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釣り針にかかるものは
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宇佐美家は代々、深緑色の着物を着用することで知られている。小袖は様々な色を使うが、裃や羽織、大刀の鞘に至るまで深緑を使う。それが宇佐美家の伝統らしい。
新九郎は、宇佐美三之丞の深緑の背を見ながら、目まぐるしく考えを巡らせていた。
「黒須、今日はわざわざすまぬな」
新九郎が少年藩主政龍の前に出ると、政龍は気さくに声をかけて来た。その目は期待にきらきらと輝いている。
「いえ。それがしの如き者が、殿に釣りを指南するなど、恐れ多いことでございます」
「まあまあ、そうかたくなるな楽しくやろう。早速頼む」
政龍はにこにこと笑みを見せて、新九郎を急かした。
「では、竿を見せていただいてもよろしゅうございますか?」
「うん? 構わぬが」
「はっ」
新九郎は、政龍の小姓に二刀を預けると、まず政龍の持っていた竹竿を見てから、
「この川はまだ緩やかな方ではございますが、やはり流れは速うございます。もう少し重い錘の方がよろしいかと存じます。また、石などに引っかかって仕掛けの全てが駄目になるのがもったいないので、針は柔らかい物にいたしましょう。ちょうど私が持ってきております」
「ほう、では頼む」
政龍は感心して、新九郎の言うがままに任せた。新九郎は、慣れた手つきで錘と針を取り換えた。
「餌は、川底にいる虫を捕まえてそれを使いまする」
新九郎は、自分で持って来た目の細かい笊を持って川水の中に入り、川底の大きな石をひっくり返すと、その下の砂利に笊を突っ込んで掬い上げた。
川水が零れ落ちた後に、砂利の中に混じって川虫が数匹うごめいていた。
「川にいる魚たちはこれらを餌としますゆえ」
そして、新九郎は政龍の釣り竿の針に川虫を刺そうとしたが、
「いや、それぐらいは自分でやるぞ」
政龍は新九郎を制して、自分でやってみた。
「流石でございます。あとはもう、魚がいそうな場所を見つけ、その少し上流に目掛けて竿を振るだけでございます」
続いて、新九郎は川辺を上流の方へ向かってゆっくりと歩いた。
「あそこに、大きな石がございます」
新九郎が指差す方に、大きめの石が川面から姿を出し、流れを二つに分けていた。
「あの石の下の方に、よく魚がいることがございます。あとは、少し深そうな色の濃いところなど」
「ふむ、そうか」
政龍は、興味深そうに川の流れを見回した。
「まずは、あの石の下の方を狙ってみては如何でしょうか」
「よし、やってみよう」
政龍は楽しそうに竿を振ってみた。糸は空を滑り、針は上手いこと狙った位置に沈んだ。
「時折少し揺らしつつ、じっくり待ちまする」
「うむ」
政龍は立ったまま竿を握り、川面の流れを見つめている。
その両脇には小姓が守るように立ち、新九郎は更にその隣に立った。
なかなか魚は食いつかず、川のさらさらとした流れの音だけが聞こえた。
――釣れてくれ。
新九郎は内心、必死に祈る気持ちであった。藩主の釣りに同行するだけでなくその指南。政龍に一匹も釣れないようなことがあっては、どんな不興を買ってしまうかわからない。
だが、そんな新九郎の焦慮とは逆に、藩主政龍は川向うの新緑が眩い山林を見つめながら、楽し気に言った。
「やはり国はいいな」
少年藩主は、ふふっと微笑した。
「江戸は、多くの人で賑わい、活気に溢れていて華やかな町である。そして儂は、江戸の屋敷で暮らしていた年月の方が遥かに長い。それ故に江戸の方が慣れている。だが、広くもない江戸藩邸にあって自由に出歩くことができぬ。そして、外に出ても家格が上の大名や旗本に出会うことがあれば神経も使う。しかも我が城戸家は、そなたも知っておるように初代頼龍公以来幕府に睨まれておる」
そなた、と言ったことで、新九郎は政龍が自分に話しかけているのだと気づいて慌てた。
「はっ」
「江戸での暮らしは、正直に言って窮屈だ。だが、国に帰って来て、こうして山林の澄んだ空気の中に身を置くと、手足を縛っていたものが吹き飛んでいった心地がするぞ」
政龍は竿を動かしながら言った後、
「なんと美しい景色か。やはり国が良い。たとえ誰かに狙われようとな」
と、付け加えた。
