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しおりを挟むシュナがずぶ濡れのまま小屋へと戻れば、何故濡れているのだ。と父に小言を言われてしまい、しかしそれにシュナは申し訳ありませんと頭を下げるだけで、何も言わなかった。
そしてシュナが川に行っている間に話し合いをしたのか、結局あの群れに居たベータとオメガは全員トラウマになってしまったようでもう群れでの生活はしたくないと、保護シェルターに向かうことを望んだようだった。
その為、叔父二人に保護シェルターがある街へと警護してもらいながら向かう事になり、シュナと父親は、一足先に群れへ戻れる事となった。
道中、父子二人きりなど中々にない機会にシュナはどことなくむず痒くなり、しかしお互いそんなに話す方ではないため、会話らしい会話などあまりなく。
それでも穏やかで和やかで、そんな二人の空間に満ち足りた気持ちになりながらも、シュナは予定よりも早く群れへと戻る事を望み、それに同意した父と共に、シュナは寝る間も惜しんでは森のなかを駆けた。
──そうして急いだシュナが群れへと戻った、早朝。
何日かぶりの群れはしんと寝静まり、朝露に濡れた草花は美しく。群れはいつもと同じようにどこか温かいまま、シュナを迎えてくれた。
それから群れの匂いを一度嗅ぐよう深呼吸をし、ノアの顔が頭に浮かんだシュナは、ノアはどこで寝ているのだろうかと一瞬探しに行こうとしたが、だがすぐに、いやこんな朝方に起こしてしまうのは可哀想だ。と自分を戒め、どうせすぐ会えるのだから。とガリガリと頭を搔きながら自身の小屋へと戻ることにした。
ザクザク、と大地を踏み鳴らす音が、静かな群の中へとゆっくり溶けてゆく。
そして自身の小屋の扉の前まで来たシュナだったが、不意にふわりと香った匂いに途端にパァッと表情を明るくさせ、それから逸る気持ちをなんとか抑え、ゆっくりと慎重に自身の小屋の扉を開いた。
開いた扉から、ぶわりと強くなる香り。
それはシュナが今までの人生のなかで一番好きだと思った、甘く爽やかな桃の香りで。
それから自分のベッドの上でノアが丸まって眠っているのを見たシュナは、思わず目元と口元をふにゃりと弛ませた。
ノアだ。ノアが居る。だなんてとりとめもない事を思いながらゆっくりベッドに近付いたシュナが、そっと身を屈めてベッドの縁に座り込み、ノアを見る。
ノアは未だ起きる気配はなく毛布にくるまり、スヤスヤと寝息を立てていて。
その表情はあどけなく、天使のように純粋無垢に見えて、自分が群れに居ない間ずっとここで寝ていたのだろうか。とシュナは眩しげに目を細めながら口元に笑みを湛えたまま、先ほど起こしては可哀想だなんて思っていた事をすっかり頭の外へ追いやり、ノアへと手を伸ばしていた。
さらり。と流れるノアのふわふわな金色の髪の毛。
それが愛らしく、指先にくるくると絡めては梳いて髪の毛を撫で遊ぶシュナ。
手に馴染むひんやりとした感触が心地好く、シュナはまるで子どもがお気に入りの玩具を与えられたかのような笑顔を浮かべていた。
それはあの群れのパックアルファの歯を無慈悲に抜いた人間と同一人物だとは思えぬほど、優しく、穏やかな表情で。
だがしかしそんなシュナの戯れに目を覚ましてしまったのか、ノアが眉間に皺を寄せ、んんぅと唸り声をあげた。
「……んぅ、んん……、」
「……」
眠りを妨げられ、鼻をひくひくとさせながら不機嫌そうな顔をしていたノアが、ようやく重たい瞼を抉じ開ける。
それからノアが長い睫毛をパシパシと瞬かせたあと、視界にシュナを捉えた、その瞬間。
「……シュナさん!?」
だなんてぐわっと目を見開き、飛び上がっては驚きに溢れた声でシュナの名前を叫んだノア。
「ただいま」
そのまるで幽霊でも見たかのような反応にシュナが微笑み、ただいま。と囁けば、ノアは数秒固まったあと、それから泣きそうな、それでいてとても幸せそうな顔で、シュナに抱きついた。
