冒険しに来たような感覚だった。フランツは本が大好きで、母親のレギーナにいつも読んでとせがんでいた。お気に入りは「ヨハンの冒険」。小さな村の少年ヨハンがパンとお菓子と水を持って、遠くの大きな町で暮らしている母親へ会いに行く話なのだが、その旅の途中で様々な困難に遭遇する。だが、持ち前の機転と素早さと勇気で乗り越え、無事に母親と会うのだ。フランツはヨハンの体験に自らを置きかえていた。だから、この時、母親の言いつけを忘れてしまっていた。
家にいたフランツは、外のぽかぽかとした陽気な天気に誘われるように、玄関のドアの鍵を開けた。レギーナは隣の家へ行っていた。ちゃんとお留守番をしているのよと言いつけられていたので、すぐにドアを閉めようとしたのだが、視界のはじに何かが映った。何だろうと振り返ると、それは花だった。
玄関下の石造りの階段の縁に、白い花が咲いていた。おそらくどこからか種が飛ばされてきて、階段の下に舞い落ち、逞しく芽を出した野花なのだろう。
フランツはドアを半開きにしたまま、下に見える野花をじっと凝視した。白い花びらは小さくて、茎は細く、葉っぱもそう大きくはない。風がちょっとでも強く吹けば、ぱたんと倒れてしまいそうな感じだ。
ふいに、お気に入りの本に書かれた光景が浮かんだ。
……ヨハンは、道ばたの野花に目をとめた。それは白くて小さな花だった。ヨハンはちょっと考えて、その野花に近づくと、ていねいに摘んだ。母親へあげようと思ったのだ……
フランツはドアを手放すと、階段を下りて、その花のそばでしゃがみこんだ。近くで見ると、そんなに小さな花でもなかった。ハート型のような花びらが四枚咲いていて、自分の手の形に似た葉っぱが二枚、根元から出ている。
ムッターにあげよう。しばらく眺めていたフランツは、ヨハンになった気分で、手を出した。その時になって、気配に気がついた。
いつのまにか、自分のそばに犬がいた。
フランツは花へ手を出した格好のままで、凍りついた。顔だけは犬へ向けている。犬は茶色い毛並みをしていて、大きかった。少なくとも、フランツの目には大きく映った。大人が見れば、中型犬と判断するだろうが、七歳児にそんな冷静な判断力などなかった。
犬は、吠えるでもなく唸るでもなく、茶色に白色が交じった四つの足で立ったまま、フランツに二つの丸い目を向けている。まるで花に見惚れていた子供を奇妙に眺めるかのように。
フランツは犬が怖かった。花に触れようとしている指が、ぶるぶると震えている。にげなきゃ。本能的に思った。にげなきゃ……。体は動かない。こわい、こわいよ……
「……マッローネ!」
その時、声が聞こえた。
犬の尻尾がびくりと動いて、突然フランツへと駆け寄ってきた。フランツは悲鳴をあげた。だが犬はフランツのそばを通り過ぎてゆく。その走り去る姿を追いかけるように、フランツも固まっていた首を無理やり動かした。少し先の通り道で、犬が前足を振りあげて誰かに飛びついていた。
「こら、かってに出ていっちゃダメだろう!」
犬の頭を撫でながら叱っている声は幼かった。犬は嬉しそうに尻尾を振っている。
「……ここで、いい子でまっているんだよ」
幼い声はそう犬へ囁いた。すぐさま犬はお座りの体勢になって、主人の命令に従う。それを見届けて、フランツへ近づいてきた。
フランツはびっくりした。犬を大人しくさせたのは、自分と同じくらいの少年だった。
「……だいじょうぶ?」
その少年はしゃがみこんだままのフランツを心配するように、上から覗きこんできた。
「ごめんね、こわがらせちゃって」
フランツは何を喋っているのかわからなかった。ミラノに引っ越してきてまだ日が浅いので、イタリア語は皆目わからない。だが魔法の呪文を唱えているような声は、何となく自分のことを言っているような気がして、無意識に「うん、うん」と頷いた。
今度は少年が首をかしげた。だがすぐに言葉が通じないと賢く悟ったようで、フランツの手前で自分もしゃがみこんだ。
