葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝

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燕の軒先

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「……別に何も。おかしら、何故ここに?」

 りよは、一瞬で動揺を鎮めて訊き返した。

「何故と? お前自身でわかっておろう」
「白霧山の件でございましょうか」
「はは、わかっておるではないか」
「私を責めに参りましたか」
「あの晩、お前は黒須新九郎と対峙たいじしたが、仕留めるどころか手を出すこともできなんだ」

 虎の声が、急に冷たさを帯びた。

「お前は我が組の副長格だと言うのに何をしているか。黒須新九郎は今では敵なのだぞ」
「…………」
「それだけではない。白霧山の翌日、我々は黒須新九郎を捕らえて城に連行したが、突如として龍虎の間に煙玉けむりだまが爆発してその隙に新九郎に逃げられた。あの時、煙玉を放って新九郎を助けたのはお前ではないのか?」
「さて……白霧山のことはともかく、お屋敷でのそのことは知りませぬが」

 りよは、虎から視線を逸らさぬまま白を切った。

「ふん、この家に潜んでいるうちに、お前は完全に新九郎に情が移ってしまった。いや、それどころか、惚れてしまったようだな?」

 虎は薄笑いを浮かべてずばりと突いた。だが、りよは表情を変えず、また何も答えもしなかった。

「反論はせぬが何も言わぬと言うことは……やはりこれ以上は放ってはおけぬな。殿もお前の身を案じておられる。それ故、この屋敷からお前を連れ戻す為に来た」

 すると、りよは、ふっと皮肉そうな笑みを見せた。

「あいにくですが、徒労でございましたな。私は黒須新九郎どのにお暇を願い出ました。三日以内にはここを去り、甲法山へ帰りまする」

 虎は意外そうな顔をして、

「ほう、そうか。理性はまだ残っていたか……」
「ですが」

 りよはさえぎるように言うと、虎を真っ直ぐに見据えた。

「これにて組とは完全に縁を断ち切りまする。もちろん父上ともです」
「何だと?」

 虎の顔に不穏な色が戻った。

「甲法山で父上と話します。そして、親子の縁を切っていただいた上で組との繋がりも完全に断ち、藤之津の一人の女子おなごに戻るつもりです」
「何故そのようなことを」

 虎が呻くような低い声で言うと、

「このお屋敷で暮らし、黒須新九郎どのの仕事を見ているうち、また城中のことを聞いているうちに、段々と父上がなされようとしていることが間違いであると思ったからです」

 りよが言うと、虎は即座に声を荒げた。

「何を言うかっ、殿こそが城戸きど家の正統な当主だぞ。あるべき者があるべき場所を取り戻す、それの何が間違いか」

 しかし、りよは冷笑する。

「そもそも、その根本が間違いではございませぬか。父上の方が先の殿よりも先に生まれたとは言え、先の殿様は先々代綱龍公のご正室のお子であり、その綱龍公が正式に世子と決めたのです」
「いや、綱龍公は民に圧制を敷き、何か気に入らなければすぐに家臣を手討ちにしていた暴君じゃ。そのような藩主の器でない者が決めた世子など、世子ではない」
「いいえ。暴君であろうと藩主は藩主。綱龍公は幕府からも正式に認められた藩主です。ならば、その綱龍公が決めた先の殿の経龍様こそが正式な藩主であります。それを不満に思うことの方が筋違いです」
「お前……」

 目を怒らせた虎を手で制し、りよは続けた。

「のみならず、あの歳になっても未だに藩主になることを諦められずに不正に集めた資金で先の殿を毒殺し、そのご嫡男までも殺め、ついには今の殿までも暗殺しようとしている。このような卑怯なことをするお方が藩主の器でございましょうか? 笑止千万!」

 りよもまた、声を大きくして言い放った。
 虎は憤怒の表情でりよを睨みつけていたが、やがて薄笑いをしてゆらりと立ち上がった。

「そうか、わかった。ではいたしかたあるまい。」
「…………」
「殿と親子の縁を切るのも、組から離れるのも構わん。命をもってすればな」

 虎は、どこに隠し持っていたか、いつの間にか忍び刀を握っていた。

「殿から仰せつかっている。燕が反逆するようなことがあれば始末して構わんと」

 それを聞くと、りよは一瞬目を瞠った後、自嘲するような笑い声を上げた。

「ふっ……はは……あはは……やはりそのようなものでしたか。口では親子だ、大事な娘だとは言っても、所詮は血の繋がらぬ妾の連れ子」

 りよは吐き捨てたが、そこには哀切の響きがあった。

「また一つ、自らが藩主の器ではないと証明してしまいましたなぁ」
「もう黙れ」

 虎は目を血走らせ、忍び刀を鞘払った。

「こちらも手加減はしませぬぞ」

 りよは短く言うと同時、さっと帯の間に隠していかんざしを取り出して投げ放った。
 見た目はかざりもついたかんざしに見せかけているが、先端は鋭利になっている棒手裏剣であった。それが白昼の雷光となって虎の右肩に突き刺さった。
 腕が落ちかけた虎へ、すかさずりよが飛び掛かろうとしたが、その時、門の方からおとないの声が聞こえた。

