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月下愁光の花
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三木家を訪ねると、まず下女が出て来て、次に辰之助の弟の徳之助が出迎えに来た。
見舞いに来たと言って落雁の包みを渡すと、徳之助は喜んで頭を下げ、
「お気遣いくださりありがとうございます。ちょうど兄上は起きておられます」
と、二人を屋敷の中へと迎え入れた。
辰之助は、庭に面した廊下の縁側に座り、日に当たっていた。
徳之助に導かれてやって来た二人を見ると、驚いた顔をした。
「おいおい、どうしたお前たち」
「兄上、わざわざ見舞いに来てくださったのですぞ。お土産までいただきました」
徳之助がたしなめるように言うと、預かった落雁の包みを見せた。
徳之助はまだ十六歳。体格はすでに兄の辰之助と同様に大きくなって来ているが、粗野で乱暴なところのある辰之助と違って、穏やかで礼儀正しい少年であった。
「そうか、それはすまんな」
辰之助は流石に非礼だと思ったのか、気まずそうに詫びた後、
「奥へ行くか」
と、立ち上がろうとしたが、一馬がそれを制した。
「いや、この庭の眺めは良いし、日の光が暖かくて気持ちが良い。ここで語らうのも良いんじゃないか?」
「そうだな。桜も咲きかけていることだし」
新九郎も同意して、庭の池の向こうに生えている桜の樹を見上げた。
三木家の庭にも、黒須家と同様に立派な桜の樹があった。すでに蕾が開き始めており、枝のところどころが華やかな花に彩られて、池の水面に淡紅の煌めきを落としていた。
「折角なので落雁をいただきましょう。茶も用意させます」
徳之助は奥へ向かった。
やがて、下女が盆に茶と落雁を乗せて持って来た。
「おう、流石は加賀の菓子だ。これは美味い」
一口かじると、辰之助は笑みをこぼした。
それを見て、一馬と新九郎は顔を見合わせてにやりとした。
「何だよ」
辰之助が訝しむと、
「相変わらず顔に似合わず甘い物が好きなんだな」
一馬が笑った。
辰之助は頬を赤くしながら目を泳がせた。
「ほっとけ。人の好みなんざどうだっていいだろうが」
「で、具合はどうだ?」
新九郎が訊くと、辰之助はそっぽを向いた。
「お前に心配される筋合いはない。大したことはねえよ」
すると、今井一馬が怒り気味に注意した。
「おい、辰之助。新九郎だって心配して折角来てくれたんだ。そんなこと言うな。落雁だって新九郎が選んだんだぞ」
「む……まあ、そうか……すまなかった、とりあえず礼は言う」
辰之助は庭に目を向けたままぶっきらぼうに言ったが、そこで急にごほごほと咳き込んだ。
「まだ咳が出るのか」
新九郎と一馬は、辰之助の顔をよく見た。少し、頬がこけて顔色も青いように見える。
「うむ。医者が言うには、風邪を引いていたところに無茶をしたのでこじらせたんだろう、とのことだ」
辰之助はもう一度咳をすると、茶をすすった。
「そうか。まあ、無理はしないでゆっくり休め」
それから、三人は世間話から藩主の帰国のこと、最近の小田一派のことなどまで声を潜めて語らった後、
「さて、長居しては身体に悪い。そろそろ帰ろう」
と、一馬と新九郎が立ち上がった。
「ああ、わざわざ悪いな。ありがとうよ。玄関までだが見送る」
辰之助は立ち上がろうとしたが、
「無理するな。そのまま奥で寝ていろ」
と、新九郎が止めた。
「では、またな」
二人が縁側から廊下に出て玄関へ向かおうとすると、辰之助が「黒須」と、声をかけてきた。
新九郎が振り返ると、辰之助は庭に目を向けた横顔のまま言った。
「病が治ったら、久しぶりに道場で一手つきあってくれ。鈍った身体を戻さなきゃならん。もちろん今井もな」
