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新九郎の行方
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「おのれ!」
元々、韮沢万次が加勢に来て有利であったところへ、今井一馬の憤怒を乗せた疾風の斬撃が、深々と敵の左胸から右脇腹を斬り裂いた。
「黒須……!」
三木辰之助はもっと離れたところにいたが、騒ぐ声で何が起きたかを察して顔を青くした。だが、それは何故か斬り結んでいる燕も同様で、固まったように動きを止めていた。
―ー乱れた!
辰之助は気合と共に闇に踏み込んだ。
だが、燕は我に返った。咄嗟に辰之助の攻撃を撥ね返しながら後方へ飛んだ。その瞬間、燕の懐から何か煌めくものが落ちた。辰之助はそれに気付いたが、構わずに二の太刀を突いて行った。
しかし、その横から大きな影が躍り込んで来た。虎が駆けつけて来たのだ。虎は辰之助の懐へ迫って鋭く斬り込んだ。
辰之助は防ごうとしたが防ぎきれず、左脇腹をわずかに斬られてしまった。
「うっ……」
顔を歪めて腰をくの字にしかけた辰之助に、虎は続けて剣を振りかぶったが、その背後へ今井一馬と韮沢万次が猛然と迫った。
「ちっ」
虎は振り返りざまに渾身の横薙ぎを一閃し、更に返す刀で夜風を斬る。今井一馬は間一髪でそれを防いだが、韮沢万治は左腕を掠められて動きを止めた。
虎は追撃しようと剣を振り上げたが、突然顔を歪めて腕を下ろした。左肘のあたりの血の染みが更に広がっており、ぽたぽたと垂れていた。
虎は呻きながら少し考えて、
「もう良い、退くぞ!」
と、叫びながら山の奥へ消えた。
それを聞いた燕も警戒しながら後ずさり、夜闇の上へ飛び去った。
こうして戦いは終わったが、城戸流斎の不正の現場を突き止めながらも押さえることができなかったので、作戦は失敗に終わったと言える。
しかも、黒須新九郎は崖から落ち、三木辰之助と韮沢万治も手傷を追ってしまった。
今井一馬だけは唯一無傷であり、すぐに新九郎の安否を心配したが、まずは目の前の辰之助と韮沢万次に駆け寄った。
だが、二人とも軽傷であり、大事はないと見えた。
「浅傷じゃ。これしきはよくあることよ」
座り込んでいた万次は、慣れた手つきで小袖の裾を切り、月明りを頼りに傷口に巻いて縛ると、
「三木どのは? 腹を斬られなかったか?」
と、流石の豪傑気質で、自分のことはなかったかの如く立ち上がり、辰之助の方へ歩いて行った。
「それがしも大した傷ではございませぬ」
辰之助もまた、手拭いなどを使い、自ら手当てをしようとしていた。
「ふむ、大事は無さそうじゃが、油断はできんぞ。わしがやってやろう」
万次は膝をついて辰之助の傷をよく見ると、腰に提げていた革袋から軟膏を取り出し、今井一馬と共に辰之助の応急処置を手伝った。
ちなみに、この腰に提げる小さな革袋、様々な物を携帯するのに便利だと言うことで、近頃領内で武士や町民農民問わず流行っており、新九郎や辰之助らも愛用している。
凝り性の者だと、それぞれ意匠の違う革袋を四つも五つも腰帯から提げたりしており、辰之助などは「流石に重くねえのか? あれ」などと苦笑していた。
こうして、ひとまず辰之助の心配が無くなると、今井一馬は居ても立っても居られないと言った風に立ち上がった。
「韮沢さま、新九郎を探しましょう」
「うむ、どうも崖から落ちたようじゃな。これはまずい」
万次も険しい顔をして立ち上がった。
「辰之助、お前はそこで休んでろ。何かあれば鈴を鳴らせ、すぐに駆け付ける」
「わかった。俺も浅傷だ、心配はいらん。黒須のことは任せるぞ」
辰之助が座ったまま答えると、一馬と万次は小走りで新九郎を探しに走った。
二人が闇へ消えると、辰之助はしばし呼吸を整えながら休んだ後、静かに立ち上がった。
脇腹には鋭い痛みが走ったが、耐えられないほとではない。辰之助は脇腹を気にしながらゆっくり歩き、先ほど燕と斬り結んだ辺りの地面を注意深く見た。
空に月は煌々と輝いているが、光はか細く、地面までははっきりとは見えない。辰之助は手ごろな木の枝を拾うと、火打石で火をつけ、その明かりを頼りにして足下を探った。
すると、しばらくして黒光りしている"それ"を探し当てた。
辰之助と"燕"が斬り結んでいた最中に、"燕"の身体から落ちた物だ。辰之助はそれを拾い上げて、手のひらに乗せて火の灯りを近づけて良く見た。瞬間、辰之助の顔色が変わった。
――これは、黒須が奴の家の女中にやった櫛ではないのか?
