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せめてこの夜だけは
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新九郎は、宝物を置くようにりよを夜具の上に横たえた。
室内には行灯の薄明かりが黄色く漂っており、外は雨が軒先を叩く音だけが響く。
新九郎の腕に抱かれるりよは、微かに震えながらも艶やかに濡れた目で新九郎を見つめていた。
新九郎がりよの着物の上前をそっと開くと、りよは「いや……」と、右手を伸ばして新九郎の手を掴んだ。
「行灯を消そうか」
新九郎は優しく言ったが、りよは恥じらいに頬を染めた表情で新九郎を見て、
「いえ、旦那様の顔が見られますから……」
と、小さい声で言い、新九郎の手を掴んでいた右手を離した。
咲いたばかりの可憐に揺れる白い花がそこにあった。新九郎は再びりよに唇を重ねると、手をそっと裾の間に入れて太ももに触れた。
再び、りよの身体が弾けるようにびくっと動いた。だが、新九郎もはっとして、手と唇を同時に離した。
新九郎は、恥ずかしそうに目を閉じているりよの顔を無言で見つめた。
りよは目を瞑ったままじっとしていたが、新九郎が突然動きを止めたので、ゆっくりと目を開けた。
「いかがなさいましたか?」
りよが顔を真っ赤にしながらも小声で訊くと、新九郎は一瞬真顔になった後、ぎこちない笑みを見せて、
「いや。おりよ、聞かせてはくれないか? 誠のそなたを」
「誠の私……とは?」
りよは驚いて聞き返した。
「おりよ、認める。私はおりよが愛しい。だが、教えて欲しい、本当のそなたを。そなたは本当に、藤之津で家を失ったりよと言う名の女なのか?」
今、新九郎が触ったりよの太ももは、弾力はあるがしっかりとした筋肉がついていて硬かった。いくら女中が力仕事もするとは言え、それだけでつくような筋肉でないことは、剣を遣う新九郎にはすぐにわかったのである。
新九郎の真剣な表情。それを見上げて、りよは呆然とした。新九郎が何を思い、何を訊きたいのかを察して、言葉を失った。だが、自然と目尻から涙を一筋流しながら、
「一つだけでいいので、信じていただきたいことがござります。明後日、私はここを出て行きます。ですが、この先、私に何があろうとも……もし、もう一度どこかで旦那さまに会った時の私が何をしていようとも……私は今のりよと同じでございます」
「…………」
「私は、旦那さまの前では、旦那さまを誰よりも愛しく慕っている一人の女子でございます。それは、いつどこでも同じでございます」
「…………」
「生涯忘れませぬ……私が旦那さまをお慕いしていた気持ちは決して忘れませぬ。だから、今だけは、私をただ一人の女子として……」
そこで、りよは堪えきれなくなったように言葉を詰まらせた。保っていた表情が崩れ、両の目じりが涙が溢れた。
――構わない。信じよう。
新九郎の脳裏から、全ての煩わしい想いが吹き飛んだ。
「私もだ。りよを誰よりも愛おしく思っている」
「うれしゅうございます。旦那さま」
りよは、両腕を伸ばして新九郎の背に絡ませて引き寄せた。
新九郎は、再び唇をりよの唇に重ねた。
半刻近く後ーー
男と女は長い睦み合いを終え、床の中で熱くなった身体を離した。
しかし、すぐに女は潜り込むように男の胸に寄り添い、男も右腕で女の上気した身体を抱き寄せた。
恍惚にまどろみが寄せて来る中、男は言った。
「おりよがこの家から去っても、おりよはしばらくは私の心の中にいたままであろう。そのような中で妻を迎える気にはなれない……縁談は断ろうと思う」
