ホウセンカ

えむら若奈

文字の大きさ
上 下
379 / 407
愛しのホウセンカ

3

しおりを挟む
 父が姉たちのことも可愛がっていたのは知っている。ただ男はオレひとりだったし、所謂“男同士の秘密”を共有することは、父自身の楽しみでもあったようだ。

 とにかく、父のようになりたかった。だから絵を描く姿もよく観察していたし、身振り手振りや喋り方まで少しずつ真似をしはじめる。オレが浅尾瑛士にそっくりだと言われるのは、無意識に真似る癖がついていたからだ。

「桔平。お前がこの先、どんな道を選ぶかは分かんねぇけどな。これだけは覚えておけ」

 ある日、父がオレを膝の上に抱いて、真剣な表情で言った。

「完全なものだけを美と呼ぶ大人にはなるな。不完全に宿る美しさってのがあるんだ。そして人間は、不完全な生き物。だからこそ愛しい気持ちが湧いてくるんだよ。完璧な満月より、繊月せんげつ。真新しい漆椀より、使い込んで塗りが剥がれた椀の方が粋だろ?」
「せんげつ?」
「細い月だ。明後日あたり見られるだろうよ。父ちゃんと一緒に、月見しような」
「うん」
「もうすぐこのホウセンカも枯れるが、また来年に新しい花を咲かせる。楽しみだな」
「そしたら、また絵描くよ」
「ああ、一緒に描こうな」

 それが、父と過ごした最後の夏。その年の瀬に癌が見つかり、満開の桜が見守る季節に、父は自宅で眠るように旅立っていった。

 大好きな父がいなくなってしまった衝撃は、幼心に耐えうるものではない。だからオレは、父が死ぬ前後の記憶を出来るだけ封じ込めようとしていたらしい。ところどころ、記憶に曖昧な部分がある。悲しみに押し潰されないための精一杯の抵抗だったのだろう。

 それからオレは、父の部屋に籠ってひたすら絵を描いていた。そして描き上げたものを父の写真の前へ置く。また褒めてくれるかもしれない。そう思って描き続けた。

 しかし、そのうちに気がつく。父はもう、自分に笑いかけてくれない。あの大きくて温かい手で、頭を撫で回してくれることはないということを。

 その年も、庭のホウセンカが紅い花を咲かせた。ただ、もう父と一緒に眺めることはできない。絵を描くことはできない。オレは、父の部屋で泣き叫んだ。母や姉たちに宥められても止まらず、何時間も泣き続けた。

 旅先の美しい景色に心打たれてひとりで涙を流したことはあるが、人前で泣いたのはこれが最後。泣かないのではなく、泣けない。きっと父の部屋で、一生分の涙を流してしまったからだ。

 そう思っていたのに。そのはずなのに。あの花が当時と変わらぬ姿でそこに在るのを見た瞬間、堰を切ったように止まらなくなった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

あなたの婚約者は、わたしではなかったのですか?

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:291pt お気に入り:3,980

この世界じゃ本気出してないだけー異世界冒険録ー

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:4

June bride.

BL / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

泣き虫殿下はクールを装いすぎている

恋愛 / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:39

【奨励賞】呑めない酒呑童子は京都男子の‪✕‬‪✕‬がお好き

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:45

結婚六カ年計画

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:271pt お気に入り:6

知らない異世界を生き抜く方法

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:498pt お気に入り:51

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

恋愛 / 完結 24h.ポイント:99pt お気に入り:193

処理中です...