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逆転の血飛沫
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「これは……どう言うことだ?」
大鳥は狼狽し、別の木箱、次の木箱、と次々と開けて、中に入っていた明細の紙を見て行った。だがどの紙にも、内膳の署名ではなく大鳥順三郎の署名が書かれていたのだった。
大鳥順三郎は、昨日の夕刻と今日の執務前の二度に渡って、これらの木箱の中に入っていた明細に小田内膳の署名が入っているのを確かめている。
それが何故か今、どれも大鳥順三郎自身の署名になっているのだ。もちろん彼はこのような物に署名した覚えはないし、するはずもない。
それ故に、
「偽造じゃ……何者かが真似て書いたに違いない」
と言うのは確実なのだが、これが実に巧妙で、細かな字の癖まで完璧に真似ており、完全に本物の大鳥順三郎の署名にしか見えない。
「ですが、私も常日頃から大鳥どのの署名をよく見ておりますが、これらはどれも間違いなく大鳥どのの署名ですぞ。とても偽造には見えませぬ」
内膳が丸い顔ににたりと笑みを浮かべて言うと、大鳥は声を荒げた。
「小田どの、それがしを陥れる為にこのような卑劣な小細工をするとは……!」
「何を言われるか。最初に不正だ横領だと言って、私だけでなく畏れ多くも流斎さままでをも悪人に仕立て上げようとしたのはそちらではござらぬか」
今度は内膳が大鳥に詰め寄った。
「実際には自分がやっていた横領と抜け売りを、さも私と流斎さまがやったように見せかけて罠にはめるつもりだったのでしょうが、肝心な明細の署名の書き換えを忘れて墓穴を掘るとは……いやいや、大鳥どのは実に抜けておられますなあ」
と、内膳は大声で笑った。聞いていた城戸流斎も、くっくっくっ、と低い笑い声を立てた。
――そうか、流斎さまと、その手の者たちか! 何故急に現れたのかと思ったら……抜かった!
大鳥は憤怒の形相で内膳と流斎を睨みつけると、再び縁台から大広間に入り、一体何が起きているのか、と緊張感に静まり返っている一座を見回して、
「ご一同、小田どのの言うことは信じてはなりませんぞ! どうやったのかはわからんが、これは小田どのと流斎さまがそれがしを陥れる為の卑劣な企てでござる。郡方の黒須新九郎が藤之津の船問屋でこの木箱を見つけた時は、確かに明細には小田内膳どのの署名があったのだ。それは城下に持ち帰って来てからも、それがしだけでなく、そこにいる兼木や韮沢、谷原、目付の岸川ら、また宇佐美どのまでもはっきりと見ておられる」
大鳥順三郎は大声を張り上げたが、その後ろから城戸流斎の大喝が飛んだ。
「大鳥、見苦しいぞ! 実際に今、あの木箱の中の明細にあったのは貴様自身の署名ではないか。しかもあれらは皆、貴様自身で運ばせて来た物だぞ」
大鳥は振り返り、血走った目で流斎を睨んだ。
呼吸は乱れ、大きな背が震えている。
大鳥は、懐から一枚の紙を取り出して掲げた。
「いや、もう一つある。これは先日、鉢窪村の庄屋屋敷が燃えた事件の際、その屋敷から見つかった連判状でござる」
一座の目が、一斉にその紙に注がれた。だが、何故か宇佐美三之丞だけは眉根を寄せて目を閉じた。
「この連判状には、郡奉行の松山帯刀どの、勘定頭の木田甚五郎、組頭の小谷右門…………らの名前が書かれている」
と、大鳥は連判状に連なっている名前を次々に読み上げた。
郡奉行松山帯刀を始めとして、この場にいて大鳥にその名を挙げられた者たちは皆、さっと顔を青くした。
「この連判状の目的と、最初の二人の名は墨で塗り潰されている為に判別できん。だが、ここに名前が書かれている者は皆、常日頃より小田どのと懇意にしている者たちばかり。これからすると、この塗り潰されたうちの一人は小田どので間違いなかろう、そしてもう一人は流斎さまだとそれがしは見ておる」