政龍の顔は変わらず微笑のままであったが、新九郎はどきりとした。
斜め後ろにいた側用人宇佐美三之丞も、はっとして目を光らせた。
その時であった。政龍の釣り糸がびくびくと動いた。
「お、かかったか?」
政龍は背を伸ばした。
「お上げください」
新九郎が咄嗟に言うと、「うむ」と、政龍はさっと竿を引き上げた。
水飛沫を撒き散らしながら、鈍い銀色の魚影が空を舞った。
「おおっ、釣れた」
両脇の小姓や、背後の馬廻り組の者たちが歓声を上げた。
「ご無礼仕ります」
新九郎は寄って、空にもがく魚を器用に捕まえた。
六寸ほどの魚体で、腹には黒い斑紋があった。
「おお、おめでとうございまする。これは山女魚です」
新九郎は声を弾ませた。
「ほう、良い魚か」
政龍もまた、目をきらきらとさせて、新九郎の手の中で踊る魚を見た。
「この時期ではまだ少ない魚です。初めてでこれは素晴らしゅうございます」
「そうか、やったぞ」
政龍は少年らしい喜び方を見せた。
「流石は殿です。では、針を外しまする」
新九郎は、山女魚の口から針を外すと、傍らの魚籠に入れた。
「うむ、面白いのう。よし、では皆もやってみよ」
政龍は、小姓衆、馬廻り組の者たちを見回して促した。
一応、全員分の釣り道具を用意してきていた。
「黒須、皆に教えてやってくれぬか」
「はっ」
「そして、そなたもじゃ。ここは一つ、皆で釣り勝負と行こう。最も沢山釣った者には褒美を与えるぞ」
政龍は皆に言い渡した。
この言葉に、一同は俄然盛り上がって歓声を上げた。
新九郎は、忙しく皆に釣りのやり方を教えて回った。
そして、準備のできた者から釣り竿を川面に投げ入れ、場は途端に明るく賑やかになった。
だが、一人、側用人の宇佐美三之丞だけはその中に加わらず、鋭い目で周囲を見回し、その後は新九郎の挙動を見つめていた。
それから半刻ほど皆で釣りをして盛り上がった後、弁当を食べることとなった。
藩主一行は、全員分の弁当を持って来ていた。
精白された米ではなく、竹皮に包んだ玄米の握り飯三つに、大根の味噌漬け、と言う簡素な弁当である。
だが、ここに皆で釣り上げた川魚が加わる。
藩主政龍にどう食べるのが美味いかと訊かれ、
「刺身は腹を壊すのでおすすめいたしませぬが、塩を振ってじっくり焼きますと非常に美味でございます」
と、新九郎は答えた。
その通りに、政龍は小姓たちに火を起こさせ、それぞれ釣りあげた岩魚を塩焼きにさせた。
「おお、これは」
「なんと美味いことか」
江戸詰めが長く、国にいた時でもずっと城暮らしだった者たちである。
初めて食べる、釣り上げた直後にその場で焼いた魚のあまりの美味さに、夢中になってむさぼり食った。
その一つは、当然藩主政龍にも差し出された。
政龍は、鼻に抜ける香ばしさに目を輝かせたが、すぐに手はつけなかった。
当たり前のように、まず持って来た小姓が箸で身をほぐして一口食べた。毒見である。政龍は、それからしばらく注意深くその小姓の様子を見ていたが、小姓が平静でいるのを見て、やっと箸を取って魚を食べた。
すでに焼き立ての熱は冷めているであろう。だが、政龍は「これは美味い、来て良かったわ」と、大喜びした。
新九郎はそれを見て内心密かに驚いた。
皆が見ているその場で釣り上げたばかりの魚で、焼いたのも政龍の信頼が篤い小姓たちである。毒など入れられるはずがない。
だが、それでも毒見をさせてからでないと食べないのだ。
弁当も同様であった。政龍の弁当は重箱に入っており、握り飯こそ他の者たちと同じ玄米であるが、他に玉子焼きと煮物が二種類入っていて比較的豪華である。
だが、その弁当も、政龍は一品ずつ小姓たちに毒見をさせ、しばらく様子を見てからやっと口をつける、と言う様であった。
――確実に先の殿が毒殺されたのだとわかっておられる。そして自分も狙われているかも知れないということも。
新九郎は、わずか十五歳にしてそのような境遇となった政龍の胸中を思った。
――お辛いであろうな。
その時であった。
藩主政龍から直接声をかけられた。
「黒須、こちらへ」
「はっ」
新九郎は食べかけの握り飯を置いて、小走りで政龍の前へ行って両膝をついた。
「酒は飲めるか?」
「はい、少々」
「うむ、ではこれを飲んでくれ」
政龍は、傍らに置いていた瓢箪を取って、栓を抜いた。
小姓の一人が、新九郎に漆塗りの盃を渡した。
