葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝

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港町の燕

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 昼のあの騒動ーー

 燕であったりよが、虎と共に逃げ去った後、三木辰之助が血を吐いて倒れた。
 新九郎は大急ぎで医者を連れて来て辰之助を診させた。薬湯を飲ませ、少し休息させると辰之助はだいぶ体調を戻したが、それで終わりと言うわけにも行かなかった。

「このことはすぐにご家老に報告せねばならん。いいな、黒須?」

 辰之助は、じろりと新九郎を見た。その目には、まだどこか疑いの色が残っていた。

「もちろんだが、お前は家に帰って休んでいた方がいい。俺一人で行こう」
「いや……お前が見たのはほんの少しだけだ……俺はあの女中と虎と話している。俺も行かねばならん」

 と、辰之助は聞かず、二人で大鳥邸へ向かった。

 奥の座敷で報告を聞いた大鳥順三郎は非常に驚き、口を引き結んで呻いた。

「一度お主の屋敷に行った時に見たあのきれいな女中か……なるほど、あの者が……」
「私の不覚にございます。同じ屋敷にいながら全く気付かなかったとは、誠に面目次第もございませぬ」

 新九郎は畳に額をこすりつけて謝った。

「あの女中、黒須の屋敷に潜り込んで情報を得る為に、わざと黒須に近づいたのでしょうな」

 辰之助は言ったが、順三郎は「いや……」と、

「その可能性は薄いと見る。あの女中が新九郎の屋敷に入った時期は、新九郎はまだ我が一派ではなかった。儂も、新兵衛のことがあって、新九郎を我が派に入れる考えはまだなかったしのう。だが、儂が指摘した鉢窪村の小物成の件……」
「…………」

「あれで困った小田内膳と流斎様が、たまたま担当の新九郎の屋敷に燕がいたことを幸いとして、新九郎に罪を着せるべく動かした。結果は奴らにとって失敗に終わったが、あれを機に、新九郎は我が派の者となった。それを知った流斎様たちは更にこれ幸いとして、燕に間者として黒須家に留まって様々な工作をするよう指示していたのであろう」

 順三郎は扇子を畳に置くと、腕を組んだ。

「黒須、今晩の作戦について、あの女に何か話したことはあるか?」

 辰之助が新九郎に訊いたが、新九郎は即座に首を横に振った。

「ない。今晩は仕事で桃川村に行き、帰りは明日になる、と嘘を言ってあるが、作戦については一切言っていない。それどころか、家では我らの仕事については一言も話しておらぬし、妹にも俺がご家老の一派であると言うことすら話していない」

 大鳥順三郎はそれを聞くと眉毛をぴくりと動かした。

「なるほど。では作戦が漏れていることは考えられぬが、帰りが明日になると言っているのが引っかかるな。甲法山から不正物資を出す予定の日じゃ。あの者たちならば、それだけで今晩我らが何か動くのでは、と考えるのではないか?」
「確かに……抜かりました、申し訳ございませぬ」
「よい、もう起こってしまったことじゃ。それよりは対策じゃ」

 と、大鳥順三郎は天井を見上げて考え込んだ。

「……どのみち流斎さまは不正物資や金を江戸や近隣に送らなければならない。そしてすでに今回の準備はできてしまっている。我らの動きを感付かれて今晩は回避されたとしても、近いうちに動くのは確実じゃ。それまで毎日張れば良いだけよ」
「毎日……ですか」

 相変わらずの大鳥の強引さであるが、こうして予定通り作戦は決行に移されることになった。

 だがこの夜、新九郎が早暁の薄い曙光で目覚めるまで、関所やその周辺には流斎様の荷駄隊が通るどころか、何も不審なことは起こらなかった。
 朝になると、兼木作左衛門らと持ち場を交代することになっている。