大広間にどよめきが走った。末座までがひそひそと囁き合っている。
だが、そこで小田内膳も広間に上がって来て、
「ふむ、奇遇ですな。実はちょうど私も先日、それと同じものと思われる連判状を入手しましてな。これは捨て置けぬと思い、このような機会に問い質そうと思っておったのです」
と、内膳も懐より一枚の紙を取り出し、両手で広げた。
それを一目見て、大鳥順三郎は顔色を変えた。
「私が手に入れた連判状にも、今大鳥どのが挙げた名前と全く同じ者たちの名前が書かれているので恐らく同じ目的の物だと思われます。だが、こちらには冒頭の二人も墨で塗り潰されておりませぬ」
内膳は、皆がよく見えるように、一歩進んで連判状を掲げて見せた。
「ここには、筆頭家老小田内膳と甲法山の城戸流斎を追い落とす為、との旨が書かれてある。そして首謀者と見られる最初の一人目の名は、大鳥順三郎。二人目には馬廻り組兼木作左衛門、と書かれておる」
内膳が言った瞬間、ざわめきがより大きくなった。
同時に、韮沢万次が立ち上がっていた。
「ありえん! 小田さま、何故そのようなことを!」
「おい、よせ万次」
名前を挙げられた方の兼木が慌ててその袖を引っ張って座らせた。
それを見て小田内膳は冷笑し、連判状をしまうと、
「さて、そこでだ。先程から大鳥どのが言っていた不正やら横領。実は私も以前より大鳥どのがそのような不正や横領をして私服を肥やしているのではないかと言う疑いを持っていた。そして先日、殿にこの疑惑を報告し、もしそれが誠であったならば藩始まって以来の一大事、大鳥どのの不正が誠であったと証明できた暁には、大鳥どの上意討ちの許可をいただきたい、と願い出たのだ」
内膳の言葉を聞きながら、大鳥順三郎の顔が段々と朱色に染まって行った。
「ところへ、今日、図らずも大鳥どの自らそれを証明してくれるかたちとなった」
「小田内膳……貴様……!」
目に憤怒を燃やしている大鳥に構わず、小田内膳は藩主政龍の下に行って両手をついた。
「殿、これで大鳥どのの不正は明らかとなりました。どうかこの場で大鳥どのを討つお許しをいただきたいと存じます」
「…………」
上座の藩主政龍は、青白い顔で固まっていた。
先日、小田内膳より大鳥順三郎の疑惑の報告を受け、同時に上意討ちの許可を求められたのは事実であった。
だが、それよりも前に大鳥順三郎より小田内膳に対する同じ疑惑の報告を受け、同じように上意討ちの許可を求められていた政龍。彼は大鳥順三郎の方を信頼していたので、まさか小田内膳の言う通りには行くまい、と思っていたのだ。
ところが今、目の前で不正は大鳥順三郎が行っていたもの、と証明されてしまった。
「…………」
聡明ではあるがまだ少年の政龍には、この急激な展開に思考が追い付かず、どうしてよいかもわからず、頭が真っ白になってしまっていた。
そんな藩主政龍を見て宇佐美が立ち上がりかけたが、それを遮るようにして先に城戸流斎が立ち上がった。
「皆の者。今聞き及んだ通りに、もうすでに大鳥の不正の証拠は完全に出揃っておる。加えて、先程より殿の叔父であり後見人でもあるこの儂に対して侮辱とも言える暴言の数々、これだけで充分に死罪に値する」
流斎は、堂々と広間を見回しながら、
「儂は殿の後見人じゃ。これは上意である! 大鳥順三郎とその一派の者たちを一人残さず斬れ! それだけではない。松山帯刀、木田甚五郎ら連判状に名のある者たちも斬れっ!」
と、大音声で命令した。
「え……?」
松山帯刀、木田甚五郎ら、連判状に名前を連ねている者たちは戸惑った。
彼らは流斎、内膳派の人間である。それなのに、流斎に斬るように命じられてしまった。
「お待ちください、流斎さま……」
松山帯刀が慌てて立ち上がりかけたが、その瞬間、彼の背から血が流れていた。
あの濃紺装束の人間が一瞬でその背後に現れ、松山の背を斬っていたのだ。前後左右の人間たちが驚いて後ずさった。
「な、なぜ……」
松山は無念を口にしながら突っ伏した。
