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父と娘、光と影の中に
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「お前はたまたま黒須の家に女中として入ることになったが、その後、偶然にもその主の黒須新九郎が大鳥の一派に入ることになった。これは天の与えた好機と思い、お前にはそのまま黒須の家で様々に働いてもらうつもりであったが……」
「…………」
「まさか、かえって我らの足を引っ張るような真似をするとはな」
「…………」
娘は、まだ黙っている。
「何か言わぬか」
父の言葉が、静寂の中に響いた。
りよの視線が動いた。だがその視線は、流斎の背後の壁に描かれている龍虎の墨絵に向かった。
「足を引っ張った……でしょうか。わたくしは、父上とお頭のご命令通りの働きをしたつもりです」
「うん?」
「黒須家の納屋に密かに縮を入れたのを始めとし、黒須家を拠点に様々な工作をし、知り得た大鳥派の情報も余すことなくお知らせいたしました」
「確かに、お前はよく働いてくれた。だが、それも途中までだ。何故白鳥山で奴らと対峙した時、黒須に斬りかからなかった? それどころではなくその後……」
と、流斎は扇子で畳を一突きして、
「この間で我が派に入るのを拒んだ黒須を取り囲んだ時、煙玉を放って黒須の逃走を助けたのはお前であろう」
「…………」
「更に、裏口の戸を開けておいて黒須を導いた。虎の調べでわかっておるぞ」
「…………」
りよは何も答えず、龍虎の墨絵を見つめていた。
流斎は、ふと気づいて、眉根を寄せてりよの全身を見た。
表情から手足の端々、佇まいにいたるまで、どこか以前には感じられなかった女性の色気が匂っている。
「黒須家で新九郎と共に暮らすうちに情が沸いてしまったか」
りよは、ぴくりと動き、目線を落とした。
「いえ……情が沸きそうになったが故に、恩を返して黒須家を去ろうとしたのです」
「なに?」
「わたくしが黒須家に入ったのは確かに偶然です。任務で足を怪我して動けなくなっていたところを、新九郎様に助けてもらったのがきっかけでございます。新九郎様はその時、医者を呼んでくれただけでなく、数日間自ら手当てをしてくださいました。なんと武家の方がです」
りよは、膝に当てていた手をきゅっと握った。
「そのような御恩を受けていながら、わたくしは黒須家の屋敷にいて様々な諜報工作をしただけでなく、新九郎様を陥れるようなことまでしてしまった。わたくしは、そのことにずっと罪悪感を感じておりました。それどころか、黒須家で共に暮らすうちにわたくしは新九郎様に情が沸きそうになりました。このままでは組の仕事に支障が出てしまう。それ故に、わたくしの自己満足ですが、新九郎様を助けることによってわたくしの罪悪感を消し、助けていただいた御恩も返してから、黒須家を去ろうとしたのです」
「……なんと」
りよの言葉を聞き終えて、流斎は脇息に右肘をついた。
「おまえの気持ちは理解できる。だが、この仕事の為には私情は捨てる、それが基本にして最大の掟、そう厳しく教えていたはずだ」
「はい、わかっております。しかし、できませなんだ……わたくしは組の副長でありながら、掟に背いてしまいました。いかなる罰でもお受けいたします」
りよは、淡々と答えた。
「うむ、我が娘だからと言って掟を破り、仕事の邪魔をした罪は許されぬ。斬らねばならぬ」
流斎は斬る、と口にしたが、りよは特に反応を示さなかった。
「だが、そうはさせぬ。他の罰も与えぬ。これが我が父(先々代藩主)であればすぐに手討ちにしていたであろう。父はそのようにむやみに人を罰し、それによって人心を失った。それ故に、儂は失敗や罪には罰を与えるよりも、それに倍する功を立てさせて償わせる。そう言う考えじゃ。その方が家臣たちもやる気が出るし、全体の働きも上がる。それでこそ主君たる者のやり方であろう」
どこか誇らしげに流斎は語った。
だが、りよは嘲るような笑みで、
「ふ……自分こそがこの藩の主であると?」
流斎は、じろりとりよを睨んだ。
「当たり前じゃ。政龍(今の藩主)は、藩主の器ではなかった父が選んだ、弟(先代藩主)の子である。長子である儂こそがこの藩の正当な主じゃ」
「五十を過ぎてもまだそのように拘るとは、それこそ器が小さいのではございませぬか?」
