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氷の炎

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「そうだったのですか」

 新九郎は驚いたと同時、納得が行った。
 初めて千吉に会った時の足音も立てない現れ方、提灯も使わずに迷うことなく歩ける能力、常にまとっている不思議な佇まい……最高の忍びの術を持つと言われる旧笹川組の頭領であったから故だ。

 だが、その千吉は肩をすぼめて宇佐美に詫びた。

「その場で何とか三中散を取り返そうとしたのですが、元太の配下どもが何重にも警戒をしており、我ら笹川組でもとても無理でございました。申し訳ござりませぬ」
「仕方あるまい、笹川組の方が少ないからな……気にするな」

 宇佐美は言ったが、声の響きは重い。

「だが、三中散が奴らの手に渡ってしまった今、次だけは失敗するわけにはいかぬ」
「次?」
「以前より、流斎さまは、殿が国に戻ったので共に鷹狩りをしようとしきりに言って来ていてな」

 その言葉で、新九郎は思い出した。以前、流斎の屋敷から脱出した帰り、ちょうど流斎の屋敷に向かう途中であった宇佐美三之丞に会った。
 あの時、宇佐美は鷹狩りの相談をしに行ったのだ。

「その鷹狩りが三日後と決まった。だから、一時などとのんびりしてられん」
「あ、もしやその鷹狩りで……」
「そうだ。流斎さまは、恐らくその鷹狩りの場で、手に入れた三中散を殿に盛るつもりなのであろう」
「…………」

 新九郎は絶句した。
 南条宗之進も、口を半開きにしたまま固まっている。

「大鳥さまとその一派と言う、最大にして唯一の邪魔を排除し、城戸家は流斎さまが操る小田内膳派の一強となった。だが、調べによると流斎さまは何かの病にかかっており、急いている様子。なので、この機に、流斎さまは一気に最後の仕上げにかかるつもりなのだ。それだけは何としても阻止しなければならん」
「…………」

「だが、ただ鷹狩りの場に乱入して流斎さまの行動を阻止しても、すぐに場を乱した者として処罰されるだけで、三中散が盛られるのを先延ばしにするだけにしかならん。その場で何か決定的な、奴ら二人の咎を暴き立てた上で、奴らを誅殺せねばならぬ」

 宇佐美三之丞が言うと、南条が大きく息を吐いて頭をかいた。

「ああ、面倒くせえ。宇佐美さま、ここまで来たからには、もう咎だ証拠だと面倒なことは言わずに、流斎さまと内膳を斬ってしまいましょう。小田派の連中も皆、実のところあの二人が手を組んで不正をしていることは薄々知っている。証拠はなくとも理由を唱えて斬ってしまえば、文句を言う者はおりますまい。その前に宇佐美さまが殿から上意討ちの許しをもらえれば尚良し、です」
「確かにそれが最も簡単だ。だが、強引で知られた大鳥さまでさえ、それはしなかった。何故だか考えてみよ」

 宇佐美は、南条と新九郎の顔を交互に見た。

「江戸で旗本米山家を継がれている流斎さまのご嫡男だ。流斎さまは、来るべき時に問題なく自分が藩主となれるよう、長年に渡り不正で得ていた莫大な金銭を、そのご嫡男を通じて幕閣にばらまいていた。そのおかげで、ご嫡男も幕閣の覚えがめでたいと聞く。もし流斎さまと内膳を斬ったら、そのご嫡男は必ず幕閣にそれを訴えるであろう。そうなれば、幕府はそのご嫡男を城戸家に戻して備後守さまに変わって藩主にさせるかも知れん。最悪なのは、家中不行届ふゆきとどけで城戸家が改易されてしまう恐れすらある、と言うことだ」
「なるほど……」

「だが、流斎さまと内膳の不正の証拠を押さえておけば、幕府も何も言わないであろう。米山のご嫡男も自身に罰が下されるかも知れないので訴え出ることすらできんはずだ。だから大鳥さまも、まずは不正の証拠を押さえてから、と考えていたのだ」
「……ですが、抜け荷もあの連判状ももう使えない今、奴らを咎められる手段は無い。どうすれば……」

 南条宗之進が握り拳で膝を叩くと、

「あと一つだけある」

 宇佐美が切れ長の目を薄闇に光らせた。

「内膳が先の殿を毒殺した件だ」
「ああっ」

 新九郎と南条が同時に声を上げた。

「そうか……!」
「主君の毒殺、これは抜け荷どころではない重罪。この証拠を掴んで突きつければ、流斎さまも内膳も何も言えまい」
「しかし、その毒殺の証拠はどうすれば? 毒を盛った侍医の井畑良謙の家はすでに領内にはなく、良謙自身も口封じに殺されております」

 南条は江戸に逃げていた時、偶然良謙も江戸に来ていることを知って、先代毒殺の件を確かめるべく良謙を探してその家まで行ったが、その時には良謙は何者かに殺されていた。

「そう、良謙自身やその家も無い今、良謙から毒殺の証拠を得ることはできん。だが、良謙には弟子が一人いた」
「弟子……」
「良謙が弟子を連れて何かと手伝いをさせているのを何度も見ている。その弟子が毒殺にも関わっていたかどうかはわからん。だが、その弟子が何かしら知っている可能性はあるだろう。それを吐かせるのだ」
「なるほど、これは望みが出て来た」

