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新九郎の縁談
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翌日、新九郎は三木辰之助、今井一馬、それに韮沢万次を加えた四人で、白霧山での段取りを話し合った。
木谷村の漆の納入は二日後であり、納入の一行が城下へ向かって出発するのは当日の朝五つ半である。だが家老大鳥順三郎はこう言った。
「前日の夜半から見張っておく方が良いかも知れぬ。橋本や木谷村の連中からすれば、当日の同時刻に他者に見られたら怪しまれるであろうし、それを避けて後日に運送するとしても、万が一土蔵の中に残っている物を見られてしまったら、納入遅延を責められることになる。だが、前日の夜半に動けば、万が一他者に見つかっても納入を急ぐ為と言い訳できるし、白霧山を通るのもいくらでも理由をつけられるであろう」
そして、四人は前日の夜四つ(午後二十二時)前から白霧山に潜んで見張ることとした。
その日の朝、りよが作った朝餉は、雑穀の混じっていない玄米に、鯵の干物と大根の漬物、それと早朝に藤之津からやって来た貝売りから買ったアサリを入れた味噌汁であった。
淡い朝陽が差し込む居間に、香しい湯気を立てる食膳が並べられた。
新九郎、奈美、りよ、三人が揃い、その朝餉を食べ始めてしばらくしてから、新九郎がおもむろに箸を置いた。
「今日の夜更け、私はご家老に命じられた仕事で出かける。恐らく帰りは朝方になると思うが、心配しないでくれ」
「まあ、朝方に。兄上、危ないことはないのでございますか?」
奈美も箸を置き、明らかに不安そうな顔をした。
「武士が危険を恐れてどうするか。それに、危険な仕事ではないので心配は無用」
新九郎は奈美の不安を吹き飛ばそうと、わざと大声で笑った。
だが、半分嘘である。正直なところ、どんな危険があるかはわからない。
りよも箸を止めていたが、下を向いて少し沈黙していた。その後、憂鬱そうな顔を上げた。
「お夜食はいかがなさいますか?」
「食べてから行こうと思う」
「では、腹持ちの良い物を用意いたします」
「ありがたい、頼む」
新九郎は微笑んで答えた後、ふうっと深呼吸をしてから一転、緊張した表情をした。
「もう一つ話がある」
新九郎は両手を膝に置き、背筋を伸ばした。
「兄上が朝餉の時にそのようにかしこまるなんて珍しいですね」
奈美が干物の白い身をほぐしながらおかしそうな顔をした。
「大事な話だ。と言ってもまだ先のことであるが……実は、ご家老から私に縁談が来た」
新九郎は、一気に言い切った。
「え……! 誠でございますか?」
「うむ」
「それはようございました」
奈美は手を止めて、顔をぱっと明るくした。
りよは一瞬固まったが、すぐにいつも通りの綺麗な笑顔を見せた。
「ご新造さまをお迎えに。おめでとうございます」
「うむ……」
新九郎は目線を逸らして下に向け、頷いた。
「兄上、お相手はどちらのお方でございますか?」
奈美が箸を置き、身を乗り出すようにして訊いた。
「馬廻り組の韮沢様のご息女だ」
「馬廻りの韮沢様……うん? もしかして加菜さまかしら?」
奈美が目を大きくした。
「知っているのか?」
新九郎が意外そうに奈美を見た。
「少し前まで、お琴の稽古でご一緒でした。間違いないと思います」