新九郎が盃を両手で掲げると、政龍はそこにゆっくりと注いだ。濁酒ではない。色の澄んだ清酒で、桃のような香りがした。
「これは上様からいただいた灘の酒じゃ。美味いぞ」
政龍はにこにこと笑ったが、新九郎は驚いて飛び上がりそうになった。
「上様から……そのような貴重なお酒を……」
「構わぬ。わしは父や祖父とは違い、あまり飲めないようでな」
藩主の城戸家は、藩祖頼龍以来代々酒豪が多かった。
「それ故に、遠慮はいらぬ。此度の褒美じゃ」
「褒美と申しましても、大したことはしておりませぬ」
「いや、今日は来て良かった。実に楽しい。江戸ではこんなに楽しい思いをしたことはない。だが、それは全て黒須が川釣りを教えてくれたからじゃ」
「恐れい多いことでございます」
「このように心から楽しめたのはいつぶりかの……黒須、礼を言うぞ」
床几に座ったままであったが、なんと政龍は頭を下げた。
新九郎はまたまた驚き、あわてて盃を隣に置いて平伏した。藩主が、中級格の平藩士に頭を下げたのである。
「もったいのうございます……某如き者に……」
新九郎は、そこから言葉が出て来なかった。
政龍は愉快そうに笑い声を上げた。
「そう、固くなるな。面を上げて、早う飲んでみてくれ」
「はっ……」
新九郎は顔を上げ、盃に口をつけた。
酒は確かに美味かった。だが、驚きと緊張のせいか、そこまで味はよくわからなかった。
その後、一行は再び釣りを始めた。
藩主政龍が「皆、好きに楽しむが良い」と言ったことで、政龍と供周りの者たちはそれぞれ思い思いに川釣りを楽しんだ。だが、やはり宇佐美三之丞だけは色々と警戒してか、釣り竿を手にすることなく、油断ない目を周囲に走らせている。
中天になると、元々雲一つなかった空の日差しがかなり強くなり、初夏のような暑さとなった。その為、皆は水をよく飲み、持って来た飲み水が尽きかけた。
藩主政龍が「喉が渇いた」と言ったこともあり、小姓の一人が川の水を竹筒にすくおうとしたが、新九郎は慌てて止めた。
「やめた方がようございます。この川の水はとても綺麗で、飲めないことはございませんが、何か良くない物でも混ざっているのか、付近の者でも時折腹を壊すことがございます」
「ではやめておきましょう。殿に何かあっては良くない。しかしそうなるとどうすれば……」
「ここからもう少し上流に上ったところの水は、より澄んでいて安全でござります。すぐ近い故、私が汲んで参りましょう」
新九郎はそう言って、木桶を二つ持って川岸を歩き、次第に岩道となる上流への道を登って行った。
上流へ上がって行くに従って、流れは細くなり、水は透明度を増す。脇から樹木が枝葉を伸ばして若々しい新緑を光らせ、その間から陽光を射して川面に陰影を煌めかせている。辺りには、心も洗われるような清々しい気と香りが満ち、新九郎は近頃心身に溜まっていた澱みのようなものが流れていく心地を覚えた。
「ああ、気持ち良いものだ」
新九郎は思わず呟き、天空を仰いで深呼吸をした。
だがすぐに我に返って、
――いかんいかん、早く水を汲んで戻らねば。
と、最も水が透明な流れに木桶を入れて、二つともに八分目まで水を入れた。
その時であった。
もっと奥の方より人の声が聞こえた。しかも、一人や二人ではない。四人や五人はいて、何か揉めているような声である。
先ほど釣りをしていた場所は、付近の集落の住民も遊びに来たりするところであるが、この上流の辺り、しかも更にその向こうは道の無いところであり、まず人が来ることはない。そのようなところから四、五人の声が聞こえるなど普通ではない。
新九郎は胸騒ぎを感じ、木桶二つをその場に置いて、更に上へと登って行った。
やや険しい岩道を登って行くと、今度は下り坂となった。
人の声は段々と大きくなり、新九郎は樹木の陰に身を潜め、その間から坂の下を窺った。
樹木の隙間から見える坂の下には、合計六人の男がいて、二台の小型の大八車を引いていた。だが、どうやら車輪に何か問題が起きたらしく、男たちは大八車を止め、先頭の一台の車輪を囲んで何か言い合っていた。
荷台には、何か大きな荷が積まれているようであるが、その上から蓆をかけられており、その荷が何なのかまではわからない。
新九郎は呼吸を静め、集中して耳をそばだてた。
すると、微かに流れ聞こえた彼らの言葉の端々。
「流斎様が……」
「江戸に間に合わんぞ」
などと聞こえ、新九郎は目の色を変えた。
――流斎様? 江戸?