「……シュナさん!!」
「ノア」
「会いたかった!」
「俺も」
お互い会いたかったと言い合い、ノアがすりすりとシュナの首筋に顔を押し付け、匂いを吸い込みながらもう一度小さく会いたかったと囁く。
その言葉にシュナもまた小さく返事をし、それからその背を撫であやした。
じんわりと広がるノアの温かな体温と、甘く爽やかな桃の香り。
離れていた間ずっと恋しかったそれらに、ようやく手に入れた。とシュナがほっと息を吐き、それからその抱擁が暫く続いたあと、ノアがようやく顔をあげてシュナを見たその瞳は、僅かに潤んでいるように見えた。
「……お帰りなさい、シュナさん」
「ただいま」
シュナの顔に手を当て、すりすりと頬を擦ったりこめかみを撫でてくるノアのその一回り小さな手に、しかしシュナは何も言わずそれを享受し、口元に笑みを浮かべている。
その顔が可愛らしく、ノアは顔を寄せてシュナの鼻先に自身の鼻先をくっつけては、親愛を示した。
「会いたかった、シュナさん」
「ああ」
すり、と鼻先が擦れ、またしてもお互い安堵の息を吐いては、相手の匂いで肺を満たしたいと、深呼吸を繰り返す。
小屋のなかにはもううっすらと白み始めた空から昇る朝陽が差し込み、キラキラと光の線を走らせている。
その光に照らされた二人はまるで神聖な儀式をしているかのように、美しかった。
「……無事に帰って来てくれて、良かったです」
「ちゃんと帰って来るって約束しただろ」
「ふふ、はい。……あ、勝手にずっと部屋で寝てて、ごめんなさい」
「気にするな。むしろ帰ってきた時にお前がここで寝てるのを見て嬉しかった」
「そう、ですか……」
「ああ」
「あっ、そういえば、あの群れの人達はどうなりましたか? 一緒に帰ってきたんですか?」
「いや、彼らはシェルターを望んだ」
「……そうですか」
「きっと彼らにとってこれが一番良い結果だ、ノア」
「……そう、ですね」
各々の考え方、生き方があって、それは尊重されるべきだ。と言うようなシュナの言葉に、ノアが納得したよう、小さく微笑む。
それからまたしてもシュナの匂いを嗅ぐようすりすりと首筋に顔を押し付け始めたノアに、シュナは擽ったそうに笑いつつも、好きなようにさせてやった。
「どこも怪我してませんか?」
「えっ?」
すんすん。とシュナの匂いを堪能するよう鼻を鳴らしていたノアが、不意に訪ねてきた言葉。
その問い掛けに分かりやすくシュナが動揺し、それにノアはピクッと身を寄せては、シュナを抱擁から解き顔を青くした。
「シュナさん!? 怪我したんですね!? どこを怪我したんですか!? 見せてください!!」
「ノア、大丈夫だ、落ち着いて」
「黙って!!」
ノアがシュナの顔や肩を触り、必死に異常はないかと確認しながら、怒鳴る。
そしてシュナが落ち着かせる間もなく、シュナの手を見た瞬間、ノアがヒュッと息を飲んだ。
「こ、これ……」
「……」
そろり。と恐る恐るシュナの手を取ったノアが、途端に口の端をひしゃげ、泣きそうな顔をする。
それから反対の指でシュナの未だ痛々しい傷跡が残る拳を、触れるか触れないかの繊細なタッチで撫でた。
「……」
「ノア」
「……」
「……ノア、大した怪我じゃない」
「……」
「……泣くなよ……」
「……」
「怪我してごめん……。頼むから泣き止んでくれ、ノア」
シュナの拳を優しく触りながら、静かに、何も言わずさめざめと涙を落とし始めたノア。
それにシュナはやはり泣かせてしまったと困ったように眉を下げ、それから泣き止んでくれと懇願するよう、ノアを腕のなかに閉じ込めた。
「……怪我して悪かった」
「……凄く、凄く痛そうです……」
「痛くない。薬も塗ってるし、数日すれば傷も塞がってかさぶたになる」
「……」
「……ごめん」
何度もごめんと悪かったを繰り返したシュナがそれからそっとノアの顔を覗き込み、涙を拭い、鼻先を擦り合わせては、口を開いた。
