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良縁奇縁
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「相手はの。お主もすでに殿の釣り遊びで顔を合わせておる、馬廻り組の韮沢万次の娘じゃ」
「韮沢様の……」
新九郎は、韮沢万次の戦国武士のような角ばった武骨な顔を思い浮かべた。次に、その顔から娘の顔を想像してみると、自然に顔が引きつった。
そんな新九郎の様子を察して、順三郎がおかしそうに笑った。
「はっはっはっ。お主、万治の娘と聞いてその娘の顔に不安を感じたな?」
心中を見透かされて、新九郎は慌てた。
「い、いえ、そのようなことはございませぬ」
と、新九郎は取り繕ったが、当然嘘だった。
「心配するな。儂も何度か万次の娘には会っているが、奥方に似て万次とは似ても似つかぬ美しい娘よ。名を加菜と言う」
「そうですか」
新九郎が表情を緩めて答えると、順三郎はにやりとした。
「途端に安心したような顔をしおって。お主は本当に素直でわかりやすい男じゃの」
「あ、いえ」
新九郎は恥ずかしそうに頬をかいた。
「で、どうじゃな、この話は?」
順三郎が身を乗り出すようにして、
「お主の父、新兵衛は儂の代わりに死んだようなもの……その新兵衛の件のせいでお主に縁談が来ないと言うのは、儂としては心苦しいし、天上の新兵衛にも申し訳が立たん。それに、お主のように腕が立つ上に優秀で誠実な者は、是非とも我が縁者の一人として迎えたいと思っておる」
「はい……」
新九郎は歯切れ悪く答えた。
昔、父新兵衛にかけられた公金横領の濡れ衣。当時の大鳥順三郎にも父の新兵衛にもそれを覆すだけの力がなく、新兵衛が順三郎に後日の望みを託して全ての罪を被って自裁した。その様が潔かったので、それ以上のお咎めはなく、黒須家も存続を許されたが、そのようなことがあった黒須家には、それ以来縁談の話は一度も来ていない。妹の奈美にもだ。
実は新九郎にはもう一人、八歳年上の姉がいて、この姉は父の自裁の前にすでに他家に嫁いでいたので嫁入りの問題がなくてすんでいた。この姉がまた、新九郎や奈美の為に時間があれば自ら走って縁談を探してくれているのだが、やはりなかなかまとまらずにいた。
そんな新九郎にとって、順三郎からの話は願ってもないことであった。しかも、順三郎は今はまだ次席家老であるが、家格は永代家老の筆頭であり、その縁者になれるのである。
だが、脳裏をよぎった一人の女性の影が、新九郎の言葉を濁らせた。
「何じゃ、不満かの」
当然喜んでくれるかと思っていた順三郎が怪訝そうな顔をした。
その顔色を見て新九郎は慌てた。
「いえ、とてもありがたい話でございますが……その、韮沢様の方はどうなのでしょうか?」
「うむ。先日、殿の釣りに同行させる前にな、万次には話をしてみた。最初はやはり新兵衛の件で何とも言えぬ顔をしておったので、思い切って密かに真実を話した上で、釣りの場で新九郎の人となりをよく見てみよ、と言っておいた」
「なるほど」
「して、帰って来てから城内で訊いてみたところ、万次はとてもお主が気に入ったようで、お主がよければ是非とも娘を嫁に行かせたい、と言っておる」
「そうでございますか。ありがたいことです」
新九郎は笑顔を見せた。
韮沢万次は武芸の達人であるだけでなく人柄も良く、家中でも人望がある。そのような人物から娘を嫁にやれると認められるのは嬉しい。そして、家老から直接持ち込まれた縁談、非常な栄誉である。
だが、そこでもやはり振り切れぬ、少し目元がきつめだが繊細な美貌の影。
「如何した?」
その表情の微妙な変化を感じ取ったのか、順三郎が薄明かりの中で窺うように新九郎を見た。
