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第1章
8. 再燃と通話
しおりを挟む「ただいま」
帰宅するなり二階の自室へと向かう。
階段を上っているとリビングのドアが開いた。
「おかえり、遥。あれ、学校でなんかあった」
見下ろすと、母がドアから顔だけを覗かせてこちらを見上げていた。
「お母さんただいま。ちょっと疲れただけだから大丈夫だよ」
「慣れない高校生活で疲れちゃったか」
「うん。そうみたい」
「そう。じゃあ夕飯までゆっくり休んでなよ」
「そうする。ありがとうお母さん」
部屋に入って鞄を下ろし、ベッドに腰掛けた。クッションを抱き込んで、ばたんと脱力するようにマットレスに身体をあずけた。
遥は先ほどの出来事を思い返す。
つかさとの1on1、対戦前は勝つ自信があった。
体がだるくなるからという理由で、バスケを辞めてからも適度な運動とストレッチは続けていた。バスケのために続けていたわけではないので、バスケをする上で必要な筋肉と感覚は確実に落ちているはずだった。それでもある程度動けるはずだったし、ある程度の選手になら勝てるはずだった。
だけど現実は違った。
ある程度動けるレベルでは手も足も出なかった。ある程度の選手どころか完全に図抜けた選手だった。
自分勝手に帰ってしまって悪かったと思う。勝負を受けておいて失礼なことだという自覚もあった。
でも、あんなのをを見せられたら帰るしかなかった。
抜き去られた瞬間、自分の中で何かが弾けた。惚れ惚れするほどのキレとなめらかな動作。彼女のプレーがもっと見たい。このチームはどんなチームになるのだろう。もし自分が入部すれば彼女とどんな連携が……。
まるで魔法でもかけられたみたいにそんな欲求や期待が沸々と湧き上がってきた。
一度は傾倒したスポーツ。きっかけ一つで心は突き動かされる。
だが、あんな降って湧いたような感情に流されるわけにはいかなかった。
高校でも一緒にバスケしよう。
かつて千里と交わした約束を反故にしたのだ。やっぱりやる気になったからバスケ部に入るなんて千里が聞いたらどう思うだろう。それも高校入学早々に。
今更復帰しようだなんて考えてはいけない。そう思った。
だから帰った。帰るしかなかった。あの場を離れることでしか再燃するバスケへの興味を押さえ込めそうになかったから。
そうして帰ってきたものの、やはり一度火がついてしまったものはそう簡単には消えてはくれなかった。また、先よりはいくらか冷静に物事を考えられるようになったからか、体育館では感じなかった新たな感情が芽生えていた。
んーっ、と遥は枕を顔に押し付け足をジタバタさせながら呻いた。
「悔しい」
つかさに手も足も出なかったのがたまらなく悔しくなった。たとえそれが自分とは次元が違うほどの実力や才能の持ち主だとしても。
懐かしい感情だった。絶対に追いつく。早く練習したい。もっと練習したい。あっという間に時間が過ぎる日々が昔はあった。
「よし」
思い立ったようにベッドから起き上がる。
クローゼットから着替えを取り出し、制服からそれに着替えた。足早に階段を下りて玄関へ向かう。母親がリビングから廊下に出てきた。
靴紐を結び、立ち上がる。
「ちょっと走ってくるね」
いつもとは異なる遥の様子を感じ取ったのか、母の頬が緩む。
「行ってらっしゃい」
玄関を出る。今日の夜、千里に電話しよう。そう心に決めて。
翌朝は視界がパッと晴れた気分で登校した。すると昇降口の前、昨日つかさとの1on1を観戦していたバスケ部員三人が待ち構えていた。
「あ、結城さん。おはようございます」
「遥ちゃんおはよう。昨日の今日でごめんね」
勧誘だろうか。理解のある人たちだったから勧誘されることはもうないと思っていたが、そうであるなら都合がいい。
杏が一歩前に出た。
「昨日はバスケ部に入る気はないって言ってたけど」
「そのことなんですけど」
「今はちょっとくらい入ってもいいかなって思ってたりするんじゃない」
「はい」
「はい?」
「昨日は断っておいて勝手ですみません」
遥は鞄から入部届を取り出す。用紙の文字を自分から見て逆にし、両手で杏に差し出した。
「入部させてください。お願いします」
「マジで?」
もなかと環奈が手を取り合って飛び跳ねる。
「やったやったー。これで五人だ。やったね環奈ちゃん」
「はいっ。嬉しいです」
「あ、もしもし千里ちゃん?」
昨夜遥は、千里が寮に戻っている時間を見計らって電話をかけた。バスケのことを千里に話す、心に決めたことであっても緊張しないかは別の話だった。