「慎め!」
流斎は額に青筋を立てた。
りよは、皮肉めいた笑みを口元に残したまま、目を伏せた。
「とにかく、お前には"まだ"罰は与えぬ。すぐ近く、大きな仕事がある。遂に大鳥派を壊滅させる日が来たのだ」
りよが、表情を変えて顔を上げると、流斎は目を怪しく光らせてにやりとしていた。
「その仕事にお前も加わり、功を挙げよ。さすれば、お前の罪は赦す」
「大鳥派を? 大鳥派は今、父上の荷駄隊を追っていると聞いております。逆にこちらの危機なのでは?」
「ふ……そう思うか」
流斎は、くっくっくっと低い笑い声を立てた。
「まあとにかく、大鳥たちはもう終わりよ、そして政龍もな。と言うことでわかったな? 今度は惑うことなく励め」
りよは、睨むように流斎を見た。
「……新九郎様はどうなされるおつもりですか?」
「さあな。その時になってみないとわからぬわ」
「…………」
「ふふ…………」
薄笑いを浮かべる流斎と、口を引き結んだりよの視線が、無言のままにぶつかっていた。
りよは、ふうっと吐息をついた。
「承知いたしました。私も加わり、今度は掟に違うことなく働きまする。しかし、一つお願いがございます」
「ほう、願いとは珍しいな、何だ?」
「その仕事が終わりましたら、わたくしを影虎組から外してくださいませ」
「うん?」
「それだけでなく、父上との親子の縁もお切りいただきとうございます」
「何じゃと?」
これには流石に流斎も顔色を変えた。
「所詮わたくしは父上の妾となった母の連れ子。元より父上とは血の繋がりもございませぬ。その仕事を最後にして縁をお切りいただき、藤之津の一人の町娘に戻りたく思います」
「……何故突然そのようなことを」
「疲れました」
りよは、悲しそうな目をした。
「己を偽る日々。心は嫌がっているのに人の命を奪う日々。わたくしの刃で血を流す度に、わたくしの心からも血が流れて行きます。そのようなことにもう疲れ果ててしまったのです。貧しくとも、行くところがなくとも、人を傷つけることなど無い平穏な毎日を過ごしたいのです」
「…………」
「誠に申し訳ございませぬ」
りよは、両手を畳について深く頭を下げた。
だが、流斎はりよの頭に冷ややかな言葉を浴びせた。
「ならぬ」
りよは、両手をついたまま固まった。
「誰がここまでお前を育てたと思っている。それを忘れたか」
「忘れてはおりませぬ」
りよは頭を上げると、両手を膝の上に置いて流斎を見た。
「母がすぐに亡くなった後、元より血の繋がらぬわたくしはいつ捨てられてもおかしくありませんでした。それなのに、父上はわたくしを見捨てず、養女として育ててくださいました。それには心より感謝しております。その御恩に報いる為、わたくしは二十四の秘術を教えられて組に入れられても文句は言わず、父上の為に働いて来ました。しかし、組に入ってからもう八年が経ちました。父上の養女となって組に入るまでの五年より長くなりました。勝手でございますが、もうその御恩は返せたのではないかと思っております。ですので、次の仕事を終えたら、影虎組からも父上からも離れさせてくださいませ」
りよの懇願するような言葉の端々に悲壮感があった。
だが、やはり流斎は表情を変えずに扇子をつくと、
「気持ちはわかった。だがやはりならぬ。お前は儂の計画とその為に作り上げた物の流れや組織の全容のほとんどを知っておるのだ。ここまで知ってしまっている人間を今更放すわけにはいかんのだ。娘であろうとなかろうとな」
「…………」
りよは呆然とした。半面を照らしていた陽光がすっと消え、絶望を表すかのような影が差した。りよは流斎の顔から視線を落とすと、目を閉じた。
「…………」
影に沈んだりよの顔を、流斎はじっと見つめていた。
しばしの沈黙の後、りよは目を開けた。
「わかりました。お別れでございます」
と言うと、りよは右手を懐に差し込んだ。
流斎は即座に何をするのか察し、驚いて腰を浮かせた。
「やめよ!」
その時には、りよの左手には匕首が握られており、右手も柄にかかろうとしていた。
流斎は片膝をつき、咄嗟に持っていた扇子を投げた。流斎は、先日も夜闇の中の野良犬を匕首を投げて仕留めたほどの手裏剣の名手である。扇子は寸分の狂いも無くりよの右手に当たり、匕首が転がった。
同時に流斎は畳を蹴ってりよに飛び掛かっていた。りよは落ちた匕首を拾おうとしたが、流斎はりよの身体を引っ張ってそれを制した。