 南条が手をついて腰を浮かせた。

「宇佐美さま、その弟子の名前は? 今どこにいるかは知っているのですか?」

 新九郎も膝を進めて訊いたが、

「何もわからん」

 宇佐美は困った顔となった。

「おっと」

 南条が浮かした腰を落とした。

「名前ぐらいは訊いておけば良かった、と今は後悔しておる。だが今更どうにもならん。良謙が侍医を辞めた後、一緒に江戸に行ったのか、領内に残ってどこかで医者をしているのか、何もわからん」
「もしかしたら何か知っていて、良謙どのと同じようにすでに殺されている可能性も……」
「ある。だが、すでに死んでいることがわかっている良謙とは違う。どこかで生きている可能性がある以上、何としてもその弟子を見つけて少しでも知っていることを吐かせるのだ。鷹狩りが行われる三日後までに」

 宇佐美は、強く言って扇子を床板についた。かつて、大鳥順三郎がよく見せていた仕草にそっくりであった。

「千吉はもちろん、旧笹川組の者たち皆にも探させる。お主らの他に生き残った大鳥派の人間、たった三人とすくないが、彼らにはすでに探しに走らせている。お主らにも頼んだぞ」

 宇佐美は、新九郎と南条の顔をしっかりと見た。

「三日後までに名前も居場所もわからん男を見つけるのか……厳しいが、やるしかないな」

 南条宗之進は両手を胸の前でぱんっ、と叩いた。

「わかりました、何としても見つけます」

 新九郎は大きく頷いた。

「頼むぞ……何としても……城戸流斎、小田内膳……絶対に赦さん。先の殿を毒殺し、大鳥さまたちを殺し、今の殿までも殺めようとしている……その非道の報い、必ず受けさせてやる」

 宇佐美が持っていた扇子が音を立てて折れた。
 新九郎、南条、共にぎょっとして宇佐美の顔を見た。
 これまで見たことの無い、憤怒に燃えた顔をしていた。
 新九郎は、宇佐美のことを頭が切れるが冷たいところのある氷のような男だと思っていた。だが違った。
 宇佐美三之丞は、炎であった。



「とは言ったものの、これ以上どうすればいいんだか。全くわからないままもう明日には鷹狩りだ」

 南条は、寺に戻って来て本堂に上がると、行儀悪く大の字に寝転がった。

「名前も居場所もわからない。そもそも生きているのかどうかすらわからない。雲を掴むような話とはこのことですね」

 新九郎も、疲れ切った顔で床の上に腰を下ろすと、入り口から外を見た。
 すでに陽は赤さを失いながら落ちかけ、夜闇が空に広がろうとしていた。

 二日前の明け方、二人は行商人に化けて城下に入ると片っ端から医者を訪ねたり各所で聞き込みをし、修行僧や乞食に化けては領内のあちこちの村落で医者をしている者を探した。
 こうして、良謙の弟子を探して丸二日間が経ったが、二人は何ら有力な情報も得られずに空しく寺に帰って来たのだった。

「駄目だったか」

 渋い顔をしながら、宇佐美三之丞が本堂に入って来た。
 南条は慌てて起き上がると両手をついた。

「申し訳ございませぬ、二日もかけながらこの体たらく」
「仕方あるまい、元々何の手掛かりすらなかったのだ」

 宇佐美はため息をつくと、二人の前に腰を下ろした。

「千吉と笹川組の者たちも駄目であったわ。だが、弟子の名前だけはわかった」
「誠でございますか」
「うむ、良謙が侍医をやめて江戸に行った後も、時々手紙のやり取りをしていた言う良謙の遠縁の親戚が見つかってな。その者が、弟子の名前は清兵衛せいべえ、と教えてくれた」
「清兵衛か。その親戚は、清兵衛の居場所は知らないのですか?」
「そこまではわからんらしいが、良謙の江戸行きにはついて行っていないようだ」
「では生きていれば領内のどこかに……」
「なので引き続き笹川組には探せているが、鷹狩りはもう明日の午前。難しいかも知れんな」
「その時には仕方ない。鷹狩りの場で奴らが殿に毒を使おうとしたら、思い切って斬ってしまいましょう」

 南条が剣を振る仕草をした。

「…………」

 宇佐美は難しい顔で腕を組んだが、ふと新九郎と南条を見て、

「そうだ、腹が減っているであろう。夕餉を用意させるか」
「ありがとうございます。もう腹と背がくっつきそうです」

 新九郎が笑いながら腹をさすった。

「ふ……そんなところ悪いが、裏からふきを採って来てくれるか? おかずの足しにさせよう」
「はっ」

 新九郎は早速立ち上がって本堂を出ると、履物を履いた。

 その背を見て、宇佐美三之丞は意味深に微笑んだ。

 山の中にあるこの道全寺の裏は雑木林だが、寺ではそこを少し切り開いて畑にし、様々な野菜を栽培していた。
 四月も終わりになる今は、ちょうどふきが旬である。
 わずかに残る赤い残照の中で、新九郎は虫のついていない蕗を選り分け、引き抜いて行った。

 その様を、少し離れた樹の陰から覗いていた二つの目があった。濃紺装束を来た影虎組の人間である。
 その者の二つの瞳は、蕗を取る新九郎をじっと見つめているうちに、段々と潤んで行った。
 やがて、静かに覆面を外して、その者は指で目をぬぐった。
 あらわになったその顔は、りよであった。
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