「荷駄隊どころか、間者らしき者すら現れなかったわ」

 兼木作左衛門があくびをしながら言うと、

「偽装して昼間に抜けるつもりかの」

 韮沢万次が答えながら座敷に上がった。

「であれば偽装しててもすぐわかりそうなものだが、そこの者どもを厳しく問いただしたところ、これまでそのような怪しい者たちが通ったことはなかったと」

 兼木が、右手の親指で朝陽が入り込んでいない薄暗い隅を指した。
 そこには、三人の役人が刀を取り上げられた上で座らされていた。

「小田派だから嘘をついているだけであろう」
「と思ってかなり厳しく迫ったがな……」

 兼木が言うと、

「本当にそのようなことは知りませんし、見たこともございません」
「私どもには何が何だかさっぱりわかりませぬ」

 と、三人は震えながら異口同音に答えた。

 韮沢万次はずかずかと歩いて三人の前に立つと、いきなり大刀の鞘の鐺をどんっと畳に突いた。

「誠に小田様から銭などもらってはいないのであろうな?」

 万次の巨躯から発する圧倒的な殺気に、三人は縮み上がった。

「ま、誠でございます。小田様などお会いしたこともございませぬ」
「嘘であったならば、抜くぞ」
「信じてくださりませ」
「ふん……まあよい。だが悪いが、しばらくはそこでおとなしくしててもらうぞ」

 こうして、韮沢たちの組が代わりに関所で監視を始めた。

 だが、正午の昼九つを過ぎても何も変化は無かった。
 手形を持った町民や飛脚、武士たち数名が軽装のまま通って行ったのみである。
 関所周辺の山中を張っている者たちからも、何も報告は来ていない。

「今日中に次の宿場へ行くならばそろそろ通らねばならない時刻ですが」

 今井一馬が首をひねった。

「その通りだ。であるのにそれらしき者たちが現れないと言うことは、我らの動きを察知して出発の日を伸ばしたか?


 韮沢万次はあくびをしながら答えたが、

「いや、出発はしておりました」

 と、急に背後で聞こえた静かな声に、万次はぎょっとして振り返りながら飛び下がった。
 新九郎、一馬も驚いて目を丸くした。
 そこには、関所の役人のような服装をした三十半ばぐらいの男が面を伏せたまま両膝をついていた。

「まだ来ておりませぬか?」

 男は、顔を上げて万次、新九郎たちに小声で訊いた。
 その顔には見覚えがある。大鳥順三郎の家士であった。元笹川組で、今はかつての術を活かして昼夜表裏問わずに働いている男である。

「うむ。今日は軽装の者が数人通っただけだわ」
「そうですか。夜明け前に山から小荷駄隊の一行が出たのは確かに確認しているのですが」
「出たのは? ではその後は?」

 万次が訊き返すと、家士は困った顔をして、

「それが、尋常ではない警戒の有様で、あの笹川組もどきの連中が広範囲に渡って多人数を配置しておりまして、流石に我らも後をつけて行くことができませんでした」
「なんと……」
「それ故に、私が報告も兼ねて先回りしてこちらに来たのですが、夜更けに出立して未だこの坂下に来ていないと言うのは妙ですな」
「ううむ……」

 万次が唸って腕を組むと、今井一馬が横から言った。

「その小荷駄隊の度が過ぎる警戒からして、もしやその小荷駄隊は偽物の囮で、実はその後に本物が出た、と言うことはないでしょうか?」
「その可能性は我々も考えまして、二人を甲法山に残してあります。ですが、それ以後の人の出入りは全くありませぬ」

 家士は静かに答えた。

 ――甲法山か……。

 その名を聞いて、新九郎はつい、りよのことを思い出してしまった。

 ――りよは流斎様の一派で、奴らの仲間だった。今頃は小荷駄隊の警備についているのか、それとも甲法山の屋敷にいるのか……?

 ――どれが誠で、どれが嘘であったのだろうか?

 新九郎は、込み上げて来る切なさに胸を苦しめられた。

 黒須家の屋敷で、新九郎や奈美の前で見せていた笑顔……思い返してみれば、笑顔の次の瞬間などに、時々影が見えていたことがあった。
 だが、影はあっても笑顔が見せていた光は本物であった。

 二人が初めて結ばれたあの葉桜の夜更けに、りよが頬を赤らめながら見せた表情、吐息と共に囁いた新九郎への想いは……全て本物だったと確信できる。

 ――だが、想いは本物でも他はどこまでが本当なのか……? 藤之津の商家の生まれと言っていたが、あれは嘘か? いや、それにしては藤之津にやけに詳しかったから、それは本当か……。

 と、思った瞬間、新九郎の脳裏に電撃が弾けた。

 ――藤之津!