新九郎は、先日大鳥邸での密談を思い出した。
藩主政龍の叔父、甲法山の城戸流斎が、自らの野望を遂げる助けとする為に、不正で得た巨額の金を江戸の幕閣へ送っているのではないかと言う話である。
――あの者たちが来た方は。
新九郎は、素早く目を送った。
彼らがやって来たと思われる方角は、まさに城戸流斎が住む甲法山の方であった。
――流斎さまのお屋敷から江戸へ金を送る者たちか? あるいはどこからか不正で得た小物成。
新九郎は、樹の陰からそっと顔を出し、再び彼らを覗き見た。
――そうか。このような人が訪れぬ獣道などを通って運び、露見せぬようにしているのか。
その時、新九郎はふと何者かの気を感じた。明らかな害意がある。だが、坂の下の彼らではない。
新九郎は静かに上下左右を見回したが、誰の影も見えない。
新九郎は、宇佐美三之丞の深緑の背を見ながら、目まぐるしく考えを巡らせていた。
「黒須、今日はわざわざすまぬな」
新九郎が少年藩主政龍の前に出ると、政龍は気さくに声をかけて来た。その目は期待にきらきらと輝いている。
「いえ。それがしの如き者が、殿に釣りを指南するなど、恐れ多いことでございます」
「まあまあ、そうかたくなるな楽しくやろう。早速頼む」
政龍はにこにこと笑みを見せて、新九郎を急かした。
「では、竿を見せていただいてもよろしゅうございますか?」
「うん? 構わぬが」
「はっ」
新九郎は、政龍の小姓に二刀を預けると、まず政龍の持っていた竹竿を見てから、
「この川はまだ緩やかな方ではございますが、やはり流れは速うございます。もう少し重い錘の方がよろしいかと存じます。また、石などに引っかかって仕掛けの全てが駄目になるのがもったいないので、針は柔らかい物にいたしましょう。ちょうど私が持ってきております」
「ほう、では頼む」
政龍は感心して、新九郎の言うがままに任せた。新九郎は、慣れた手つきで錘と針を取り換えた。
「餌は、川底にいる虫を捕まえてそれを使いまする」
新九郎は、自分で持って来た目の細かい笊を持って川水の中に入り、川底の大きな石をひっくり返すと、その下の砂利に笊を突っ込んで掬い上げた。
川水が零れ落ちた後に、砂利の中に混じって川虫が数匹うごめいていた。
「川にいる魚たちはこれらを餌としますゆえ」
そして、新九郎は政龍の釣り竿の針に川虫を刺そうとしたが、
「いや、それぐらいは自分でやるぞ」
政龍は新九郎を制して、自分でやってみた。
「流石でございます。あとはもう、魚がいそうな場所を見つけ、その少し上流に目掛けて竿を振るだけでございます」
続いて、新九郎は川辺を上流の方へ向かってゆっくりと歩いた。
「あそこに、大きな石がございます」
新九郎が指差す方に、大きめの石が川面から姿を出し、流れを二つに分けていた。
「あの石の下の方に、よく魚がいることがございます。あとは、少し深そうな色の濃いところなど」
「ふむ、そうか」
政龍は、興味深そうに川の流れを見回した。
「まずは、あの石の下の方を狙ってみては如何でしょうか」
「よし、やってみよう」
政龍は楽しそうに竿を振ってみた。糸は空を滑り、針は上手いこと狙った位置に沈んだ。
「時折少し揺らしつつ、じっくり待ちまする」
「うむ」
政龍は立ったまま竿を握り、川面の流れを見つめている。
その両脇には小姓が守るように立ち、新九郎は更にその隣に立った。
なかなか魚は食いつかず、川のさらさらとした流れの音だけが聞こえた。
――釣れてくれ。
新九郎は内心、必死に祈る気持ちであった。藩主の釣りに同行するだけでなくその指南。政龍に一匹も釣れないようなことがあっては、どんな不興を買ってしまうかわからない。
だが、そんな新九郎の焦慮とは逆に、藩主政龍は川向うの新緑が眩い山林を見つめながら、楽し気に言った。
「やはり国はいいな」
少年藩主は、ふふっと微笑した。
「江戸は、多くの人で賑わい、活気に溢れていて華やかな町である。そして儂は、江戸の屋敷で暮らしていた年月の方が遥かに長い。それ故に江戸の方が慣れている。だが、広くもない江戸藩邸にあって自由に出歩くことができぬ。そして、外に出ても家格が上の大名や旗本に出会うことがあれば神経も使う。しかも我が城戸家は、そなたも知っておるように初代頼龍公以来幕府に睨まれておる」
そなた、と言ったことで、新九郎は政龍が自分に話しかけているのだと気づいて慌てた。
「はっ」
「江戸での暮らしは、正直に言って窮屈だ。だが、国に帰って来て、こうして山林の澄んだ空気の中に身を置くと、手足を縛っていたものが吹き飛んでいった心地がするぞ」