新九郎は、辰之助がそのようなことを自分から言ってくるのに驚いたが、すぐににこりと笑みを見せた。
「ああ。いくらでもつきあってやる。だが、また寝込むことになっても文句は言うなよ」
「ぬかせ。俺がお前に負けるか」
辰之助は見返すと、鼻で笑った。
そして、新九郎と一馬は、また廊下を玄関へと向かい始めたのだが、縁側に残っていた辰之助が、少し離れたところに落ちていた物に目を留めて、再び二人を呼び止めた。
辰之助は立ち上がってそれを拾うと、不思議そうに見つめた。それは、新九郎が先ほど菓子の「加賀屋」で落雁と一緒に買った漆塗りの櫛であった。
「なんだこれは? お前たちのか?」
辰之助が櫛を手に乗せて差し出すと、
「あっ、俺がさっき買ったものだ」
新九郎が気まずそうに受け取った。
「何でそんなものを……どこぞの女にでも贈るのか?」
辰之助はにやにやと笑った。
「違うわ。たまには……妹にこういう物を買ってやりたいと思ってな」
新九郎は顔を赤くしながら答えた。
「ふうん……ま、そういうことにしておくか。妹を大切にしてやれや」
辰之助はいつもの大きな笑い声を上げた。
その夜、黒須家の夕餉の食膳には、納豆汁といわしの干物、油揚げと豆の煮物が並んだ。
黒須家は武家と言っても小藩の中級家格である上、家禄を減らされているので、普段の食事は至って質素である。
夕食は基本的に、朝に炊いておいた飯をお茶漬けにした他に、大根や青菜の漬物、豆腐やわかめなど具一つのみの味噌汁だけであり、時々それに魚の干物や油揚げと貝のむき身の煮物などがつく程度である。
だが、今日は味噌汁も大根の葉を刻んでいれた納豆汁で、更にいわしの干物と煮物がついている。特に、納豆汁は新九郎の好物でもある。
普段から言えば豪華な献立であった。
「わあ、納豆汁ね」
奈美も納豆汁が好きである。嬉しそうに胸の前で両手を叩いた。
「これはどうしたのだ?」
食事はりよが作る。新九郎は驚いてりよに訊くと、
「今日、藤之津から来たと言う行商の方が町におりまして、ちょうどいわしの干物がとても安かったのです。藤之津と聞いて、思わず懐かしくて買ってしまいました」
「ほう、藤之津」
「あと、青物町で納豆も安かったので。旦那さまは納豆汁がお好みですから。いけなかったでしょうか、申し訳ございません」
りよは手をついて頭を下げた。
新九郎は慌てて、
「いや、安かったのならば良い。今月の銭が足りるならば構わぬ」
「ええ。それはちゃんと計算しております」
「ならば良い。納豆汁は久しぶりだ。いただこう」
新九郎は喜んで膝を進め、箸を手に取った。
久しぶりの納豆汁。納豆は臭みが気にならず、むしろ香ばしい。更に汁に深みとコクを添え、これがまた飯に合ってたまらない。
新九郎は「うん、うん」と、いかにも美味しそうに食べた。
そんな新九郎の様子を、りよは上がり気味の目尻を下げて、嬉しそうに見つめていた。
新九郎は、寝る前に半刻ほど書見や書写をするのが習慣である。
藩祖城戸頼龍は武芸にも秀でていたが、晩年は学問に傾倒して国内外の様々な書籍を収集していた。それ以来、藩では藩士たちに武芸はもちろんのこと、学問も奨励しており、城の広い書庫に収められている万巻の書物は、藩士であれば誰でも自由に借りることができた。
先日、新九郎は城の書庫より貞観政要と斉民要術の漢籍二冊を借りて来ており、今晩は貞観政要を読んだ後、斉民要術の書写をしていた。
斉民要術は唐土の最も古い部類に入る農学書であるが、農業の基本的な事柄が詰まっており、郡方に勤める身としては必読の書であった。新九郎は、郡方に配属された当初に一度読んだきりであったので、今回全てを書写するつもりで借りて来たのだ。
しかし、書写を始めてしばらくすると睡魔が襲って来て、新九郎は頭が垂れると同時に筆を滑らせてしまった。はっとして頭を上げたが、紙の上には不自然な線が走ってしまっていた。おまけに左手は墨で汚れてしまった。