 新九郎は思わず縁台の縁にまで出て、藤之津の方角を見た。

 ――そう言えば、三木は何度かご家老の命で藤之津に行っていた。あれは何故だ?

 新九郎は、三木が濃紺装束の連中に襲われていたあの晩のことを思い出した。
 あの時、三木辰之助は藤之津に行った帰りだと言っていた。

 新九郎の胸が、急激に鼓動を速め始めた。

「どうした新九郎どの」

 新九郎の普段と違う様子に気づき、万次が声をかけた。
 新九郎はふうっと息をついて振り返ると、

「韮沢様、三木辰之助は時々ご家老の命で藤之津に行っていたようですが、それは何故かご存知でしょうか?」
「うん? 三木が藤之津に? そのことは詳しくは知らんが、藤之津と言えば、ご家老は藤之津の舟問屋ふなどいやらと流斎様とに繋がりがないか、ずっと密かに調べているそうだ」
「なんと……」

 新九郎は確信めいたものを胸に感じ、

「これは私が今思ったことですが、もしや甲法山の小荷駄隊は藤之津に向かったのではありますまいか?」

 と、皆を見回すと、一同、はっとした顔になった。
 すぐに、今井一馬が言った。

「港町藤之津は西廻にしまわり航路の寄港地きこうちでもあり、そこから出る船は敦賀に向かう…」

 韮沢万次も顎をなでて目をぎらりと光らせた。

「確かに……それで、もし藤之津の舟問屋が流斎様と癒着していたとしたら……」

 新九郎は一同を見回して、
 
「流斎様は敦賀、京、大坂にも顔が広いと聞いております。かなり遠回りになりますが、もしや流斎様は藩の目を欺く為に、わざわざ藤之津から船を出して敦賀を経由し、そこから陸路、或いは更に南海路なんかいろを使って江戸に物資を運んでいるのでは?」
「それはありえる、ありえるぞ」

 万次が興奮したように首を縦に振ると、

「その可能性は非常に高いですな」

 両膝をついていた大鳥家の家士も、すっと立ち上がった。

「よし、急ぎ藤之津へ向かおう」

 万次が刀を差し直して皆に言ったが、

「しかし、藤之津の船は何刻いつに出航するのでしょう? もし、もうすでに出てしまっていたら」

 新九郎が率直な疑問を言うと、大鳥家の家士が答えた。

「舟問屋によって午前だったり午後だったりと違うようです。しかし、甲法山から荷駄隊が出たのは寅の正刻(午前四時頃)過ぎでした。このことからすると午前に出航はないと思われます」
「ふむ。しかし午後だとしても間に合わなければおしまいじゃ。これはもう賭けじゃな」

 万次は腕まくりをした。

「この坂下から港町の藤之津までか……馬は使えませんし、全力で走るしかありませんな。およそ一刻はかかるだろうし、きついなぁ」

 今井一馬が苦笑いしたが、そこで新九郎が、はっと気付いて手を叩いた。

「いや待て。馬を使うことも走る必要もない。この近くには月見川があるじゃないか。月見川を真っ直ぐに下って行けばちょうど藤之津だ。その辺で小舟でも借りればいい。幸い下りで、しかも今日は風もあるから速いぞ」
「おお、やるじゃないか新九郎」

 一馬が顔を明るくして新九郎の肩を叩いた。

「よし、では行くぞ」

 万次は笑顔を見せながらも、表情を引き締めた。


 一方その頃、甲法山にある城の如き屋敷ーー

 龍虎の間と呼ばれる広間の下段で、若い娘が正座して父が来るのを待っていた。
 美しい娘の半面は、射し込み始めた南の陽に照らされていたが、暗く無表情であった。
 やがて、この屋敷の主が"虎"を従えて入って来たが、それでも娘はぴくりとも表情を動かさなかった。
 主、城戸流斎は上段の敷物の上にゆっくりと腰を下ろすと、一つ咳き込んでから娘を見た。

「二月ぶりぐらいかのう」
「…………」

 父の問いかけにも、娘は何も答えず無表情のまま虚空の一点を見つめていた。

「おりよ、元気にしておったか?」
「…………」
「いや、聞く必要はないか。黒須の家で楽しく暮らしておったと言うのはすでに聞いた」

 父の城戸流斎は、こけた頬に皮肉そうな笑みを浮かべた。
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