「いえ……とてもありがたいお話でございます……是非ともお願いしたく思います。ですが……このお話は、今の件を全て片付けてからの方が宜しいかと存じますが」
新九郎は、絞り出すように答えた。
大鳥順三郎は、二度首を振って頷いた。
「おうおう、確かにその通りであるな」
「はい。今は流斎さまと小田さまの企みを防ぐことに集中しなければなりませぬ。」
「はっはっ、また儂の悪い癖が出たようじゃ、ちと急ぎすぎたな。だが、我らの正義を成し遂げた後には、この話を進めても良いな?」
「……はい」
新九郎は、一瞬の沈黙の後、頭を下げた。
話が終わり、家老大鳥順三郎は満足げな顔で黒須家の屋敷を出て行った。
門の外まで見送った後、新九郎は自室に入ると、羽織を脱いで袴を外し、中央に胡坐をかいて座った。
腕を組み、物思いに耽った。と言うよりも、半ば呆然としていた。
――縁談……縁談か……。
いわくのある黒須家の新九郎には、またとない話で、めでたいことである。
しかも、永代家老四家の筆頭、大鳥家の仲立ちで、またその縁戚に連なることができるのである。これ以上の良い話が他にあろうか。
そもそも、家老から持ち込まれた縁談、断ることなどできるはずはない。
だが、新九郎は心の底から喜べなかった。行灯のぼやけた灯を見ながら、重い気持ちにとらわれていた。
そこへ、外から高く澄んだ声がかかった。
「旦那さま、眠れぬのですか?」
襖の向こうから聞こえたのは、りよの声であった。
すでに、夜四つ頃であろう。
新九郎は、はっとして腕組みを解いて答えた。
「いや、そうではないが」
その瞬間、様々な考えが電撃的に新九郎の脳裏を駆け巡った。
――まだ、りよがあの濃紺装束の一派の者ではない、とはっきりしたわけではない。
もし、りよが城戸流斎の手先であるあの濃紺装束の一派の者で、先ほどの大鳥家老と三木と今井らとの計画を盗み聞きされていたとしたら、計画は失敗するであろう。
だが逆に、もしりよが流斎さま一派の者ではないとしたら――
新九郎の胸中に浮かび上がって来た想い。
――今の縁談の話を聞いたら、りよはどう思うであろうか?
その時、再びりよが心配そうな声をかけて来た。
「白湯でもお持ちしましょうか?」
「いや、いらぬ」
新九郎は答えると、立ち上がって襖を開けようとした。
だが、寸前で思い止まった。
――今はりよの顔を見ない方が良い。
何となく、そう思った。
「お身体のどこかがすぐれませぬか?」
りよが再び訊いて来た。
「そのようなことはない。ちと考え事をしていてな。もう寝るので、おりよも早く休むとよい」
新九郎は襖越しに答えた。
「はい、ではおやすみなさいませ」
りよの答えと同時に、静かな足音が遠ざかって行った。
新九郎は再び部屋の中央に座った。
――あ、奈美……。
突然、妹のことを思い出した。
――俺の縁談の前に、奈美のことをご家老にお願いしてみるか。
自分よりも先に妹の奈美を、と常々考えていた新九郎である。
次に機会があれば大鳥順三郎にそれとなく話してみよう、と思った。
そして新九郎は、着替えてから床に潜り込んだが、眠りはなかなか訪れなかった。りよの端正な横顔が、白く優しい笑顔が瞼の裏に浮かんでは消えた。
布団の上で幾度も寝返りを打った末、暁九つに近くなって、ようやく新九郎は眠りに落ちた。
それから四半刻ほどして――
黒須家の庭の隅にある桜の樹の下で、二つの黒い人影が密談していた。
先ほどまでは晴れ渡っていた夜空であったが、急に黒雲が増えて来て、今は星も月明りも無い。
頭上の桜の花が風に擦れる音だけがする闇の中で、二人は常人には聞き取れないほどの小さな声で話していた。
"虎"と"燕"であった。
燕が何かを伝えた後、虎は頷いて何か答え、次に虎が燕に長々と話をした。
燕は何も言わずにそれを聞き、聞き終えた後も何も答えずに身じろぎもしなかった。