――まあ、この部分を避けて書けばいいか。
新九郎は一人苦笑いをしたが、左手についた墨はどうしようもない。
――手を洗って寝るか。
立ち上がり、自室を出た。
手を洗い、ある程度墨を落として戻って来る時、ふとした人の気配を感じ、新九郎は静かに庭に面した廊下へ行った。
すると、りよが縁側の簀子の上に座って、闇の中に沈む庭を見つめていた。今晩は月が良く輝いており、白い光を庭に落としている。
「おりよ、どうした?」
新九郎がそっと声をかけると、りよは、はっとして振り返り、
「あ、申し訳ございませぬ」
と、立ち上がろうとしたが、新九郎はそれを制した。
「いや、構わぬ。休んでいたのだろう」
「はい……ありがとうございます」
りよは新九郎を見上げながら、再び腰を下ろした。
だが、その目が潤んでおり、頬には涙の筋があった。
新九郎はそれを見て一瞬狼狽えたが、ゆっくり歩み寄って訊いた。
「こんな時刻に、どうしたのだ?」
りよは潤んだ目のまま新九郎に微笑みかけると、
「桜が、咲き始めましたので」
と、再び庭に目をやった。
新九郎も庭の隅に立っている桜の木を見た。
夜闇の中に、枝の節々に開いた桜の花々が、降り注ぐ月光を照り返して淡白く光っていた。
「美しいな」
新九郎も立ったまま思わず微笑し、夜桜を眺めた。
だが、「ええ」と頷いたりよが、袖で目じりを拭ったのを見て、
「……おりよ……泣いているのか」
と、そっと言った。
「申し訳ございませぬ」
りよは目から袖を離した。
「何を謝ることがある。泣くのは自由だ」
「自由? 泣くのが自由とは、また面白うございますね」
りよは指で目じりを拭きながら笑った。
「そうかな」
新九郎は答えたが、確かにおかしな言い方だと思い、自分でもふふっと笑った。
りよは再び桜を眺めると、一呼吸置いてから言った。
「藤之津の実家が無くなってからは、もう二度とあの頃のように桜を楽しめることはないと思うておりました。ですが、今はこうしてまた桜を見られます。しかも、お優しい旦那さまがおられるこのような温かいお屋敷で。私は幸せでございます」
りよは、再び新九郎を見て微笑んだ。
その百合のような白い笑顔は美しく、新九郎は胸をつかれた。りよを抱きしめたい衝動にかられた。
だが、先日より生じていたりよに対する疑惑が、
――その話は本当なのか……。
と、新九郎の手足を縛った。
――そもそも、本当に藤之津の生まれなのか?
一旦生じた疑念は、押さえ込もうとしても日々じわじわと膨らんでいた。
しかし、庭を眺めるりよの横顔からは、一片の邪心も感じられない。
むしろ、枯れ野にたった一輪だけで風に吹かれる白百合の如き寂しさがのぞいた。
新九郎は、庭の夜闇に浮かぶ桜を眺めてから、深呼吸をして、
「少し待っていてくれ」
「え?」
不思議そうに見上げたりよを残し、新九郎は自室へ行き、昼間に買い求めた加賀の漆塗りの櫛を懐に入れて戻って来た。
新九郎は緊張しながらりよの隣に座った。
肩が触れ合い、りよはびっくりしたが、動かなかった。不思議そうに新九郎の横顔を見た。
新九郎はりよの隣に座ったものの、そこから言葉が出て来なかった。だが、庭の隅の桜が夜風に揺らめく様を見ると、そのまま、櫛を取り出してりよの前に差し出した。
「まあ、綺麗……」
りよは、ぱっと顔を輝かせたが、すぐに怪訝そうに、
「これはいかがされたのですか?」
「ああ……その……もらってくれ」
新九郎は顔を赤くした。
「このような高そうなもの、いただけませぬ」
りよは驚いて押し返そうとしたが、新九郎は更にそれを押し返した。
「受け取ってくれ。大した銭も出せぬのに、日ごろよくやってくれている礼だ」
「そんな……私は拾っていただいた身ですので当然でございます」