「何? それは偶然だな」
「とてもお綺麗な方でございますよ。それでいて気取ったところもなくお優しい方です。私たちは皆、加菜さまに憧れておりました」
「そうなのか」
「ええ……なんてことなの。加菜さまが私の義姉になるなんて」
奈美は、目をきらきらさせてはしゃいだ。
「待て、まだ正式に決まったわけではないぞ。今、ご家老と私たちは大きな仕事をしている。それが全て片付いてから、もう一度ちゃんと話をするのだ」
新九郎は、たしなめるように言った。
「そうですけど、ご家老様のお話なら決まったも同然ではないですか? 楽しみです」
奈美は近い未来を夢想して嬉しそうに言ったが、直後に突然表情を暗くして吐息をついた。
「でも、兄上だけずるいです。私はいつになるのでしょうか」
すると、新九郎は即座に笑った。
「心配するな。先日は話すのを忘れていたのだが、私は自分の話の前に、まず奈美のことをご家老にお願いしてみようと思っている」
「そうでございますか」
奈美は再び笑顔に戻った。
その間、りよは一言も発さずに下を向いたまま、黙々と食べていた。
それから三人の朝餉が終わり、りよが食膳を下げ始めたのだが、無言で片付けを始めるりよの背からは何故か冬の寒気のような冷たいものが感じられ、新九郎は声をかけることができずに、そのまま家を出て登城した。
その日の夜四つ(午後二十二時)ーー
新九郎と三木辰之助、今井一馬、韮沢万次の四人は、白霧山の麓で密かに落ち合った。
ちょうど先に新九郎と韮沢万次の二人が到着したので、新九郎は万次に頭を下げて、
「ご家老からお話を頂戴いたしました、ありがとうございまする」
新九郎はぎこちなく緊張しながら言ったが、万次もまた月明りの下で照れながら武骨な顔をほころばせた。
「何、こちらこそありがたいわ。黒須どのならば、何も心配なく娘を任せられると思う。全て終わったら改めて話そうぞ」
「はい」
やがて、すぐに三木辰之助と今井一馬も到着し、四人は夜闇の中で行動を開始した。
誰も通らぬような奥深いところ、だが人が通れそうなところを各自見つけて、そこに潜んだ。
互いの場所は入念に確認し合い、誰かが木谷村からの一行らしき者たちを見つけた場合には即座に合図をしてそこに駆け付ける手はずとした。
白霧山は、それほど標高は高くなく、樹木も深くはない。
その上、幸いにも今夜は晴れている上に月が明るいので、夜でありながらも辺りは何とか見通せる。
だが、深夜の山中は森閑として空気も冷たい。
――本当に来るかな。
春とは言え、夜更けの山の中である。初冬のような寒さで、指先が冷たい。高い草の陰に座った新九郎は、手に息を吹きかけながら思った。
漆の納入日は確かに明日だが、一部を不正に城戸流斎の屋敷に入れていると言うのも、それも前日の夜半にこの白霧山を通って行くであろうと言うのも、鋭い読みではあるが確かな根拠に基づいたものでなく所詮は推測である。
そこにも何となく違和感を感じていた。
大鳥順三郎のその予測は鋭い。だが、順三郎は剛腕のやり手ではあるものの、そのような細かい予測や策を立てる種の人間ではない。勇猛で知られた祖先と似て、政局も力で強引に解決していくような人間なのである。
――誰か別の者……元笹川組の家士の進言か?
新九郎があれこれ想像を巡らせていた時であった。
――いる!