そこで、虎の声が常人に聴きとれる程には大きくなった。
「これが我らの掟だ。殿の大志の為、また我々の為、そしてはお前の為にもなることじゃ」
「…………」
「冷たいように思えるかも知れぬが、殿はやはりお前のことを娘として思い、どうすれば一番お前の為になるのか、よく考えておられる」
「…………」
そこで、燕は頭上を見上げた。闇の中で、桜は黒く揺れていた。
「わかったな。必ず黒須新九郎を殺るのだぞ」
虎の猫のような目が、闇の中でわずかに光った。
「儂は、これから大鳥の屋敷を少し探ってから戻る。やはりあの連判状は大鳥順三郎が持っているようだが、それよりもすごいことがわかった。何と、あの三中散の毒が大鳥の屋敷にまだ残っているらしい。連判状も大事だが、三中散の毒を手に入れられれば城戸政龍は容易に暗殺でき、殿の大志は成ったも同然。何としても手に入れなければならぬ」
「難しゅうございましょう」
燕が、頭上を見上げたまま、初めてぽつりと口を開いた。
「大鳥さまのお屋敷には、元笹川組の手練れたちがおりまする」
「うむ。流石に強かでな。なかなか入り込めぬ」
「当然でございましょう。所詮お頭の技は童の頃にちょっとかじったものを独自に修練した亜流で、それを教えてもらった我らの技もまた同じ。本物の笹川組の術にかなうはずがございませぬ」
燕は、皮肉を込めて薄笑いをした。
瞬間、虎がカッと目を剥き、右手を上げた。だが、虎は荒く息を吐いて思い止まった。
しかし右手は下ろさぬまま、虎は冷えた声で告げた。
「お前は自分の務めを果たせ。果たせなんだ場合には何をしても良い、殿はそう申しておられる」
そして、虎はすっと闇の中に消えた。
暗闇に、再び花弁が揺れて擦れる音だけが残った。
燕はその音を聞きながら黒い桜の花を見つめた。すっと光るものが一筋、頬に流れた。
「何が娘か……。一番私の為になること考えているだと……? 嘘だ……」
燕は、腰帯に挟んでいた櫛を取り出して見つめた。
涙が櫛の上に零れ落ち、哀しい呟きが闇に流れて消えた。
「韮沢様の……」
新九郎は、韮沢万次の戦国武士のような角ばった武骨な顔を思い浮かべた。次に、その顔から娘の顔を想像してみると、自然に顔が引きつった。
そんな新九郎の様子を察して、順三郎がおかしそうに笑った。
「はっはっはっ。お主、万治の娘と聞いてその娘の顔に不安を感じたな?」
心中を見透かされて、新九郎は慌てた。
「い、いえ、そのようなことはございませぬ」
と、新九郎は取り繕ったが、当然嘘だった。
「心配するな。儂も何度か万次の娘には会っているが、奥方に似て万次とは似ても似つかぬ美しい娘よ。名を加菜と言う」
「そうですか」
新九郎が表情を緩めて答えると、順三郎はにやりとした。
「途端に安心したような顔をしおって。お主は本当に素直でわかりやすい男じゃの」
「あ、いえ」
新九郎は恥ずかしそうに頬をかいた。
「で、どうじゃな、この話は?」
順三郎が身を乗り出すようにして、
「お主の父、新兵衛は儂の代わりに死んだようなもの……その新兵衛の件のせいでお主に縁談が来ないと言うのは、儂としては心苦しいし、天上の新兵衛にも申し訳が立たん。それに、お主のように腕が立つ上に優秀で誠実な者は、是非とも我が縁者の一人として迎えたいと思っておる」
「はい……」
新九郎は歯切れ悪く答えた。
昔、父新兵衛にかけられた公金横領の濡れ衣。当時の大鳥順三郎にも父の新兵衛にもそれを覆すだけの力がなく、新兵衛が順三郎に後日の望みを託して全ての罪を被って自裁した。その様が潔かったので、それ以上のお咎めはなく、黒須家も存続を許されたが、そのようなことがあった黒須家には、それ以来縁談の話は一度も来ていない。妹の奈美にもだ。