「え? そのようなこと……だめでございますよ」
女は驚いて顔を離し、男の横顔を見た。
だが男は目を閉じて、
「難しいのはわかっている。だが、駄目でもせめて、この話はもっと後にしてもらおうと思う。私の胸には、おりよ以外の女は入れなくなってしまったよ……」
それを聞くと、女は頬を染めながら「嬉しい」と、再び男の身体に抱き着いた。
切なくも甘い雨が降る夜であった。
その頃、甲法山の麓にある平城の如き屋敷でーー
密かに訪れていた城戸家筆頭家老小田内膳と、屋敷の主である城戸流斎が、奥の狭い茶室で密談をしていた。
「内膳、これで誠に問題はなかったかのう」
流石に藩主の叔父である流斎の茶室だけあって、灯りには燭台を使っていた。そのおかげで室内は明るく、流斎の不安を拭いきれない表情がはっきりと見える。
対して、小田内膳は落ち着いた笑みを見せた。
「ええ。咄嗟に宇佐美どのに黒須の二刀を渡して、黒須に襲撃されたと言われたのは流石の機転でございます。他に現場を見た者はおりませんし、殿のご家中の方が多数斬られているのを宇佐美どのも見ております。これでは黒須が何を言おうと信用はないでしょう、ご安心くださいませ。後は、私の力をもって、あらゆる方面から手段を講じます」
「しかし、大鳥が庇うであろう」
「なんの、所詮大鳥の方が人数は少のうございます。こちらは殿の資金力のおかげであちこちにどんどん人が増えております。この数の差と人の繋がりの差は大きゅうございます」
「ふむ、だが大鳥は何と言っても藩祖頼龍公以来の重臣筆頭の家柄。そこは甘く見られぬし、大鳥順三郎自身もなかなかの剛腕じゃ」
「家柄、剛腕、所詮それだけでございます。大鳥にはここが足りませぬ故、ご安心ください」
と言って、小田内膳は頭を指でつついた。
それを見て流斎はおかしそうに笑ったが、顔にはまだ不安の色は残っていた。
「じゃが、鉢窪村から消えた連判状がまだ見つからぬ。黒須の家に無いと言うことは、大鳥が持っているのは確実。筆頭二人の儂らの名は塗り潰してあるが、あれが大鳥の手にあるのはやはりまずい」
「なんの、我ら二人の名が塗り潰してある故に安心でございます。むしろ、武器になるでしょう」
「どういうことじゃ?」
「いざ大鳥が備後(藩主城戸政龍)にあれを差し出したならば、こうすれば良いのです。失礼いたしまする」
と、内膳は膝行して流斎に近づくと、扇子で口元を隠しながら流斎の耳元に何かささやいた。
流斎は瞬時に顔色を変えて、悪鬼でも見たかのような顔で内膳を見た。
「お主、誠か……」
「ええ。これしかありませぬ。それどころか、大鳥一派のみならず、我らの計画を知っている主だった者たちを一斉に口封じできる秘策でしょう」
「そうじゃが……恐ろしいことを考えるものよの」
流斎は顔をひきつらせた。
「殿、大事を成すには、時には非情にならねばなりませぬぞ」
内膳は、励ますように言った。
「うむ、そうじゃな」
「これによって大鳥を失脚させることができれば、大鳥の屋敷を捜索することができまする。大鳥の屋敷には最後の三中散が残されている可能性が高い。これで三中散を手に入れられれば備後の命は……。殿の大志成就は間もなくです」
「うむ」
流斎は笑みを見せて頷いた。
「全ては正道の為でございます。正当な国の主がその座を取り戻す、その正義を成す為には、多少の犠牲者が出るのに構ってはなりませぬ」
「うむ、わかっておる」
流斎はすでに覚悟を固めたのか、いつもの顔に戻って頷いた。が、その後でまた眉を曇らせた。
「しかし、あそこで邪魔が入って黒須を取り逃がしてしまうとはのう。一体何者が煙玉など放ったのか。虎が全ての者を厳しく尋問したが、一人も怪しい者はおらんかった」