黒の漆塗りに、螺鈿と金粉で装飾し、更に蒔絵で桜が描かれている。
辰之助は、新九郎らが見舞いに来た折に、新九郎が落としたのを拾い上げて一度見ただけであったが、この藩では珍しい装飾であったが故に強く印象に残っており、良く覚えていた。
その後、今日のことを話す為に黒須邸を訪れた際に、新九郎がこの櫛をりよに渡したことがわかったのも覚えている。
――間違いなくこの櫛だ。何故、あの男がこの櫛を……いや、違う!
辰之助は真実に感付き、全身を貫く衝撃に動悸が高鳴った。
――男ではないのだ。まさか、"燕"とか呼ばれていたあ奴は、黒須の家にいるあの女中か?
その衝撃が、辰之助の体内に巣食っている悪魔を刺激したようであった。辰之助は臓腑よりこみ上げてくるものをこらえきれず、口から血の塊を吐いた。
だが、辰之助は冷静であった。はぁはぁと息を乱したが、自らの血で赤く染まった土と雑草を一瞥しただけで気にもせず、櫛を見つめながら考え込んでいた。
ーーなるほど……これまでの不可解なこと……そうか、そういうことだったのか。
辰之助は、全てを悟った。
その時、今井一馬と韮沢万次の二人が戻って来る足音と、辰之助の名を呼ぶ声が闇から聞こえた。
辰之助は、慌てて櫛を腰帯から提げていた革袋にしまい、それに答えた。
「見つかりましたか?」
「いや、崖下へ行ける道がちと遠いようでな。お主を置いて行くわけにはいかんし、一言伝えてから行こうと、とりあえず戻って来たわけじゃ」
韮沢万次が答えると、
「なので、新九郎は俺たちで探しに行くから、お前は先に帰っているといい」
今井一馬が辰之助の肩を叩いた。
「いや、そうであれば、俺も一緒に崖下まで行こう」
辰之助は剣の柄を撫でながら言った。
「しかしお前の傷は脇腹、下手に動いては……」
一馬が心配すると、辰之助は豪放に笑い声を上げた。
「よく考えろ、ここで一人で帰るのも黒須を探しに行くのも同じだろう? それに、俺の身体はこの通り、でかい。これしきの傷は大したことないわ」
「ははっ、そうか。ならばお前を信じるぞ」
一馬が笑うと、韮沢万次もにこりと笑い、
「では、皆で黒須どのを探そう。無事であれば良いが」
と、三人は崖下へ繋がる道へ向かった。
その道は、新九郎が転落したと思われる場所よりぐるっと迂回する形で、三人は足下を慎重に探りながら道を進んで行ったのだが、下り終えた先で三人は愕然とした。
そこには川が流れており、新九郎が落ちたと思われる場所にまで流れは続いていたのだ。
「おいおい、これはまずいんじゃないのか?」
流石に辰之助が不安そうに言うと、一馬も同調して、
「傷を受けた状態で流されていたら……」
と、顔を青くしたが、韮沢万次は川の中に足を踏み入れてその深さを確かめてから、更に崖の上を見上げた。崖は切り立った形ではなく、急ではあるが傾斜があり、その真下が岸もない川面になっていた。
「いや、逆に幸いかも知れん。見よ、あの崖を。あそこから落ちた先が何もない地面であったならば、落ちた衝撃ですでに命は無かったであろう。だが、あの崖の角度で落ちたならば衝撃は少なく、また、この川の深さならばちょうどいい緩衝になって、落ちたとしても命はつながっていると思う」
万次は、落ち着いて周囲を見回した。
「なるほど、確かにそうですね」
一馬は安堵したように答えたが、万次はそこで眉を険しくした。
「動けないぐらいの傷を負っていなければ、じゃがな。もし動けるならば泳いでその辺りの岸辺にいるであろう。探そう」
三人は、落ちている木枝を拾って松明にし、岸辺を歩いて新九郎の名を呼びながら探した。
しかし、落ちたと思われる辺りやその周辺の岸辺に、新九郎の姿はなかった。
