レッド・クロス

蒼月さわ

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 ヴェールの後ろを歩くレインは、興味津々で右に左にきょろきょろしていた。代表合宿という体験も初めてだったので、目にもするものが何やら新鮮に映る。だが、やはり先程のことが少々気にかかっていた。

「あ、えーと……」

 前をゆくヴェールの背中に、レインは遠慮がちに声をかける。

「なんだい? それと僕のことはジョナサンでいいよ」

 ヴェールは歩きながら、気安く振り返る。

「あ、ジョナサン。ちょっと聞きたいことがあって」

 レインはホッとしたように言葉を出す。

「なに? レイン」
「えーと、さっきのって……」
「ああ」

 先ほどバトラーを必死に引きとめようとしていたとは思えないような気のなさで、ヴェールはわかったように頷いた。

「帰ったんだよ」
「えっ……」

 もしかしてとは思ったが、レインは絶句した。三日後には欧州選手権大会出場をかけた大事な一戦がある。それなのに帰宅するという行為は、その試合には出場しないということだ。どうしたんだろうとまた不思議に思ったが、ヴェールはそれ以上何も言わずに、ナンバープレートが刻まれた扉が左側に整列しているフロアに入ると、108と書かれたプレートの前で立ち止まった。

「ここが、君の寝室だ。みんな相部屋だから、文句は言わないでおくれよ。もし相手の寝相が悪かったり、鼾がうるさかったり、寝言を言ったりしたら、それは全て自然現象だと思っておくれ」

 ヴェールはドアを軽く叩いて、丸いノブを回した。

「レックス! いるかい!」

 いるよ、との静かな声が聞こえてきた。ヴェールに続いて、寝室に入ったレインは、オフホワイトの壁に向かって並んだ二つのベッドのうち、窓側のベッドに腰を下ろしている男性が、こちらを振り返ったのが見えた。

「レックス、この子はレイン・クロール。これから三日間のルームメイトだ」
「知っているよ」

 アレックス・ローレンは立ち上がって、ヴェールの後ろに立っているレインに手を差し伸べた。

「去年、一六歳でプレミア初ゴールを決めたマスコミ待望のワンダーボーイだろう? その時の試合相手はアリーナで、左サイドバックで君のシュートを防げなかったのは、アレックス・ローレンっていうまぬけな選手だったってことを覚えている?」

 レインはボストンバッグを床に置いて、握手をしながら必死に頭をめぐらしたが、全く覚えていない。

「冗談だよ」

 レインはアレックスを見上げた。口元が優しく笑っている。

「こら、レックス。子供をいじめるんじゃないぞ。あとでお前が、ノーザンプールの連中に吊るし上げを食らうぞ」

 ヴェールが腕組をして、真面目くさったように言う。

「わかっているよ、ようこそ、レイン」
「あ、よろしく……ローレンさん」
「アレックスでいいよ。僕もレインと呼ぶから」

 アレックスは手を放して、ウィンクした。
 レインは自分より頭ひとつ分高いディフェンダーを見上げた。金髪で青い瞳のアレックスは、ゴール前を守るサイドバックにしては端正な顔立ちをしていて、穏やかそうな青年だった。

「それじゃ、練習場で会おう」

 ヴェールはレインの背中を軽く叩いて出て行った。
 レインは改めて部屋の中を見渡した。あるのは、二つのベッドと、引き出しのついた小さな棚、壁時計ぐらいだ。それとコンセントである。とりあえず持ってきた携帯やタブレットの充電は出来そうなので、レインは少し安心した。

「どっちのベッドが寝られそうかな?」

 レインはアレックスの声がした方へ顔を向けた。アレックスは窓辺に立って、拳でガラス窓をトントンと叩く。

「この窓って、東向きなんだよね。天変地異でもない限り、朝日は東の空から昇るから、もしここに吸血鬼でも寝ていたら、カーテンで閉め切っていても、あっというまに灰になってしまうんだ」

 窓側のベッドを指す。

「僕は灰になりたくないから、レインにお願いしていいかな?」
「いいよ。オレは全然平気。太陽って大好きなんだ」

 アレックスは笑った。

「まるでスペイン人みたいなことを言うんだね。レインなのに」
「うん、よく言われるよ!」

 レインも元気に笑った。

「なんでもさ、オレが生まれる直前まで、ずっと雨が降っていたんだって。だからレインって名前をつけたらしいんだけど、生まれた途端に、雨が上がって晴れあがったんだってさ。親父がしまった、早まった、早まったって喚いて、お袋にうるさいわね! って怒鳴られたらしいんだけど」

 アレックスはまた笑った。

「レインの両親って、面白いね。今回のことでも喧嘩にならなかった?」
「勿論、喧嘩になったみたいだよ。だけど、勝ったのはイングランド人のお袋で、スコットランド人の親父はPK負けしたらしいね」

 レインは電話での父親との会話を思い出した。――お前の気持ちを応援する――。大のサッカー好きで、物心ついた時からスコットランドリーグ所属の地元クラブを応援し、スコットランド代表の旗を振りかざして応援する父親にしてみれば、宿敵ともいえるイングランド代表を選択した息子には、残念な気持ちで一杯なのだろう。電話口での言葉とは裏腹に、その口調は日が沈んだように暗かった。
 実は、イギリスはその複雑な歴史から、国内に四つの代表チームを抱えている。イングランド代表、スコットランド代表、ウェールズ代表、北アイルランド代表がそれで、それぞれのサッカー協会もある。ワールドカップやヨーロッパ選手権へも四つの代表チームが各自で出場しており、互いに凌ぎを削りあっている。ここで問題になるのは、四つの代表チームの選手獲得だ。その選手がイングランド人であっても、祖父母あたりがウェールズ人であれば、その選手はどちらかの代表チームを選べることになり、四つのサッカー協会は優秀な選手を自国代表にしようと、日夜熾烈な争いをしている。レインも父親はスコットランド人で母親がイングランド人だったので、両方のサッカー協会から猛烈なアプローチを受けていた。しかも「脅威のワンダーボーイ」などと、マスコミにもてはやされていたレインの決断は、ここ数日間、それ以外に話題はないといわんばかりにイギリス中の注目を集めていたが、結局レインはイングランドを選択し、この合宿所へ来た。

「君を歓迎するよ。ようこそ、くそったれのイングランドへ」

 レインは吹き出した。確か著名なスコットランド人のフットボールコラムニストであるビジター・カミングは、レインの選択を哀しみに満ちた文章で綴っていた――くそったれのイングランドは、再びスコットランドに悲哀を浴びせました――早くこのくそったれのイングランドから独立しましょう――

「もうみんなグラウンドに出ているんだ」

 レインはボストンバックを床において、アレックスの横に立つと、外を一望した。そこからグラウンド全体を眺めることができて、周囲をランニングしたり、ボールを蹴っている選手たちの姿が小さく見える。監督やコーチの姿は見当たらないので、練習前に体を動かしているのだろう。

「あ、おっさんだ」

 同じクラブに所属しているゲイリー・エドワーズが軽くボールを蹴っている姿を、目ざとく見つける。
 レインは胸に手を当てた。心臓がドキドキして、さらにワクワクしている。憧れだったスリーライオンズの一員に、ついに自分もなれるのである。
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