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それでも生きる
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新九郎と一馬は、涙を振り切りながら若草町から青物町へと走った。
だがそこで、あの濃紺装束の男たち四人に囲まれてしまった。
新九郎は四人の覆面の隙間を確かめた。りよはいない。
周囲の買い物客や通行人たちが悲鳴を上げて四散する中、
「どけっ、叩き斬るぞ!」
一馬が剣を突き出して怒鳴った。
「それはこっちのせりふよ」
濃紺装束の四人は低い笑い声を立てながら襲い掛かって来た。
新九郎は舌打ちして応戦にかかる。
だが、こちら二人はすでに疲労が濃いのに対し、相手四人はこれが最初の戦いと思われるような機敏さ溢れる太刀さばきであった。その上で、向こうは二人二組に分かれ、新九郎と一馬を分断させるように動いて来る。
「一馬、これは駄目だ! 分かれてもいい、逃げて生き延びよう!」
「わかった、死ぬなよ!」
一馬は大声で応えながら、敵二人の攻撃をさばきつつ退いて行く。
新九郎は後方へ逃げては向き直って一太刀浴びせ、また逃げては傍の店の軒先の物を投げつけて足止めしてまた逃げる、と言うのを繰り返していたが、新九郎の体力の消耗の方が速く、ついに前後に回り込まれて退路を断たれてしまった。
「はあっ、はっ……」
新九郎は呼吸を激しく乱しながら、剣を正眼に構えた。
ここまで来ては、死の覚悟を決めて戦うしかなかった。それしか道はない。
前後の敵二人が、じりじりと間合いを詰めて来る。
そして勝利を確信した眼前の一人が気合いを発し、冷たい殺気をまとわせた剣を振り上げた。
だがその時、突如として熱い闘気が吹き抜けて、その剣が吹き飛ばされた。
続けて、裂帛の気合いと共に落ちた雷の如き剣が敵の頭を割り、濃紺装束の男は物も言わずに前のめりに倒れた。
男が倒れた後ろに、顔も着物も全身返り血塗れの戦鬼が仁王立ちしていた。
「韮沢さま!」
新九郎は思わず笑みをこぼした。
だが韮沢万次はそれに答えず、新九郎に叫んだ。
「後ろじゃ、新九郎どの!」
その声に、新九郎は振り返った。
背後に、敵の剣が袈裟斬りで迫っていた。
新九郎は咄嗟に右に飛んで、すれすれでその剣をかわしながら、相手の左脇を剣を引くようにして斬った。
敵はそれでも踏ん張り、腹を赤黒く染めながらも横薙ぎを放って来た。新九郎はそれを籠手を打つように叩き落すと、返す刀で敵の顎を斬り上げた。敵は、とととっ、とまるで酔っ払いのように後ろにふらふらした後、仰向けに倒れてやがてそのまま動かなくなった。
「お見事」
韮沢はふうっ、と大きく息を吐くと、ようやく笑って見せた。
「韮沢さま、助かりました、ありがとうございます」
新九郎も笑顔で応えた。
「礼やらは後じゃ。今は急いでここを離れねばならん」
とりあえず、今は周囲に小田派の藩士や濃紺装束の連中の姿は見えない。
二人は、騒然として遠巻きに見ている町民たちの間を走り、城下から離れた。
「この辺りまで来れば良かろう」
すでに夜になっていた。月光を砕いて煌めく早月川を渡り、その先の原野と林を抜けて八町山の麓まで来て、ようやく二人は足を止めた。
ちょうど切り株があり、新九郎はそこに座るよう、韮沢万次に勧めた。
「では、ちと疲れたので座らせてもらおう」
韮沢万次は腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
「ふうっ、ようやく落ち着いたわ」
「そうですね」
新九郎は地べたの土の上に胡坐をかいた。
「韮沢さま」
「うん?」
「突然のことだったので私には何がなんだかさっぱりわかりません。何故我々が追われることになったのです? 重職会議はどうなったのですか? 大鳥さまが上意討ちにされたと言うのは誠でございますか?」
新九郎は疑問を次々にぶつけた。
「ああ……そうじゃな。さて、どう話せばよいものか」
韮沢は顔を暗くすると、ぽつりぽつりと会議の始まりから話し始めた。