実は新九郎にはもう一人、八歳年上の姉がいて、この姉は父の自裁の前にすでに他家に嫁いでいたので嫁入りの問題がなくてすんでいた。この姉がまた、新九郎や奈美の為に時間があれば自ら走って縁談を探してくれているのだが、やはりなかなかまとまらずにいた。
そんな新九郎にとって、順三郎からの話は願ってもないことであった。しかも、順三郎は今はまだ次席家老であるが、家格は永代家老の筆頭であり、その縁者になれるのである。
だが、脳裏をよぎった一人の女性の影が、新九郎の言葉を濁らせた。
「何じゃ、不満かの」
当然喜んでくれるかと思っていた順三郎が怪訝そうな顔をした。
その顔色を見て新九郎は慌てた。
「いえ、とてもありがたい話でございますが……その、韮沢様の方はどうなのでしょうか?」
「うむ。先日、殿の釣りに同行させる前にな、万次には話をしてみた。最初はやはり新兵衛の件で何とも言えぬ顔をしておったので、思い切って密かに真実を話した上で、釣りの場で新九郎の人となりをよく見てみよ、と言っておいた」
「なるほど」
「して、帰って来てから城内で訊いてみたところ、万次はとてもお主が気に入ったようで、お主がよければ是非とも娘を嫁に行かせたい、と言っておる」
「そうでございますか。ありがたいことです」
新九郎は笑顔を見せた。
韮沢万次は武芸の達人であるだけでなく人柄も良く、家中でも人望がある。そのような人物から娘を嫁にやれると認められるのは嬉しい。そして、家老から直接持ち込まれた縁談、非常な栄誉である。
だが、そこでもやはり振り切れぬ、少し目元がきつめだが繊細な美貌の影。
「如何した?」
その表情の微妙な変化を感じ取ったのか、順三郎が薄明かりの中で窺うように新九郎を見た。
「いえ……とてもありがたいお話でございます……是非ともお願いしたく思います。ですが……このお話は、今の件を全て片付けてからの方が宜しいかと存じますが」
新九郎は、絞り出すように答えた。
大鳥順三郎は、二度首を振って頷いた。
「おうおう、確かにその通りであるな」
「はい。今は流斎さまと小田さまの企みを防ぐことに集中しなければなりませぬ。」
「はっはっ、また儂の悪い癖が出たようじゃ、ちと急ぎすぎたな。だが、我らの正義を成し遂げた後には、この話を進めても良いな?」
「……はい」
新九郎は、一瞬の沈黙の後、頭を下げた。
話が終わり、家老大鳥順三郎は満足げな顔で黒須家の屋敷を出て行った。
門の外まで見送った後、新九郎は自室に入ると、羽織を脱いで袴を外し、中央に胡坐をかいて座った。
腕を組み、物思いに耽った。と言うよりも、半ば呆然としていた。
――縁談……縁談か……。
いわくのある黒須家の新九郎には、またとない話で、めでたいことである。
しかも、永代家老四家の筆頭、大鳥家の仲立ちで、またその縁戚に連なることができるのである。これ以上の良い話が他にあろうか。
そもそも、家老から持ち込まれた縁談、断ることなどできるはずはない。
だが、新九郎は心の底から喜べなかった。行灯のぼやけた灯を見ながら、重い気持ちにとらわれていた。
そこへ、外から高く澄んだ声がかかった。
「旦那さま、眠れぬのですか?」
襖の向こうから聞こえたのは、りよの声であった。
すでに、夜四つ頃であろう。
新九郎は、はっとして腕組みを解いて答えた。
「いや、そうではないが」
その瞬間、様々な考えが電撃的に新九郎の脳裏を駆け巡った。
――まだ、りよがあの濃紺装束の一派の者ではない、とはっきりしたわけではない。
もし、りよが城戸流斎の手先であるあの濃紺装束の一派の者で、先ほどの大鳥家老と三木と今井らとの計画を盗み聞きされていたとしたら、計画は失敗するであろう。
だが逆に、もしりよが流斎さま一派の者ではないとしたら――
新九郎の胸中に浮かび上がって来た想い。
――今の縁談の話を聞いたら、りよはどう思うであろうか?