政龍は竿を動かしながら言った後、
「なんと美しい景色か。やはり国が良い。たとえ誰かに狙われようとな」
と、付け加えた。
政龍の顔は変わらず微笑のままであったが、新九郎はどきりとした。
斜め後ろにいた側用人宇佐美三之丞も、はっとして目を光らせた。
その時であった。政龍の釣り糸がびくびくと動いた。
「お、かかったか?」
政龍は背を伸ばした。
「お上げください」
新九郎が咄嗟に言うと、「うむ」と、政龍はさっと竿を引き上げた。
水飛沫を撒き散らしながら、鈍い銀色の魚影が空を舞った。
「おおっ、釣れた」
両脇の小姓や、背後の馬廻り組の者たちが歓声を上げた。
「ご無礼仕ります」
新九郎は寄って、空にもがく魚を器用に捕まえた。
六寸ほどの魚体で、腹には黒い斑紋があった。
「おお、おめでとうございまする。これは山女魚です」
新九郎は声を弾ませた。
「ほう、良い魚か」
政龍もまた、目をきらきらとさせて、新九郎の手の中で踊る魚を見た。
「この時期ではまだ少ない魚です。初めてでこれは素晴らしゅうございます」
「そうか、やったぞ」
政龍は少年らしい喜び方を見せた。
「流石は殿です。では、針を外しまする」
新九郎は、山女魚の口から針を外すと、傍らの魚籠に入れた。
「うむ、面白いのう。よし、では皆もやってみよ」
政龍は、小姓衆、馬廻り組の者たちを見回して促した。
一応、全員分の釣り道具を用意してきていた。
「黒須、皆に教えてやってくれぬか」
「はっ」
「そして、そなたもじゃ。ここは一つ、皆で釣り勝負と行こう。最も沢山釣った者には褒美を与えるぞ」
政龍は皆に言い渡した。
この言葉に、一同は俄然盛り上がって歓声を上げた。
新九郎は、忙しく皆に釣りのやり方を教えて回った。
そして、準備のできた者から釣り竿を川面に投げ入れ、場は途端に明るく賑やかになった。
だが、一人、側用人の宇佐美三之丞だけはその中に加わらず、鋭い目で周囲を見回し、その後は新九郎の挙動を見つめていた。
それから半刻ほど皆で釣りをして盛り上がった後、弁当を食べることとなった。
藩主一行は、全員分の弁当を持って来ていた。
精白された米ではなく、竹皮に包んだ玄米の握り飯三つに、大根の味噌漬け、と言う簡素な弁当である。
だが、ここに皆で釣り上げた川魚が加わる。
藩主政龍にどう食べるのが美味いかと訊かれ、
「刺身は腹を壊すのでおすすめいたしませぬが、塩を振ってじっくり焼きますと非常に美味でございます」
と、新九郎は答えた。
その通りに、政龍は小姓たちに火を起こさせ、それぞれ釣りあげた岩魚を塩焼きにさせた。
「おお、これは」
「なんと美味いことか」
江戸詰めが長く、国にいた時でもずっと城暮らしだった者たちである。
初めて食べる、釣り上げた直後にその場で焼いた魚のあまりの美味さに、夢中になってむさぼり食った。
その一つは、当然藩主政龍にも差し出された。
政龍は、鼻に抜ける香ばしさに目を輝かせたが、すぐに手はつけなかった。
当たり前のように、まず持って来た小姓が箸で身をほぐして一口食べた。毒見である。政龍は、それからしばらく注意深くその小姓の様子を見ていたが、小姓が平静でいるのを見て、やっと箸を取って魚を食べた。
すでに焼き立ての熱は冷めているであろう。だが、政龍は「これは美味い、来て良かったわ」と、大喜びした。
新九郎はそれを見て内心密かに驚いた。
皆が見ているその場で釣り上げたばかりの魚で、焼いたのも政龍の信頼が篤い小姓たちである。毒など入れられるはずがない。
だが、それでも毒見をさせてからでないと食べないのだ。
弁当も同様であった。政龍の弁当は重箱に入っており、握り飯こそ他の者たちと同じ玄米であるが、他に玉子焼きと煮物が二種類入っていて比較的豪華である。
だが、その弁当も、政龍は一品ずつ小姓たちに毒見をさせ、しばらく様子を見てからやっと口をつける、と言う様であった。
――確実に先の殿が毒殺されたのだとわかっておられる。そして自分も狙われているかも知れないということも。
新九郎は、わずか十五歳にしてそのような境遇となった政龍の胸中を思った。
――お辛いであろうな。
その時であった。
藩主政龍から直接声をかけられた。
「黒須、こちらへ」
「はっ」
新九郎は食べかけの握り飯を置いて、小走りで政龍の前へ行って両膝をついた。
「酒は飲めるか?」
「はい、少々」
「うむ、ではこれを飲んでくれ」
政龍は、傍らに置いていた瓢箪を取って、栓を抜いた。
小姓の一人が、新九郎に漆塗りの盃を渡した。