「……と、言う次第じゃ」
月の位置がだいぶ動いて、万次はようやく全てを話し終えた。
「そう言うことでございましたか」
新九郎は、胸のうちに何とも言えぬ感情がどろどろと絡み合いながら膨れ上がって行くのを感じた。
あの日、突然横領不正の嫌疑をかけられ、そこからあちこちを奔走した。藤之津の船上での死闘を経てようやく流斎、小田内膳の不正の証拠を掴んだ時には、これでやっと終わる、藩は正しい姿に戻る、と安堵した。
だが、それら全て、流斎、小田内膳の奸計によって引っくり返され、逆にこちらが横領不正をしている側とされてしまった。
その果てに、家老大鳥順三郎は非業の死を遂げた。頼れる先輩の兼木作左衛門、友人の三木辰之助、その他の多くの仲間たちも死んでしまった。
いつの間にか、新九郎の両目から涙が流れていた。
「ああ、なんと情けない。申し訳ございませぬ」
新九郎は両目を手で拭った。だが、涙は溢れて溢れて止まらなかった。
韮沢はそれを見ると、武骨な顔に似合わない優しい声で言った。
「構わん。武士が泣いてはいけないと言う決まりはない。涙は心の汗と言う。お主が頑張った証拠じゃ。存分に泣くがいい」
「あいすみませぬ……」
新九郎は俯いて両肩を震わせた。
声は上げなかった。だが、悔しさと悲しみを抑えきれず、新九郎は両手を地面について、大粒の涙を次から次へとこぼした。
やがてそれが止まると、新九郎はようやく顔を上げた。
「申し訳ございませぬ、武士ともあろう者が情けないところを……」
新九郎は言いかけて、目を見張って立膝をついた。
「韮沢さま!」
韮沢万次が、切り株から落ちて横向きに倒れ込んだのだ。
新九郎は慌てて万次の大きな上半身を抱き起した。
「血……!」
新九郎は顔を青くした。
右手に、血がべっとりと付着した。
見れば、元々血塗れであった万次の着物だが、右脇腹に特に大きな赤黒い染みがあった。
「いつの間に……韮沢さま、どうなさいましたか? 米山どのにやられたのですか?」
万次は意識を失いかけて目を閉じていたが、ゆっくりと瞼を開くと、
「よ、米山は斬った。だが……城を抜けて来る時にちょいとしくじって……脇腹をやられてな……」
「なんと、そんな身体で私の助太刀を……」
「城を出た時には大した傷じゃないと感じたんだが、どうやら思ったよりも深い傷だったらしいな……斬り合いの最中はあまり痛みを感じねえからな……」
「韮沢さま」
「そして……どうやらもうもたないらしい……残念だがな……」
万次は笑みを浮かべた。
「そんな……何か手は……」
新九郎は狼狽して、あるはずが無いのに周囲に何か止血できるものはないか探し始めた。
「もう無理だ、諦めよう。それより新九郎どの、すまんが……ここでいいので座らせてくれるか? 最後は武士らしく果てたい」
「は、はい……」
新九郎は、万次の上半身を慎重に起こし、先程座っていた切り株にもたれかからせた。
「うむ、これはよい。すまぬな」
「いえ」
「新九郎どの……聞いて欲しい。まず、新九郎どのは生きてくれ……今井一馬もきっとどこかで生き延びているに違いない。二人で生き延びて……力を合わせ……此度の真実を明らかにして欲しい。それは……大鳥さまや兼木、三木、今から死ぬわしの無念を晴らすとかではないぞ……城戸家の為、藩の為、そして民の為じゃ……城戸家の武士として……城戸家を我が物にせんとする巨大な悪を……討ってくれ……」
「韮沢さま……」
新九郎の目から、再び涙が流れ落ちた。
「お主らなら……お主ならできる……新九郎どのなら、きっとできる……己を信じろ……」
「はい……」
「此度のことで、殿は一人になってしまわれた……今頃はきっと心細かろう……殿を守れ……巨悪から殿を救えるのも……お主らしかおらぬ……頼むぞ」
韮沢万次は、目が半開きながらも優しく新九郎を見た。
「はい、承知仕りました。この黒須新九郎、必ずや城戸家に仇なす悪を討ち、殿と藩、民を救いまする」
新九郎は、嗚咽を漏らしながら誓った。
「うん……うん……」
それを聞いて、万次は満足そうな表情を浮かべたが、