三人は更に川にまで入った。春とは言え、北国の夜である。川の水は身体の芯まで凍らすように冷たかったが、三人は胸まで水に浸かり、足を取られないように慎重に川底を進みながら新九郎を探した。
だが、いくら探しても新九郎の姿は見つからなかった。
「どういうことだ」
「何故どこにもいない」
岸辺に上がった辰之助と一馬の顔が青白いのは、夜明け間近の寒気と川水で冷えたからだけではないであろう。
「これだけ探しても見つからぬと言うのは妙だ」
辺りから木枝を拾い集めて来て、それに万次が火をつけて焚火を起こし始めた。
「もしかすると、さっきのあの連中が先に黒須どのを見つけて捕らえ、連れ去ったのかも知れんな」
「それはまずい。奴らが戻るところと言えば甲法山のはず……すぐに向かいましょう」
一馬はますます顔を青くしながら万次の方へ走った。
だが、万次は落ち着いた声を出し、
「まあ、待て。ひとまず休もう。こちらで暖まるが良い。夜更けに斬り合った上に黒須どのを探して川の中にまで入ったのだ。冷えた身体を少しでも暖めて休まねば、我らも倒れてしまうぞ」
と、辰之助と一馬を手招きした。二人も疲れと冷えは感じていたので、素直に従って火の側へ寄った。
夜風は弱く、火は上手く焚火となって薄青い闇に赤々と燃え上がった。
焚火は人の心を安らげる効果があると言う。
三人は焚火を囲んで温まり始めると、自然と無言になって炎の揺らぎを見つめた。
だが、突然辰之助が横を向いて咳き込み始めたかと思うと、その咳がどんどん酷くなって行った、
「おい、大丈夫か」と、一馬が声をかけたところで、辰之助はごほっと血を吐いた。
砂利を染めた赤いものを見て、一馬は声を上ずらせた。
「お、お前、それは血じゃないのか?」
万次も色をなした。
「近頃また痩せた上に顔色が良くないと思っておったが、何かの病か?」
辰之助は再び咳き込んでから、
「あの藪医者め……ただの風邪だと言ってたくせによ」
と、低く笑った。
「いつからだ」
一馬は、炎に照らされる辰之助の顔を見つめた。確かに、頬には以前よりも影がある。
「去年の夏ごろから時々熱が出ることがあったんだが……この一月で急に血が出るようになりやがった」
「それはいかん。よし、今日はここまでじゃ。城下へ戻ろう」
万次が強く言ったが、一馬は呻いた。
「しかし……新九郎は……」
「わしとて心残りじゃ。だが、これだけ探しても見つからないまま、そろそろ夜が明けようとしておる。我らも一晩中剣を振りながら駆け回って疲れはたまっておる。仮に黒須どのが敵の手に落ちていてそれを見つけたとしても、今の我らだけでは救い出すことは難しいであろう。ならば一度城下に戻り、大鳥家老に報告申し上げて急ぎ手を打ってもらおう。」
韮沢万次は、その武骨な風貌に似合わず、冷静に現況を分析して意見を述べた。だが、その語気には悔しさもにじんでいた。
「俺もそれがいいと思う」
辰之助も同意すると、一馬は眉を上げて、
「辰之助、お前まさか」
「誤解するな。ここに私情は無い。黒須は今や仲間で同志だ。だが、残念ながら今の俺の身体の状態ではまともに剣を振れそうにないんだ」
辰之助も、韮沢万次と同様に屈強で気が強い豪傑質である。その辰之助が、真面目な顔で弱気とも言える発言をした。その上、辰之助が血を吐いたのを見ている。
これでは一馬も何も言えなかった。
三人は焚火を始末すると、すぐに城下への帰路についた。
元々、韮沢万次が加勢に来て有利であったところへ、今井一馬の憤怒を乗せた疾風の斬撃が、深々と敵の左胸から右脇腹を斬り裂いた。
「黒須……!」
三木辰之助はもっと離れたところにいたが、騒ぐ声で何が起きたかを察して顔を青くした。だが、それは何故か斬り結んでいる燕も同様で、固まったように動きを止めていた。
―ー乱れた!