「いいのだ」
新九郎は大声を出した。りよはびくっとして身体を震わせた。
「ああ、すまん」
新九郎は狼狽えてから、りよを横目で見て、
「とにかく……何も気にせず受け取ってくれ。女中とは言え、櫛ぐらいは良い物を使ってもいいだろう」
「ですがやっぱり……奈美さまもいらっしゃいますし、まずは奈美さまに差し上げるべきでは?」
りよは、まだ受け取るのをためらった。
「奈美には、先月に帯を買ってやった。いいのだ、もう何も言わずに受け取ってくれ。それ以上言われるとどうしていいかわからぬ」
新九郎は、下を向いて頭をかいた。
りよは、そんな新九郎を見てくすっと笑った。
「……では、頂戴いたします」
りよは、櫛を左手の平に乗せ、大切そうに右手で撫でた。
「旦那様、ありがとうございます」
りよは、新九郎を見てにっこりと微笑んだ。
「気に入ってくれればよいが」
「もちろん、気に入りました。私は幸せです、うれしゅうございます。この櫛、いつまでも大切にいたします」
りよは、再び目を潤ませながら微笑した。
目元はきついが、何とも言えぬ可憐な笑顔。
新九郎はそれを見ると、心に幾重にも絡まっていた鎖が一気に吹き飛んだ気がした。
「あっ、だ、旦那さま……」
りよが艶めかしい声を上げた時、新九郎は思わず左手でりよを抱き寄せていた。
見舞いに来たと言って落雁の包みを渡すと、徳之助は喜んで頭を下げ、
「お気遣いくださりありがとうございます。ちょうど兄上は起きておられます」
と、二人を屋敷の中へと迎え入れた。
辰之助は、庭に面した廊下の縁側に座り、日に当たっていた。
徳之助に導かれてやって来た二人を見ると、驚いた顔をした。
「おいおい、どうしたお前たち」
「兄上、わざわざ見舞いに来てくださったのですぞ。お土産までいただきました」
徳之助がたしなめるように言うと、預かった落雁の包みを見せた。
徳之助はまだ十六歳。体格はすでに兄の辰之助と同様に大きくなって来ているが、粗野で乱暴なところのある辰之助と違って、穏やかで礼儀正しい少年であった。
「そうか、それはすまんな」
辰之助は流石に非礼だと思ったのか、気まずそうに詫びた後、
「奥へ行くか」
と、立ち上がろうとしたが、一馬がそれを制した。
「いや、この庭の眺めは良いし、日の光が暖かくて気持ちが良い。ここで語らうのも良いんじゃないか?」
「そうだな。桜も咲きかけていることだし」
新九郎も同意して、庭の池の向こうに生えている桜の樹を見上げた。
三木家の庭にも、黒須家と同様に立派な桜の樹があった。すでに蕾が開き始めており、枝のところどころが華やかな花に彩られて、池の水面に淡紅の煌めきを落としていた。
「折角なので落雁をいただきましょう。茶も用意させます」
徳之助は奥へ向かった。
やがて、下女が盆に茶と落雁を乗せて持って来た。
「おう、流石は加賀の菓子だ。これは美味い」
一口かじると、辰之助は笑みをこぼした。
それを見て、一馬と新九郎は顔を見合わせてにやりとした。
「何だよ」
辰之助が訝しむと、
「相変わらず顔に似合わず甘い物が好きなんだな」
一馬が笑った。
辰之助は頬を赤くしながら目を泳がせた。
「ほっとけ。人の好みなんざどうだっていいだろうが」
「で、具合はどうだ?」
新九郎が訊くと、辰之助はそっぽを向いた。
「お前に心配される筋合いはない。大したことはねえよ」
すると、今井一馬が怒り気味に注意した。
「おい、辰之助。新九郎だって心配して折角来てくれたんだ。そんなこと言うな。落雁だって新九郎が選んだんだぞ」
「む……まあ、そうか……すまなかった、とりあえず礼は言う」
辰之助は庭に目を向けたままぶっきらぼうに言ったが、そこで急にごほごほと咳き込んだ。
「まだ咳が出るのか」
新九郎と一馬は、辰之助の顔をよく見た。少し、頬がこけて顔色も青いように見える。