「一つ心残りは、わしの娘の加奈のこと……できれば新九郎どのとの縁談をまとめて……新九郎どのと加奈との祝言を……一目見てみたかったわ……」
この期に及んで、万次は照れくさそうな顔をした。
「…………」
「新九郎どの……無理にとは言わんが……もしお主が良ければ……加奈のことをよろしく頼む……」
他ならぬ万次の最後の頼みであったが、新九郎はすぐに首を縦に振ることができなかった。
「新九郎どの……?」
「……はい、承知仕りました」
新九郎は頷いた。
「うむ……まあ、此度のことで、我が韮沢家もどうなるかわからんがの……」
万次は、自虐的に笑った。
「新九郎どの、よく覚えておくがいい……どんなに運に恵まれずとも、味方がいなくとも、武士には剣がある……武士の剣は、自らの道を斬り開くことができるのだ……お主には武士の剣がある……忘れるな」
万次はそう言って新九郎に微笑を見せると、瞼を落とした。
最後の言葉であった。
先程まで晴れて月が見えていた夜空であったが、急速に雨気をはらんだ黒雲が膨れ上がり、やがて冷たい小雨を地上に降らし始めた。
今回の事件は、正に政変であった。
筆頭家老小田内膳の追い落としを狙って、次席家老大鳥順三郎が策を仕掛けたが、逆に自分の不正を暴かれて誅殺され、その一派の人間たちも粛清された。
この結果、城戸家家中に筆頭家老小田内膳に反発する者はいなくなり、彼の権力はますます強固なものとなった。
だがあの日、城から逃れた大鳥派の人間がいなかったわけではない。中堅の谷原喜兵衛ら、若手の黒須新九郎、今井一馬ら十人ほどの行方が不明であった。
大鳥派はすでに壊滅したに等しいとは言え、その残党を生かしておくわけには行かない。
小田内膳は、大鳥派残党の徹底した捜索を指示し、領内の全ての村落だけでなく、全ての山での山狩りを命じた。
その結果、領内の集落に潜んでいた三人が捕縛されて獄に繋がれた。
が、黒須新九郎らは未だに見つかっていない。
山狩りが命じられて十日ほどが過ぎた。
領内の南東に、鴻巣山と言う山がある。銅が採掘できることでも知られる山である。
その日の夜半過ぎ、一人の男が山中の樹々の間をふらふらと彷徨っていた。
男は無目的に歩いているように見えたが、一つの小動物の影を見つけるとゆらりとそちらへ歩き、自らの間合いに収まったと見るや急に飛んで腰に佩いていた刀を抜いて斬りつけた。
その斬撃は見事に小動物の動きを止めた。それが何の生き物なのかはわからなかったが、男は仕留めた獲物を手に取ってまたふらふらと歩き出した。
ちょうど清流があった。男は枯れ枝を集めてその岸辺に集め、腰袋に提げていた火打石で火をつけた。炎が上がるまでの間、男は脇差で小動物の皮を剥ぎ、炎が充分になるとその中に入れて焼いた。
肉がこんがりと焼き上がると、男は脇差に差して取り出して食べた。
塩や醤油などの調味料は無いので味はしない。
だが、男は生きる為に腹を満たすと言う人間の本能のままにその肉を貪った。
全て食べ終えると、腹が満たされた。
男は大樹にもたれて座り、頭上の夜空を見上げて休んでいたが、急に吐き気を催して倒れるように地面に転がり、両手をついて激しく嘔吐した。
出せるものを全て吐ききると、男は地面に大の字に転がってはぁはぁと息を乱しながら星空を見た。
これほどまでに弱りながらも、二重瞼の下の瞳は光が強く、ぎらぎらと星を睨んでいた。
男は、黒須新九郎であった。
城から逃れ、小田内膳が山狩りを指示してからおよそ十日、ずっとこうして逃亡生活を続けていた。
二度、別の山中で討手に囲まれた。
一度は決死の奮戦で全て斬り倒し、二度目は二人を斬って逃げた。
生きなければ――
疲労しきった頭の中でその理由はすでに朧気になっており、ただその使命感だけが強烈に存在して彼を生へと動かしていた。
生きる――
新九郎は身体を起こして立ち上がり、再びふらふらと歩きだした。
その時であった。
突然、新九郎の足下が滑り、身体が転倒したかと思うと網の中に包まれて空中へ吊り上げられた。
――網罠! 抜かった!