「虎どのの部下は虎どのを中心によくまとまっております故、裏切り者や狗がいるとは思えませぬ。やはり大鳥の屋敷にいる元笹川組の何者かが入り込んだのかも知れませぬ」
「ふむ、笹川組の技は尋常ではないからの……警備をより厳重にせねばならぬな。儂が藩主になるまでは片時も油断はできぬわ」
そう言うと、流斎は咳き込んだ。
翌朝、新九郎が目を覚ました時は、隣にりよの姿はなく、その甘い残り香だけが漂っていた。
上半身を起こすと、包丁を叩く音がとんとんと聴こえて来た。りよが朝餉の支度をしているらしい。
新九郎は、昨夜の睦み合いを思い起こした。りよの柔らかな唇と、白肌の滑らかな感触。新九郎の全てを優しく受け入れた暖かな体温。
甘美な一時であった。しかし、思い起こせば胸が締め付けられる切ない一夜でもあった。
新九郎は軽く頭を振ると、夜具から出て着替えを始めた。すると、包丁を叩く音が止み、新九郎がちょうど着替えを終えた時に、襖の外からりよの声がした。
「旦那様、お目覚めでございますか」
「ああ。ちょうど着替えたところだ」
「では、お入りしてもようございますか?」
「構わぬが、どうした」
襖が開き、りよが静かに入って来た。
りよは襖を閉じると新九郎の前に正座し、頬を染めて新九郎の顔を見た。
「あの……私、戻って参ります」
「うん?」
新九郎はその意味がわからず、その場に腰を下ろした。
「戻って来るとは?」
「約束した以上、やはりまずは藤之津へ帰ります。ですが、今回のお話はお断りして、またここへ戻って来たいと思います」
「何? よいのか、それで」
「はい。旦那さまは此度の縁談をお断りするか、或るいは決めるのを待っていただくとのこと。ならば、旦那さまがご新造さまをお迎えになるまでは、私はまだこの家で旦那さまと奈美さまの為に働きとうございます」
その言葉を聞いて、新九郎はぽかんとしてしまった。
「あの、ご迷惑でしょうか?」
りよは、黙ってしまった新九郎を見て、恐る恐る訊いた。
新九郎は我に返って慌てて、
「あ、いや。そのようなことはない。ありがたい、いや、嬉しい。奈美も喜ぶだろう」
「ありがとうございます」
「だが、おりよの縁談も、またと無い良い話。もったいなくはないか」
新九郎が訊き返すと、
「旦那様が、胸のうちに私しか入れなくなったと仰ったのと同じく、わたくしの胸の中も旦那様でいっぱいになってしまいました。こんな状態ではとても嫁ぐ気になれませぬ」
「おりよ……」
新九郎は微笑した。
りよは続けて、
「そうですね、五日間のうちには戻って参ります」
「五日か」
「はい。その間に私は……」
と言いかけて、りよは急に言葉に詰まって下を向いた。
だが、ふっと軽く息をつくと、再び顔を上げて新九郎を見て、
「私は全てを清算し、誠の私になって戻って参ります」
「誠のおりよ?」
「はい。他の何者でもない、旦那さまだけをお慕いしている一人の女子になって戻って参ります」
りよの瞳には、真実の色しかなかった。
「わかった。その頃にはうちの桜も、おりよの好きな葉桜になっているだろう」
「はい。ここの葉桜がまだ見られるうちに帰って来たいと思います」
「うむ、待っていよう」
新九郎が微笑みながら頷くと、りよは肩の荷が下りたような安堵した笑みを見せて、
「では、すぐに朝餉を用意いたしますので」
と、立ち上がり、背を向けて襖に手をかけたが、新九郎が「待て」と呼び止めた。
「はい」
「おりよ」
と、その背から両手を回して抱きしめた。
突然のことに、りよはびくっとしたが、すぐに自分の手を新九郎の手に絡めた。
新九郎はその手をほどくと、りよの顔を強引に自分の方へ向けて顔を寄せた。
