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雨の別れ
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藩主政龍の前から下がり、城からも出た新九郎を、大手門の内側で大鳥順三郎が家士たちを従えて待っていた。
順三郎は新九郎に歩み寄ると、「殿と何を話したか、言えるか?」と訊いて来た。
隠すような話ではないと判断した新九郎は、素直に内容を話した。
「おお、なるほどな」
大鳥はやや興奮したように何度も首を振り、
「これは良い。殿はやはりお主を気に入ったようじゃな。それに、わしらの方が正しいと思って励ましてくれているようじゃ。これは何としてもやらねばならぬ。殿の為、そして藩と民の為にな」
「はい」
大鳥順三郎は小声になって、
「お主の聞いたところによれば、三日後には流斎さまは江戸に向けて不正に得た物資と金を送るそうな。何としてもこれを押えて動かぬ証拠を掴み、殿に見せる。その上であの連判状を出す。これで流斎さまと小田一派を追い込めるであろう」
「はっ」
「その段取りは儂が整える。明後日までにはお主も含めて皆に伝えるからそのつもりでいるようにな」
「承知仕りました」
新九郎が頷くと、順三郎はぽんっと手の平を叩き、
「ああ、そうだ。それまでは儂の屋敷で寝泊まりせい。流斎さまの手の者がお主を襲うであろうからな」
と言ったが、新九郎は少し考えてから、
「そうですね。しかし、私がご家老と共に登城したことは、もうあちら側にも伝わっているはず。であれば、すでに私を狙う必要はないでしょう。わざわざご家老のお屋敷にお邪魔するまでもありません」
「ふむ、言われてみればその通りではあるがの」
順三郎は納得したが、珍しく不安そうな顔を見せた。
「私も武士の端くれにございます。何かあっても自分の身ぐらいは自分で守れます」
「まあ、お主ほどの腕ならばさほど心配はないか」
「ええ」
「だが、今は疲れているであろう。帰りはうちの者たちにお主を送らせよう。そのままお主の屋敷も見張らせる」
「そんな、無用にござります」
「いや、お主だけではないぞ。家には妹がいるではないか。多少の護衛はいる方が良いのではないか」
「ああ、そう言えば……」
「遠慮はいらぬ。儂は亡き新兵衛に誓っておる。新兵衛の子供らは儂が守って見せるとな」
「ありがとうございまする」
こうして、新九郎は大鳥順三郎の家士、もとい旧笹川組の手練れたちに屋敷にまで送られた。新九郎が家に入ると、家士たちはそのままそれぞれ散り、黒須邸を警護し始めた。
玄関の戸を開けた新九郎を、飛びかかって来るように妹の奈美が出迎えた。
「兄上! ようございました。ようご無事で……」
奈美は新九郎の顔を見るなり泣き始めた。
その後ろから、りよも出て来て安堵した顔を見せた。
「奈美さまは、旦那様が心配で眠れなかったのですよ」
そう言ったりよも、目の下には隈ができているのが見えた。
そのりよの顔を、新九郎はじっと観察するように見た。隈だけではなく、顔全体に疲労の色が見えていた。
「如何されましたか?」
りよは、不審そうに新九郎を見返した。
新九郎は履物を脱いで上がると、
「いや、何でもない。おりよも眠れなかったのか」
「もちろんでございます。旦那様に何かあったらと思いましたら、心配でたまりませんでした」
「そうか。すまなかった、心配をかけたな。だが、私が奈美やおりよを残して死ぬはずないだろう」
と、新九郎は笑い、
「帰って来て早々に悪いが腹が空いた、何かないか?」
「お茶漬けならば用意できます。すぐにお持ちいたしましょう」
りよはにこりと笑い、台所の方へ静かに向かった。
そのりよの後ろ姿から、新九郎は何故か寂しさのようなものを感じた。同時に、絡まってほどけない糸のような複雑な想いに囚われた。
だが、極度の疲労のせいであろうか、胸中に渦巻いている様々な想いを越えて、ただりよを抱きしめたい、そう思った。
翌朝、新九郎はいつもの時刻に目を覚ました。
今日は家老大鳥順三郎の手回しで休みをもらっていたので、疲れを取る為にももっと眠っていたかったのだが、やけに寒さを感じてそれ以上眠れなかったのだ。
