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最終章
36 ~side蓮~
しおりを挟む──約、一ヶ月前。
蓮はその日、入院している裕に会うため、仕事前に病院へと立ち寄ろうとしていた。
夕暮れ時。車のキーをくるくると指で回しながら、それにしても足を滑らせただなんてほんと危なっかしい……。と大事には至らなかったものの病院のベッドの上であっけらかんと笑った裕の姿を思い出していた蓮は、でもほんとに無事で良かった。と胸を撫で下ろしながら、車に乗り込もうとした。
しかしその時「蓮くん」と不意に声を掛けられ、蓮は顔をあげてその人を見た。
「……え、なんで、」
だなんて、驚きに目を見開き呟いた蓮の視界の先。
そこには、最近からお店に通ってくれるようになった、あの近くのコンビニでバイトをしているゆうこの姿があって。
確かに近所のコンビニで働いているのは知っていたが、しかしマンションの駐車場という、こんな限られた場所で出会うというのは偶然にしては不自然すぎて、蓮は思わず訝しげな表情を浮かべた。
「ゆうこちゃん……、なんでここに居るの?」
ここに住んでるって訳じゃなさそうだけど。という疑いを隠しもせず蓮が問いかけたが、しかし冴えない顔をゆたりと歪ませ、ゆうこは笑った。
「蓮くんがいつまで経っても迎えにきてくれないから、私から来ちゃった」
クスクスと、本当に愉快そうに笑うその姿に頭の中で警戒音が鳴り響き、蓮の背筋が震える。
その異質さに、この人ヤバい。と判断した蓮はすぐにポケットの中の携帯を取り出したが、
「ねぇ、裕くんは元気? 今病院なんだよね? 裕くんが駅の階段から落ちた時、皆パニックになってて、悲鳴とかあがって、凄かったんだよ?」
なんて微笑むゆう子に、蓮はぴたりと動きを止めた。
「……な、に、言って、」
呟く声は震え、ドクンドクンと鼓動は速まり、冷や汗がじわりと肌に浮いてゆく。
手先の感覚が急速になくなり、蓮が堪らずヒュッと喉を鳴らしたが、しかしゆうこは愉快そうに笑うだけだった。
「私があげたプレゼント、大体の人は捨てるかロッカーに放置するんだけど、蓮くんはちゃんと寝室に置いてくれて嬉しかったよ。ありがとう。そのおかげで、蓮くんの事も裕くんの事も沢山知れて嬉しかった」
「……プレ、ゼント……」
会話の脈絡がなく困惑したままの蓮だったが、そこでハッとし、初めてゆうこが来店した日に貰ったあのクマのぬいぐるみキーホルダーの事を思い出した。
ゆうこの言うように、大体のホストは貰った物をロッカーに置くか処分するかであり、蓮も例に漏れずそうしていたのだが、あの日は裕との事に浮かれ着替えもせず、ジャケットに突っ込んだままにしていて。そしてポケットに入っていたそれを着替えたその時、適当に寝室の棚の上に放り投げてしまっていた。
それに気付き、まさかあのクマの中に盗聴器が……。と蓮が顔をひきつらせたまま見下ろせば、にっこりと微笑むゆうこ。
──その顔は、恐ろしいほど無邪気だった。
「私ね、私のことだけを愛してくれる王子様を探してるの。でも今までの人はどっか違くて、いつもいつもうまくいかなくて。でも蓮くんをお店で見た時、蓮くんこそが私がずっと探してた王子様だって、気付いたの」
「……君が何を言ってるのか全く分からない。……それより、君が裕を突き落としたの?」
真顔で見下ろし問い詰める蓮にゆう子は、どうしてそんな怖い顔するの? と首を傾げるばかり。
それにカッと頭に血が上った蓮だったが、流石に女性に手を上げられる訳はないので、怒りをやり過ごすよう深く息を吐き、やばいなコイツ。と今度こそ携帯を取り出し警察に電話をしようとした。
「あ、警察に言ってもいいけど、私が裕くんを突き落としたなんて証拠はどこにもないし、ストーカー規制法なんてなんの意味もないんだよ?…… それに、そんなことされたら私、今度こそ何するかわかんないかも」
なんてゆうこは口元を抑え、クスクスと笑うばかりで。その無邪気さがやはり気持ち悪く、そしてその瞳は暗く何を考えているか、分からなかった。
