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影の正体
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血走った目を丸くしている新九郎を夜空に見上げて、南条は落ち着いた声で話しかけた。
「新九郎、話は後だ。とりあえずおとなしくしてくれるか?」
だが、大鳥順三郎、兼木、韮沢、三木辰之助らの死の悲しみと、約十日に及ぶ逃亡生活の疲労で、新九郎は正常な判断力を失っていた。
「南条さん……なぜ……」
顔が見る見る怒りに染まって行く。
「新九郎。ここはひとまず捕まれ」
南条の言葉で、新九郎の目が色を失った。
野獣のような咆哮と共に、新九郎はまだ手にしていた刀で網を斬り裂くと、地面に転がり落ちた。
そしてゆっくりと立ち上がると、剣を八双に構えて兄弟子に激しい殺気をぶつけた。
「南条さん……あんた、裏切ったのか……」
「うん? おいおい、新九郎、待て」
「信じてたのに……何故裏切った!」
「誤解だ、待て!」
南条は慌てて手を振ったが、正気を失っている新九郎は地面を蹴り、八双から火炎を噴くような袈裟斬りを放った。
「真面目だとこう言う時は面倒くせえな」
南条は新九郎の剣を眼前に迎えながらも苦笑して柄に手をかけた。
居合で新九郎の剣を跳ね飛ばすと、目にも止まらぬ早業で新九郎の鳩尾に拳を叩き込んだ。
新九郎は胃液を吐きながら突っ伏し、痙攣した後に動かなくなった。
右頬に冷んやりとした感覚を覚え、新九郎は気が付いた。
新九郎は両手を後ろに縛られたまま、床の上に転がされていた。
目を開けると、薄暗い中に金塗りの大きな阿弥陀如来の像が鎮座しているのが見えた。
どこかの寺の本堂らしい。
今まで眠っていたのか、気を失っていたのかはわからない。だがともかく、今の身体は酷く疲れていた。
起き上がりたかったが、力が入らなかった。
そうしてもがこうとしているところへ、二人の男が入って来て新九郎の前に座った。
一人は頭巾をかぶり覆面をしていた。まるであの濃紺装束の連中である。
だが、もう一人は頭巾も覆面もつけていない。
その男の素顔を見て、新九郎は唸った。
「南条さん、なぜ……」
「新九郎、手荒なことをしてすまねえな」
南条は申し訳なさそうに伸びきった月代を掻いた。
「何故、裏切りを……!」
「うん、裏切り? ああ、それがまず誤解だ」
南条は慌てて片膝をついたが、
「ええっと……何から言えばいいのか」
と、思案に困っていると、もう一人の頭巾覆面の男が横から言った。
「南条、よい。わしから説明しよう」
新九郎は、その声に聞き覚えがあった。誰の声かと記憶を探ろうとしたところ、その男が覆面を外した。
露わになったその顔を見て、新九郎は、あっと言った。
「え、宇佐美さま……?」
覆面の下から現れた白い細面と鋭い切れ長の目は、側用人の宇佐美三之丞であった。
「黒須、すまぬな。急に色々起きすぎて考えが追い付いていないであろう。そこへわしを見て更に混乱したかも知れぬな」
「ええ……あの……」
あまりの驚きに声が出ない。一体これはどういう状況なのか。
「まず、最初に説明しよう。わしはお主の敵ではない。ここにいる南条もだ。今まで誰にも言わずにいたが、私は大鳥順三郎さまの同志である」
「え? 宇佐美さまが……?」
新九郎は、横たわったまま目を見張った。
「小田内膳の不正はな、元々は私が最初に気付いたのだ。その直後は一人で対策を思案していたのだが、ある時に大鳥さまも小田内膳を疑っていることを知り、密かに大鳥さまに接触した結果、二人で小田内膳の不正を暴くことにした。だが、もし内膳の妨害にあって逆に害されることになってしまった場合でも、どちらかは生き残って戦い続けられるよう、我ら二人の繋がりは外では秘すこととし、一方が表立って動き、もう一方は影で動くこととした。すると、自然と家老の大鳥さまが表、側用人である私は江戸にも行けることから影になることとした」
「…………」
「そして残念なことに、先日大鳥さまたちは無念の最期を遂げられ、私がこうして彼らの遺志を引き継いて行くこととなった。と言うわけだが、信じてくれるか? 信じてくれるならば、その縄を解くが」