突然、新九郎は感じた。夜の空気を乱す人の動きを。
新九郎は大樹の側の草の陰に隠れていたのだが、更に身を伏せて窺った。向こう側は緩やかな斜面になっており、こちらから見下ろせる。すると、闇の中に、いくつかの提灯の灯がぼんやりと揺れているのが見えた。
車輪ががたがたと鳴る音も聞こえた。小型の荷車を二、三人で運んでいるらしかった。
新九郎は腰を上げかけたが、すぐにまた身を伏せた。
――まだだ。あの者たちだけでは不十分だ。
大鳥順三郎の話では、延岡銅山の銅の甲法山への不正納入は、途中の山中で密かに野村屋の者に渡す形で行われたと言う。木谷村の漆も同じ手法で行われているならば、必ずこの山のどこかで野村屋の人間と会うはずだ。不正の動かぬ証拠を掴むには、その場面を取り押さえるのが最も良い。仮に野村屋の者たちが現れなくとも、甲法山の城戸流斎邸に入る直前で捕まえれば言い逃れはできまい。
そう、大鳥順三郎にも言われていた。
新九郎は逸りそうな気持ちを抑えながら、彼らの提灯の灯を追って静かに動いて行った。
すると、彼らの提灯の行く先の黒い闇の中から、もう二つの提灯の灯が現れて動いて来て、彼らの提灯の灯と混ざり合った。
――あれか! ご家老の言った通りだ。
新九郎の心臓が高鳴った。緊張しながらも、音を立てないように慎重に足下の草を踏んだ。
静かに歩いて斜面を下り、回り込んで彼らの背後から近づいた。
そして距離が近くなると、足下を確かめながら小走りで一気に距離を詰めた。
その足音に気付き、彼らが驚いて振り返ったのが、その持っていた提灯の灯で見えた。
「止まれ」
新九郎は鋭く言うと同時、懐に忍ばせておいた鈴を出して何度か振った。鈴は小さいが、物音の消えた深夜の山中であるのでその音は全山にこだました。
「お主らはどこから来た? その大八車に積んでいる物は何だ?」
新九郎は詰め寄り、小型の大八車の上で布をかけられている物を一瞥sに、未だ驚いている男たちの顔を見た。
大八車を運搬している男らは明らかな百姓風の三人で、彼らを待っていたのは羽織を着たいかにも商家風の二人であった。
まさに大鳥順三郎の言う通り、城戸流斎と小田内膳の息がかかった木谷村の百姓たちが、野村屋の番頭に漆を手渡しているところと見られた。
「お主ら三人は木谷村の者たちであろう? そこの二人は若草町の野村屋の者たちと見た。違うか?」
新九郎は問い詰めたが、男たちはどう答えていいかわかならいと言った風で、青い顔で固まっていた。
新九郎は、大八車に寄って布をはぎ取った。その下から、油紙で固く蓋をした壺が五つあった。
「これは木谷村の小物成である漆だな? 何故このような時間にこんな山中で漆を運び、しかも野村屋の者に渡す?」
その時、鈴の音を聞いた四方から今井一馬、三木辰之助、韮沢万次が駆けつけて来た。
「見つけたか」
「ほう、まさに不正の現場に間違いあるまい」
一馬と万次が言うと、男たちはますます顔を青くした。
「私は郡方小物成役の黒須新九郎。担当は違うが、役目として小物成に関する怪しい動きは見過ごすわけにはいかん。悪いが、我々と共に城まで来てもらうぞ」
新九郎が更に舌鋒鋭く迫ると、
「あ、あの……これは……」
と、男たちはようやく口を開いたが、恐ろしさで歯の根が合わないようであった。
だがその時ーー
「気をつけろ!」
三木辰之助が不意に大声で叫んだ。
同時に、新九郎は夜気が乱れたのを感じて足を動かした。今井一馬、韮沢万次も同様で、四人は弾かれたように四方に散った。
そこへ、暗闇の中から飛んで来た黒い人影。更に、鋭く刃光が乱れ飛んだ。今
――五人はいる。
新九郎は反射的に抜刀して振り上げ、黒い影を牽制した。韮沢万次は流石に居合の達人で、敵との間合いを瞬時に詰めると同時に柄を抜き、柄の先を黒い影にぶつけて押し返すや、そのまま抜き放った白刃を横薙ぎにした。呻き声と共に、人間が倒れた音がした。
それと同時、敵の中で聞き覚えのある野太い声が大声を響かせた。
「お主ら、ここはわしらに任せて先へ急げ!
