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獣の気配

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 新九郎はあまり心情を表に出す方ではないが、流石に今日は違ったらしい。
 登城して郡方の部屋に入ってからも、いつも通りに仕事をしていたつもりであったが、表情や仕草には何かが出ていたようで、下城の太鼓が鳴った後に同僚の一人から、

「黒須、何ぞいいことでもあったか?」

 と、不審に訊かれてしまう始末であった。

「え? いや、特に何もございませぬが」

 新九郎は咄嗟に取り繕ったが、

「ふうむ。どことなくいつもより機嫌が良さそうに見えるがの」
「そうでございましょうか」
「うむ。隠そうとして隠しきれぬような感じじゃ」

 と言うと、同僚は急ににやついて、

「もしかして、あれか?」

 と、近づいて小声で訊いた。
 新九郎はどきっとして、

「あれ、とは?」
「ほれ。馬廻り組の韮沢さまのご息女と縁談が持ち上がっているそうではないか。韮沢さまのご息女と言えば、あの戦国武士のような韮沢さまにも似ず大層な美人だとか。それでご機嫌、と言うことではないのか? うん?」

 ――なんだ、そっちか。

 と、安堵したがすぐに新九郎は慌てて、

「いえいえ、そのようなことは。そもそもまだその話、正式に決まったわけではありませぬ故」
「ふうむ、そうか。まあ、とにかく、ようやくお主の家にも春がやって来そうじゃな」

 同僚は、ぽんっと新九郎の肩を叩くと、ちょうど

「おい、村木。今日、鈴鳴り町へどうだ?」

 と、二人の別の同僚が声をかけて来たので、村木はその誘いのままに行ってしまった。
 そこで、新九郎は、はたと気付いた。

 ――村木どのが何故私の縁談を知っているのだ?

 大鳥順三郎が仲介している新九郎と韮沢万次の娘、加菜との縁談は、まだ正式に決まったわけではない為、当事者の三人しか知らないはずである。
 それが、同じ郡方の同僚とは言え、何故村木が知っているのか。

「村木さま、ちょっと……」

 と、新九郎が呼び止めようとして廊下の角を曲がったところ、ちょうどその韮沢万次がやって来て新九郎に声をかけてきた。

「新九郎どの、ちと話があるのだが来てくれぬか」
「話?」

 これに、新九郎はまたもどきりとした。
 加菜との縁談のことであろうか。
 だが、韮沢万次の後について行って二の丸の土蔵の裏で聞かされたのは全く別の話で、またもっと重要なことであった。すなわちーー

「大鳥さまから、例の作戦の指示じゃ」

 韮沢の耳打ちに、新九郎の全身が一気に緊張した。
 城戸流斎が不正に得た領内の特産物及び金銭を江戸に送っているーーその現場を押える作戦のことである。

 新九郎が甲法山の流斎の屋敷で耳にしたところによれば、明日の夜には流斎の屋敷から物資や金銭が江戸に向けて運ばれる。その現場を押え、動かぬ証拠を藩主政龍に差し出して流斎と小田内膳の不遜な野望を一気に打ち砕くのである。

「ご家老が様々に検討した結果、やはり流斎さまの屋敷から江戸に金品を送るとすれば、我が藩唯一の関東へと通じる関所である坂下しかないとのこと。そして、流斎さまは当然、坂下の関所の役人も手なずけて、これまで物資を密輸していたのであろう。それ故、我らは直接坂下の関所に行き、ご家老の手紙をつきつけて坂下の役人を拘束してから我らで通過する者たちを検問するのだ」

「なるほど。して、時刻や人数などは?」
「関所は夜は閉じられて門番がいるのみじゃが、関所の者ども丸ごと流斎さまに丸め込まれてると考えるのが自然である。となると、明日の夜更けにでも密かに、かつ堂々と関所を通って行くことも考えられる。それ故、二手に分けることになった。まず、明日の夜に兼木作左衛門を指示役として、谷原喜兵衛、牧田兵部、澤村与四郎どの、勘定方の森蔵人どの、普請組の白井右衛門どのと長谷部良蔵……」

 と、大鳥派の中枢にして様々な面で経験豊富な壮年を中心とした七人の名前を挙げた。

「……らが関所に直行し、ご家老の手紙を見せて物も言わせず役人たちを拘束し、外部との連絡及び外部からの接触を一切遮断した上で、関所を見張る。その間に、もう一方の組は周辺を見張る」
「もう一組の方々は?」
「すなわちこの儂、韮沢万次と新発田藤五郎、寺社方の本庄益之助、そしてお主ら、黒須新九郎、三木辰之助、今井一馬……」

 と、新九郎たち七人ほどの名前を挙げた。

「そして、夜に密かに関所を抜けようと言う者がおらず、朝まで何もなければ、兼木らと交代して儂らが日中の関所を見張る」
「なるほど」
「ここが勝負どころじゃ。明日は下城したら真っ直ぐに家に帰り、しっかりと休んでおくように、とのご家老の言葉じゃ」
「はっ」
「これで全てが片付けば……」