「もうだいじょうぶだから、泣かないで」
少年の手が、そうっとフランツの目じりを触った。
「泣かないで」
その手が、小さな頭を優しく撫でた。
フランツは自分がべそをかいていたんだと気がついて、もっと泣きたくなってきた。それだけ怖かった。けれど、少年のチョコレート色の瞳が、不思議と気持ちを落ち着かせてくれた。
「……あ、ありがとう……」
少年は自分を慰めてくれているんだと、フランツは感じた。――まるでヨハンみたい。ヨハンも旅の途中で、泣いている小さな子供を抱きしめて、頭を撫でていた。だいじょうぶ、だいじょうぶだから、泣かないで……
少年は傍らの地面に咲いている白い花に目をやった。ちょっと小首をかしげると、その花を綺麗に摘み、両手でその花を持ってフランツへ差し出す。
「げんき出してね」
フランツは驚いて、まじまじと少年を見つめた。少年は明るい笑顔を浮かべていた。今日の雲ひとつない青空のような、心が晴れ渡る笑顔を。
「……ありがとう」
フランツはもごもごと口の中で言った。なぜか照れくさくなって、俯きながら、その花を受け取る。
ふいに、少年は顔を近づけた。そして、フランツの額に軽く触れるようにキスをした。
「げんきになるおまじない」
そう安心させるように言って、少年は立ちあがると、「それじゃあ」と手を振って駆け出す。忠実に待っていた犬も立ちあがって、尻尾を盛んに振る。その犬と連れだって、もう一度振り返ると、「またね!」と叫んで走って行ってしまった。
「……」
フランツはその後ろ姿が見えなくなるまで、少年から目を離さなかった。両手には、少年が摘んでくれた白い野花がある。
それが、パウロとの出会いだった。
数日前に、イタリアの都市ミラノへ両親の仕事の関係で移り住んできたフランツは、新しい家にわくわくしていた。暮らしていたドイツの街とはまた違う――知らないおもちゃがいっぱい詰まった宝箱のような雰囲気に、子供ながら興奮していた。それはまるで、見知らぬ土地へ冒険しに来たような感覚だった。フランツは本が大好きで、母親のレギーナにいつも読んでとせがんでいた。お気に入りは「ヨハンの冒険」。小さな村の少年ヨハンがパンとお菓子と水を持って、遠くの大きな町で暮らしている母親へ会いに行く話なのだが、その旅の途中で様々な困難に遭遇する。だが、持ち前の機転と素早さと勇気で乗り越え、無事に母親と会うのだ。フランツはヨハンの体験に自らを置きかえていた。だから、この時、母親の言いつけを忘れてしまっていた。
家にいたフランツは、外のぽかぽかとした陽気な天気に誘われるように、玄関のドアの鍵を開けた。レギーナは隣の家へ行っていた。ちゃんとお留守番をしているのよと言いつけられていたので、すぐにドアを閉めようとしたのだが、視界のはじに何かが映った。何だろうと振り返ると、それは花だった。
玄関下の石造りの階段の縁に、白い花が咲いていた。おそらくどこからか種が飛ばされてきて、階段の下に舞い落ち、逞しく芽を出した野花なのだろう。
フランツはドアを半開きにしたまま、下に見える野花をじっと凝視した。白い花びらは小さくて、茎は細く、葉っぱもそう大きくはない。風がちょっとでも強く吹けば、ぱたんと倒れてしまいそうな感じだ。
ふいに、お気に入りの本に書かれた光景が浮かんだ。
……ヨハンは、道ばたの野花に目をとめた。それは白くて小さな花だった。ヨハンはちょっと考えて、その野花に近づくと、ていねいに摘んだ。母親へあげようと思ったのだ……
フランツはドアを手放すと、階段を下りて、その花のそばでしゃがみこんだ。近くで見ると、そんなに小さな花でもなかった。ハート型のような花びらが四枚咲いていて、自分の手の形に似た葉っぱが二枚、根元から出ている。
ムッターにあげよう。しばらく眺めていたフランツは、ヨハンになった気分で、手を出した。その時になって、気配に気がついた。
