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chapter3 承諾

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「俺は今安心している。どうしてかわかるか?」
「……いいや」

 パウロの顔にまたもやドキドキしながら、フランツは頭を振る。

「俺の知っている子供の頃のフラと、本当に変わっていない」

 フランツの頭を引き寄せると、自分の額をフランツの額にくっつけた。

「優しくて頑固なフラ」

 パウロはフランツにだけ聞こえるように呟く。

「そして泣き虫なフラ……」
「……」

 フランツは時が止まったかのように、微動だにしなかった。額が妙に熱い。パウロの肌を感じているからだと思った。よくある恋愛映画では、このまま恋人たちが何も言わずに唇を重ねあう。熱くて激しくて濃厚なキス……
 パウロは手を離すと、フランツの頭を撫でるように叩いた。

「フラ、目を覚ませ」

 フランツはハッとした。意識がどこかに飛んでいたらしい。慌ててパウロの腕を手放した。いつのまにか掴んでいたらしい。

「あ……その、私は子供の頃からうまく成長していなくて。パウとは大違いなんだ」

 なぜか釈明をはじめる。顔は赤面状態だ。

「恥ずかしいだろう? 信じられないよ」
「そんなことはないさ。立派になったな、フラ。俺とは大違いだ」
「そんなことはないよ」

 先程頭に浮かんだイメージが、一瞬甦る。
 額を合わせていたパウロとフランツ。
 やがて、唇が触れ合った……

「そんなことはないんだ」

 妄想を消し去るかのように、強い口調になる。

「私はちっとも立派じゃないんだ」

 よりによってパウとキスする姿を想像するなんて、と穴があったら入りたい心境に陥る。

「……すまない」

 自分の妄想をパウロが知るはずもないが、何やら申しわけない気持ちになった。

「どうして謝る? フラは何もしていないだろう?」

 パウロは首をかしげる。
 だがフランツは、直視できなくて顔を背けた。パウロとキスをする姿が、また不意打ちのように甦ってくる。それを大切な幼馴染みに見られたような気がして、落ち着かなくなった。

「大丈夫か? 鼻が痛いのか?」
「……えっ?」

 フランツは鼻のあたりを手で押さえているのに気がついた。恥ずかしくて、急いで手を放して裏返した。ありがたいことに鼻血は出ていなかった。

「その……自分はまだ子供だから、どうしていいのかわからなくて」
「何をどうしたいんだ? フラ」

 パウロはチョコレート色の瞳に、好奇心の光をきらめかせる。
 フランツの顔が、熟した赤ワインのようになる。もう自分の状態も制御が難しくなってきたようだった。

「……その……いや、何でもないんだ」
「俺にできることなら、何でも言ってくれ」
「違うんだ、パウ。私は……」

 自分でも何を喋っているのかわからなくなってきた。

「フラ、遠慮するな」

 パウロは幼馴染みの肩を気安げに叩く。だがフランツは三度自分がパウロとキスをする姿を思い出して、硬直してしまった。

「……私のことは、どうでもいいんだ」

 息も止まりそうだったが、フランツは頭の妄想を軍人らしい自制心で払い落とした。母国の仕官学校では、現実を直視して、冷静に事態を打開するということをシュヴァインシュタイガー教官から教えられた。学んだことを踏まえて、今考えなければならないことに神経を集中する。すなわち、パウロの身の安全だ。

「わかった、パウ」

 現実を直視したフランツは、一歩引き下がった。

「私が裸になるよ」

 パウロが何か言いかけるのを、両手で制した。

「それが一番の解決方法だ」

 普通に言えたと、内心ホッとした。恥ずかしい妄想に感情が乱れたが、どう考えてもパウロを助けるには、自分が相手役になるのが最良だというのがわかった。

「フラ、いい加減にしろ」

 パウロは打って変わって、厳しい表情になる。

「俺の撮影にお前は必要ない」
「……そんなことを言って、私を断念させようとしても無駄だよ」

 本当はまた軽く落ち込んだが、気合を入れた。

「私は服を脱いで、ベッドに入る。そこでパウと抱き合う。それを撮影して、パウはドン・イタリアへ贈る。これで万事OKだ。もう私は決めた。誰が抗議しても覆らない。パウが私を嫌だと言うのであれば、仕方がないけれどね……」

 フランツはパウロの反応を待った。パウロが、そうだお前が嫌だと言ってきたら、自分はライン河に沈んでしまうのではないかと思った。

「……俺に言わせたいのか」

 パウロはさらに険しくなった。

「俺のために、そんなことを言うフラが嫌だ」
「……ありがとう。ますますやる気が出たよ」

 何気にショックだったが、顔に出ずにすんだ。

「どうしてパウは、それほど私を拒否するんだ?」

 自分を巻き込みたくないためだとは感じているが、もしそうではなかったら、真面目にショック死するかもしれないと思った。

「私では、パウの相手役に相応しくないのかい?」

 フランツは自分の外見を冷静に判断した。金髪碧眼で頑強な体つきをしている典型的なゲルマン人の姿だが、それがドン・イタリアの好みに合わないのかもしれない。

「そうじゃない」

 パウロは少しだけ表情を和らげた。

「フラを拒否しているんじゃない。服を脱いで、ベッドに入るなんて平気で喋るフラを見たくないだけだ。ポルノ俳優でもないのに」
「パウのためなら、ポルノでもストリッパーでもやるよ……大切な幼馴染みのためならね」