その時、再びりよが心配そうな声をかけて来た。
「白湯でもお持ちしましょうか?」
「いや、いらぬ」
新九郎は答えると、立ち上がって襖を開けようとした。
だが、寸前で思い止まった。
――今はりよの顔を見ない方が良い。
何となく、そう思った。
「お身体のどこかがすぐれませぬか?」
りよが再び訊いて来た。
「そのようなことはない。ちと考え事をしていてな。もう寝るので、おりよも早く休むとよい」
新九郎は襖越しに答えた。
「はい、ではおやすみなさいませ」
りよの答えと同時に、静かな足音が遠ざかって行った。
新九郎は再び部屋の中央に座った。
――あ、奈美……。
突然、妹のことを思い出した。
――俺の縁談の前に、奈美のことをご家老にお願いしてみるか。
自分よりも先に妹の奈美を、と常々考えていた新九郎である。
次に機会があれば大鳥順三郎にそれとなく話してみよう、と思った。
そして新九郎は、着替えてから床に潜り込んだが、眠りはなかなか訪れなかった。りよの端正な横顔が、白く優しい笑顔が瞼の裏に浮かんでは消えた。
布団の上で幾度も寝返りを打った末、暁九つに近くなって、ようやく新九郎は眠りに落ちた。
それから四半刻ほどして――
黒須家の庭の隅にある桜の樹の下で、二つの黒い人影が密談していた。
先ほどまでは晴れ渡っていた夜空であったが、急に黒雲が増えて来て、今は星も月明りも無い。
頭上の桜の花が風に擦れる音だけがする闇の中で、二人は常人には聞き取れないほどの小さな声で話していた。
"虎"と"燕"であった。
燕が何かを伝えた後、虎は頷いて何か答え、次に虎が燕に長々と話をした。
燕は何も言わずにそれを聞き、聞き終えた後も何も答えずに身じろぎもしなかった。
そこで、虎の声が常人に聴きとれる程には大きくなった。
「これが我らの掟だ。殿の大志の為、また我々の為、そしてはお前の為にもなることじゃ」
「…………」
「冷たいように思えるかも知れぬが、殿はやはりお前のことを娘として思い、どうすれば一番お前の為になるのか、よく考えておられる」
「…………」
そこで、燕は頭上を見上げた。闇の中で、桜は黒く揺れていた。
「わかったな。必ず黒須新九郎を殺るのだぞ」
虎の猫のような目が、闇の中でわずかに光った。
「儂は、これから大鳥の屋敷を少し探ってから戻る。やはりあの連判状は大鳥順三郎が持っているようだが、それよりもすごいことがわかった。何と、あの三中散の毒が大鳥の屋敷にまだ残っているらしい。連判状も大事だが、三中散の毒を手に入れられれば城戸政龍は容易に暗殺でき、殿の大志は成ったも同然。何としても手に入れなければならぬ」
「難しゅうございましょう」
燕が、頭上を見上げたまま、初めてぽつりと口を開いた。
「大鳥さまのお屋敷には、元笹川組の手練れたちがおりまする」
「うむ。流石に強かでな。なかなか入り込めぬ」
「当然でございましょう。所詮お頭の技は童の頃にちょっとかじったものを独自に修練した亜流で、それを教えてもらった我らの技もまた同じ。本物の笹川組の術にかなうはずがございませぬ」
燕は、皮肉を込めて薄笑いをした。
瞬間、虎がカッと目を剥き、右手を上げた。だが、虎は荒く息を吐いて思い止まった。
しかし右手は下ろさぬまま、虎は冷えた声で告げた。
「お前は自分の務めを果たせ。果たせなんだ場合には何をしても良い、殿はそう申しておられる」
そして、虎はすっと闇の中に消えた。
暗闇に、再び花弁が揺れて擦れる音だけが残った。
燕はその音を聞きながら黒い桜の花を見つめた。すっと光るものが一筋、頬に流れた。
「何が娘か……。一番私の為になること考えているだと……? 嘘だ……」
燕は、腰帯に挟んでいた櫛を取り出して見つめた。
涙が櫛の上に零れ落ち、哀しい呟きが闇に流れて消えた。
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