「もう二度と怪我しない。誓う。お前を悲しませるような事は、二度としない」
「……」
「ノア……」
「……約束、ですよ」
「ああ、約束する。だからもう泣くな。笑ってくれ」
シュナの真摯な声にようやくズビッと鼻を啜り、それからシュナの鼻先にノアが鼻先をすりすりと擦り寄せる。
そして額をこつんと合わせながら最後の涙を一粒ぽろりと落としたあと、ノアは曖昧に、だがゆっくりと微笑んだ。
──そうしてようやくノアが泣き止み、それから先ほどの愁傷な態度はどこへやら、「怪我して帰ってくるなんて……! ちゃんと帰ってくるっていうのは怪我をしないっていう意味も含まれてるんですからね! もう絶対に怪我して帰ってこないでください!!」などと小言を言いながら、立ち上がる。
それから、シュナの居ぬ間にいつの間にか置いていたのか、勝手知ったる我が家のよう棚から薬箱を取り出そうとしていて、シュナはそのぷりぷりと怒っているノアの後ろ姿に笑みを浮かべながら、そういえば。とポケットに手を忍ばせた。
「小鳥」
「……」
「小鳥」
「……小鳥って呼ばないでください。変なアルファ」
「小鳥」
「ちょっと黙って待っててもら──」
何度も何度も小鳥と呼んでくるシュナに、人をからかわないで黙って待っていろ。と苛立った様子でノアが振り返ったが、しかしそれは最後まで音になる事はなかった。
「……怪我をしたお詫びに、これを拾ってきました。気に入ってくれますか? 小鳥」
からかうようにわざとらしくシュナが敬語を使いながら、それでも少しだけ本当に緊張した様子でノアに向かって差し出しているもの。
それは、綺麗な菱形の翡翠石で。
シュナの大きな掌の上でキラキラと輝く翡翠石にノアは目を見開かせては、シュナを見つめた。
「……川で拾ってきたんだ。お前を最初に助け出した、川で……」
出会った場所で。と念を押すように呟くシュナ。
そのシュナの言葉の意味を理解したノアは、一度ぱちくりと瞬きをしたあと、口元をふるふると震わせた。
「あはは!」
堪らない。といった様子で突然笑ったノアの弾けるような声が、小屋に響く。
それにシュナが、何故笑うんだ。と眉を寄せたその瞬間、しかしひどく上機嫌な様子で小屋のなかを走り、ノアがシュナへと抱き付いた。
「ノア?」
ギシギシッ! とベッドが軋む音が響くなか、飛び込んできたノアを易々と抱き止め、膝の上に座らせながらも、シュナが未だ不思議そうに首を傾げている。
そんなシュナに尚もノアはケラケラと笑い声をあげながら、シュナをぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「俺の為に拾ってきてくれたんですか!? 怪我した事を俺が悲しむと思って!?」
「……まぁ、」
「この素敵な翡翠石を、俺にくれるんですか!?」
「……まぁ、お前が気に入れば」
「あははっ! あなたは可愛いアルファです! シュナさん!!」
「……は?」
「とっても可愛い!! こんな素敵なプレゼントを持って帰ってきた!!ああなんて可愛いんですか、シュナさん!!」
「っ、……うるさい、ガキ」
「あははは!!」
ぎゅうぎゅうと抱き付きながら笑うノアの朗らかな声が耳元で揺れ、シュナは気恥ずかしくなったのかふんと拗ねたよう鼻をくしゃりとさせたが、それでもノアの細い腰に腕を回し、小さく息を吸い込んだ。
「すっごく嬉しいです! 大事にします! ありがとうございます!」
「……ああ」
「あはは! 可愛い!」
「うるさい……」
そうぼやきながらも、燦々と輝く太陽の美しい光で満たされ始めた小屋の中は、シュナが人生で一番好きだと思った甘い匂いと柔らかな声で溢れている。
それはとても素晴らしく、シュナは感嘆の息を吐きながら、目の前で可愛い可愛いと煩く喚くノアのそれでもひどく嬉しそうに笑う姿に目を細め、そっと優しく抱き締め返したのだった。
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