 フランツはパウロと見つめあった。パウロは唇を引き結んで、難しい顔をしている。だが今度こそ自分を排除しないで欲しいと願った。

「……パウロ」

 あまりにも長く沈黙しているので、フランツは耐えられなくなってきた。自分が裸になるのが、そんなに嫌なのだろうか。もちろん、自分だって恥ずかしいし、平常心ではいられない。裸になって、ベッドの上でパウロと抱き合う。腕を絡ませて、体を寄せ合う。想像しただけで眩暈がする……
 けれど、と心を強くした。パウロのためなら、どんなことでもするつもりだった。たとえキスであろうとも……
 やがて、パウロはどうしようもないというように、ため息をついた。

「パウロ?」
「フラの考えを撤回させるためなら、俺は何でも言える」

 パウロはついと目を逸らした。

「だが……そうしたら、フラはまた泣くだろう。そして、俺が困るんだ」
「――すまない。泣かないように努力する」

 真面目にフランツは謝った。

「けれど、私はパウに何を言われても、自分の考えを撤回するつもりはない」

 頑固に言い切った。フランツは仲間内から「頑固なフランツ」との綽名をもらっているが、本人はその名誉を知らない。

「いいかい? 何度でも言う。私はパウのためなら、何でもする。たとえパウが私を罵っても、私の決意は変わらない。これは絶対だ」

 熱いわけでもないのに、息があがって、肩で呼吸をした。
 パウロは眉間に皺を寄せながら、ゆっくりと振り向いた。不機嫌な表情にもかかわらず、フランツは見惚れてしまった。

「……仕方がないな」

 降参というように、両手をあげた。

「フラは近所のじいさんより頭が硬い」
「近所って、マルコおじさんのことかい?」
「ドン・ルンギだ。覚えているか? 俺の顔を見るたびに、説教をしてくるんだ。悪魔と契約して、ポルノ映画を撮っていると思っているんだろう」

 パウロは思い出したように苦笑いした。
 フランツもつられて笑った。ルンギ神父は、イタリアにいた頃、地元の教会で元気に説教していたカトリックの聖職者である。会えばいつも大声で「チャオ! フランチェースコ!」と挨拶された。フランチェスコとは、イタリア語でのフランツの呼び名である。マルコおじさんはその隣に住んでいた退役軍人で、いつも神さまの悪口をぶうぶう言っては、ルンギ神父と喧嘩になっていた。

「――後悔はしないな?」

 パウロは試すように訊く。
 フランツは大きく頷いた。

「軍人は、与えられた任務を全うするのが仕事だ。必ず、成功させてみせるよ」

 胸に手を当てて、高らかに宣誓する。その言葉がどういう意味をもつのか、よくわかっていないようで、パウロは少しだけ頭を傾げた。

「だから、パウ、安心して……」
「あーあ、ようやく終わったか」

 待ちくたびれた声が遮った。
 フランツは、はたと気がついて、後ろを振り返った。口の悪いイタリア人の存在を、すっかり忘れていた。

「いたのか?」
「いちゃ悪いか?」

 ロミオは両手を持ち上げて大きく背伸びをすると、ベッドから立ち上がった。パウロとフランツが話し合っている間、またベッドに腰かけて、黙って聞いていたらしい。

「たく、あんたの決断が鈍いんだよ。それでよく軍人が務まるな? 戦場だったら、あっというまに撃たれて死んでいるぜ? さっさと、ハイって言えよ」

 フランツの頬が引き攣るのも無視して、今まで黙っていた鬱憤を晴らすように喋りまくる。

「それじゃ、撮影の準備をするぜ? 俺はカメラを回せばいいんだろう?」
「そうだ。口の機能を停止させて、手だけ動かせ」

 ロミオはぺっと舌を出して、部屋を出て行く。

「期待しているぜ!」

 フランツに投げつけていった。

「悪いな、フラ。口だけ悪いんだ」
「気にしていないよ。パウが謝ることじゃない」

 性格も相当悪いんじゃないかと思ったが、パウロのためにウィンクした。
 フランツは目の前にある天蓋付きのベッドを、改めて眺めた。おそらくこの上で撮影は行われるのだろう。清潔な白いシーツと、ふかふかの枕が大切なのだ。自分たちにとっても、鑑賞する側にとっても。戦場のミッションを前にしているような緊張感が、じわじわと生まれてくる。
 振り返れば、パウロが腕を組んで自分を見つめていた。

「安心しろ。やる振りをすればいいだけだ。俺の言うとおりに、動いてくれればいい」

 フランツの不安を見抜いたかのように、簡単に説明する。

「私は、後悔はしないよ」

 フランツもパウロを安心させるために言った。
 パウロは組んでいた腕をほどいた。ポストカードでも作れそうな甘い顔立ちが、どこか挑発的な微笑を浮かべて、一言呟いた。

「――俺も後悔はさせない」
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