辰之助は気合と共に闇に踏み込んだ。
だが、燕は我に返った。咄嗟に辰之助の攻撃を撥ね返しながら後方へ飛んだ。その瞬間、燕の懐から何か煌めくものが落ちた。辰之助はそれに気付いたが、構わずに二の太刀を突いて行った。
しかし、その横から大きな影が躍り込んで来た。虎が駆けつけて来たのだ。虎は辰之助の懐へ迫って鋭く斬り込んだ。
辰之助は防ごうとしたが防ぎきれず、左脇腹をわずかに斬られてしまった。
「うっ……」
顔を歪めて腰をくの字にしかけた辰之助に、虎は続けて剣を振りかぶったが、その背後へ今井一馬と韮沢万次が猛然と迫った。
「ちっ」
虎は振り返りざまに渾身の横薙ぎを一閃し、更に返す刀で夜風を斬る。今井一馬は間一髪でそれを防いだが、韮沢万治は左腕を掠められて動きを止めた。
虎は追撃しようと剣を振り上げたが、突然顔を歪めて腕を下ろした。左肘のあたりの血の染みが更に広がっており、ぽたぽたと垂れていた。
虎は呻きながら少し考えて、
「もう良い、退くぞ!」
と、叫びながら山の奥へ消えた。
それを聞いた燕も警戒しながら後ずさり、夜闇の上へ飛び去った。
こうして戦いは終わったが、城戸流斎の不正の現場を突き止めながらも押さえることができなかったので、作戦は失敗に終わったと言える。
しかも、黒須新九郎は崖から落ち、三木辰之助と韮沢万治も手傷を追ってしまった。
今井一馬だけは唯一無傷であり、すぐに新九郎の安否を心配したが、まずは目の前の辰之助と韮沢万次に駆け寄った。
だが、二人とも軽傷であり、大事はないと見えた。
「浅傷じゃ。これしきはよくあることよ」
座り込んでいた万次は、慣れた手つきで小袖の裾を切り、月明りを頼りに傷口に巻いて縛ると、
「三木どのは? 腹を斬られなかったか?」
と、流石の豪傑気質で、自分のことはなかったかの如く立ち上がり、辰之助の方へ歩いて行った。
「それがしも大した傷ではございませぬ」
辰之助もまた、手拭いなどを使い、自ら手当てをしようとしていた。
「ふむ、大事は無さそうじゃが、油断はできんぞ。わしがやってやろう」
万次は膝をついて辰之助の傷をよく見ると、腰に提げていた革袋から軟膏を取り出し、今井一馬と共に辰之助の応急処置を手伝った。
ちなみに、この腰に提げる小さな革袋、様々な物を携帯するのに便利だと言うことで、近頃領内で武士や町民農民問わず流行っており、新九郎や辰之助らも愛用している。
凝り性の者だと、それぞれ意匠の違う革袋を四つも五つも腰帯から提げたりしており、辰之助などは「流石に重くねえのか? あれ」などと苦笑していた。
こうして、ひとまず辰之助の心配が無くなると、今井一馬は居ても立っても居られないと言った風に立ち上がった。
「韮沢さま、新九郎を探しましょう」
「うむ、どうも崖から落ちたようじゃな。これはまずい」
万次も険しい顔をして立ち上がった。
「辰之助、お前はそこで休んでろ。何かあれば鈴を鳴らせ、すぐに駆け付ける」
「わかった。俺も浅傷だ、心配はいらん。黒須のことは任せるぞ」
辰之助が座ったまま答えると、一馬と万次は小走りで新九郎を探しに走った。
二人が闇へ消えると、辰之助はしばし呼吸を整えながら休んだ後、静かに立ち上がった。
脇腹には鋭い痛みが走ったが、耐えられないほとではない。辰之助は脇腹を気にしながらゆっくり歩き、先ほど燕と斬り結んだ辺りの地面を注意深く見た。
空に月は煌々と輝いているが、光はか細く、地面までははっきりとは見えない。辰之助は手ごろな木の枝を拾うと、火打石で火をつけ、その明かりを頼りにして足下を探った。
すると、しばらくして黒光りしている"それ"を探し当てた。
辰之助と"燕"が斬り結んでいた最中に、"燕"の身体から落ちた物だ。辰之助はそれを拾い上げて、手のひらに乗せて火の灯りを近づけて良く見た。瞬間、辰之助の顔色が変わった。
――これは、黒須が奴の家の女中にやった櫛ではないのか?