「あっ」
りよの唇から、吐息と共に、艶めかしい声が漏れた。
室内には行灯の薄明かりが黄色く漂っており、外は雨が軒先を叩く音だけが響く。
新九郎の腕に抱かれるりよは、微かに震えながらも艶やかに濡れた目で新九郎を見つめていた。
新九郎がりよの着物の上前をそっと開くと、りよは「いや……」と、右手を伸ばして新九郎の手を掴んだ。
「行灯を消そうか」
新九郎は優しく言ったが、りよは恥じらいに頬を染めた表情で新九郎を見て、
「いえ、旦那様の顔が見られますから……」
と、小さい声で言い、新九郎の手を掴んでいた右手を離した。
咲いたばかりの可憐に揺れる白い花がそこにあった。新九郎は再びりよに唇を重ねると、手をそっと裾の間に入れて太ももに触れた。
再び、りよの身体が弾けるようにびくっと動いた。だが、新九郎もはっとして、手と唇を同時に離した。
新九郎は、恥ずかしそうに目を閉じているりよの顔を無言で見つめた。
りよは目を瞑ったままじっとしていたが、新九郎が突然動きを止めたので、ゆっくりと目を開けた。
「いかがなさいましたか?」
りよが顔を真っ赤にしながらも小声で訊くと、新九郎は一瞬真顔になった後、ぎこちない笑みを見せて、
「いや。おりよ、聞かせてはくれないか? 誠のそなたを」
「誠の私……とは?」
りよは驚いて聞き返した。
「おりよ、認める。私はおりよが愛しい。だが、教えて欲しい、本当のそなたを。そなたは本当に、藤之津で家を失ったりよと言う名の女なのか?」
今、新九郎が触ったりよの太ももは、弾力はあるがしっかりとした筋肉がついていて硬かった。いくら女中が力仕事もするとは言え、それだけでつくような筋肉でないことは、剣を遣う新九郎にはすぐにわかったのである。
新九郎の真剣な表情。それを見上げて、りよは呆然とした。新九郎が何を思い、何を訊きたいのかを察して、言葉を失った。だが、自然と目尻から涙を一筋流しながら、
「一つだけでいいので、信じていただきたいことがござります。明後日、私はここを出て行きます。ですが、この先、私に何があろうとも……もし、もう一度どこかで旦那さまに会った時の私が何をしていようとも……私は今のりよと同じでございます」
「…………」
「私は、旦那さまの前では、旦那さまを誰よりも愛しく慕っている一人の女子でございます。それは、いつどこでも同じでございます」
「…………」
「生涯忘れませぬ……私が旦那さまをお慕いしていた気持ちは決して忘れませぬ。だから、今だけは、私をただ一人の女子として……」
そこで、りよは堪えきれなくなったように言葉を詰まらせた。保っていた表情が崩れ、両の目じりが涙が溢れた。
――構わない。信じよう。
新九郎の脳裏から、全ての煩わしい想いが吹き飛んだ。
「私もだ。りよを誰よりも愛おしく思っている」
「うれしゅうございます。旦那さま」
りよは、両腕を伸ばして新九郎の背に絡ませて引き寄せた。
新九郎は、再び唇をりよの唇に重ねた。
半刻近く後ーー
男と女は長い睦み合いを終え、床の中で熱くなった身体を離した。
しかし、すぐに女は潜り込むように男の胸に寄り添い、男も右腕で女の上気した身体を抱き寄せた。
恍惚にまどろみが寄せて来る中、男は言った。
「おりよがこの家から去っても、おりよはしばらくは私の心の中にいたままであろう。そのような中で妻を迎える気にはなれない……縁談は断ろうと思う」
「え? そのようなこと……だめでございますよ」
女は驚いて顔を離し、男の横顔を見た。
だが男は目を閉じて、
「難しいのはわかっている。だが、駄目でもせめて、この話はもっと後にしてもらおうと思う。私の胸には、おりよ以外の女は入れなくなってしまったよ……」