たちまち悲鳴が上がった。剣の音と肉を裂く音が響き合った。
いつの間にか現れていた濃紺装束の者数人が大鳥派の藩士たちに襲い掛かり、それを見て小田派の藩士たちも剣を抜いて動いた。
大広間は一瞬で斬り合いの地獄へと化した。
「おのれ、内膳!」
激怒した大鳥順三郎が剣を取り、柄に右手をかけた。
だがその時、目の前にすっと降りて来た濃紺装束の大男が、大鳥に抜く間も与えず大刀で大鳥の肩から腹へと一気に斬り下ろした。
上半身から鮮血が噴出し、大鳥順三郎はガクッと両膝をついた。
大男は、"虎"であった。
大鳥順三郎は立ち上がろうとしたが身体を支えきれず、広がって行く自らの血だまりの中に倒れ込んだ。
それでも右手は剣を離さず、震えながら顔を上げて大男を見た。
「げ……元太だな……な、なぜ……」
虎は、嘲るような薄笑いで大鳥を見下ろしながら、
「俺から笹川組を奪った報いを受けろ」
と言うと、止めの剣を大鳥の背に突き刺した。
苦悶の呻き声を上げ、大鳥は血だまりの中に顔を濡らした。
「と……殿……」
これが、誰よりも藩と民を想い闘った戦国武将の如き家老、大鳥順三郎の最後の言葉であった。
「ご家老!」
襲って来る刃を防ぎ、躱し、斬りつけて奮戦していた韮沢万次は、大鳥順三郎が倒れたのを見ると、激昂してそちらへ走ろうとした。
だが、背後で同様に戦っていた兼木作左衛門がその肩を掴んだ。
「万次、ここはいかん、とりあえず逃げよう!」
だがその瞬間、兼木が背後から背と脚に攻撃を受けた。ほんのわずかな一瞬の隙であった。
兼木は振り返り、反撃の太刀を浴びせようとしたが体勢を保てず、脚がもつれて仰向けに倒れ込んだ。そこへ、別の小田派の藩士の剣が襲う。兼木は胸を貫かれて血を噴いた。
「兼木!」
韮沢は豪風唸る剣で四囲を薙ぎ払って片膝をついた。
「万次……いいから逃げろ……正義は俺たちだ……黒須たちを……」
兼木は言うと、絶命した。
「殿、ここは危のうございます。あちらへ行きましょう」
側用人の宇佐美三之丞は、震えている藩主政龍を守りながら、大広間から足早に出て廊下を歩いて行った。
その表情はいつもと変わらず冷静であったが、油断なく周囲に視線を配るその瞳には、それまでの彼が見せたことの無いあやしい光が灯っていた。
大鳥は狼狽し、別の木箱、次の木箱、と次々と開けて、中に入っていた明細の紙を見て行った。だがどの紙にも、内膳の署名ではなく大鳥順三郎の署名が書かれていたのだった。
大鳥順三郎は、昨日の夕刻と今日の執務前の二度に渡って、これらの木箱の中に入っていた明細に小田内膳の署名が入っているのを確かめている。
それが何故か今、どれも大鳥順三郎自身の署名になっているのだ。もちろん彼はこのような物に署名した覚えはないし、するはずもない。
それ故に、
「偽造じゃ……何者かが真似て書いたに違いない」
と言うのは確実なのだが、これが実に巧妙で、細かな字の癖まで完璧に真似ており、完全に本物の大鳥順三郎の署名にしか見えない。
「ですが、私も常日頃から大鳥どのの署名をよく見ておりますが、これらはどれも間違いなく大鳥どのの署名ですぞ。とても偽造には見えませぬ」
内膳が丸い顔ににたりと笑みを浮かべて言うと、大鳥は声を荒げた。
「小田どの、それがしを陥れる為にこのような卑劣な小細工をするとは……!」
「何を言われるか。最初に不正だ横領だと言って、私だけでなく畏れ多くも流斎さままでをも悪人に仕立て上げようとしたのはそちらではござらぬか」
今度は内膳が大鳥に詰め寄った。
「実際には自分がやっていた横領と抜け売りを、さも私と流斎さまがやったように見せかけて罠にはめるつもりだったのでしょうが、肝心な明細の署名の書き換えを忘れて墓穴を掘るとは……いやいや、大鳥どのは実に抜けておられますなあ」
と、内膳は大声で笑った。聞いていた城戸流斎も、くっくっくっ、と低い笑い声を立てた。
――そうか、流斎さまと、その手の者たちか! 何故急に現れたのかと思ったら……抜かった!