黒の漆塗りに、螺鈿と金粉で装飾し、更に蒔絵で桜が描かれている。
辰之助は、新九郎らが見舞いに来た折に、新九郎が落としたのを拾い上げて一度見ただけであったが、この藩では珍しい装飾であったが故に強く印象に残っており、良く覚えていた。
その後、今日のことを話す為に黒須邸を訪れた際に、新九郎がこの櫛をりよに渡したことがわかったのも覚えている。
――間違いなくこの櫛だ。何故、あの男がこの櫛を……いや、違う!
辰之助は真実に感付き、全身を貫く衝撃に動悸が高鳴った。
――男ではないのだ。まさか、"燕"とか呼ばれていたあ奴は、黒須の家にいるあの女中か?
その衝撃が、辰之助の体内に巣食っている悪魔を刺激したようであった。辰之助は臓腑よりこみ上げてくるものをこらえきれず、口から血の塊を吐いた。
だが、辰之助は冷静であった。はぁはぁと息を乱したが、自らの血で赤く染まった土と雑草を一瞥しただけで気にもせず、櫛を見つめながら考え込んでいた。
ーーなるほど……これまでの不可解なこと……そうか、そういうことだったのか。
辰之助は、全てを悟った。
その時、今井一馬と韮沢万次の二人が戻って来る足音と、辰之助の名を呼ぶ声が闇から聞こえた。
辰之助は、慌てて櫛を腰帯から提げていた革袋にしまい、それに答えた。
「見つかりましたか?」
「いや、崖下へ行ける道がちと遠いようでな。お主を置いて行くわけにはいかんし、一言伝えてから行こうと、とりあえず戻って来たわけじゃ」
韮沢万次が答えると、
「なので、新九郎は俺たちで探しに行くから、お前は先に帰っているといい」
今井一馬が辰之助の肩を叩いた。
「いや、そうであれば、俺も一緒に崖下まで行こう」
辰之助は剣の柄を撫でながら言った。
「しかしお前の傷は脇腹、下手に動いては……」
一馬が心配すると、辰之助は豪放に笑い声を上げた。
「よく考えろ、ここで一人で帰るのも黒須を探しに行くのも同じだろう? それに、俺の身体はこの通り、でかい。これしきの傷は大したことないわ」
「ははっ、そうか。ならばお前を信じるぞ」
一馬が笑うと、韮沢万次もにこりと笑い、
「では、皆で黒須どのを探そう。無事であれば良いが」
と、三人は崖下へ繋がる道へ向かった。
その道は、新九郎が転落したと思われる場所よりぐるっと迂回する形で、三人は足下を慎重に探りながら道を進んで行ったのだが、下り終えた先で三人は愕然とした。
そこには川が流れており、新九郎が落ちたと思われる場所にまで流れは続いていたのだ。
「おいおい、これはまずいんじゃないのか?」
流石に辰之助が不安そうに言うと、一馬も同調して、
「傷を受けた状態で流されていたら……」
と、顔を青くしたが、韮沢万次は川の中に足を踏み入れてその深さを確かめてから、更に崖の上を見上げた。崖は切り立った形ではなく、急ではあるが傾斜があり、その真下が岸もない川面になっていた。
「いや、逆に幸いかも知れん。見よ、あの崖を。あそこから落ちた先が何もない地面であったならば、落ちた衝撃ですでに命は無かったであろう。だが、あの崖の角度で落ちたならば衝撃は少なく、また、この川の深さならばちょうどいい緩衝になって、落ちたとしても命はつながっていると思う」
万次は、落ち着いて周囲を見回した。
「なるほど、確かにそうですね」
一馬は安堵したように答えたが、万次はそこで眉を険しくした。
「動けないぐらいの傷を負っていなければ、じゃがな。もし動けるならば泳いでその辺りの岸辺にいるであろう。探そう」
三人は、落ちている木枝を拾って松明にし、岸辺を歩いて新九郎の名を呼びながら探した。
しかし、落ちたと思われる辺りやその周辺の岸辺に、新九郎の姿はなかった。