「……蓮くんは優しいから、裕くんから告白されて断れなくて付き合ってるだけだよね? だって、蓮くんには私が居るもんね。……だったらやっぱり、裕くんはこの世界に要らないかなぁ。ね、そうだよね」
そうにっこりと笑いかけてくるゆうこ。
その笑顔にたらっと冷や汗が背中を伝ってゆくのを感じ、ゆうこの禍々しい空気に、蓮はごくりと唾を飲んだ。
「だいたい、あんなボロいアパートに住んでる子なんて蓮くんには似合わないよ」
「っ、」
その台詞は正に、裕の事を調べ尾行したのだと言外に示しており、蓮はぐるぐるとまとまらない思考のまま、……どうすればいい、どうすればこの女から裕を守れる。と必死に考えたが、
「手始めに、就職内定貰ってる会社にこれ、送っちゃうかも」
なんて言いながら、ゆうこは何かを見せてきた。
ピラッと揺れるのは、どうやら写真のようで。
二人が手を繋いで歩いている写真や、あの公園でキスをしている写真などが何枚もあり、しかし蓮は、裕がもう内定を貰っている事など初耳でしかなく、それにも驚きに目を見開かせてしまった。
「……あれ? 蓮くんもしかして裕くんから聞かされてないの? 意外に信用ないんだぁ。ほんとに駄目だね裕くんって。恋人に隠し事なんかしちゃって。私はそんなことしないから安心してね」
目敏くそんな蓮の表情を読み取ったゆうこが一瞬口を歪め笑い、それから事が上手くいきそうだと満足げに頷いている。
蓮は知らされていなかった事にショックを受けつつも、いやそれはもうどうでもいい。裕の人生なんだから。と持ち直し、だがその裕の人生を自分の迂闊な行動のせいで壊してしまうと顔を青ざめさせ、唇を噛んだ。
……なにが、守るから。だ。
そう蓮は自分が裕に告白をした時の台詞を思い出しながら、全部、全部俺のせいじゃないか。と目を瞑る。
カイの仲間に拉致され殴られたのも、裕は言わなかったが駅の階段から突き落とされたのも、未来がめちゃくちゃにされそうになっているのも全て、俺のせい。
そんな自分のふがいなさに拳を痛いほど握り締めた蓮は、一度深呼吸をしてから、ゆっくりと目を開けた。
「ゆうこちゃん」
そう名を呼び、ゆうこに近付いて腕を取りギュッと抱き締めながら、
「俺のことそんなに本気で好きなんだ。嬉しいな。ゆうこちゃんの言う通り裕とは仕方なく付き合ってたんだ。でもゆうこちゃんが居るからもう別れるよ。だから、そんな事わざわざしなくてもいい」
なんて満面の貼りつけた笑顔で蓮が言えば、ゆうこも含んだ笑みのまま、蓮を見上げた。
「ふふっ、やっぱり頭もいいんだね。蓮くんならそう言ってくれると思ってた。嬉しい。私だけの王子様」
そう微笑み抱き締め返してくるその華奢な背を抱きながら、……これで良い。言われた通り王子様を演じ続けていれば裕に被害が及ぶ事はない。俺に出来る事はそれくらいだから。と蓮は無表情のまま空を見上げたが、目の前の世界は色が急速に失われ、ただの灰色に見えた。
***
それから蓮は裕に別れを告げ、ゆうこがもうホストなんてしなくていいよね? と言うがままに仕事も辞め、裕に別れを告げたその日に荷物をまとめては、この一ヶ月間ゆうこの家の近くのホテルで寝泊まりをし始めた。
私の家に来ればいいじゃない。とゆうこは言ったが、それが何を意味しているのか分からない訳はなく。大事にしたいんだ、君のこと。と嘘の笑顔で言いくるめては、なんとか先伸ばしにしている日々だった。
……まぁ、今さら純情ぶっている訳じゃないけどね。
なんて蓮がこつんと車の運転席の窓に額をつけ、小さく溜め息を吐いた、その時。
「お待たせ蓮くん」
なんて言いながら、助手席に乗り込んできたゆうこ。
「バイト、辞めてきたよ」
そうなんてことないように言ってはシートベルトを締めるゆうこは、コンビニのバイトなんてもう用はないと言わんばかりで。
そのずっとにこにこと笑っている仮面のような顔に、蓮もにっこりと笑い返した。