「お放しください!」
りよはもがいて抵抗したが、流斎も必死にりよの身体を押える。
「やめい、早まるな!」
「……お慕いする人のお側にも行けず……自由にもなれないならばいっそ……!」
りよの右手が匕首に届いたが、
「慕う? お前、やはり……」
流斎の問いかけに、りよは、はっとして手を止めた。
その隙を逃さず、流斎は匕首を手で払って廊下の際にまで飛ばした。
ちょうどその時、騒ぎ声を聞いて何か起きたかと心配した虎が外の廊下に飛んで来ており、匕首は虎の足下に転がった。
虎は、流斎とりよの姿、足下の匕首を見て何が起きたかをおおよそ察し、慌てて匕首を拾い上げた。
「殿、お怪我はございませぬか?」
虎は急いで流斎とりよのところに駆け寄ろうとしたが、流斎が手を振って、来るなと制した。
りよは、もう匕首を取りに行こうとはしなかったが、肩を震わせ、下を向いて泣いていた。
流斎は、りよを落ち着かせるように肩をさすると、優しい声を出した。
「わかった……お前の気持ちはわかった……」
「ですから……せめて……せめて大好きな母上のところへ行かせてくださりませ……」
「だからそう早まるでない、聞け。儂は、手先となる影虎組の中心に信頼できる縁者の女子が欲しいと思い、最もふさわしいお前を組に入れた」
「…………」
「だが、儂の志が成った暁には、お前は組から抜けさせて好きにさせるか、儂の娘として重臣や江戸の旗本にでも嫁がせようと思っておった」
「…………」
「血の縁はなくとも、お前は儂の娘であることには変わりはないからの」
りよは、泣き顔のまま振り返り、流斎の顔を見た。
「組の中心で組全体の統率にも関わり、尚且つ女子にしかできない働きもする。これができるのは儂の娘であるお前しかおらぬ。それ故、もう少し耐えてくれぬか。そう、もう少しじゃ。もう少しで儂の大志が成就する。その暁には組の存在も秘密にしておく必要は無いし、今のように闇に物を動かすこともなくなる。そうなればお前を縛っておく理由もなくなるのじゃ。必ずお前を自由にさせよう、約束する」
「…………」
りよは無言であったが、真偽を問いかけるような目で流斎を見ていた。
「誠じゃ、嘘は言わぬ。誓紙を書いても良いわ」
流斎は笑った。
「事が成ったならば、藤之津に帰るなり、黒須のところへ行くなり、好きにするが良い」
りよは、庭に目をやった。
空にあった雲が流れて行ったのか、庭全体に再び光が満ちて白い砂を煌めかせていた。
「…………」
「まさか、かえって我らの足を引っ張るような真似をするとはな」
「…………」
娘は、まだ黙っている。
「何か言わぬか」
父の言葉が、静寂の中に響いた。
りよの視線が動いた。だがその視線は、流斎の背後の壁に描かれている龍虎の墨絵に向かった。
「足を引っ張った……でしょうか。わたくしは、父上とお頭のご命令通りの働きをしたつもりです」
「うん?」
「黒須家の納屋に密かに縮を入れたのを始めとし、黒須家を拠点に様々な工作をし、知り得た大鳥派の情報も余すことなくお知らせいたしました」
「確かに、お前はよく働いてくれた。だが、それも途中までだ。何故白鳥山で奴らと対峙した時、黒須に斬りかからなかった? それどころではなくその後……」
と、流斎は扇子で畳を一突きして、
「この間で我が派に入るのを拒んだ黒須を取り囲んだ時、煙玉を放って黒須の逃走を助けたのはお前であろう」
「…………」
「更に、裏口の戸を開けておいて黒須を導いた。虎の調べでわかっておるぞ」
「…………」
りよは何も答えず、龍虎の墨絵を見つめていた。
流斎は、ふと気づいて、眉根を寄せてりよの全身を見た。
表情から手足の端々、佇まいにいたるまで、どこか以前には感じられなかった女性の色気が匂っている。
「黒須家で新九郎と共に暮らすうちに情が沸いてしまったか」
りよは、ぴくりと動き、目線を落とした。
「いえ……情が沸きそうになったが故に、恩を返して黒須家を去ろうとしたのです」
「なに?」
「わたくしが黒須家に入ったのは確かに偶然です。任務で足を怪我して動けなくなっていたところを、新九郎様に助けてもらったのがきっかけでございます。新九郎様はその時、医者を呼んでくれただけでなく、数日間自ら手当てをしてくださいました。なんと武家の方がです」
りよは、膝に当てていた手をきゅっと握った。
