ホウセンカ

えむら若奈

文字の大きさ
上 下
393 / 407
愛しのホウセンカ

17

しおりを挟む
「……私ね。生んで育てるつもりだったの」

 オレの絵に視線を落としながら、スミレが言った。

「もちろん最初は動揺したし、父親は案の定、音信不通になったけど。たとえひとりでも、ちゃんと母親になろうって思った。自分の元へ来てくれた命を……私の都合だけで、なかったことにしたくないから」

 小学校低学年ぐらいだろうか。子供達の楽しそうな声が、外から聞こえてきた。薄暗くなってきたので家へ帰るところなのだろう。「また明日ね」と大きな声で言い合っている。それを聞いて、スミレが目を細めた。
 
「でも結局、流れちゃったの。育ててあげられなかった」

 驚きはない。何となく、そんな気がしていたからだ。オレは少しだけ、唇を噛みしめた。

「とても悲しいのに、どこかホッとしている自分もいて……どうすればいいのか分からなかった。貴方に会いに行ったのは、その後。どうしても桔平の顔が見たくなったの。自分勝手よね。こんなんだから、この母親じゃダメだって子供に思われたのかも」
「そんなわけねぇよ。大事にしようとしてたんだろ?」

 もしかすると自分の子供かもしれない。それはずっと考えてきた事だ。それなのに、すべてひとりで背負わせてしまった。オレがしっかりしていれば。そんな思いが、またこみ上げてくる。
 
「私、貴方のそういうところが好きなのよ。とても繊細で、とても優しいところ。今でも……ずっと大好き」

 真っ直ぐ見つめられた。
 胸が痛むのは、罪悪感からなのか。戻れない過去を悔いても仕方ない。そんなことは分かっている。

 ただ、悔いのないように生きるなんて綺麗事だ。人間は生きている限り、数え切れないほどの後悔を抱えていく。問題は、縛られて動けなくなるか、それでも前へ進もうとするか。スミレが後者なのは、見ただけで分かった。

「でも……いくら好きだとしても、私じゃ桔平の良さを引き出せなかった。ただ苦しめてしまうだけ。だから貴方の前から消えようと思ったのよ」
「……あれから、何してたんだ?」
「就職せずに、1年間ヨーロッパにいたの。そこでまたアートを学び直して、帰国してから今の会社に入って……浅尾桔平の絵を世に出すことを、ずっと目標にしてた。今回ようやく、それを実現できるわ」

 オレは忘れたいと思っていたのに、スミレはオレのことをずっと考えてくれていたのか。まったく、自分の弱さに反吐が出るな。

「分かってると思うけど、ここからがスタートよ。浅尾桔平は、これから一気に注目を浴びることになる。だから愛茉さんにも、覚悟するように伝えておいて。その紅茶は陣中見舞いみたいなものよ。たまたま買いすぎたから」
「ふーん。素直じゃねぇよなぁ」
「うるさいわね。もう帰るから」
「ちゃんと愛茉に渡しておくよ。イギリス土産だって」

 スミレが少し口を尖らせる。笑うと怒られそうなので、オレは口元を手で隠した。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

あなたの婚約者は、わたしではなかったのですか?

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:291pt お気に入り:3,980

この世界じゃ本気出してないだけー異世界冒険録ー

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:4

June bride.

BL / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

泣き虫殿下はクールを装いすぎている

恋愛 / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:39

【奨励賞】呑めない酒呑童子は京都男子の‪✕‬‪✕‬がお好き

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:45

結婚六カ年計画

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:271pt お気に入り:6

知らない異世界を生き抜く方法

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:498pt お気に入り:51

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

恋愛 / 完結 24h.ポイント:99pt お気に入り:193

処理中です...