新九郎が盃を両手で掲げると、政龍はそこにゆっくりと注いだ。濁酒ではない。色の澄んだ清酒で、桃のような香りがした。
「これは上様からいただいた灘の酒じゃ。美味いぞ」
政龍はにこにこと笑ったが、新九郎は驚いて飛び上がりそうになった。
「上様から……そのような貴重なお酒を……」
「構わぬ。わしは父や祖父とは違い、あまり飲めないようでな」
藩主の城戸家は、藩祖頼龍以来代々酒豪が多かった。
「それ故に、遠慮はいらぬ。此度の褒美じゃ」
「褒美と申しましても、大したことはしておりませぬ」
「いや、今日は来て良かった。実に楽しい。江戸ではこんなに楽しい思いをしたことはない。だが、それは全て黒須が川釣りを教えてくれたからじゃ」
「恐れい多いことでございます」
「このように心から楽しめたのはいつぶりかの……黒須、礼を言うぞ」
床几に座ったままであったが、なんと政龍は頭を下げた。
新九郎はまたまた驚き、あわてて盃を隣に置いて平伏した。藩主が、中級格の平藩士に頭を下げたのである。
「もったいのうございます……某如き者に……」
新九郎は、そこから言葉が出て来なかった。
政龍は愉快そうに笑い声を上げた。
「そう、固くなるな。面を上げて、早う飲んでみてくれ」
「はっ……」
新九郎は顔を上げ、盃に口をつけた。
酒は確かに美味かった。だが、驚きと緊張のせいか、そこまで味はよくわからなかった。
その後、一行は再び釣りを始めた。
藩主政龍が「皆、好きに楽しむが良い」と言ったことで、政龍と供周りの者たちはそれぞれ思い思いに川釣りを楽しんだ。だが、やはり宇佐美三之丞だけは色々と警戒してか、釣り竿を手にすることなく、油断ない目を周囲に走らせている。
中天になると、元々雲一つなかった空の日差しがかなり強くなり、初夏のような暑さとなった。その為、皆は水をよく飲み、持って来た飲み水が尽きかけた。
藩主政龍が「喉が渇いた」と言ったこともあり、小姓の一人が川の水を竹筒にすくおうとしたが、新九郎は慌てて止めた。
「やめた方がようございます。この川の水はとても綺麗で、飲めないことはございませんが、何か良くない物でも混ざっているのか、付近の者でも時折腹を壊すことがございます」
「ではやめておきましょう。殿に何かあっては良くない。しかしそうなるとどうすれば……」
「ここからもう少し上流に上ったところの水は、より澄んでいて安全でござります。すぐ近い故、私が汲んで参りましょう」
新九郎はそう言って、木桶を二つ持って川岸を歩き、次第に岩道となる上流への道を登って行った。
上流へ上がって行くに従って、流れは細くなり、水は透明度を増す。脇から樹木が枝葉を伸ばして若々しい新緑を光らせ、その間から陽光を射して川面に陰影を煌めかせている。辺りには、心も洗われるような清々しい気と香りが満ち、新九郎は近頃心身に溜まっていた澱みのようなものが流れていく心地を覚えた。
「ああ、気持ち良いものだ」
新九郎は思わず呟き、天空を仰いで深呼吸をした。
だがすぐに我に返って、
――いかんいかん、早く水を汲んで戻らねば。
と、最も水が透明な流れに木桶を入れて、二つともに八分目まで水を入れた。
その時であった。
もっと奥の方より人の声が聞こえた。しかも、一人や二人ではない。四人や五人はいて、何か揉めているような声である。
先ほど釣りをしていた場所は、付近の集落の住民も遊びに来たりするところであるが、この上流の辺り、しかも更にその向こうは道の無いところであり、まず人が来ることはない。そのようなところから四、五人の声が聞こえるなど普通ではない。
新九郎は胸騒ぎを感じ、木桶二つをその場に置いて、更に上へと登って行った。
やや険しい岩道を登って行くと、今度は下り坂となった。
人の声は段々と大きくなり、新九郎は樹木の陰に身を潜め、その間から坂の下を窺った。
樹木の隙間から見える坂の下には、合計六人の男がいて、二台の小型の大八車を引いていた。だが、どうやら車輪に何か問題が起きたらしく、男たちは大八車を止め、先頭の一台の車輪を囲んで何か言い合っていた。
荷台には、何か大きな荷が積まれているようであるが、その上から蓆をかけられており、その荷が何なのかまではわからない。
新九郎は呼吸を静め、集中して耳をそばだてた。
すると、微かに流れ聞こえた彼らの言葉の端々。
「流斎様が……」
「江戸に間に合わんぞ」
などと聞こえ、新九郎は目の色を変えた。
――流斎様? 江戸?
新九郎は、先日大鳥邸での密談を思い出した。