宇佐美三之丞が言うと、新九郎はまだ狐につままれたような心地であったが「はい」と答えた。
「よし、まずは飯を食うがいい。ろくに食べていないであろう」
宇佐美は南条に新九郎の縄を解かせて座らせると、この寺の小坊主に言いつけて食膳を運ばせた。
雑穀混じりの飯に大根の漬物、豆腐だけの味噌汁と言う寺らしい簡素な膳であったが、この十日ばかりまともな物を食べていない新九郎にはたまらない馳走であった。
新九郎は箸を取ると、一気に食べ終えてしまった。その様を見て、
「はは……弱っているのに箸を鳴らすほどに一気に食べ終えるとは若いな」
宇佐美は笑った。
その笑顔を見て、新九郎は思わず箸を置く手を止めてしまった。恐らく、初めて見た宇佐美三之丞の笑顔であった。
だが、宇佐美はすぐにいつもの氷のような表情に戻り、
「さて、大鳥さまと私の関係は先程話した通りだ。そして……」
宇佐美が言いかけたところで、
「あの」
「うん、なんだ?」
「申し訳ござりませぬ、南条さんはどういうご関係で?」
新九郎が恐る恐る南条と宇佐美を交互に見ると、
「ああ、そう言えば俺のことはわけわからんよな」
南条が笑った。
「私はずっと、南条の脱藩の経緯に不審を感じていた。そこで領内に戻って来ていることを大鳥さまから聞いた後、私が密かに手を回して南条に接触し、全てを聞いた上で、そのまま私の命で裏で動くようにしていたのだ」
「そうでしたか……」
意外な事実に驚く新九郎に、南条がふふっと笑った。
「あの日、藤之津でお前に会った時もな。ちょうど偶然、宇佐美さまの命を受けて先に白田屋を探りに行ってたのよ」
「なるほど、だから城下の目付を呼んでいたわけですか」
「そういうことだ。何かあった時の為に宇佐美さまに頼んでな」
南条はにこりとしたが、宇佐美は顔を暗くして、
「だが、折角お主らが力を合わせて掴んでくれた奴らの抜け荷の証拠だが、無駄になってしまった。申し訳なく思っている」
「そんな……宇佐美さまが謝られることではございませぬ」
「いや、あれは私の手抜かりでもあった……会議の直前まで、あの抜け荷は、見つけた時のまま二の丸の土蔵に置いておき、誰にも触らせていなかった」
「では、何故明細が大鳥さまの署名入りの物にすり替えられていたのでしょう?」
新九郎が首を傾げた。
「流斎さまだ。会議の途中で、突然流斎さまが入って来た。重職会議があることは流斎さまには知らせていなかったし、もちろん流斎さまからあの日に城に来ると言う連絡は受けていなかった。だが、恐らく内膳が密かに知らせたのであろう、見つけられた抜け荷のことと共に」
「ああ、そういうことか……」
新九郎は天を仰いだ。
「そうだ。あの会議中、我々は全員大広間にいて動けぬ。その時を見計らって流斎さまは城に来て、あの濃紺装束の者らに強引に土蔵を開けさせ、箱の中の明細を全てすり替えたのだ。あの後わかったのだが、土蔵の見張りをさせていた者らは皆消えていた。今もどこにいるのかはわからん」
「なんと……」
「うむ。だが、すり替えられた明細を見せられた時に、一旦引き下がって再度の調査を主張すれば、また次の機会に繋がったかも知れん。ところが、大鳥さまはあの連判状を出してしまった。あの時、私は終わった、と思った」
宇佐美は言うと、膝に置いていた拳を握りしめた。
「連判状を大鳥さまが持っていることは内膳らも把握しているのだから、内膳は当然それを出された時の反撃策も用意しているはずだ。ならば大鳥さまは、連判状の墨塗りされた冒頭の二人の名をはっきりさせるまで、あの連判状を出すべきではなかったのだ。だがあの時、焦った大鳥さまはあのままの連判状を出してしまい、案の定、卑劣な策を用意していた内膳によって反撃され、逆に大鳥さまらが不正をしている奸臣とされて討たれてしまった」
「狡猾な奴らだ」
南条宗之進が眦を吊り上げた。
「私の一瞬の隙をつかれ、大鳥さまの焦りをつかれた……我らの完敗だ」
宇佐美は無念そうに言うと、目を閉じた。
新九郎も、悔しさに俯いたが、ふと、韮沢万次が最後に言った言葉を思い出した。
ーーどんなに運に恵まれずとも、味方がいなくとも、武士には剣がある……武士の剣は、自らの道を斬り開くことができるのだ……お主には武士の剣がある……忘れるな。