「久しぶり」
明るい口調で千里は応えた。
「どうしたの」
「えっと、最近どう? その、バスケとか」
「特に変わりないよ。楽しくやってる」
「そっか。よかった」
「遥は? 高校は楽しい?」
「うん。まだ慣れないけど楽しいよ。クラスの人たちもいい人が多いし」
「そっか。ならよかった」
電話をかける直前までは本題への入り方をイメージできていたはずが、ことのき完全に見失っていた。
しばしの沈黙が流れた。
「千里ちゃ」「何か」
二人の声が重なった。
「えと……お先にどうぞ」遥が譲る。
「あ、うん。何かあった?」
「……あった」
本題に入れる。しかし、やはり言いづらい。
正直なところ、高校でバスケをやらないと告げたとき、千里がどのような感情を抱いたのかわかっていなかった。悲しんでいたのか怒っていたのかさえも。
そして今、このタイミングで気が変わったことを話したらどう思われてどんな反応が返ってくるのかもわからない。怖かった。
「言いにくいこと?」
言い淀んでいると千里が聞いた。
その言葉を聞いて吹っ切れる。
言わなきゃいけないことだ。
「実は、今日電話したのはそのことを話そうと思ってなんだ。私からかけたのにぐずぐずしてごめんね。練習後の貴重な時間なのに」
「そんなの気にしなくていいから。それより話の続き、聞かせてよ」
遥はその日学校であったことを話した。
つかさと1on1をしたこと。つかさがどんな少女であったのか。対戦してみてどのように気持ちが変化したのか。それから最後に。
「千里ちゃん。私、またバスケ始めようと思う。御崎高校のバスケ部に入ろうと思う」
もはや迷いはなかった。
受話口から晴れやかな笑い声が届く。
「そっか。またバスケやる気になったんだ」
千里は「嬉しい」と噛みしめるように言った。
「怒らないの?」
「怒る? 私が? 高校ではやらないって言ったのに……。こんな感じ?」
千里はくつくつと笑う。
「うん。だって高校でも一緒にって約束破ったのに。それが今頃になって、しかも違う学校でやっぱりやるって言い出したんだよ」
「そんなことで怒るわけないじゃん。私は嬉しいよ。てことはあれなの。もし立場が逆だったとしたら遥は怒るってこと?」
「怒るわけないよ。またやる気になってくれただけで嬉しいよ」
「でしょ。遥のその気持ちと同じだよ。たとえチームは違ってもさ」
「ありがとう。私、がんばるね。千里ちゃんにも負けないくらい」
「うん。私も今まで以上にがんばれる」
その後千里は、それにチームが違うってのも悪いことばかりじゃないよ。まあ正直に言えば同じチームでやりたかったけどさー。などと話した。
「ようこそバスケ部へ」
ものすごく歓迎されていた。バスケ部員、しかも三人から同時に必要とされていることに遥は不思議な感覚を覚えた。
「練習は今日から参加する?」
「はい。そのつもりです」
「こんな所で何やってんだ」
昇降口前で集まっていた四人に声をかけてきたのは男性教諭だった。
「あ、がんちゃん。おはよ」
もなかが春の陽射しのような柔らかい笑顔を向ける。
「おはようございます」
続いて遥と環奈がぺこっと頭を下げた。
「おう。おはよう」
「なんだ、がんべーか。どうしたのこんなところで」
「それはこっちが聞いてるんだけど」
「決まってんじゃん。部員勧誘だよ」
「そうだった。聞いてよがんちゃん!」
興奮気味のもなかが遥と環奈の後ろに回って二人の肩に手を置いた。
「この子たち、新入部員。遥ちゃんと環奈ちゃん」
「よ、よろしくお願いします。一年の結城遥です」
続けて環奈が自己紹介をした。
「環奈ちゃんはマネージャー希望なんだよね」
「はい。よろしくお願いします」
「お、よろしく。バスケ部顧問の岩平寛です」
「ちなみにねえ、実はもう一人新入部員がいるよ」
「ああ、知ってるよ。ついさっき入部届受け取ったし」
もなかと杏が首を傾げる。
「それってつかさちゃん? 西宮のつかさちゃん」
「いや違う。久我さんっていう一年生」
「嘘っ、てことはその子、私たちがまだ知らない四人目ってことじゃん!」
「四人も……どうなってるんだ今年は」と杏。
もなかが遥と環奈に向き直る。
「もしかして知りあいだったりする?」
「いえ、聞いたことない名前です。結城さんは知ってますか?」
「私も知らない。どんな人か楽しみだね」
遥は微笑んだ。
「経験者なんでしょうか」
「どうだろうね。私はどっちでもいいから一緒に頑張っていける人がいいな」
「そうですね。私もそう思います」
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