「頼もう、頼もうーー」

 太く低い、三木辰之助の声であった。

 りよは、ぱっと飛び下がり、虎も一瞬りよの目を見てから素早く桜の樹の陰に走った。

 りよは深呼吸をして闘気を消し、衣服と髪の乱れを整えると、庭から縁台に上がり、居間から玄関を抜けて門へと出向いた。

 この時刻に訪ねて来るということは非番なのだろうが、三木辰之助は羽織袴の姿で二刀も差していた。

「これは三木さま、如何なされましたか」

 りよが笑顔を作って応対すると、三木辰之助はじっとりよの顔を見つめてから、

「お女中、新九郎はいるかな?」
「旦那さまならまだお城ですが」
「ああ、そうだったな。これはうっかりしていた」

 辰之助は少々わざとらしい感じで額をたたくと、

「ちと黒須の奴に用があって来たんだが……では、帰って来るまで、中で待たせていただいても構わぬかな?」
「え? ええ、もちろんでございます。さ、どうぞ」

 りよは、三木を屋敷の中へ迎え入れた。
 そのまま居間から客間へ通そうとしたが、三木辰之助はそれを断り、

「大した用事でもないのでな。ここでよい」

 と、居間の囲炉裏の辺りを指差した。

「え? 構いませぬがよろしいのですか?」
「うむ。黒須への用はすぐ済む。だからわざわざ客間など無用」
「では、そちらへどうぞ。今お茶をお持ちしますので」
「かたじけない」

 三木は頷くと刀を外し、囲炉裏の側の敷物の上に腰を下ろした。

「旦那様のお戻りまではもう少しかかると思いますがよろしいのでしょうか?」

 台所から戻って来たりよは、淹れたての茶を辰之助の前に置いた。

「はは、ちと時間を間違えて早く来すぎてしまった。まあ、今日は暇だし、ゆっくり待たせていただく。ああ、おりよ殿の邪魔にはならぬかな?」
「ええ。主な仕事は朝のうちに済ませてしまいますので」
「流石ですな。黒須から聞いている。おりよ殿はよくできた働き者だと」

 三木辰之助は、眼前の床板を指で擦り、そこに何の汚れもつかないのを見ながら言った。

「そのようなことは……」

 りよは、はにかんで立ち上がった。

「あいつは、恐らくおりよ殿に惚れているだろうな」

 辰之助は、いきなりすごいことを言った。

「え……まさか。ご冗談はおやめくださいませ」

 りよは一瞬どきりとしたが、咄嗟に取り繕った笑顔を見せて話をそらそうとした。

「それにしても、三木様がお一人で訪ねて来られるとは珍しゅうございますね。今井様などはよく来られますが」
「はは、そうだな。恐らく一人でここに来るのは初めてだ。何せ俺はあいつが嫌いだからな」
「そのような……」
「いや、聞いているのではござらぬかな? 俺と黒須の仲が悪いのは」
「ええ、まあ、少しは」

 りよは、気まずそうに言葉を濁した。

「ふふ、ちょうど良い。おりよ殿、そこに座って少し話をせぬか?」
「え」

 りよが戸惑った瞬間、辰之助は顔を歪めてごほごほと咳込んだ。

「顔色が悪うございますね。大丈夫でございますか?」

 りよは顔を曇らせて辰之助を気遣った。
 辰之助の生まれつき恵まれた体格は今やすっかり痩せてしまい、生命力に満ち溢れていた顔も頬はこけて幽鬼の如くであり、かつての面影はまるでない。