三人は更に川にまで入った。春とは言え、北国の夜である。川の水は身体の芯まで凍らすように冷たかったが、三人は胸まで水に浸かり、足を取られないように慎重に川底を進みながら新九郎を探した。
だが、いくら探しても新九郎の姿は見つからなかった。
「どういうことだ」
「何故どこにもいない」
岸辺に上がった辰之助と一馬の顔が青白いのは、夜明け間近の寒気と川水で冷えたからだけではないであろう。
「これだけ探しても見つからぬと言うのは妙だ」
辺りから木枝を拾い集めて来て、それに万次が火をつけて焚火を起こし始めた。
「もしかすると、さっきのあの連中が先に黒須どのを見つけて捕らえ、連れ去ったのかも知れんな」
「それはまずい。奴らが戻るところと言えば甲法山のはず……すぐに向かいましょう」
一馬はますます顔を青くしながら万次の方へ走った。
だが、万次は落ち着いた声を出し、
「まあ、待て。ひとまず休もう。こちらで暖まるが良い。夜更けに斬り合った上に黒須どのを探して川の中にまで入ったのだ。冷えた身体を少しでも暖めて休まねば、我らも倒れてしまうぞ」
と、辰之助と一馬を手招きした。二人も疲れと冷えは感じていたので、素直に従って火の側へ寄った。
夜風は弱く、火は上手く焚火となって薄青い闇に赤々と燃え上がった。
焚火は人の心を安らげる効果があると言う。
三人は焚火を囲んで温まり始めると、自然と無言になって炎の揺らぎを見つめた。
だが、突然辰之助が横を向いて咳き込み始めたかと思うと、その咳がどんどん酷くなって行った、
「おい、大丈夫か」と、一馬が声をかけたところで、辰之助はごほっと血を吐いた。
砂利を染めた赤いものを見て、一馬は声を上ずらせた。
「お、お前、それは血じゃないのか?」
万次も色をなした。
「近頃また痩せた上に顔色が良くないと思っておったが、何かの病か?」
辰之助は再び咳き込んでから、
「あの藪医者め……ただの風邪だと言ってたくせによ」
と、低く笑った。
「いつからだ」
一馬は、炎に照らされる辰之助の顔を見つめた。確かに、頬には以前よりも影がある。
「去年の夏ごろから時々熱が出ることがあったんだが……この一月で急に血が出るようになりやがった」
「それはいかん。よし、今日はここまでじゃ。城下へ戻ろう」
万次が強く言ったが、一馬は呻いた。
「しかし……新九郎は……」
「わしとて心残りじゃ。だが、これだけ探しても見つからないまま、そろそろ夜が明けようとしておる。我らも一晩中剣を振りながら駆け回って疲れはたまっておる。仮に黒須どのが敵の手に落ちていてそれを見つけたとしても、今の我らだけでは救い出すことは難しいであろう。ならば一度城下に戻り、大鳥家老に報告申し上げて急ぎ手を打ってもらおう。」
韮沢万次は、その武骨な風貌に似合わず、冷静に現況を分析して意見を述べた。だが、その語気には悔しさもにじんでいた。
「俺もそれがいいと思う」
辰之助も同意すると、一馬は眉を上げて、
「辰之助、お前まさか」
「誤解するな。ここに私情は無い。黒須は今や仲間で同志だ。だが、残念ながら今の俺の身体の状態ではまともに剣を振れそうにないんだ」
辰之助も、韮沢万次と同様に屈強で気が強い豪傑質である。その辰之助が、真面目な顔で弱気とも言える発言をした。その上、辰之助が血を吐いたのを見ている。
これでは一馬も何も言えなかった。
三人は焚火を始末すると、すぐに城下への帰路についた。
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嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
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