四方の夜闇から、男たち数人が出て来た。
だが、新九郎を驚かせたのはその中に南条宗之進がいたことであった。
「な……南条さん……何故ここに?」
だがそこで、あの濃紺装束の男たち四人に囲まれてしまった。
新九郎は四人の覆面の隙間を確かめた。りよはいない。
周囲の買い物客や通行人たちが悲鳴を上げて四散する中、
「どけっ、叩き斬るぞ!」
一馬が剣を突き出して怒鳴った。
「それはこっちのせりふよ」
濃紺装束の四人は低い笑い声を立てながら襲い掛かって来た。
新九郎は舌打ちして応戦にかかる。
だが、こちら二人はすでに疲労が濃いのに対し、相手四人はこれが最初の戦いと思われるような機敏さ溢れる太刀さばきであった。その上で、向こうは二人二組に分かれ、新九郎と一馬を分断させるように動いて来る。
「一馬、これは駄目だ! 分かれてもいい、逃げて生き延びよう!」
「わかった、死ぬなよ!」
一馬は大声で応えながら、敵二人の攻撃をさばきつつ退いて行く。
新九郎は後方へ逃げては向き直って一太刀浴びせ、また逃げては傍の店の軒先の物を投げつけて足止めしてまた逃げる、と言うのを繰り返していたが、新九郎の体力の消耗の方が速く、ついに前後に回り込まれて退路を断たれてしまった。
「はあっ、はっ……」
新九郎は呼吸を激しく乱しながら、剣を正眼に構えた。
ここまで来ては、死の覚悟を決めて戦うしかなかった。それしか道はない。
前後の敵二人が、じりじりと間合いを詰めて来る。
そして勝利を確信した眼前の一人が気合いを発し、冷たい殺気をまとわせた剣を振り上げた。
だがその時、突如として熱い闘気が吹き抜けて、その剣が吹き飛ばされた。
続けて、裂帛の気合いと共に落ちた雷の如き剣が敵の頭を割り、濃紺装束の男は物も言わずに前のめりに倒れた。
男が倒れた後ろに、顔も着物も全身返り血塗れの戦鬼が仁王立ちしていた。
「韮沢さま!」
新九郎は思わず笑みをこぼした。
だが韮沢万次はそれに答えず、新九郎に叫んだ。
「後ろじゃ、新九郎どの!」
その声に、新九郎は振り返った。
背後に、敵の剣が袈裟斬りで迫っていた。
新九郎は咄嗟に右に飛んで、すれすれでその剣をかわしながら、相手の左脇を剣を引くようにして斬った。
敵はそれでも踏ん張り、腹を赤黒く染めながらも横薙ぎを放って来た。新九郎はそれを籠手を打つように叩き落すと、返す刀で敵の顎を斬り上げた。敵は、とととっ、とまるで酔っ払いのように後ろにふらふらした後、仰向けに倒れてやがてそのまま動かなくなった。
「お見事」
韮沢はふうっ、と大きく息を吐くと、ようやく笑って見せた。
「韮沢さま、助かりました、ありがとうございます」
新九郎も笑顔で応えた。
「礼やらは後じゃ。今は急いでここを離れねばならん」
とりあえず、今は周囲に小田派の藩士や濃紺装束の連中の姿は見えない。
二人は、騒然として遠巻きに見ている町民たちの間を走り、城下から離れた。
「この辺りまで来れば良かろう」
すでに夜になっていた。月光を砕いて煌めく早月川を渡り、その先の原野と林を抜けて八町山の麓まで来て、ようやく二人は足を止めた。
ちょうど切り株があり、新九郎はそこに座るよう、韮沢万次に勧めた。
「では、ちと疲れたので座らせてもらおう」
韮沢万次は腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
「ふうっ、ようやく落ち着いたわ」
「そうですね」
新九郎は地べたの土の上に胡坐をかいた。
「韮沢さま」
「うん?」
「突然のことだったので私には何がなんだかさっぱりわかりません。何故我々が追われることになったのです? 重職会議はどうなったのですか? 大鳥さまが上意討ちにされたと言うのは誠でございますか?」
新九郎は疑問を次々にぶつけた。
「ああ……そうじゃな。さて、どう話せばよいものか」
韮沢は顔を暗くすると、ぽつりぽつりと会議の始まりから話し始めた。
「……と、言う次第じゃ」
月の位置がだいぶ動いて、万次はようやく全てを話し終えた。