それを聞くと、女は頬を染めながら「嬉しい」と、再び男の身体に抱き着いた。
切なくも甘い雨が降る夜であった。
その頃、甲法山の麓にある平城の如き屋敷でーー
密かに訪れていた城戸家筆頭家老小田内膳と、屋敷の主である城戸流斎が、奥の狭い茶室で密談をしていた。
「内膳、これで誠に問題はなかったかのう」
流石に藩主の叔父である流斎の茶室だけあって、灯りには燭台を使っていた。そのおかげで室内は明るく、流斎の不安を拭いきれない表情がはっきりと見える。
対して、小田内膳は落ち着いた笑みを見せた。
「ええ。咄嗟に宇佐美どのに黒須の二刀を渡して、黒須に襲撃されたと言われたのは流石の機転でございます。他に現場を見た者はおりませんし、殿のご家中の方が多数斬られているのを宇佐美どのも見ております。これでは黒須が何を言おうと信用はないでしょう、ご安心くださいませ。後は、私の力をもって、あらゆる方面から手段を講じます」
「しかし、大鳥が庇うであろう」
「なんの、所詮大鳥の方が人数は少のうございます。こちらは殿の資金力のおかげであちこちにどんどん人が増えております。この数の差と人の繋がりの差は大きゅうございます」
「ふむ、だが大鳥は何と言っても藩祖頼龍公以来の重臣筆頭の家柄。そこは甘く見られぬし、大鳥順三郎自身もなかなかの剛腕じゃ」
「家柄、剛腕、所詮それだけでございます。大鳥にはここが足りませぬ故、ご安心ください」
と言って、小田内膳は頭を指でつついた。
それを見て流斎はおかしそうに笑ったが、顔にはまだ不安の色は残っていた。
「じゃが、鉢窪村から消えた連判状がまだ見つからぬ。黒須の家に無いと言うことは、大鳥が持っているのは確実。筆頭二人の儂らの名は塗り潰してあるが、あれが大鳥の手にあるのはやはりまずい」
「なんの、我ら二人の名が塗り潰してある故に安心でございます。むしろ、武器になるでしょう」
「どういうことじゃ?」
「いざ大鳥が備後(藩主城戸政龍)にあれを差し出したならば、こうすれば良いのです。失礼いたしまする」
と、内膳は膝行して流斎に近づくと、扇子で口元を隠しながら流斎の耳元に何かささやいた。
流斎は瞬時に顔色を変えて、悪鬼でも見たかのような顔で内膳を見た。
「お主、誠か……」
「ええ。これしかありませぬ。それどころか、大鳥一派のみならず、我らの計画を知っている主だった者たちを一斉に口封じできる秘策でしょう」
「そうじゃが……恐ろしいことを考えるものよの」
流斎は顔をひきつらせた。
「殿、大事を成すには、時には非情にならねばなりませぬぞ」
内膳は、励ますように言った。
「うむ、そうじゃな」
「これによって大鳥を失脚させることができれば、大鳥の屋敷を捜索することができまする。大鳥の屋敷には最後の三中散が残されている可能性が高い。これで三中散を手に入れられれば備後の命は……。殿の大志成就は間もなくです」
「うむ」
流斎は笑みを見せて頷いた。
「全ては正道の為でございます。正当な国の主がその座を取り戻す、その正義を成す為には、多少の犠牲者が出るのに構ってはなりませぬ」
「うむ、わかっておる」
流斎はすでに覚悟を固めたのか、いつもの顔に戻って頷いた。が、その後でまた眉を曇らせた。
「しかし、あそこで邪魔が入って黒須を取り逃がしてしまうとはのう。一体何者が煙玉など放ったのか。虎が全ての者を厳しく尋問したが、一人も怪しい者はおらんかった」
「虎どのの部下は虎どのを中心によくまとまっております故、裏切り者や狗がいるとは思えませぬ。やはり大鳥の屋敷にいる元笹川組の何者かが入り込んだのかも知れませぬ」