いつのまにか、自分のそばに犬がいた。
フランツは花へ手を出した格好のままで、凍りついた。顔だけは犬へ向けている。犬は茶色い毛並みをしていて、大きかった。少なくとも、フランツの目には大きく映った。大人が見れば、中型犬と判断するだろうが、七歳児にそんな冷静な判断力などなかった。
犬は、吠えるでもなく唸るでもなく、茶色に白色が交じった四つの足で立ったまま、フランツに二つの丸い目を向けている。まるで花に見惚れていた子供を奇妙に眺めるかのように。
フランツは犬が怖かった。花に触れようとしている指が、ぶるぶると震えている。にげなきゃ。本能的に思った。にげなきゃ……。体は動かない。こわい、こわいよ……
「……マッローネ!」
その時、声が聞こえた。
犬の尻尾がびくりと動いて、突然フランツへと駆け寄ってきた。フランツは悲鳴をあげた。だが犬はフランツのそばを通り過ぎてゆく。その走り去る姿を追いかけるように、フランツも固まっていた首を無理やり動かした。少し先の通り道で、犬が前足を振りあげて誰かに飛びついていた。
「こら、かってに出ていっちゃダメだろう!」
犬の頭を撫でながら叱っている声は幼かった。犬は嬉しそうに尻尾を振っている。
「……ここで、いい子でまっているんだよ」
幼い声はそう犬へ囁いた。すぐさま犬はお座りの体勢になって、主人の命令に従う。それを見届けて、フランツへ近づいてきた。
フランツはびっくりした。犬を大人しくさせたのは、自分と同じくらいの少年だった。
「……だいじょうぶ?」
その少年はしゃがみこんだままのフランツを心配するように、上から覗きこんできた。
「ごめんね、こわがらせちゃって」
フランツは何を喋っているのかわからなかった。ミラノに引っ越してきてまだ日が浅いので、イタリア語は皆目わからない。だが魔法の呪文を唱えているような声は、何となく自分のことを言っているような気がして、無意識に「うん、うん」と頷いた。
今度は少年が首をかしげた。だがすぐに言葉が通じないと賢く悟ったようで、フランツの手前で自分もしゃがみこんだ。
「もうだいじょうぶだから、泣かないで」
少年の手が、そうっとフランツの目じりを触った。
「泣かないで」
その手が、小さな頭を優しく撫でた。
フランツは自分がべそをかいていたんだと気がついて、もっと泣きたくなってきた。それだけ怖かった。けれど、少年のチョコレート色の瞳が、不思議と気持ちを落ち着かせてくれた。
「……あ、ありがとう……」
少年は自分を慰めてくれているんだと、フランツは感じた。――まるでヨハンみたい。ヨハンも旅の途中で、泣いている小さな子供を抱きしめて、頭を撫でていた。だいじょうぶ、だいじょうぶだから、泣かないで……
少年は傍らの地面に咲いている白い花に目をやった。ちょっと小首をかしげると、その花を綺麗に摘み、両手でその花を持ってフランツへ差し出す。
「げんき出してね」
フランツは驚いて、まじまじと少年を見つめた。少年は明るい笑顔を浮かべていた。今日の雲ひとつない青空のような、心が晴れ渡る笑顔を。
「……ありがとう」
フランツはもごもごと口の中で言った。なぜか照れくさくなって、俯きながら、その花を受け取る。
ふいに、少年は顔を近づけた。そして、フランツの額に軽く触れるようにキスをした。
「げんきになるおまじない」
そう安心させるように言って、少年は立ちあがると、「それじゃあ」と手を振って駆け出す。忠実に待っていた犬も立ちあがって、尻尾を盛んに振る。その犬と連れだって、もう一度振り返ると、「またね!」と叫んで走って行ってしまった。
「……」
フランツはその後ろ姿が見えなくなるまで、少年から目を離さなかった。両手には、少年が摘んでくれた白い野花がある。
それが、パウロとの出会いだった。
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