昨日までは例年よりも暖かさを感じていたほどだったのだが、今日はまるで冬に戻ったような冷えである。
新九郎は、長火鉢に火を入れてもう一度寝なおそうかと思ったが、そこで空腹を感じて布団から出た。
綿入れ長着を出して羽織ると、部屋から廊下に出て外を見た。
空はどんよりと曇っていて薄暗く、ぽつぽつと小雨が降って庭を湿らせていた。
――これは寒いわけだ。
新九郎がぶるっと震えたその時、りよの澄んだ声がした。
「旦那様、おはようございます。もっと遅いかと思っておりましたが」
新九郎は振り返って苦笑した。
「そのつもりだったが、寒くて目が覚めてしまったよ」
「そうでしたか、確かに冬のように冷えますね」
りよも手で肩をさすりながら空を見上げた。
「この空では雨はもっと強くなるでしょうね。桜が散るのは早そう」
りよは、寂しそうに庭の隅の桜を見た。
桜はちょうど満開を過ぎて散り始め、庭のあちこちに花を散らして淡紅色に染め始めていた。
「残念だが仕方ない」
新九郎はぽつりと言った。
「ええ……」
りよはしんみりと答えた後、そっと新九郎の横顔を見上げた。
気付いた新九郎がりよを見て、
「どうした?」
「いや、あの……」
りよは何かを言いたそうにしたが、口をつぐんでまた庭に目をやった。
「うん? 何かあるなら遠慮なく言ってくれ」
「ええ、その……朝餉はいかがなさいますか? 用意はできておりますが」
りよは表情を明るくして再び新九郎の顔を見た。
「朝餉……」
「はい」
新九郎は、今のりよの挙動に引っかかるものを感じたが、何故かそこに突っ込んではいけないように感じた。
「ああ、そうか、実は空腹でたまらん。いただこう」
今日の朝餉は、大根の漬物、あさりの味噌汁に雑穀混じりの飯と言う、普段良く出る献立であった。
新九郎は疲労と空腹のせいか、いつもよりも美味く感じ、飯を二回もお代わりした。
食べ終えて茶を飲みながら、妹の奈美とたわいない話をしていると、りよが前掛けで手を拭きながらやって来て二人の前に畏まった。
「旦那さま、奈美さま、お話がございます」
りよは床板に両手をついた。
「どうした、そんなに改まって」
新九郎は持っていた湯呑を置いた。
「実は、お暇をいただきとうございます」
りよが頭を下げて言うと、新九郎はもちろん、奈美もびっくりした。
「え? どうしてなの?」
思いもしなかったりよの言葉に新九郎は狼狽し、
「それは……急にどういうことだ。何かあったのか?」
「いえ……旦那さまがご新造様をお迎えしますので、私はいない方がよろしいかと思いまして」
りよは顔を上げると、寂しそうな笑みを見せた。
韮沢万治の息女、かなとの縁談のことだ。
新九郎は、しばし言葉に詰まった後、
「そんなことは無いだろう。私が妻を迎えても……おりよがここにいることに問題はないはずだ」
新九郎は絞り出すように言った。
「いえ、しかし……言いにくいのですが、黒須家の家禄を考えましても」
りよは気まずそうに肩をすぼめた。
新九郎は手を振って、
「いやいや、一人増えたぐらいで暮らしに困るほどではない。そもそも、その前にだ。私の縁談は正式に決まったわけではない。ご家老からそういう話が来ただけで、まだ私は受けてもいないのだ。かな殿の顔を見たことすらない」
「確かにそうですが、このお話は旦那さま、奈美さまにとってもまたとない良縁でございます。まとめる為にも私は早くいなくなった方がよろしいかと」
「そんなことはない。そう急ぐな」
「いえ。それに、実は旦那さまがいない間に、私に遠縁の親戚が訪ねて参りまして」
「え? いつ?」
奈美が驚いてりよの顔を見た。
「ちょうど奈美さまもお稽古に行かれている間でした」
と、りよは一瞬目を閉じてから、
「以前にも申し上げました通り、商家をしていた私の父は偏屈者でしたので親戚付き合いもなく、その為に家が無くなった後、私は天涯孤独となりました。ですが、母の従姉妹で、私のことを常々気にかけてくれていた人がおりまして、その人が私を探して訪ねて来られたのです」
「ほう」