「そのような御恩を受けていながら、わたくしは黒須家の屋敷にいて様々な諜報工作をしただけでなく、新九郎様を陥れるようなことまでしてしまった。わたくしは、そのことにずっと罪悪感を感じておりました。それどころか、黒須家で共に暮らすうちにわたくしは新九郎様に情が沸きそうになりました。このままでは組の仕事に支障が出てしまう。それ故に、わたくしの自己満足ですが、新九郎様を助けることによってわたくしの罪悪感を消し、助けていただいた御恩も返してから、黒須家を去ろうとしたのです」
「……なんと」
りよの言葉を聞き終えて、流斎は脇息に右肘をついた。
「おまえの気持ちは理解できる。だが、この仕事の為には私情は捨てる、それが基本にして最大の掟、そう厳しく教えていたはずだ」
「はい、わかっております。しかし、できませなんだ……わたくしは組の副長でありながら、掟に背いてしまいました。いかなる罰でもお受けいたします」
りよは、淡々と答えた。
「うむ、我が娘だからと言って掟を破り、仕事の邪魔をした罪は許されぬ。斬らねばならぬ」
流斎は斬る、と口にしたが、りよは特に反応を示さなかった。
「だが、そうはさせぬ。他の罰も与えぬ。これが我が父(先々代藩主)であればすぐに手討ちにしていたであろう。父はそのようにむやみに人を罰し、それによって人心を失った。それ故に、儂は失敗や罪には罰を与えるよりも、それに倍する功を立てさせて償わせる。そう言う考えじゃ。その方が家臣たちもやる気が出るし、全体の働きも上がる。それでこそ主君たる者のやり方であろう」
どこか誇らしげに流斎は語った。
だが、りよは嘲るような笑みで、
「ふ……自分こそがこの藩の主であると?」
流斎は、じろりとりよを睨んだ。
「当たり前じゃ。政龍(今の藩主)は、藩主の器ではなかった父が選んだ、弟(先代藩主)の子である。長子である儂こそがこの藩の正当な主じゃ」
「五十を過ぎてもまだそのように拘るとは、それこそ器が小さいのではございませぬか?」
「慎め!」
流斎は額に青筋を立てた。
りよは、皮肉めいた笑みを口元に残したまま、目を伏せた。
「とにかく、お前には"まだ"罰は与えぬ。すぐ近く、大きな仕事がある。遂に大鳥派を壊滅させる日が来たのだ」
りよが、表情を変えて顔を上げると、流斎は目を怪しく光らせてにやりとしていた。
「その仕事にお前も加わり、功を挙げよ。さすれば、お前の罪は赦す」
「大鳥派を? 大鳥派は今、父上の荷駄隊を追っていると聞いております。逆にこちらの危機なのでは?」
「ふ……そう思うか」
流斎は、くっくっくっと低い笑い声を立てた。
「まあとにかく、大鳥たちはもう終わりよ、そして政龍もな。と言うことでわかったな? 今度は惑うことなく励め」
りよは、睨むように流斎を見た。
「……新九郎様はどうなされるおつもりですか?」
「さあな。その時になってみないとわからぬわ」
「…………」
「ふふ…………」
薄笑いを浮かべる流斎と、口を引き結んだりよの視線が、無言のままにぶつかっていた。
りよは、ふうっと吐息をついた。
「承知いたしました。私も加わり、今度は掟に違うことなく働きまする。しかし、一つお願いがございます」
「ほう、願いとは珍しいな、何だ?」
「その仕事が終わりましたら、わたくしを影虎組から外してくださいませ」
「うん?」
「それだけでなく、父上との親子の縁もお切りいただきとうございます」
「何じゃと?」
これには流石に流斎も顔色を変えた。
「所詮わたくしは父上の妾となった母の連れ子。元より父上とは血の繋がりもございませぬ。その仕事を最後にして縁をお切りいただき、藤之津の一人の町娘に戻りたく思います」
「……何故突然そのようなことを」
「疲れました」
りよは、悲しそうな目をした。
「己を偽る日々。心は嫌がっているのに人の命を奪う日々。わたくしの刃で血を流す度に、わたくしの心からも血が流れて行きます。そのようなことにもう疲れ果ててしまったのです。貧しくとも、行くところがなくとも、人を傷つけることなど無い平穏な毎日を過ごしたいのです」
「…………」
「誠に申し訳ございませぬ」
りよは、両手を畳について深く頭を下げた。
だが、流斎はりよの頭に冷ややかな言葉を浴びせた。
「ならぬ」
りよは、両手をついたまま固まった。
「誰がここまでお前を育てたと思っている。それを忘れたか」
「忘れてはおりませぬ」
りよは頭を上げると、両手を膝の上に置いて流斎を見た。