「は、はい」
大八車を引いていた木谷村の百姓三人と野村屋の二人が、慌てたように動き始めた。
「黒須どの、逃がすな! 小物成はお主の役目じゃ」
万次が新たな敵と斬り結びながら叫んだ。
「はっ」
ちょうど新九郎の眼前に敵はおらず、新九郎は彼らを追った。
だが「行かせるな!」と言う大声と同時、新九郎の前に人影が降り立った。
例の濃紺装束で、やや小さいその人影は、新九郎の眼前に迫るや鋭い一突きを繰り出して来た。
木谷村の漆の納入は二日後であり、納入の一行が城下へ向かって出発するのは当日の朝五つ半である。だが家老大鳥順三郎はこう言った。
「前日の夜半から見張っておく方が良いかも知れぬ。橋本や木谷村の連中からすれば、当日の同時刻に他者に見られたら怪しまれるであろうし、それを避けて後日に運送するとしても、万が一土蔵の中に残っている物を見られてしまったら、納入遅延を責められることになる。だが、前日の夜半に動けば、万が一他者に見つかっても納入を急ぐ為と言い訳できるし、白霧山を通るのもいくらでも理由をつけられるであろう」
そして、四人は前日の夜四つ(午後二十二時)前から白霧山に潜んで見張ることとした。
その日の朝、りよが作った朝餉は、雑穀の混じっていない玄米に、鯵の干物と大根の漬物、それと早朝に藤之津からやって来た貝売りから買ったアサリを入れた味噌汁であった。
淡い朝陽が差し込む居間に、香しい湯気を立てる食膳が並べられた。
新九郎、奈美、りよ、三人が揃い、その朝餉を食べ始めてしばらくしてから、新九郎がおもむろに箸を置いた。
「今日の夜更け、私はご家老に命じられた仕事で出かける。恐らく帰りは朝方になると思うが、心配しないでくれ」
「まあ、朝方に。兄上、危ないことはないのでございますか?」
奈美も箸を置き、明らかに不安そうな顔をした。
「武士が危険を恐れてどうするか。それに、危険な仕事ではないので心配は無用」
新九郎は奈美の不安を吹き飛ばそうと、わざと大声で笑った。
だが、半分嘘である。正直なところ、どんな危険があるかはわからない。
りよも箸を止めていたが、下を向いて少し沈黙していた。その後、憂鬱そうな顔を上げた。
「お夜食はいかがなさいますか?」
「食べてから行こうと思う」
「では、腹持ちの良い物を用意いたします」
「ありがたい、頼む」
新九郎は微笑んで答えた後、ふうっと深呼吸をしてから一転、緊張した表情をした。
「もう一つ話がある」
新九郎は両手を膝に置き、背筋を伸ばした。
「兄上が朝餉の時にそのようにかしこまるなんて珍しいですね」
奈美が干物の白い身をほぐしながらおかしそうな顔をした。
「大事な話だ。と言ってもまだ先のことであるが……実は、ご家老から私に縁談が来た」
新九郎は、一気に言い切った。
「え……! 誠でございますか?」
「うむ」
「それはようございました」
奈美は手を止めて、顔をぱっと明るくした。
りよは一瞬固まったが、すぐにいつも通りの綺麗な笑顔を見せた。
「ご新造さまをお迎えに。おめでとうございます」
「うむ……」
新九郎は目線を逸らして下に向け、頷いた。
「兄上、お相手はどちらのお方でございますか?」
奈美が箸を置き、身を乗り出すようにして訊いた。
「馬廻り組の韮沢様のご息女だ」
「馬廻りの韮沢様……うん? もしかして加菜さまかしら?」
奈美が目を大きくした。
「知っているのか?」
新九郎が意外そうに奈美を見た。