「その人は、やはり藤之津のとある商家の女将なのですが、長く取引のある紙問屋がご子息の相手を探しているらしく、そこでわたくしのことを思い出してわざわざ探しに来てくれたのです」
りよにもまた縁談が来たと言うことである。
このことに新九郎の心には波が立ち、言葉が出なかった。
「政略的な結婚みたいね。大丈夫なのかしら」
奈美が不安そうに言ったが、
「はい。ですが、母の従姉妹のその方は、今でもわたくしのことを気にしていたらしく、偏屈者だった父のことを藤之津の皆が忘れ初めている今、これは私が落ち着けるまたとない縁だとのことで、わざわざわたくしを探しに来てくれたのです」
りよの目は、やや充血していた。その目で新九郎の顔を見た。
新九郎は、まだ何も言えなかった。
りよも十九歳と言う年頃の娘である。いやむしろ、結婚にはやや遅い。そんなりよに、唯一彼女を気にかけてくれている親戚がまたと無い良縁を持って来たのだ。黒須家の女中でいるよりは遥かに良い話である。
「いつ藤之津へ行く?」
新九郎は、低い声で言った。
「そうですね……お許しくださるならば、今日と明日で荷物を色々とまとめ、このお屋敷のことを色々と済ませて、四、五日後には藤之津へ行きたいと思っております」
「四、五日後か、それでも早いな」
「はい」
新九郎は、真顔で無言になった。
りよも無言で俯き、奈美は悲しそうな顔でりよを見ている。
重く、長い沈黙が流れたーー
外から雀の鳴き声が聞こえた時、新九郎はやっと口を開いた。
「寂しくなるな。道中はくれぐれも気を付けてくれ」
新九郎が寂しそうな笑みで言うと、奈美がはっとして「兄上!」と身を乗り出した。
新九郎は奈美を見て、
「奈美、おりよのことを考えなさい。これはおりよにとってはまたとない良縁だ。このまま我が家にいるよりは、おりよの為になるだろう」
と、たしなめるように言うと、奈美はぽろぽろと涙をこぼし始め、袖で目尻を拭った。
「奈美さま、申し訳ござりませぬ。でも少なくとも五日後までは黒須家の女中です。それまでは精一杯お二人の為に働きます」
りよは、奈美の方を向いて両手をつき、頭を下げた。
床板に、涙が一粒落ちてにじんだ。
冷えた空気の中で、雨の音だけがしとしとと聞こえていた。
順三郎は新九郎に歩み寄ると、「殿と何を話したか、言えるか?」と訊いて来た。
隠すような話ではないと判断した新九郎は、素直に内容を話した。
「おお、なるほどな」
大鳥はやや興奮したように何度も首を振り、
「これは良い。殿はやはりお主を気に入ったようじゃな。それに、わしらの方が正しいと思って励ましてくれているようじゃ。これは何としてもやらねばならぬ。殿の為、そして藩と民の為にな」
「はい」
大鳥順三郎は小声になって、
「お主の聞いたところによれば、三日後には流斎さまは江戸に向けて不正に得た物資と金を送るそうな。何としてもこれを押えて動かぬ証拠を掴み、殿に見せる。その上であの連判状を出す。これで流斎さまと小田一派を追い込めるであろう」
「はっ」
「その段取りは儂が整える。明後日までにはお主も含めて皆に伝えるからそのつもりでいるようにな」
「承知仕りました」
新九郎が頷くと、順三郎はぽんっと手の平を叩き、
「ああ、そうだ。それまでは儂の屋敷で寝泊まりせい。流斎さまの手の者がお主を襲うであろうからな」
と言ったが、新九郎は少し考えてから、
「そうですね。しかし、私がご家老と共に登城したことは、もうあちら側にも伝わっているはず。であれば、すでに私を狙う必要はないでしょう。わざわざご家老のお屋敷にお邪魔するまでもありません」
「ふむ、言われてみればその通りではあるがの」
順三郎は納得したが、珍しく不安そうな顔を見せた。
「私も武士の端くれにございます。何かあっても自分の身ぐらいは自分で守れます」
「まあ、お主ほどの腕ならばさほど心配はないか」
「ええ」
「だが、今は疲れているであろう。帰りはうちの者たちにお主を送らせよう。そのままお主の屋敷も見張らせる」
「そんな、無用にござります」
「いや、お主だけではないぞ。家には妹がいるではないか。多少の護衛はいる方が良いのではないか」
「ああ、そう言えば……」