「心配は無用。まあ、とにかくそこに座らぬか? なに、話と言うほどでもない。俺の独り言と思って聞いてもらうだけでも良い。ただ黒須を待つのもつまらんのでな」

 辰之助は咳を静めると、茶碗を取って一口すすった。
 りよは、警戒の目で辰之助をじっと見た後、無言で向かい側に正座した。

「俺が黒須を嫌っている理由は単純で子供じみたものだ。奴への嫉妬だ」
「…………」
「聞いているだろうが、俺と黒須は、同じ戸沢道場で剣を修行していた。だが入門は俺の方が早く、試合でも大体俺の方が勝っている。しかし俺はずっと、天稟では黒須には遠く及ばないと思っている。奴はまだその才能の全てを発揮していない。眠らせているようなものだ。」
「何故わかるのでしょうか」

 りよが真顔で訊くと、辰之助は乾いたような低い笑い声を出し、

「ははは……いつも道場で打ち合っていればわかる。奴は時々、打ち合いの最中に天才としか思えぬ一手を放つことがある。俺が負けるのは決まってその時だ。そして何故か必ず、俺はその時にどうしようもない絶望感と嫉妬に苛まれるのだ。俺はどんなに修練を積んでも黒須のような剣は遣えないし、黒須の領域には到達できないだろう、とな。ところがあいつ自身はそんな自分の才能に無自覚だ。おまけにつらも性格も良いと来てやがる。だから俺はますますあいつを嫌いになってな。まあ、俺の器の狭さだな」
「…………」
「今でも好かぬわ。できればここになんて来たくはなかった」

 辰之助は皮肉そうに笑うと、りよの顔を真っ直ぐに見た。

「だがな、おりよ殿。一応は子供の頃からの道場仲間であり、今は同じ仕事もしている仲間でもある。そんなあいつが狡猾な罠に陥ろうとしていることと、そこから起きるであろう我らの危機は見過ごせぬのだよ」
「はて、何のことでございましょう?」

 りよは、うっすらと微笑して訊いた。
 辰之助は冷たい目でりよをじっと見ると、無言で懐から何かを取り出して、無造作に目の前に置いた。
 りよは、思わず目を瞠ってしまった。
 それは、新九郎がりよに贈った、あの加賀産の漆塗りの櫛だったからだ。

「…………」

 辰之助は、りよが目の色を変えたのを見逃さなかった。
 ごほっと咳き込んだ後、口元を手拭いで拭ってから、落ちくぼんだ目で鋭くりよを睨み、

「これは黒須がおりよ殿にあげた櫛であろう? この見事な漆塗りと螺鈿らでん細工ざいく、我が藩ではまずお目にかかれないものだ。それゆえに見間違えるはずはない」
「…………」
「これを何故俺が持っているのか教えよう。黒須が崖から落ちて行方知れずになったあの白霧山での斬り合いの時にな……相手方にいた"燕"と呼ばれていた人間が落としたのよ。俺はそれに気付いて密かに拾い、今まで持っていたと言うわけだ」

 辰之助が喋っている間、りよは茫然とした顔で、辰之助の前に置かれた櫛を見ていた。

「俺が何を言いたいか、もうわかるだろう? ずっと不思議だった。黒須が小物成の不正横領疑惑で押し込められたのを始めとして、我らが動く先には、必ず我らの動きを知っていたかのようにあの濃紺装束の連中が先回りしていた。それは何故か?」
「…………」
「おりよ殿、あんたがあの"燕"だからだ。あんたがあの濃紺装束の一味の"燕"であり、この黒須家に入り込んで我らの動きを掴み、一味に知らせていたからだ。黒須があんたに贈ったはずのこの櫛を、あの晩に燕が落としたのが何よりの証拠!」

 辰之助は鬼気迫るような気炎を吐くと、急激に全身から闘気を発した。
 だが、りよは平然としてにっこりと笑い、

「お待ちくださりませ。何かの誤解でございます」
「ふっ、浅はかな。おりよ殿、武士がここまで言ったこの状況を前にしたら、普通の女子はそのように落ち着いていられぬものだぞ」
「…………」

 りよは真顔になり、辰之助を見た。

「黒須の奴は知っているのか?」

 辰之助は言いながら、剣を左手で掴んでゆらりと立ち上がった。
 ゆっくりと束巻にかけた骨ばった右手から、青い気が立ち上っている。

 りよはぎこちない笑みを見せて、

「三木様、落ち着いてくださりませ。誤解でござります」

 と、あくまでも否定したが、いきなり三木の右手から居合の一閃が光った――のを、りよはさっと飛び退いてかわし、片膝立ちで防御の体勢を取った。

「ふふ……もう疑いようがないな。今のを座ったままかわすなど、ただの女中にできるわけがない」

 三木辰之助は冷笑しながら、剣を正眼に構えた。
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