「そう言うことでございましたか」
新九郎は、胸のうちに何とも言えぬ感情がどろどろと絡み合いながら膨れ上がって行くのを感じた。
あの日、突然横領不正の嫌疑をかけられ、そこからあちこちを奔走した。藤之津の船上での死闘を経てようやく流斎、小田内膳の不正の証拠を掴んだ時には、これでやっと終わる、藩は正しい姿に戻る、と安堵した。
だが、それら全て、流斎、小田内膳の奸計によって引っくり返され、逆にこちらが横領不正をしている側とされてしまった。
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いつの間にか、新九郎の両目から涙が流れていた。
「ああ、なんと情けない。申し訳ございませぬ」
新九郎は両目を手で拭った。だが、涙は溢れて溢れて止まらなかった。
韮沢はそれを見ると、武骨な顔に似合わない優しい声で言った。
「構わん。武士が泣いてはいけないと言う決まりはない。涙は心の汗と言う。お主が頑張った証拠じゃ。存分に泣くがいい」
「あいすみませぬ……」
新九郎は俯いて両肩を震わせた。
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「申し訳ございませぬ、武士ともあろう者が情けないところを……」
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「韮沢さま!」
韮沢万次が、切り株から落ちて横向きに倒れ込んだのだ。
新九郎は慌てて万次の大きな上半身を抱き起した。
「血……!」
新九郎は顔を青くした。
右手に、血がべっとりと付着した。
見れば、元々血塗れであった万次の着物だが、右脇腹に特に大きな赤黒い染みがあった。
「いつの間に……韮沢さま、どうなさいましたか? 米山どのにやられたのですか?」
万次は意識を失いかけて目を閉じていたが、ゆっくりと瞼を開くと、
「よ、米山は斬った。だが……城を抜けて来る時にちょいとしくじって……脇腹をやられてな……」
「なんと、そんな身体で私の助太刀を……」
「城を出た時には大した傷じゃないと感じたんだが、どうやら思ったよりも深い傷だったらしいな……斬り合いの最中はあまり痛みを感じねえからな……」
「韮沢さま」
「そして……どうやらもうもたないらしい……残念だがな……」
万次は笑みを浮かべた。
「そんな……何か手は……」
新九郎は狼狽して、あるはずが無いのに周囲に何か止血できるものはないか探し始めた。
「もう無理だ、諦めよう。それより新九郎どの、すまんが……ここでいいので座らせてくれるか? 最後は武士らしく果てたい」
「は、はい……」
新九郎は、万次の上半身を慎重に起こし、先程座っていた切り株にもたれかからせた。
「うむ、これはよい。すまぬな」
「いえ」
「新九郎どの……聞いて欲しい。まず、新九郎どのは生きてくれ……今井一馬もきっとどこかで生き延びているに違いない。二人で生き延びて……力を合わせ……此度の真実を明らかにして欲しい。それは……大鳥さまや兼木、三木、今から死ぬわしの無念を晴らすとかではないぞ……城戸家の為、藩の為、そして民の為じゃ……城戸家の武士として……城戸家を我が物にせんとする巨大な悪を……討ってくれ……」
「韮沢さま……」
新九郎の目から、再び涙が流れ落ちた。
「お主らなら……お主ならできる……新九郎どのなら、きっとできる……己を信じろ……」
「はい……」
「此度のことで、殿は一人になってしまわれた……今頃はきっと心細かろう……殿を守れ……巨悪から殿を救えるのも……お主らしかおらぬ……頼むぞ」
韮沢万次は、目が半開きながらも優しく新九郎を見た。
「はい、承知仕りました。この黒須新九郎、必ずや城戸家に仇なす悪を討ち、殿と藩、民を救いまする」
新九郎は、嗚咽を漏らしながら誓った。
「うん……うん……」
それを聞いて、万次は満足そうな表情を浮かべたが、