何か、腹の底から力が沸いて来るのを覚えた。
新九郎は膝を進めて、
「宇佐美さま、これでまだ終わりではございません。宇佐美さまがいて、南条さんもいます。非力ですが私もおります。ここは一時耐え忍んで、また反撃の機をうかがいましょう」
新九郎は迫るように言った。先程までまだ虚ろであった目には、生来の光が戻っていた。
宇佐美三之丞は目を開けると、
「当然だ。このまま引き下がるつもりはない。だが、一時耐え忍ぶなどと悠長なことも言っておれん」
その時、小柄な男が南条の隣に立った。
足音も無く突然現れたその小柄な男に、新九郎はびくっとして思わず立ち上がりかけたが、その男の顔を見てまた驚いた。
「千吉、どうであった?」
宇佐美が声をかけたその小柄な男は、大鳥家の下男である、あの千吉と言う名の老爺であったからだ。
「千吉どの……? 何故……」
唖然としている新九郎に、千吉は無言で微笑みを向けた後、宇佐美に向かって報告した。
「やはり、奴らは三中散を収めておりました」
「三中散……!」
新九郎、南条が顔色を変えた。
旧笹川組の禁断の毒薬。盛られて三日の後に一切の痕跡が残らぬままに必ず死ぬと言う必中の毒薬である。
宇佐美は深刻そうに頷いて、
「小田内膳らは、あの日のあの直後、大鳥さまのお屋敷から全ての人間を追い出して封鎖し、屋敷の隅から隅までを徹底的に調べたのだ。更なる不正の証拠を押さえる、と言う名目であったが、恐らく真の目的は三中散を手に入れることだろう。そして、それを千吉に探らせていたところ……」
「甲法山で流斎さまが手元に置いておりました」
そう言った千吉の皺だらけの顔は、以前に見ていた好々爺とは違い、何か歴戦の武士のように見えた。
「千吉どのが調べられたのですか?」
新九郎が怪訝そうに訊くと、
「そうだ。三中散の行方を追って甲法山の流斎さまのお屋敷まで調べるなど、千吉ぐらいにしかできぬからな」
宇佐美は、さも当然、と言う顔をした。
「え? 千吉どのは一体……?」
「わからぬか。千吉こそは旧笹川組の最後の頭領よ」
「ええっ?」
宇佐美に言われて、千吉は新九郎に向かってまた微笑みかけたが、その瞼重い目の奥には得体の知れない光があった。
「新九郎、話は後だ。とりあえずおとなしくしてくれるか?」
だが、大鳥順三郎、兼木、韮沢、三木辰之助らの死の悲しみと、約十日に及ぶ逃亡生活の疲労で、新九郎は正常な判断力を失っていた。
「南条さん……なぜ……」
顔が見る見る怒りに染まって行く。
「新九郎。ここはひとまず捕まれ」
南条の言葉で、新九郎の目が色を失った。
野獣のような咆哮と共に、新九郎はまだ手にしていた刀で網を斬り裂くと、地面に転がり落ちた。
そしてゆっくりと立ち上がると、剣を八双に構えて兄弟子に激しい殺気をぶつけた。
「南条さん……あんた、裏切ったのか……」
「うん? おいおい、新九郎、待て」
「信じてたのに……何故裏切った!」
「誤解だ、待て!」
南条は慌てて手を振ったが、正気を失っている新九郎は地面を蹴り、八双から火炎を噴くような袈裟斬りを放った。
「真面目だとこう言う時は面倒くせえな」
南条は新九郎の剣を眼前に迎えながらも苦笑して柄に手をかけた。
居合で新九郎の剣を跳ね飛ばすと、目にも止まらぬ早業で新九郎の鳩尾に拳を叩き込んだ。
新九郎は胃液を吐きながら突っ伏し、痙攣した後に動かなくなった。
右頬に冷んやりとした感覚を覚え、新九郎は気が付いた。
新九郎は両手を後ろに縛られたまま、床の上に転がされていた。
目を開けると、薄暗い中に金塗りの大きな阿弥陀如来の像が鎮座しているのが見えた。
どこかの寺の本堂らしい。
今まで眠っていたのか、気を失っていたのかはわからない。だがともかく、今の身体は酷く疲れていた。
起き上がりたかったが、力が入らなかった。
そうしてもがこうとしているところへ、二人の男が入って来て新九郎の前に座った。
一人は頭巾をかぶり覆面をしていた。まるであの濃紺装束の連中である。
だが、もう一人は頭巾も覆面もつけていない。
その男の素顔を見て、新九郎は唸った。
「南条さん、なぜ……」
「新九郎、手荒なことをしてすまねえな」
南条は申し訳なさそうに伸びきった月代を掻いた。
