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第1章
1. 引退試合
しおりを挟む汗が髪をつたう。
毛先で粒状となりぽつんと肩に落ちた。
大丈夫、勝てる。
コートにボールを弾ませる。敵陣へと向かいながらデジタルタイマーを一瞥した結城遥は胸の内でそうつぶやいた。
七月下旬の午後。矢代市民体育館Aコートにて、千葉県中学校総合体育大会バスケットボール競技の部、女子準決勝、東vs九谷の試合が行われていた。
試合は最終クォーター、東一点ビハインド。
残り時間は十秒を切っていた。
最後は千里ちゃんに。千里ちゃんなら決めてくれる。
たとえ外れても彼女に託して負けるのなら納得できる。後悔も残らない。
「絶対五番に持たせるな!」
相手ベンチから監督の声が飛ぶ。
千里へのマークが一層厳しくなった。今日一番の激しいプレッシャー。しかも二人がかりで。パスコースを完全に潰しに来ている。
ディフェンスを引き剥がそうと千里は動く。しかし籠の中に閉じ込められているかのようにパスコースは生まれない。
ならば、と手渡しにいこうとするが、ディフェンスに体で止められた。そちらにだけは絶対に行かせないという守り方。
千里に二人割いているということは、必然的に味方の一人がノーマークになっている。
遥は3ポイントラインの外でフリーにされている味方にスクリーン(壁となりディフェンスの進路を塞ぐ動き)に行くよう指示をしようと考える。
だが、もしも一回でボールが渡らなかったら……。残り時間的に極めて厳しい状況に陥ってしまう。
その味方にパスしようにも、彼女は遠い距離のシュートが苦手だった。中にアタックしてもらおうにも、ゴール下にはディフェンスがいるため簡単には打たせてもらえない。勝敗に直結するこの場面で彼女に任せる度胸は遥にはなかった。
となれば、自分で切り込んで攻撃の起点を作る、あるいはそのまま自らシュートまで持っていくのが最善か。
するすると残り時間が減っていく。
残り五秒。もはや迷っている暇はない。
視線を彷徨わせていたところから、瞬間的にギアを上げ目の前の相手を抜きにかかる。
「しまっ……!」
虚をつかれたディフェンスは反応が遅れた。
遥は抜き去った敵を背中に感じながら、ディフェンスひしめくエリアに侵入する。
シュート体勢に入ろうとステップを踏んだそのとき、ヘルプディフェンスがコースを塞ごうと飛び出してきた。
間合い的にこのままシュートに持ち込むのは難しい。しかし、そのおかげでゴール下で味方がフリーになっていた。
突如生まれた決定的チャンスを遥は見逃さない。
ぽっかり空いたスペースを視界の端に捉え、反射的にパスに切り替える。立ちはだかった敵の体と重なって消えたかのように見えたボールはノーバウンドで味方の手に収まる。
会場の雰囲気が一変する。相手ベンチからは悲鳴のような声が上がった。
ゴール下でフリーのシュート。外す可能性は最も低い。
敵が二人、ブロックに飛ぼうと大慌てで駈ける。だが間に合わないだろう。
味方の放ったボールは、やや勢いよくボードに当たってからリング上部にぶつかり、そしてリングの外側へ撥ねる。
手の届かない高さ。遥はボールの軌道を見上げることしかできない。
ブザーが鳴り響いた。
試合終了を告げる審判の長い笛が鳴った。
この瞬間、九谷中学校は決勝進出に加え関東大会出場が決定。対して東中の三年にとっては、中学での部活生活が幕を閉じた瞬間であった。
試合後の挨拶をする前から抑えきれない喜びを全面に押し出して抱き合い、飛び跳ね、中には涙を流す九谷の選手たち。
「ごめん……」
責めようとは思わない。遥は首を横に振り、シュートを外した味方の背中にそっと手をやった。
コート中央に整列し対戦相手と向かい合う。
「62対61。九谷の勝ち」
「ありがとうございました」
九谷の面々は再び喜びを爆発させる。
遥たちは荷物をまとめて静かにベンチから引き上げる。
ユニフォームのまま体育館の外に集合し、顧問から労いの言葉が贈られた。
解散後、更衣室へと向かおうとした遥に千里が声をかけた。
「お疲れ。キャプテンとかいろいろ」
「ありがとう。千里ちゃんもお疲れ」
二人は並んで段差に腰を下ろす。
体育館から伸びる濃い影をぼんやり見ながら遥はつぶやくようにこぼした。
「終わったんだね」
「うん。でも次がある。高校でなら集中できる環境でちゃんとバスケできるよ」
「そうなのかな」
そう信じていたこともあった。今はどうしても疑念がつきまとう。
「志望校は決まった?」
「まだ、迷ってる」
「高校でも一緒にバスケしようよ」
遥の返事は曖昧なものになった。まだ考えがまとまっていなかった。
着替えに行こう、と遥は立ち上がった。
千里とともに更衣室の前まで来て、ドアノブにかけた手が止まる。ドアの向こうが妙に賑やかだった。
「いやー、やっと終わったねー。ようやくあたしらも引退だよ」
「でも危なかったね。これ勝ってたら中学最後の夏休みが練習で潰れるところだった」
「最後どうなるんだろうってドキドキした」
「わかる」
「ていうか、最後のシュート外したのもしかしてもしかするとだけど、わざと?」
「実は……」
歓声のような声が上がる。
「うわーやっぱそうなんだ。ナイス」
続けて笑い声が上がった。
遥は以前から揺れていた気持ちに、はっきりと答えが出た。
「てことはパスを選んだ時点で負け確定だったわけだ」
「さすがにちょっとかわいそうかも」
「いや、でも迷ったんだよ。完全に外すつもりで打ったわけでもないっていうか」
「千里ちゃん」
ドアノブに視線を固定したまま、ぽつりと遥は切り出した。
「私、バスケは今日で辞める」
「え……」
振り返り、まっすぐ意思を伝える。
「高校でもバスケはしない」
「そっか」
「ごめん」
「気にすることないよ。部活がすべてじゃないんだし。それに付き合いで続けられるほうが辛いから」
中学三年間の集大成の日、遥には達成感、解放感、ましてや悔しさもなく、虚ろな感情だけが残った。
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