大鳥は憤怒の形相で内膳と流斎を睨みつけると、再び縁台から大広間に入り、一体何が起きているのか、と緊張感に静まり返っている一座を見回して、
「ご一同、小田どのの言うことは信じてはなりませんぞ! どうやったのかはわからんが、これは小田どのと流斎さまがそれがしを陥れる為の卑劣な企てでござる。郡方の黒須新九郎が藤之津の船問屋でこの木箱を見つけた時は、確かに明細には小田内膳どのの署名があったのだ。それは城下に持ち帰って来てからも、それがしだけでなく、そこにいる兼木や韮沢、谷原、目付の岸川ら、また宇佐美どのまでもはっきりと見ておられる」
大鳥順三郎は大声を張り上げたが、その後ろから城戸流斎の大喝が飛んだ。
「大鳥、見苦しいぞ! 実際に今、あの木箱の中の明細にあったのは貴様自身の署名ではないか。しかもあれらは皆、貴様自身で運ばせて来た物だぞ」
大鳥は振り返り、血走った目で流斎を睨んだ。
呼吸は乱れ、大きな背が震えている。
大鳥は、懐から一枚の紙を取り出して掲げた。
「いや、もう一つある。これは先日、鉢窪村の庄屋屋敷が燃えた事件の際、その屋敷から見つかった連判状でござる」
一座の目が、一斉にその紙に注がれた。だが、何故か宇佐美三之丞だけは眉根を寄せて目を閉じた。
「この連判状には、郡奉行の松山帯刀どの、勘定頭の木田甚五郎、組頭の小谷右門…………らの名前が書かれている」
と、大鳥は連判状に連なっている名前を次々に読み上げた。
郡奉行松山帯刀を始めとして、この場にいて大鳥にその名を挙げられた者たちは皆、さっと顔を青くした。
「この連判状の目的と、最初の二人の名は墨で塗り潰されている為に判別できん。だが、ここに名前が書かれている者は皆、常日頃より小田どのと懇意にしている者たちばかり。これからすると、この塗り潰されたうちの一人は小田どので間違いなかろう、そしてもう一人は流斎さまだとそれがしは見ておる」
大広間にどよめきが走った。末座までがひそひそと囁き合っている。
だが、そこで小田内膳も広間に上がって来て、
「ふむ、奇遇ですな。実はちょうど私も先日、それと同じものと思われる連判状を入手しましてな。これは捨て置けぬと思い、このような機会に問い質そうと思っておったのです」
と、内膳も懐より一枚の紙を取り出し、両手で広げた。
それを一目見て、大鳥順三郎は顔色を変えた。
「私が手に入れた連判状にも、今大鳥どのが挙げた名前と全く同じ者たちの名前が書かれているので恐らく同じ目的の物だと思われます。だが、こちらには冒頭の二人も墨で塗り潰されておりませぬ」
内膳は、皆がよく見えるように、一歩進んで連判状を掲げて見せた。
「ここには、筆頭家老小田内膳と甲法山の城戸流斎を追い落とす為、との旨が書かれてある。そして首謀者と見られる最初の一人目の名は、大鳥順三郎。二人目には馬廻り組兼木作左衛門、と書かれておる」
内膳が言った瞬間、ざわめきがより大きくなった。
同時に、韮沢万次が立ち上がっていた。
「ありえん! 小田さま、何故そのようなことを!」
「おい、よせ万次」
名前を挙げられた方の兼木が慌ててその袖を引っ張って座らせた。
それを見て小田内膳は冷笑し、連判状をしまうと、
「さて、そこでだ。先程から大鳥どのが言っていた不正やら横領。実は私も以前より大鳥どのがそのような不正や横領をして私服を肥やしているのではないかと言う疑いを持っていた。そして先日、殿にこの疑惑を報告し、もしそれが誠であったならば藩始まって以来の一大事、大鳥どのの不正が誠であったと証明できた暁には、大鳥どの上意討ちの許可をいただきたい、と願い出たのだ」
内膳の言葉を聞きながら、大鳥順三郎の顔が段々と朱色に染まって行った。
「ところへ、今日、図らずも大鳥どの自らそれを証明してくれるかたちとなった」
「小田内膳……貴様……!」
目に憤怒を燃やしている大鳥に構わず、小田内膳は藩主政龍の下に行って両手をついた。
「殿、これで大鳥どのの不正は明らかとなりました。どうかこの場で大鳥どのを討つお許しをいただきたいと存じます」
「…………」
上座の藩主政龍は、青白い顔で固まっていた。