「じゃあいっそ二人で遠い所にでも行こうか。誰も知らない土地で暮らしてみるのも良いかもね」
甘い声でそう囁けば、ゆうこがうっとりとした表情で蓮を見る。
「やっぱり蓮くんは私の王子様だね。嬉しい……」
だなんて満足げに微笑む姿に、蓮は小さく目を伏せながら、笑った。
──他人が自分に何を言って欲しいのか。何をして欲しいのか。
そういうのが手に取るように分かるタイプのお陰で、今のところ機嫌を損ねるような事はなく。
蓮は、ほら、こんなに簡単だ。やっぱりこっちの方が自分の性に合ってるんだな。なんて自嘲した。
裕と居る時の自分は自分じゃないみたいに感情のコントロールなんて出来なくて、ばかみたいに好きで好きで、大事にしたくて、でも好きすぎて裕が何を考えているのか何をして欲しいのかなんて分からず、探り探りの恋をしていた。
……ただ笑ってくれるだけで、ただ側に居てくれるだけで良かった。
……ただ、好きだって言ってくれるだけで、
そこまで考えてから蓮はハッとし、裕への想いを振り切るよう小さくかぶりを振って、嘘の笑顔のままゆうこを見た。
これはゲームだ。自分が完璧な王子様を演じ続けている間は、ゆうこは裕に何もしない。だが答えを間違えたり感情を見せると途端に終わる、そんなゲーム。
用意周到にクマに盗聴器を仕込み、周辺を探り、ストーカー規制法の話をするくらいだから今までもこのゲームに無理やりプレーヤーとして参加させられた人々が居るのだろう。
その人達が最後どんな末路を辿ったのかは知らぬが、ゆうこがこうして世に居るという事は重大な犯罪を犯している訳ではなさそうで。ともすれば興味が失せれば簡単にプレーヤーを変えるタイプなのかもしれない。と、ここ数週間一緒に居て推測したゆうこの性格を考えれば、さっさと自分に興味を失せさせて次のターゲットに行ってもらう作戦のほうが良さそうだとも思ったが、自分が何かしたのでは裕が攻撃される可能性の方が高く。ならば次のターゲットが現れるまで完璧な王子様を演じていた方が良いだろう。と結論付けていた蓮は、
「送るよ」
と優しく微笑み車を走らせようとしたが、
「ねぇ、蓮くん。キスして」
なんて突然の言葉と共に、ゆうこがじっと蓮を見た。
その瞳は相変わらず暗く、ここで蓮が選択肢を間違えればどうなるかは明白で。
……何度かはぐらかしてきたが今日はもう無理そうだな。と覚悟を決めた蓮は、本当にいいの? とまるで大事なんだというように、そっとゆうこの顎を持つ。
そしてそのまま唇を重ねようとした、その時。
「……やっぱり待って」
なんてゆうこが蓮の口を抑えたので、蓮は笑顔のまま、「やっぱりまだ早かった? ごめんね」なんて心にもない言葉を吐き、ゆう子の頭を一度ポンと撫で、体を戻した。
「キスするなら、あそこがいいな。蓮くんの家の近くの公園」
ほっとしたのも束の間。そう言いながらにっこり笑ったゆうこに、蓮が一瞬ヒュッと息を飲む。
「……どうしてわざわざ?」
「私たちの初めてのキスは、あそこがいいなって思って」
「ただの公園だよ? 俺はもっと景色の良いところがいいなぁ。初めてのキスは特別にしなくちゃでしょ?」
「だから、だよ。それとも、裕くんとの想い出の場所だから、できない?」
核心を突くよう、目の奥が笑っていない笑顔でゆうこが見つめてくる。
その薄気味悪い笑顔に、蓮はぐっと気付かれぬよう拳を握りながら、それでも穏やかな笑みを返した。
「そんなことないよ。お姫様が望むなら、今から公園に行こうか」
笑顔を顔に貼り付かせ、なんて事ないような態度でシフトレバーを動かし、車を走らせた蓮。
すっかり夜は更け、外灯が連なる道をただゆっくりと静かに進んでいく、車。
そのテールランプの跡を、ひたひたと闇が追いかけている。
それに覆われてしまいそうなほど、強く強くハンドルを握り前をただ見つめている蓮の瞳は、灯る外灯の柔い光さえ灰色に見えているかのように、何の色も浮かんではいなかった。
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