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5. 妻が・・・、飛び降りた!?

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 その日の夕方、ノアルファスはフィリスの部屋の前を右往左往していた。
 先ほど彼がここに付いてから疾うに半刻は経っている。
 メイド達は彼女に拒絶され、口も聞いてもらえない状態らしい。入室の許可すらも出ないと嘆いていたため、早々に下がらせているのだ。

 『はいる、はいらない、はいる、はいらない』

 子供が花びらを引きちぎって唱えるように、彼は数える対象もないままずっとその呪文を唱え続けた。

「······はいる」

 何十回目かの詠唱の後、結論がでて、彼は意を決して部屋の扉をノックした。

コンコン、
「・・・」
コンコンコンコン、
「・・・」
ドンドンドンドン!
「・・・」

「フィリス、入るぞ?」

 やはり無言。返事もなく、ノアは扉を押し開けた。
 と同時に、爽やかな風が頬を撫で、彼の綺麗に整えられた短い髪を乱して吹き抜けていく。

「ッ、フィリスッ!?」

 目に飛び込んできたのは、全開になった部屋の窓。
 三面に連なる、公爵家自慢の大きな窓が全て開けられている。そしてそこから繋がるバルコニーに見えたのは、脱ぎ散らかされた彼女の靴。

 ノアの気は動転した。

 やはり自分のような年増な男は嫌だったのか?
 全くタイプではなかったから死んだほうマシだと思われた?
 いや、俺との子供ができたことが嫌すぎたのか······。

 むしろ、その全てかもしれない。

 ノアは足早に部屋に入ると中を見渡す。化粧室にも、寝室、リビングにも彼女が居る気配がなく、彼は一直線にバルコニーへとゆっくりと足を進めた。

「あんな······“俺の子かも分からないな“ なんて発言······」

 ノアはバルコニーに脱ぎ散らかされた靴を拾いぎゅっと抱きしめると、柵に手をかけた。
 見てはいけない気がする。いや、見たくない。だが、見なければ、確かめなければ······。
 早鐘を打つ心臓を抑えながら、彼が下を覗き込んだその時。

「······本当ですわ、あんな言われよう、される筋合いはなくってよ?流石の私もイラッと······」

 急に斜め後ろから声がして、彼はその方向を見る。
 そして二人の視線が交わり、両者あんぐりと口を開けた。


「「え?」」


「ええええ?!な、な、なんなんです······ッ、靴フェチ??!」
「は?なんで、貴女がここに······?!」

「な、なんでって······ここは私に自由にしろ、と私に唯一与えられた部屋ですので?!えぇっ、もしかして、バルコニーは契約外でした······?契約書、契約書ってあったかしら······?」
「お、俺は靴フェチではない!!」

 ノアはフィリスの言葉に、抱きしめたままだった靴を慌てて放り投げた。

「それに、契約書など探さずともいい!夜着姿のままで素足をソファに投げ出して寛ぐなど······貴女は本当に侯爵家のご令嬢だったのか?!それに今は公爵夫人だと言うのに!!」

「ええ、侯爵家の令嬢でしたわ。まあ、周りの方々とは少々違うなあ、と思う節も多々ありましたが?ですが、私はこんな自分に満足しているのです。
 今は、気分が優れないから解放的に行こうと思った次第ですの。それで、旦那様が此処にいる理由をお伺いしても?」

 ノアは頭を抱えた。社交の場で周りから多少聞いてはいたが、やはり彼女は普通の令嬢とは違う。
 体裁を気にして周りに媚びを売ることなんて全くなく、いっそ清々しいくらいに自由人。

 まあ、だから、自分との結婚への契約内容に不満を持たれたとしても、彼女の好きな報酬を提示すれば首を縦に振ってくれるのでは、と打算的に考えていたのだが······。
 でも、蓋を開けてみれば、もうこれは自由人どころではない。

「本当に、むしろ、じゃじゃ馬だな」
「じゃじゃ馬、ですって?まあ、乗馬は少し嗜んでおりますが、私は馬ではありませんので」
「そういう事を言っているのではない!!それに普通のご令嬢は乗馬など嗜まん!」
「あら、そうなのですね?馬の背中はとても気持ちが良いのですが······””のご令嬢というのは大変ですのね。ああ、それで。ここまで旦那様が来られた要件をお伺いしても?」

 急に特段要件がないことに気づいたノアは、ポリポリと頭を掻く。

「それは······その······心配になって、だ」
「まあ、私ったら何か旦那様にご心配おかけするような事を致しましたか?」

 この状況すべてが心配になるんだよ!