「何故、裏切りを……!」
「うん、裏切り? ああ、それがまず誤解だ」
南条は慌てて片膝をついたが、
「ええっと……何から言えばいいのか」
と、思案に困っていると、もう一人の頭巾覆面の男が横から言った。
「南条、よい。わしから説明しよう」
新九郎は、その声に聞き覚えがあった。誰の声かと記憶を探ろうとしたところ、その男が覆面を外した。
露わになったその顔を見て、新九郎は、あっと言った。
「え、宇佐美さま……?」
覆面の下から現れた白い細面と鋭い切れ長の目は、側用人の宇佐美三之丞であった。
「黒須、すまぬな。急に色々起きすぎて考えが追い付いていないであろう。そこへわしを見て更に混乱したかも知れぬな」
「ええ……あの……」
あまりの驚きに声が出ない。一体これはどういう状況なのか。
「まず、最初に説明しよう。わしはお主の敵ではない。ここにいる南条もだ。今まで誰にも言わずにいたが、私は大鳥順三郎さまの同志である」
「え? 宇佐美さまが……?」
新九郎は、横たわったまま目を見張った。
「小田内膳の不正はな、元々は私が最初に気付いたのだ。その直後は一人で対策を思案していたのだが、ある時に大鳥さまも小田内膳を疑っていることを知り、密かに大鳥さまに接触した結果、二人で小田内膳の不正を暴くことにした。だが、もし内膳の妨害にあって逆に害されることになってしまった場合でも、どちらかは生き残って戦い続けられるよう、我ら二人の繋がりは外では秘すこととし、一方が表立って動き、もう一方は影で動くこととした。すると、自然と家老の大鳥さまが表、側用人である私は江戸にも行けることから影になることとした」
「…………」
「そして残念なことに、先日大鳥さまたちは無念の最期を遂げられ、私がこうして彼らの遺志を引き継いて行くこととなった。と言うわけだが、信じてくれるか? 信じてくれるならば、その縄を解くが」
宇佐美三之丞が言うと、新九郎はまだ狐につままれたような心地であったが「はい」と答えた。
「よし、まずは飯を食うがいい。ろくに食べていないであろう」
宇佐美は南条に新九郎の縄を解かせて座らせると、この寺の小坊主に言いつけて食膳を運ばせた。
雑穀混じりの飯に大根の漬物、豆腐だけの味噌汁と言う寺らしい簡素な膳であったが、この十日ばかりまともな物を食べていない新九郎にはたまらない馳走であった。
新九郎は箸を取ると、一気に食べ終えてしまった。その様を見て、
「はは……弱っているのに箸を鳴らすほどに一気に食べ終えるとは若いな」
宇佐美は笑った。
その笑顔を見て、新九郎は思わず箸を置く手を止めてしまった。恐らく、初めて見た宇佐美三之丞の笑顔であった。
だが、宇佐美はすぐにいつもの氷のような表情に戻り、
「さて、大鳥さまと私の関係は先程話した通りだ。そして……」
宇佐美が言いかけたところで、
「あの」
「うん、なんだ?」
「申し訳ござりませぬ、南条さんはどういうご関係で?」
新九郎が恐る恐る南条と宇佐美を交互に見ると、
「ああ、そう言えば俺のことはわけわからんよな」
南条が笑った。
「私はずっと、南条の脱藩の経緯に不審を感じていた。そこで領内に戻って来ていることを大鳥さまから聞いた後、私が密かに手を回して南条に接触し、全てを聞いた上で、そのまま私の命で裏で動くようにしていたのだ」
「そうでしたか……」
意外な事実に驚く新九郎に、南条がふふっと笑った。
「あの日、藤之津でお前に会った時もな。ちょうど偶然、宇佐美さまの命を受けて先に白田屋を探りに行ってたのよ」
「なるほど、だから城下の目付を呼んでいたわけですか」
「そういうことだ。何かあった時の為に宇佐美さまに頼んでな」
南条はにこりとしたが、宇佐美は顔を暗くして、
「だが、折角お主らが力を合わせて掴んでくれた奴らの抜け荷の証拠だが、無駄になってしまった。申し訳なく思っている」
「そんな……宇佐美さまが謝られることではございませぬ」
「いや、あれは私の手抜かりでもあった……会議の直前まで、あの抜け荷は、見つけた時のまま二の丸の土蔵に置いておき、誰にも触らせていなかった」
「では、何故明細が大鳥さまの署名入りの物にすり替えられていたのでしょう?」
新九郎が首を傾げた。