先日、小田内膳より大鳥順三郎の疑惑の報告を受け、同時に上意討ちの許可を求められたのは事実であった。
だが、それよりも前に大鳥順三郎より小田内膳に対する同じ疑惑の報告を受け、同じように上意討ちの許可を求められていた政龍。彼は大鳥順三郎の方を信頼していたので、まさか小田内膳の言う通りには行くまい、と思っていたのだ。
ところが今、目の前で不正は大鳥順三郎が行っていたもの、と証明されてしまった。
「…………」
聡明ではあるがまだ少年の政龍には、この急激な展開に思考が追い付かず、どうしてよいかもわからず、頭が真っ白になってしまっていた。
そんな藩主政龍を見て宇佐美が立ち上がりかけたが、それを遮るようにして先に城戸流斎が立ち上がった。
「皆の者。今聞き及んだ通りに、もうすでに大鳥の不正の証拠は完全に出揃っておる。加えて、先程より殿の叔父であり後見人でもあるこの儂に対して侮辱とも言える暴言の数々、これだけで充分に死罪に値する」
流斎は、堂々と広間を見回しながら、
「儂は殿の後見人じゃ。これは上意である! 大鳥順三郎とその一派の者たちを一人残さず斬れ! それだけではない。松山帯刀、木田甚五郎ら連判状に名のある者たちも斬れっ!」
と、大音声で命令した。
「え……?」
松山帯刀、木田甚五郎ら、連判状に名前を連ねている者たちは戸惑った。
彼らは流斎、内膳派の人間である。それなのに、流斎に斬るように命じられてしまった。
「お待ちください、流斎さま……」
松山帯刀が慌てて立ち上がりかけたが、その瞬間、彼の背から血が流れていた。
あの濃紺装束の人間が一瞬でその背後に現れ、松山の背を斬っていたのだ。前後左右の人間たちが驚いて後ずさった。
「な、なぜ……」
松山は無念を口にしながら突っ伏した。
たちまち悲鳴が上がった。剣の音と肉を裂く音が響き合った。
いつの間にか現れていた濃紺装束の者数人が大鳥派の藩士たちに襲い掛かり、それを見て小田派の藩士たちも剣を抜いて動いた。
大広間は一瞬で斬り合いの地獄へと化した。
「おのれ、内膳!」
激怒した大鳥順三郎が剣を取り、柄に右手をかけた。
だがその時、目の前にすっと降りて来た濃紺装束の大男が、大鳥に抜く間も与えず大刀で大鳥の肩から腹へと一気に斬り下ろした。
上半身から鮮血が噴出し、大鳥順三郎はガクッと両膝をついた。
大男は、"虎"であった。
大鳥順三郎は立ち上がろうとしたが身体を支えきれず、広がって行く自らの血だまりの中に倒れ込んだ。
それでも右手は剣を離さず、震えながら顔を上げて大男を見た。
「げ……元太だな……な、なぜ……」
虎は、嘲るような薄笑いで大鳥を見下ろしながら、
「俺から笹川組を奪った報いを受けろ」
と言うと、止めの剣を大鳥の背に突き刺した。
苦悶の呻き声を上げ、大鳥は血だまりの中に顔を濡らした。
「と……殿……」
これが、誰よりも藩と民を想い闘った戦国武将の如き家老、大鳥順三郎の最後の言葉であった。
「ご家老!」
襲って来る刃を防ぎ、躱し、斬りつけて奮戦していた韮沢万次は、大鳥順三郎が倒れたのを見ると、激昂してそちらへ走ろうとした。
だが、背後で同様に戦っていた兼木作左衛門がその肩を掴んだ。
「万次、ここはいかん、とりあえず逃げよう!」
だがその瞬間、兼木が背後から背と脚に攻撃を受けた。ほんのわずかな一瞬の隙であった。
兼木は振り返り、反撃の太刀を浴びせようとしたが体勢を保てず、脚がもつれて仰向けに倒れ込んだ。そこへ、別の小田派の藩士の剣が襲う。兼木は胸を貫かれて血を噴いた。
「兼木!」
韮沢は豪風唸る剣で四囲を薙ぎ払って片膝をついた。
「万次……いいから逃げろ……正義は俺たちだ……黒須たちを……」
兼木は言うと、絶命した。
「殿、ここは危のうございます。あちらへ行きましょう」
側用人の宇佐美三之丞は、震えている藩主政龍を守りながら、大広間から足早に出て廊下を歩いて行った。
その表情はいつもと変わらず冷静であったが、油断なく周囲に視線を配るその瞳には、それまでの彼が見せたことの無いあやしい光が灯っていた。
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