 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ノアは彼女をジト目で見据えた。

「メイド達が部屋にも入れてくれないと嘆いていたぞ?それで私が変わりに来てみれば、窓は全開。脱ぎ散らかされた靴が見えたから、ここから飛び降りでもしたのかと······」

「っふ、ふふふ、あははははっ!」

 彼女が噴き出して笑った顔を見て、ノアは身動きができなくなった。
 自然体の彼女を見たのは初めてで、その笑顔に目が釘付けになる。
 可愛い······、と直感でそう思って、ノアはその感情に驚き、咄嗟に顔をそむけた。

「私が?ふふふっ、面白いわ!私が自害など······するはずがありませんわ!」
「な、なんでそう言い切れる?好きでもない年配の男の所に嫁がされて、契約結婚を強いられて。すぐに身籠るなど、人生に絶望し命を投げてしまうかもしれないと考えるのは普通だろう?」

 ヒィヒィと笑いながら、瞳に溜まった涙を拭った彼女は、夜着であることも気にせず膝を抱え込むようにして座ると、雲一つない真っ青な空を見つめた。


「······いいえ?絶望などしておりません。
 する理由がないもの。どんなに予期しない出来事が続いたとしても、この人生を捨てるという選択肢は私にはないのですわ。
 それならば、私はいつだって、人生を変える、という選択肢を取りたい。頂いたこの命、希望を失わず、精一杯生きて、まだ見ぬ大きな世界に羽ばたいてみたいのです」


 ノアはその美しい透き通るような赤い瞳に釘付けになった。
 その瞳は燃える意思、力強く揺るがぬ決意。
 彼女はこんなに強い女性でもあったのか······。確かに、俺はまだ彼女の何も知らないじゃないか。

 ノアが先ほどから言い放っていた、彼女への心無い言葉を撤回しようと思うのに時間はかからなかった。

「その······貴女を、馬鹿にしたり、傷つけたかったわけではないのだ。それに、今朝の事も、本当に······「いいのです。公爵である貴方が言った発言に責任を感じる必要はありません。私も少しレオン様の優しさに甘えすぎていましたしね。
 さーてとっ!少し吐き気が戻って参りましたので、旦那様は退出していただけますでしょうか?」

「っ、おい、ちょっと待て······!その体調の事も心配で······ってオイ!」

 ノアは言葉を言い終わる前に背中を押され、急かされるように彼女の部屋から押し出される。
 彼の背後でバタンッと扉が閉まり、直後「うげぇえええ!」というわざとらしくも聞こえるような嘔吐音が聞こえた。

「ちっ、まったく!一度、公爵夫人となる淑女教育は挟んだ方がいいかもしれないな。流石に自由人すぎる。社交界などにでたら······」

 彼はあまりの自由さで社交界で浮きまくるフィリスを思い浮かべて苦笑する。
 だが、同時に、契約結婚では社交界にも出なくて良いと言った事を思い出した。

「ああ······社交界には出なくて良いと言ったのは俺だったな。本当に······」

 ノアは首を横に振ると、自室へと歩を進める。

「······突き放しておいて、急に優しくするとか······心臓に悪いのだわ。貴方と私は契約達成という目標を掲げた同志なの。だからそれ以上でも、以下でもないのよ」

 閉まった扉の内側、フィリスが浅い溜息をつきながらしゃがみ込み、顔を覆って蹲っていたなどとは知る由もなく。
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