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しおりを挟む「……ノア、触れても良いですか」
小さく鼻を啜る姿を見て暫く黙り込んでいたシュナが、ノアの震える手を見つめたあと、そっと呟く。
そのシュナの穏やかな声にノアはまたしてもぽとりと涙を落とし、それからゆっくりと頷いた。
その頷きにシュナがそっとノアの手に自身の掌を重ねれば、ほぅ。とノアが安堵の息を吐いたのが聞こえ、シュナは固く閉ざされたノアの手を指先ですりすりと優しく撫でた。
じわりと灯る、体温。
それにノアがまたしてもずびずびと鼻を啜り、俯いたまま、声を漏らした。
「……こうやって、触ることに許可を求めるアルファは、居ません。命令じゃなくお願いをする事も、他の人に敬意を示す事もしません。……あいつらは常に自分の好きなように振る舞って、他の人を傷付けて、ベータやオメガの意思を聞こうとすらしない」
「……ノア、泣かないで」
シュナはもう一つの手でノアの髪の毛を撫であやしながら、ノアの群れのアルファ全員に爪を立て喉元を噛み千切りたいという衝動に駆られたが、しかしシュナはとりあえず自身とノアを落ち着かせるためのアルファフェロモンを出し、深呼吸をした。
「ノア、泣かないで」
「……あいつらは俺がきっとオメガになるだろうって言います。だから捕まえたんだって……。たぶん、それは本当です。自分でも自分がベータや、ましてやアルファになるとは思えない。俺は多分オメガになります。なりたくなくても、それはほぼ決まってる未来で、……そして、」
「ノア、もう何も言わなくていい」
ノアが何かを言う前にシュナはノアを抱き締め、肩に顔を押し付けさせ話すことを止めさせながら、歯を食い縛った。
その先は聞かずとも、どんな未来がノアを待っているのかなど、想像に難くはなかった。
オメガは、番いの契りを結べばその一人としか交配する事が出来ない。それなのできっとそれをさせてもらえず、群れの全てのアルファから虐げられ、群れの繁栄の為だけにただひたすら子を孕まされ続けるだろう。
たった十五歳の子どもが、その未来に怯え泣いている。
それはシュナの胃をぐちゃぐちゃにさせ、吐き気すら催すほど到底気分の良いものではなく、シュナはしっかりとノアを抱き締めながらその背をひたすら撫でた。
「ノア、あなたはその群れに戻るべきではない。その群れに、あなたを戻す価値はない。俺はあなたを俺の群れに一緒に連れて帰る事が出来ます。そうするべきだ、ノア。あなたはその群れに戻ってはいけない」
「……いいえ、戻らないといけません」
そんな群れに帰せる訳がないとシュナが必死に言葉を紡いだが、しかし返ってきた言葉は、意外なもので。そのノアが放った言葉に背を撫でていたシュナの手がぴたりと止み、何を言っている? とシュナがノアを肩から引き離し青ざめた表情で見つめれば、ノアは未だポロポロと泣きながら、しかし弱々しく首を振った。
「そこには俺の双子の弟の、テアが居るんです」
「っ、」
「……俺とテアは……、俺とテアは十歳の時に両親が死んで、そこからずっと二人だけで生きてきました。その日暮らしがやっとで、寂しくて苦しかったけど、でも両親は俺達をずっとずっと大切に育ててくれたのを覚えてるし、テアが居たから貧しくても寂しくても、二人で居れば平気だった。毎日二人で励まし合って、笑い合って、俺達は平和に……、でもそんな暮らしを四年くらい続けていたある日、突然あいつらに捕まったんです。それからの一年は地獄でした。あいつらは俺達がオメガになるだろうからって、ずっと俺達を汚くて狭くて臭い小屋に閉じ込めて、……少しでも逆らったら殴られて、脅されて……、……早くオメガになれ、早くオメガになれって、毎日言われ続けて……。怖くて悔しくて、でもあの日、見張りが居眠りしてたんです。だから俺とテアは二人でそこから逃げました。それでも追っ手に捕まえられて、でもテアは俺だけでも逃がそうと、俺を川に突き飛ばしたんです……。そして俺は、シュナさん、あなたに助けられました」
今まで誰にも言えなかった恐怖や憤りを一気に吐き出すよう、声を震わせながら告げるノア。
……たった十五歳の少年二人が、何も持たず命がけで飛び出す事を決意した事が、どれほどの勇気と恐怖だったのか。そしてそれは呆気なく打ち砕かれ、最愛の肉親と離ればなれになっているノアにシュナはどうすれば良いのか分からず、小さな喘ぎを吐き出しながら、ノアの涙が流れる頬を見た。
「テアはきっと、連れ戻された。……シュナさん、俺はあなたに感謝しています。一生、ずっと、感謝します。それでも弟を置いて俺はどこにも行けない。戻らなきゃ。足はもう治りました。俺はテアの側に帰ります」
ノアがそう言いきり悲しげに瞳を伏せ、シュナから距離を取ろうとする。