「母がすぐに亡くなった後、元より血の繋がらぬわたくしはいつ捨てられてもおかしくありませんでした。それなのに、父上はわたくしを見捨てず、養女として育ててくださいました。それには心より感謝しております。その御恩に報いる為、わたくしは二十四の秘術を教えられて組に入れられても文句は言わず、父上の為に働いて来ました。しかし、組に入ってからもう八年が経ちました。父上の養女となって組に入るまでの五年より長くなりました。勝手でございますが、もうその御恩は返せたのではないかと思っております。ですので、次の仕事を終えたら、影虎組からも父上からも離れさせてくださいませ」
りよの懇願するような言葉の端々に悲壮感があった。
だが、やはり流斎は表情を変えずに扇子をつくと、
「気持ちはわかった。だがやはりならぬ。お前は儂の計画とその為に作り上げた物の流れや組織の全容のほとんどを知っておるのだ。ここまで知ってしまっている人間を今更放すわけにはいかんのだ。娘であろうとなかろうとな」
「…………」
りよは呆然とした。半面を照らしていた陽光がすっと消え、絶望を表すかのような影が差した。りよは流斎の顔から視線を落とすと、目を閉じた。
「…………」
影に沈んだりよの顔を、流斎はじっと見つめていた。
しばしの沈黙の後、りよは目を開けた。
「わかりました。お別れでございます」
と言うと、りよは右手を懐に差し込んだ。
流斎は即座に何をするのか察し、驚いて腰を浮かせた。
「やめよ!」
その時には、りよの左手には匕首が握られており、右手も柄にかかろうとしていた。
流斎は片膝をつき、咄嗟に持っていた扇子を投げた。流斎は、先日も夜闇の中の野良犬を匕首を投げて仕留めたほどの手裏剣の名手である。扇子は寸分の狂いも無くりよの右手に当たり、匕首が転がった。
同時に流斎は畳を蹴ってりよに飛び掛かっていた。りよは落ちた匕首を拾おうとしたが、流斎はりよの身体を引っ張ってそれを制した。
「お放しください!」
りよはもがいて抵抗したが、流斎も必死にりよの身体を押える。
「やめい、早まるな!」
「……お慕いする人のお側にも行けず……自由にもなれないならばいっそ……!」
りよの右手が匕首に届いたが、
「慕う? お前、やはり……」
流斎の問いかけに、りよは、はっとして手を止めた。
その隙を逃さず、流斎は匕首を手で払って廊下の際にまで飛ばした。
ちょうどその時、騒ぎ声を聞いて何か起きたかと心配した虎が外の廊下に飛んで来ており、匕首は虎の足下に転がった。
虎は、流斎とりよの姿、足下の匕首を見て何が起きたかをおおよそ察し、慌てて匕首を拾い上げた。
「殿、お怪我はございませぬか?」
虎は急いで流斎とりよのところに駆け寄ろうとしたが、流斎が手を振って、来るなと制した。
りよは、もう匕首を取りに行こうとはしなかったが、肩を震わせ、下を向いて泣いていた。
流斎は、りよを落ち着かせるように肩をさすると、優しい声を出した。
「わかった……お前の気持ちはわかった……」
「ですから……せめて……せめて大好きな母上のところへ行かせてくださりませ……」
「だからそう早まるでない、聞け。儂は、手先となる影虎組の中心に信頼できる縁者の女子が欲しいと思い、最もふさわしいお前を組に入れた」
「…………」
「だが、儂の志が成った暁には、お前は組から抜けさせて好きにさせるか、儂の娘として重臣や江戸の旗本にでも嫁がせようと思っておった」
「…………」
「血の縁はなくとも、お前は儂の娘であることには変わりはないからの」
りよは、泣き顔のまま振り返り、流斎の顔を見た。
「組の中心で組全体の統率にも関わり、尚且つ女子にしかできない働きもする。これができるのは儂の娘であるお前しかおらぬ。それ故、もう少し耐えてくれぬか。そう、もう少しじゃ。もう少しで儂の大志が成就する。その暁には組の存在も秘密にしておく必要は無いし、今のように闇に物を動かすこともなくなる。そうなればお前を縛っておく理由もなくなるのじゃ。必ずお前を自由にさせよう、約束する」
「…………」
りよは無言であったが、真偽を問いかけるような目で流斎を見ていた。
「誠じゃ、嘘は言わぬ。誓紙を書いても良いわ」
流斎は笑った。
「事が成ったならば、藤之津に帰るなり、黒須のところへ行くなり、好きにするが良い」
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