「遠慮はいらぬ。儂は亡き新兵衛に誓っておる。新兵衛の子供らは儂が守って見せるとな」
「ありがとうございまする」
こうして、新九郎は大鳥順三郎の家士、もとい旧笹川組の手練れたちに屋敷にまで送られた。新九郎が家に入ると、家士たちはそのままそれぞれ散り、黒須邸を警護し始めた。
玄関の戸を開けた新九郎を、飛びかかって来るように妹の奈美が出迎えた。
「兄上! ようございました。ようご無事で……」
奈美は新九郎の顔を見るなり泣き始めた。
その後ろから、りよも出て来て安堵した顔を見せた。
「奈美さまは、旦那様が心配で眠れなかったのですよ」
そう言ったりよも、目の下には隈ができているのが見えた。
そのりよの顔を、新九郎はじっと観察するように見た。隈だけではなく、顔全体に疲労の色が見えていた。
「如何されましたか?」
りよは、不審そうに新九郎を見返した。
新九郎は履物を脱いで上がると、
「いや、何でもない。おりよも眠れなかったのか」
「もちろんでございます。旦那様に何かあったらと思いましたら、心配でたまりませんでした」
「そうか。すまなかった、心配をかけたな。だが、私が奈美やおりよを残して死ぬはずないだろう」
と、新九郎は笑い、
「帰って来て早々に悪いが腹が空いた、何かないか?」
「お茶漬けならば用意できます。すぐにお持ちいたしましょう」
りよはにこりと笑い、台所の方へ静かに向かった。
そのりよの後ろ姿から、新九郎は何故か寂しさのようなものを感じた。同時に、絡まってほどけない糸のような複雑な想いに囚われた。
だが、極度の疲労のせいであろうか、胸中に渦巻いている様々な想いを越えて、ただりよを抱きしめたい、そう思った。
翌朝、新九郎はいつもの時刻に目を覚ました。
今日は家老大鳥順三郎の手回しで休みをもらっていたので、疲れを取る為にももっと眠っていたかったのだが、やけに寒さを感じてそれ以上眠れなかったのだ。
昨日までは例年よりも暖かさを感じていたほどだったのだが、今日はまるで冬に戻ったような冷えである。
新九郎は、長火鉢に火を入れてもう一度寝なおそうかと思ったが、そこで空腹を感じて布団から出た。
綿入れ長着を出して羽織ると、部屋から廊下に出て外を見た。
空はどんよりと曇っていて薄暗く、ぽつぽつと小雨が降って庭を湿らせていた。
――これは寒いわけだ。
新九郎がぶるっと震えたその時、りよの澄んだ声がした。
「旦那様、おはようございます。もっと遅いかと思っておりましたが」
新九郎は振り返って苦笑した。
「そのつもりだったが、寒くて目が覚めてしまったよ」
「そうでしたか、確かに冬のように冷えますね」
りよも手で肩をさすりながら空を見上げた。
「この空では雨はもっと強くなるでしょうね。桜が散るのは早そう」
りよは、寂しそうに庭の隅の桜を見た。
桜はちょうど満開を過ぎて散り始め、庭のあちこちに花を散らして淡紅色に染め始めていた。
「残念だが仕方ない」
新九郎はぽつりと言った。
「ええ……」
りよはしんみりと答えた後、そっと新九郎の横顔を見上げた。
気付いた新九郎がりよを見て、
「どうした?」
「いや、あの……」
りよは何かを言いたそうにしたが、口をつぐんでまた庭に目をやった。
「うん? 何かあるなら遠慮なく言ってくれ」
「ええ、その……朝餉はいかがなさいますか? 用意はできておりますが」
りよは表情を明るくして再び新九郎の顔を見た。
「朝餉……」
「はい」
新九郎は、今のりよの挙動に引っかかるものを感じたが、何故かそこに突っ込んではいけないように感じた。
「ああ、そうか、実は空腹でたまらん。いただこう」
今日の朝餉は、大根の漬物、あさりの味噌汁に雑穀混じりの飯と言う、普段良く出る献立であった。
新九郎は疲労と空腹のせいか、いつもよりも美味く感じ、飯を二回もお代わりした。
食べ終えて茶を飲みながら、妹の奈美とたわいない話をしていると、りよが前掛けで手を拭きながらやって来て二人の前に畏まった。
「旦那さま、奈美さま、お話がございます」
りよは床板に両手をついた。
「どうした、そんなに改まって」
新九郎は持っていた湯呑を置いた。
「実は、お暇をいただきとうございます」