だがそれをシュナは受け入れられないと強く反発するよう、ノアの背を握ったまま、口を開いた。
「いや、その群れに戻るべきじゃない。ノア。それに足も完全に治ったわけでもないだろ」
真っ直ぐ、射抜くような眼差しでノアを見つめるシュナ。
その瞳は深く、力強く、その鮮烈なアルファの眼差しを向けられたノアが萎縮するよう、ヒュッと息を飲む。
チリチリと肌を焦がすようなその熱意に、しかしノアがはくはくと口を開け何かを言おうとしたが、それを制するようシュナが先に口を開いた。
「俺が、ノアの弟を群れから連れ出してくる」
唸るよう、獰猛さを潜ませた声で荒々しく言い放ったシュナの声はノアの肌に鳥肌を立たせ、その怯えを感じたのかシュナはハッとしたあと深呼吸をもう一度し、それから優しくそっとノアの涙が残る頬に指を這わせた。
「アルファは群れを守るために居る。いかなる脅威からも、仲間を守るために。その脅威をアルファが群れに与えている事が俺は同じアルファとして許せない」
そう言いながら頬を擦るシュナに、ノアは信じられないものを見るような眼差しで目を見開き、それから息を詰まらせ、瞳を潤ませ、とうとう喘ぐよう、……うぅ、と呻き声をあげた。
「なん、で……そんな、に、やさしくしてくれるんですか……」
ずびずびと鼻を啜り、喉をひきつらせながら泣くノアはやはり痛々しく儚くて、シュナは困ったようにその背を撫であやしながら、
「……善良なアルファなので?」
なんて空気を変えようと、冗談を言いながら肩を竦めた。
そんなシュナにノアがぱちくりと瞬きをし、それからふっと笑い声をあげたが、しかし更に泣き出してしまった。
その幼子のように火のごとく泣き出したノアにシュナは何も言えず、だがその背中をただただ宥めるよう擦りながら、夜を見た。
季節はもうすぐ、春を連れてくるだろう。
その予兆として花の匂いがそこらじゅうからするが、それら全ての匂いよりも泣きじゃくり神経質になっているせいで少しだけ尖っているノアのそれでも柔らかな桃のような匂いが、シュナは一番好きだなんてぼんやりと思った。
「あなたは変なアルファです。シュナさん」
ぽつりとノアが呟いた言葉が、夜に溶けていく。
いつの間にか泣き止み、そしてシュナの首筋に鼻を埋め香りを嗅いでいるノアは、長い睫毛の先をシュナの首筋にチクチクと刺しながらもどうやら微笑んでいるようで。
その擽ったさを我慢しながら、シュナはノアを抱き締めたまま、肩を竦めた。
「あなたは凄く強いアルファの匂いがする。でも優しくて、穏やかで、温かい匂いに感じる。……変なの……」
「変? なら嗅ぐのをやめてくれますか。少年」
「……もう少年って呼ばないと前に言ったのは嘘だったんですか」
「なら小鳥、嗅ぐのをやめなさい」
「なんで俺をすぐ小鳥って呼ぶんですか? 変なアルファ」
「……うるさい。ガキ」
初めてシュナがノアに対して乱暴な言葉遣いをし、ガキだと鼻をくしゃりとさせれば、ノアはシュナの首筋から顔を離してまじまじとシュナを見つめたあと、弾けるような笑い声をあげた。
「あはっ! シュナさん、あなたは今俺に汚い言葉を使った!」
「使ったな」
「敬語もない!」
「……まぁ、もう見知らぬ人でも、怖がってもいないと思ったので。違ったならすみません」
「あはは! いえ、はい。もう怖くありません。あなたは変で、でも優しいアルファだって分かってます」
「……だからその一言がガキだって言ってる」
くすくすと笑うノアの言葉にシュナはうんざりしたような表情をしながらも、ノアの腰に腕を巻き付けたままにしており、そしてノアもまた両手で口元を隠し笑ったあと、無意識なのかシュナの肩にこてんと頭を乗せた。
「……テアに会いたい。テアが酷い目にあってないか、そう考えると怖くて堪らなくて……」
「もっと早く言ってくれれば、すぐに助けに行ったのに」
「……俺達は二人だけでずっと生きてきたから、誰かに頼ったり助けを求めたりした事なんてなくて、どうすれば良いか分からなかったんです」
「……俺を信頼して話してくれて、ありがとう」
「……でも、だからってシュナさんに怪我をして欲しくない」
「大丈夫。何も気に病む事はない。俺は強いから。テアとやらと二人で無傷のまま戻ってくる」
「……約束、してくれますか」
「約束する」
シュナが力強く宣言すれば、ノアは一度眩しそうに目を細めたあと、ようやく安心したのか深い息を吐き、しかしもう何も喋らなかった。
そんなノアにシュナもまた何を言うでもなくただ夜を眺め、まるで長年連れ添った仲間のようにぴったりと身を寄せ合った二人は、星が煌めく夜空の下、驚くほど穏やかで柔らかな時間を共有したのだった。
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