藩主政龍の叔父、甲法山の城戸流斎が、自らの野望を遂げる助けとする為に、不正で得た巨額の金を江戸の幕閣へ送っているのではないかと言う話である。
――あの者たちが来た方は。
新九郎は、素早く目を送った。
彼らがやって来たと思われる方角は、まさに城戸流斎が住む甲法山の方であった。
――流斎さまのお屋敷から江戸へ金を送る者たちか? あるいはどこからか不正で得た小物成。
新九郎は、樹の陰からそっと顔を出し、再び彼らを覗き見た。
――そうか。このような人が訪れぬ獣道などを通って運び、露見せぬようにしているのか。
その時、新九郎はふと何者かの気を感じた。明らかな害意がある。だが、坂の下の彼らではない。
新九郎は静かに上下左右を見回したが、誰の影も見えない。
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突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。
そして御三家を模倣した御三卿を作る。
決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。
彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。
そして独自の政策や改革を断行した。
いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。
破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。
おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。
その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。
本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
狐侍こんこんちき
月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。
父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。
そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、
門弟なんぞはひとりもいやしない。
寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。
かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。
のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。
おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。
もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。
けれどもある日のこと。
自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。
脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。
こんこんちきちき、こんちきちん。
家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。
巻き起こる騒動の数々。
これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。
空母鳳炎奮戦記
ypaaaaaaa
歴史・時代
1942年、世界初の装甲空母である鳳炎はトラック泊地に停泊していた。すでに戦時下であり、鳳炎は南洋艦隊の要とされていた。この物語はそんな鳳炎の4年に及ぶ奮戦記である。
というわけで、今回は山本双六さんの帝国の海に登場する装甲空母鳳炎の物語です!二次創作のようなものになると思うので原作と違うところも出てくると思います。(極力、なくしたいですが…。)ともかく、皆さまが楽しめたら幸いです!
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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