りよが頭を下げて言うと、新九郎はもちろん、奈美もびっくりした。
「え? どうしてなの?」
思いもしなかったりよの言葉に新九郎は狼狽し、
「それは……急にどういうことだ。何かあったのか?」
「いえ……旦那さまがご新造様をお迎えしますので、私はいない方がよろしいかと思いまして」
りよは顔を上げると、寂しそうな笑みを見せた。
韮沢万治の息女、かなとの縁談のことだ。
新九郎は、しばし言葉に詰まった後、
「そんなことは無いだろう。私が妻を迎えても……おりよがここにいることに問題はないはずだ」
新九郎は絞り出すように言った。
「いえ、しかし……言いにくいのですが、黒須家の家禄を考えましても」
りよは気まずそうに肩をすぼめた。
新九郎は手を振って、
「いやいや、一人増えたぐらいで暮らしに困るほどではない。そもそも、その前にだ。私の縁談は正式に決まったわけではない。ご家老からそういう話が来ただけで、まだ私は受けてもいないのだ。かな殿の顔を見たことすらない」
「確かにそうですが、このお話は旦那さま、奈美さまにとってもまたとない良縁でございます。まとめる為にも私は早くいなくなった方がよろしいかと」
「そんなことはない。そう急ぐな」
「いえ。それに、実は旦那さまがいない間に、私に遠縁の親戚が訪ねて参りまして」
「え? いつ?」
奈美が驚いてりよの顔を見た。
「ちょうど奈美さまもお稽古に行かれている間でした」
と、りよは一瞬目を閉じてから、
「以前にも申し上げました通り、商家をしていた私の父は偏屈者でしたので親戚付き合いもなく、その為に家が無くなった後、私は天涯孤独となりました。ですが、母の従姉妹で、私のことを常々気にかけてくれていた人がおりまして、その人が私を探して訪ねて来られたのです」
「ほう」
「その人は、やはり藤之津のとある商家の女将なのですが、長く取引のある紙問屋がご子息の相手を探しているらしく、そこでわたくしのことを思い出してわざわざ探しに来てくれたのです」
りよにもまた縁談が来たと言うことである。
このことに新九郎の心には波が立ち、言葉が出なかった。
「政略的な結婚みたいね。大丈夫なのかしら」
奈美が不安そうに言ったが、
「はい。ですが、母の従姉妹のその方は、今でもわたくしのことを気にしていたらしく、偏屈者だった父のことを藤之津の皆が忘れ初めている今、これは私が落ち着けるまたとない縁だとのことで、わざわざわたくしを探しに来てくれたのです」
りよの目は、やや充血していた。その目で新九郎の顔を見た。
新九郎は、まだ何も言えなかった。
りよも十九歳と言う年頃の娘である。いやむしろ、結婚にはやや遅い。そんなりよに、唯一彼女を気にかけてくれている親戚がまたと無い良縁を持って来たのだ。黒須家の女中でいるよりは遥かに良い話である。
「いつ藤之津へ行く?」
新九郎は、低い声で言った。
「そうですね……お許しくださるならば、今日と明日で荷物を色々とまとめ、このお屋敷のことを色々と済ませて、四、五日後には藤之津へ行きたいと思っております」
「四、五日後か、それでも早いな」
「はい」
新九郎は、真顔で無言になった。
りよも無言で俯き、奈美は悲しそうな顔でりよを見ている。
重く、長い沈黙が流れたーー
外から雀の鳴き声が聞こえた時、新九郎はやっと口を開いた。
「寂しくなるな。道中はくれぐれも気を付けてくれ」
新九郎が寂しそうな笑みで言うと、奈美がはっとして「兄上!」と身を乗り出した。
新九郎は奈美を見て、
「奈美、おりよのことを考えなさい。これはおりよにとってはまたとない良縁だ。このまま我が家にいるよりは、おりよの為になるだろう」
と、たしなめるように言うと、奈美はぽろぽろと涙をこぼし始め、袖で目尻を拭った。
「奈美さま、申し訳ござりませぬ。でも少なくとも五日後までは黒須家の女中です。それまでは精一杯お二人の為に働きます」
りよは、奈美の方を向いて両手をつき、頭を下げた。
床板に、涙が一粒落ちてにじんだ。
冷えた空気の中で、雨の音だけがしとしとと聞こえていた。
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