「少し前まで、お琴の稽古でご一緒でした。間違いないと思います」
「何? それは偶然だな」
「とてもお綺麗な方でございますよ。それでいて気取ったところもなくお優しい方です。私たちは皆、加菜さまに憧れておりました」
「そうなのか」
「ええ……なんてことなの。加菜さまが私の義姉になるなんて」
奈美は、目をきらきらさせてはしゃいだ。
「待て、まだ正式に決まったわけではないぞ。今、ご家老と私たちは大きな仕事をしている。それが全て片付いてから、もう一度ちゃんと話をするのだ」
新九郎は、たしなめるように言った。
「そうですけど、ご家老様のお話なら決まったも同然ではないですか? 楽しみです」
奈美は近い未来を夢想して嬉しそうに言ったが、直後に突然表情を暗くして吐息をついた。
「でも、兄上だけずるいです。私はいつになるのでしょうか」
すると、新九郎は即座に笑った。
「心配するな。先日は話すのを忘れていたのだが、私は自分の話の前に、まず奈美のことをご家老にお願いしてみようと思っている」
「そうでございますか」
奈美は再び笑顔に戻った。
その間、りよは一言も発さずに下を向いたまま、黙々と食べていた。
それから三人の朝餉が終わり、りよが食膳を下げ始めたのだが、無言で片付けを始めるりよの背からは何故か冬の寒気のような冷たいものが感じられ、新九郎は声をかけることができずに、そのまま家を出て登城した。
その日の夜四つ(午後二十二時)ーー
新九郎と三木辰之助、今井一馬、韮沢万次の四人は、白霧山の麓で密かに落ち合った。
ちょうど先に新九郎と韮沢万次の二人が到着したので、新九郎は万次に頭を下げて、
「ご家老からお話を頂戴いたしました、ありがとうございまする」
新九郎はぎこちなく緊張しながら言ったが、万次もまた月明りの下で照れながら武骨な顔をほころばせた。
「何、こちらこそありがたいわ。黒須どのならば、何も心配なく娘を任せられると思う。全て終わったら改めて話そうぞ」
「はい」
やがて、すぐに三木辰之助と今井一馬も到着し、四人は夜闇の中で行動を開始した。
誰も通らぬような奥深いところ、だが人が通れそうなところを各自見つけて、そこに潜んだ。
互いの場所は入念に確認し合い、誰かが木谷村からの一行らしき者たちを見つけた場合には即座に合図をしてそこに駆け付ける手はずとした。
白霧山は、それほど標高は高くなく、樹木も深くはない。
その上、幸いにも今夜は晴れている上に月が明るいので、夜でありながらも辺りは何とか見通せる。
だが、深夜の山中は森閑として空気も冷たい。
――本当に来るかな。
春とは言え、夜更けの山の中である。初冬のような寒さで、指先が冷たい。高い草の陰に座った新九郎は、手に息を吹きかけながら思った。
漆の納入日は確かに明日だが、一部を不正に城戸流斎の屋敷に入れていると言うのも、それも前日の夜半にこの白霧山を通って行くであろうと言うのも、鋭い読みではあるが確かな根拠に基づいたものでなく所詮は推測である。
そこにも何となく違和感を感じていた。
大鳥順三郎のその予測は鋭い。だが、順三郎は剛腕のやり手ではあるものの、そのような細かい予測や策を立てる種の人間ではない。勇猛で知られた祖先と似て、政局も力で強引に解決していくような人間なのである。
――誰か別の者……元笹川組の家士の進言か?
新九郎があれこれ想像を巡らせていた時であった。
――いる!