「ふむ、笹川組の技は尋常ではないからの……警備をより厳重にせねばならぬな。儂が藩主になるまでは片時も油断はできぬわ」
そう言うと、流斎は咳き込んだ。
翌朝、新九郎が目を覚ました時は、隣にりよの姿はなく、その甘い残り香だけが漂っていた。
上半身を起こすと、包丁を叩く音がとんとんと聴こえて来た。りよが朝餉の支度をしているらしい。
新九郎は、昨夜の睦み合いを思い起こした。りよの柔らかな唇と、白肌の滑らかな感触。新九郎の全てを優しく受け入れた暖かな体温。
甘美な一時であった。しかし、思い起こせば胸が締め付けられる切ない一夜でもあった。
新九郎は軽く頭を振ると、夜具から出て着替えを始めた。すると、包丁を叩く音が止み、新九郎がちょうど着替えを終えた時に、襖の外からりよの声がした。
「旦那様、お目覚めでございますか」
「ああ。ちょうど着替えたところだ」
「では、お入りしてもようございますか?」
「構わぬが、どうした」
襖が開き、りよが静かに入って来た。
りよは襖を閉じると新九郎の前に正座し、頬を染めて新九郎の顔を見た。
「あの……私、戻って参ります」
「うん?」
新九郎はその意味がわからず、その場に腰を下ろした。
「戻って来るとは?」
「約束した以上、やはりまずは藤之津へ帰ります。ですが、今回のお話はお断りして、またここへ戻って来たいと思います」
「何? よいのか、それで」
「はい。旦那さまは此度の縁談をお断りするか、或るいは決めるのを待っていただくとのこと。ならば、旦那さまがご新造さまをお迎えになるまでは、私はまだこの家で旦那さまと奈美さまの為に働きとうございます」
その言葉を聞いて、新九郎はぽかんとしてしまった。
「あの、ご迷惑でしょうか?」
りよは、黙ってしまった新九郎を見て、恐る恐る訊いた。
新九郎は我に返って慌てて、
「あ、いや。そのようなことはない。ありがたい、いや、嬉しい。奈美も喜ぶだろう」
「ありがとうございます」
「だが、おりよの縁談も、またと無い良い話。もったいなくはないか」
新九郎が訊き返すと、
「旦那様が、胸のうちに私しか入れなくなったと仰ったのと同じく、わたくしの胸の中も旦那様でいっぱいになってしまいました。こんな状態ではとても嫁ぐ気になれませぬ」
「おりよ……」
新九郎は微笑した。
りよは続けて、
「そうですね、五日間のうちには戻って参ります」
「五日か」
「はい。その間に私は……」
と言いかけて、りよは急に言葉に詰まって下を向いた。
だが、ふっと軽く息をつくと、再び顔を上げて新九郎を見て、
「私は全てを清算し、誠の私になって戻って参ります」
「誠のおりよ?」
「はい。他の何者でもない、旦那さまだけをお慕いしている一人の女子になって戻って参ります」
りよの瞳には、真実の色しかなかった。
「わかった。その頃にはうちの桜も、おりよの好きな葉桜になっているだろう」
「はい。ここの葉桜がまだ見られるうちに帰って来たいと思います」
「うむ、待っていよう」
新九郎が微笑みながら頷くと、りよは肩の荷が下りたような安堵した笑みを見せて、
「では、すぐに朝餉を用意いたしますので」
と、立ち上がり、背を向けて襖に手をかけたが、新九郎が「待て」と呼び止めた。
「はい」
「おりよ」
と、その背から両手を回して抱きしめた。
突然のことに、りよはびくっとしたが、すぐに自分の手を新九郎の手に絡めた。
新九郎はその手をほどくと、りよの顔を強引に自分の方へ向けて顔を寄せた。
「あっ」
りよの唇から、吐息と共に、艶めかしい声が漏れた。
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