「流斎さまだ。会議の途中で、突然流斎さまが入って来た。重職会議があることは流斎さまには知らせていなかったし、もちろん流斎さまからあの日に城に来ると言う連絡は受けていなかった。だが、恐らく内膳が密かに知らせたのであろう、見つけられた抜け荷のことと共に」
「ああ、そういうことか……」
新九郎は天を仰いだ。
「そうだ。あの会議中、我々は全員大広間にいて動けぬ。その時を見計らって流斎さまは城に来て、あの濃紺装束の者らに強引に土蔵を開けさせ、箱の中の明細を全てすり替えたのだ。あの後わかったのだが、土蔵の見張りをさせていた者らは皆消えていた。今もどこにいるのかはわからん」
「なんと……」
「うむ。だが、すり替えられた明細を見せられた時に、一旦引き下がって再度の調査を主張すれば、また次の機会に繋がったかも知れん。ところが、大鳥さまはあの連判状を出してしまった。あの時、私は終わった、と思った」
宇佐美は言うと、膝に置いていた拳を握りしめた。
「連判状を大鳥さまが持っていることは内膳らも把握しているのだから、内膳は当然それを出された時の反撃策も用意しているはずだ。ならば大鳥さまは、連判状の墨塗りされた冒頭の二人の名をはっきりさせるまで、あの連判状を出すべきではなかったのだ。だがあの時、焦った大鳥さまはあのままの連判状を出してしまい、案の定、卑劣な策を用意していた内膳によって反撃され、逆に大鳥さまらが不正をしている奸臣とされて討たれてしまった」
「狡猾な奴らだ」
南条宗之進が眦を吊り上げた。
「私の一瞬の隙をつかれ、大鳥さまの焦りをつかれた……我らの完敗だ」
宇佐美は無念そうに言うと、目を閉じた。
新九郎も、悔しさに俯いたが、ふと、韮沢万次が最後に言った言葉を思い出した。
ーーどんなに運に恵まれずとも、味方がいなくとも、武士には剣がある……武士の剣は、自らの道を斬り開くことができるのだ……お主には武士の剣がある……忘れるな。
何か、腹の底から力が沸いて来るのを覚えた。
新九郎は膝を進めて、
「宇佐美さま、これでまだ終わりではございません。宇佐美さまがいて、南条さんもいます。非力ですが私もおります。ここは一時耐え忍んで、また反撃の機をうかがいましょう」
新九郎は迫るように言った。先程までまだ虚ろであった目には、生来の光が戻っていた。
宇佐美三之丞は目を開けると、
「当然だ。このまま引き下がるつもりはない。だが、一時耐え忍ぶなどと悠長なことも言っておれん」
その時、小柄な男が南条の隣に立った。
足音も無く突然現れたその小柄な男に、新九郎はびくっとして思わず立ち上がりかけたが、その男の顔を見てまた驚いた。
「千吉、どうであった?」
宇佐美が声をかけたその小柄な男は、大鳥家の下男である、あの千吉と言う名の老爺であったからだ。
「千吉どの……? 何故……」
唖然としている新九郎に、千吉は無言で微笑みを向けた後、宇佐美に向かって報告した。
「やはり、奴らは三中散を収めておりました」
「三中散……!」
新九郎、南条が顔色を変えた。
旧笹川組の禁断の毒薬。盛られて三日の後に一切の痕跡が残らぬままに必ず死ぬと言う必中の毒薬である。
宇佐美は深刻そうに頷いて、
「小田内膳らは、あの日のあの直後、大鳥さまのお屋敷から全ての人間を追い出して封鎖し、屋敷の隅から隅までを徹底的に調べたのだ。更なる不正の証拠を押さえる、と言う名目であったが、恐らく真の目的は三中散を手に入れることだろう。そして、それを千吉に探らせていたところ……」
「甲法山で流斎さまが手元に置いておりました」
そう言った千吉の皺だらけの顔は、以前に見ていた好々爺とは違い、何か歴戦の武士のように見えた。
「千吉どのが調べられたのですか?」
新九郎が怪訝そうに訊くと、
「そうだ。三中散の行方を追って甲法山の流斎さまのお屋敷まで調べるなど、千吉ぐらいにしかできぬからな」
宇佐美は、さも当然、と言う顔をした。
「え? 千吉どのは一体……?」
「わからぬか。千吉こそは旧笹川組の最後の頭領よ」
「ええっ?」
宇佐美に言われて、千吉は新九郎に向かってまた微笑みかけたが、その瞼重い目の奥には得体の知れない光があった。
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