突然、新九郎は感じた。夜の空気を乱す人の動きを。
新九郎は大樹の側の草の陰に隠れていたのだが、更に身を伏せて窺った。向こう側は緩やかな斜面になっており、こちらから見下ろせる。すると、闇の中に、いくつかの提灯の灯がぼんやりと揺れているのが見えた。
車輪ががたがたと鳴る音も聞こえた。小型の荷車を二、三人で運んでいるらしかった。
新九郎は腰を上げかけたが、すぐにまた身を伏せた。
――まだだ。あの者たちだけでは不十分だ。
大鳥順三郎の話では、延岡銅山の銅の甲法山への不正納入は、途中の山中で密かに野村屋の者に渡す形で行われたと言う。木谷村の漆も同じ手法で行われているならば、必ずこの山のどこかで野村屋の人間と会うはずだ。不正の動かぬ証拠を掴むには、その場面を取り押さえるのが最も良い。仮に野村屋の者たちが現れなくとも、甲法山の城戸流斎邸に入る直前で捕まえれば言い逃れはできまい。
そう、大鳥順三郎にも言われていた。
新九郎は逸りそうな気持ちを抑えながら、彼らの提灯の灯を追って静かに動いて行った。
すると、彼らの提灯の行く先の黒い闇の中から、もう二つの提灯の灯が現れて動いて来て、彼らの提灯の灯と混ざり合った。
――あれか! ご家老の言った通りだ。
新九郎の心臓が高鳴った。緊張しながらも、音を立てないように慎重に足下の草を踏んだ。
静かに歩いて斜面を下り、回り込んで彼らの背後から近づいた。
そして距離が近くなると、足下を確かめながら小走りで一気に距離を詰めた。
その足音に気付き、彼らが驚いて振り返ったのが、その持っていた提灯の灯で見えた。
「止まれ」
新九郎は鋭く言うと同時、懐に忍ばせておいた鈴を出して何度か振った。鈴は小さいが、物音の消えた深夜の山中であるのでその音は全山にこだました。
「お主らはどこから来た? その大八車に積んでいる物は何だ?」
新九郎は詰め寄り、小型の大八車の上で布をかけられている物を一瞥sに、未だ驚いている男たちの顔を見た。
大八車を運搬している男らは明らかな百姓風の三人で、彼らを待っていたのは羽織を着たいかにも商家風の二人であった。
まさに大鳥順三郎の言う通り、城戸流斎と小田内膳の息がかかった木谷村の百姓たちが、野村屋の番頭に漆を手渡しているところと見られた。
「お主ら三人は木谷村の者たちであろう? そこの二人は若草町の野村屋の者たちと見た。違うか?」
新九郎は問い詰めたが、男たちはどう答えていいかわかならいと言った風で、青い顔で固まっていた。
新九郎は、大八車に寄って布をはぎ取った。その下から、油紙で固く蓋をした壺が五つあった。
「これは木谷村の小物成である漆だな? 何故このような時間にこんな山中で漆を運び、しかも野村屋の者に渡す?」
その時、鈴の音を聞いた四方から今井一馬、三木辰之助、韮沢万次が駆けつけて来た。
「見つけたか」
「ほう、まさに不正の現場に間違いあるまい」
一馬と万次が言うと、男たちはますます顔を青くした。
「私は郡方小物成役の黒須新九郎。担当は違うが、役目として小物成に関する怪しい動きは見過ごすわけにはいかん。悪いが、我々と共に城まで来てもらうぞ」
新九郎が更に舌鋒鋭く迫ると、
「あ、あの……これは……」
と、男たちはようやく口を開いたが、恐ろしさで歯の根が合わないようであった。
だがその時ーー
「気をつけろ!」
三木辰之助が不意に大声で叫んだ。
同時に、新九郎は夜気が乱れたのを感じて足を動かした。今井一馬、韮沢万次も同様で、四人は弾かれたように四方に散った。
そこへ、暗闇の中から飛んで来た黒い人影。更に、鋭く刃光が乱れ飛んだ。今
――五人はいる。
新九郎は反射的に抜刀して振り上げ、黒い影を牽制した。韮沢万次は流石に居合の達人で、敵との間合いを瞬時に詰めると同時に柄を抜き、柄の先を黒い影にぶつけて押し返すや、そのまま抜き放った白刃を横薙ぎにした。呻き声と共に、人間が倒れた音がした。
それと同時、敵の中で聞き覚えのある野太い声が大声を響かせた。
「お主ら、ここはわしらに任せて先へ急げ!
「は、はい」
大八車を引いていた木谷村の百姓三人と野村屋の二人が、慌てたように動き始めた。
「黒須どの、逃がすな! 小物成はお主の役目じゃ」
万次が新たな敵と斬り結びながら叫んだ。
「はっ」
ちょうど新九郎の眼前に敵はおらず、新九郎は彼らを追った。
だが「行かせるな!」と言う大声と同時、新九郎の前に人影が降り立った。
例の濃紺装束で、やや小さいその人影は、新九郎の眼前に迫るや鋭い一突きを繰り出して来た。
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