「一つ心残りは、わしの娘の加奈のこと……できれば新九郎どのとの縁談をまとめて……新九郎どのと加奈との祝言を……一目見てみたかったわ……」
この期に及んで、万次は照れくさそうな顔をした。
「…………」
「新九郎どの……無理にとは言わんが……もしお主が良ければ……加奈のことをよろしく頼む……」
他ならぬ万次の最後の頼みであったが、新九郎はすぐに首を縦に振ることができなかった。
「新九郎どの……?」
「……はい、承知仕りました」
新九郎は頷いた。
「うむ……まあ、此度のことで、我が韮沢家もどうなるかわからんがの……」
万次は、自虐的に笑った。
「新九郎どの、よく覚えておくがいい……どんなに運に恵まれずとも、味方がいなくとも、武士には剣がある……武士の剣は、自らの道を斬り開くことができるのだ……お主には武士の剣がある……忘れるな」
万次はそう言って新九郎に微笑を見せると、瞼を落とした。
最後の言葉であった。
先程まで晴れて月が見えていた夜空であったが、急速に雨気をはらんだ黒雲が膨れ上がり、やがて冷たい小雨を地上に降らし始めた。
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その結果、領内の集落に潜んでいた三人が捕縛されて獄に繋がれた。
が、黒須新九郎らは未だに見つかっていない。
山狩りが命じられて十日ほどが過ぎた。
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その斬撃は見事に小動物の動きを止めた。それが何の生き物なのかはわからなかったが、男は仕留めた獲物を手に取ってまたふらふらと歩き出した。
ちょうど清流があった。男は枯れ枝を集めてその岸辺に集め、腰袋に提げていた火打石で火をつけた。炎が上がるまでの間、男は脇差で小動物の皮を剥ぎ、炎が充分になるとその中に入れて焼いた。
肉がこんがりと焼き上がると、男は脇差に差して取り出して食べた。
塩や醤油などの調味料は無いので味はしない。
だが、男は生きる為に腹を満たすと言う人間の本能のままにその肉を貪った。
全て食べ終えると、腹が満たされた。
男は大樹にもたれて座り、頭上の夜空を見上げて休んでいたが、急に吐き気を催して倒れるように地面に転がり、両手をついて激しく嘔吐した。
出せるものを全て吐ききると、男は地面に大の字に転がってはぁはぁと息を乱しながら星空を見た。
これほどまでに弱りながらも、二重瞼の下の瞳は光が強く、ぎらぎらと星を睨んでいた。
男は、黒須新九郎であった。
城から逃れ、小田内膳が山狩りを指示してからおよそ十日、ずっとこうして逃亡生活を続けていた。
二度、別の山中で討手に囲まれた。
一度は決死の奮戦で全て斬り倒し、二度目は二人を斬って逃げた。
生きなければ――
疲労しきった頭の中でその理由はすでに朧気になっており、ただその使命感だけが強烈に存在して彼を生へと動かしていた。
生きる――
新九郎は身体を起こして立ち上がり、再びふらふらと歩きだした。
その時であった。
突然、新九郎の足下が滑り、身体が転倒したかと思うと網の中に包まれて空中へ吊り上げられた。
――網罠! 抜かった!
四方の夜闇から、男たち数人が出て来た。
だが、新九郎を驚かせたのはその中に南条宗之進がいたことであった。
「な……南条さん……何故ここに?」
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三国志を知っている人なら誰もが一度は考える、
『もし、呂布が良い人だったら』
そんな三国志演義をベースにした、独自解釈込みの
三国志演義です。
三国志を読んだ事が無い人も、興味はあるけどと思っている人も、
触れてみて下さい。
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
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