 と言いかけて、韮沢は急に言葉に詰まった。

「うん? なんでございましょうか」
「いや……お主と加菜の話もちゃんと進められよう、と思ってな。はは」

 韮沢万次は武骨な風貌に似合わない、照れたような表情を見せた。
 だが、新九郎は胸を衝かれた思いがした。

 ――そのお話、少し待っていただけませぬか。

 そう、言いたかった。
 だが、言えようはずがない。
 そして韮沢万次が、

「いつまでもここにいて誰かに見られたらまずい。では、明日な」

 と、急いで立ち去ってしまった。

 ――まあ、終わった後にでも……いつでも機会はあるだろう。

 韮沢の幅広い背を見送りながら、新九郎もゆっくりと歩き始めた。


 翌朝、囲炉裏いろりを囲んで、いつも通り三人で朝餉を食べた。
 その時、奈美がふと、右手で持った汁椀を見つめて、

「おりよの作る納豆汁ももうそろそろ食べられなくなるのね」

 と、ぽつりと寂しそうに言った。
 新九郎は苦笑して、

「奈美、おりよに作り方は教えてもらっているだろう?」
「そうですけど……」

 奈美が顔を赤くしてもじもじし始めた。

「この前に奈美が作ったのはしょっぱすぎたがな」

 新九郎がにやにやしながら言うと、

「まあ、兄上の意地悪」

 と、奈美は目を吊り上げた。
 りよは、ふふふっ、とおかしそうに笑って、

「旦那様、そんなこと言ってはいけませんよ」

 と、新九郎を半分いたずらっぽく睨んでから、

「奈美さま、何度か作るうちに上手くできるようになりますから」

 と、奈美を慰めるように言葉をかけた。

「ありがとう、おりよ。兄上なんか嫌い」

 奈美が新九郎に向かって舌を出してから、ぷいっと横を向くと、りよは手で口を抑えながら笑った。

「何事も修練だぞ」

 新九郎は笑いながら、食事を続けた。

 ――このような朝が、毎日続けば良いのに。

 新九郎はふと思い、庭に目をやった。
 朝陽の中に桜の花弁はなびらがきらきらと舞っており、その桜の樹を見れば枝にはすでに浅緑の葉がちらほらと芽吹いているのが見えた。

 ――葉桜か。

 新九郎は顔を戻し、奈美と何かしゃべりながら笑い合っているりよの横顔を見た。

 残った飯をかきこみ、一人先に朝餉を食べ終えると、新九郎は背筋を伸ばし、

「今晩、私は出張ることになった。下城してから一度家に戻るが、支度をしたらまたすぐに出発する。戻るのは明日の夕刻になるだろう」
「戻りは明日でございますか。どちらへ出かけるのですか」

 奈美が不安そうないろを浮かべた。
 当然である。先日も、白霧山で行方不明になった騒ぎがあったばかりなのだから。

鴻巣こうのす銅山で少し問題が起きてな。それとちょうど桃川村の辺りを回る日が重なったので、二か所行くには泊まりが必要になるのだ」

 新九郎は、予め考えておいた嘘を言った。
 本当のことを言って、奈美をまた不安にさせたくなかった。それと、もう身体を通わせたとは言え、やはり疑惑が拭いきれないりよにもこのことは言えないからだ。

「でも、折角戻って来たばかりなので心配です」

 奈美はそれでも泣きそうな顔をする。

「だろうな。だがその心配はいらない。何か危険なことをするわけでもないし、今回は同じ郡方の同僚三人で行く」
「そうですか……」
「一晩だけだ、そう不安になるな。おりよ、留守の間、頼むぞ」
「はい、かしこまりました」

 りよは両手をついた。

 そして、新九郎は登城し、やがて奈美も稽古に出かけ、屋敷にはりよ一人となった。
 土間の流し場で食器を洗い、居間を掃除してから、りよは庭に出た。空を見上げれば水色の空が眩しく晴れ渡り、下を見れば陽光が庭の隅々にまで満ち溢れて草花を輝かせていた。
 りよは草花の虫を取り、水をやった後、ほうきを持って落ちている桜の花弁はなびらを集め始めた。それでも花弁はひらひらと舞い落ちて来て、りよの肩に乗る。

「きりがないわね」

 りよは苦笑して独り言を呟き、箒を持つ手を止めて、隅の桜の樹を見上げた。
 つい三日ほど前までは桜で枝一杯になっていたが、もうあちこちに若葉が混じっている。

 ――葉桜……桜の美しさは一時だけで、もう次の季節へと移る。

 りよは、そよ風に揺れる花と葉を、しみじみと見つめた。

 ――新九郎さま。

 りよは箒を樹の幹に立てかけると、両手を胸の前できゅっと結んだ。
 実は、昨晩も新九郎とりよは睦み合った。
 細身だが逞しい新九郎の身体に、包み込まれるように抱かれた。優しい言葉と、温かい体温の中で、夢のような、至福の一時を過ごした。
 思い出すと、恥ずかしさもあったが喜びの方が上回った。だが、その次に切なさがやって来る。

 ――来年も共に見たい。

 りよは、再び頭上の葉桜を見上げた。

 ―ーそう言えば、いただいた櫛を探さないと。

 あの白霧山での戦いの後、黒須家に戻って来る途中で、櫛を失くしていたことに気付いた。
 どこかで落としたかと思い、急いで探しに白霧山へ戻り、その途中の道もあちこち探したが、どこにも無かった。
 それもそのはず、櫛は密かに三木辰之助が拾っていたのだが、りよはそんなことは思いもしなかった。

 もしかしたら自分の勘違いで、屋敷のどこかで落としてしまったのかも知れない。そう思い、時間のある時に屋敷内を探してみようと思っていた。

 そして背を返して屋敷内に入ろうとした時、りよの顔色がさっと変わった。
 縁側の簀子すのこに"虎"が座っていたのだ。

「あの桜を見て、何を考えていた?」

 虎はにやりと笑った。行商人姿に変装している。
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