「うむ。医者が言うには、風邪を引いていたところに無茶をしたのでこじらせたんだろう、とのことだ」
辰之助はもう一度咳をすると、茶をすすった。
「そうか。まあ、無理はしないでゆっくり休め」
それから、三人は世間話から藩主の帰国のこと、最近の小田一派のことなどまで声を潜めて語らった後、
「さて、長居しては身体に悪い。そろそろ帰ろう」
と、一馬と新九郎が立ち上がった。
「ああ、わざわざ悪いな。ありがとうよ。玄関までだが見送る」
辰之助は立ち上がろうとしたが、
「無理するな。そのまま奥で寝ていろ」
と、新九郎が止めた。
「では、またな」
二人が縁側から廊下に出て玄関へ向かおうとすると、辰之助が「黒須」と、声をかけてきた。
新九郎が振り返ると、辰之助は庭に目を向けた横顔のまま言った。
「病が治ったら、久しぶりに道場で一手つきあってくれ。鈍った身体を戻さなきゃならん。もちろん今井もな」
新九郎は、辰之助がそのようなことを自分から言ってくるのに驚いたが、すぐににこりと笑みを見せた。
「ああ。いくらでもつきあってやる。だが、また寝込むことになっても文句は言うなよ」
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そして、新九郎と一馬は、また廊下を玄関へと向かい始めたのだが、縁側に残っていた辰之助が、少し離れたところに落ちていた物に目を留めて、再び二人を呼び止めた。
辰之助は立ち上がってそれを拾うと、不思議そうに見つめた。それは、新九郎が先ほど菓子の「加賀屋」で落雁と一緒に買った漆塗りの櫛であった。
「なんだこれは? お前たちのか?」
辰之助が櫛を手に乗せて差し出すと、
「あっ、俺がさっき買ったものだ」
新九郎が気まずそうに受け取った。
「何でそんなものを……どこぞの女にでも贈るのか?」
辰之助はにやにやと笑った。
「違うわ。たまには……妹にこういう物を買ってやりたいと思ってな」
新九郎は顔を赤くしながら答えた。
「ふうん……ま、そういうことにしておくか。妹を大切にしてやれや」
辰之助はいつもの大きな笑い声を上げた。
その夜、黒須家の夕餉の食膳には、納豆汁といわしの干物、油揚げと豆の煮物が並んだ。
黒須家は武家と言っても小藩の中級家格である上、家禄を減らされているので、普段の食事は至って質素である。
夕食は基本的に、朝に炊いておいた飯をお茶漬けにした他に、大根や青菜の漬物、豆腐やわかめなど具一つのみの味噌汁だけであり、時々それに魚の干物や油揚げと貝のむき身の煮物などがつく程度である。
だが、今日は味噌汁も大根の葉を刻んでいれた納豆汁で、更にいわしの干物と煮物がついている。特に、納豆汁は新九郎の好物でもある。
普段から言えば豪華な献立であった。
「わあ、納豆汁ね」
奈美も納豆汁が好きである。嬉しそうに胸の前で両手を叩いた。
「これはどうしたのだ?」
食事はりよが作る。新九郎は驚いてりよに訊くと、
「今日、藤之津から来たと言う行商の方が町におりまして、ちょうどいわしの干物がとても安かったのです。藤之津と聞いて、思わず懐かしくて買ってしまいました」
「ほう、藤之津」
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りよは手をついて頭を下げた。
新九郎は慌てて、
「いや、安かったのならば良い。今月の銭が足りるならば構わぬ」
「ええ。それはちゃんと計算しております」
「ならば良い。納豆汁は久しぶりだ。いただこう」
新九郎は喜んで膝を進め、箸を手に取った。
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そんな新九郎の様子を、りよは上がり気味の目尻を下げて、嬉しそうに見つめていた。
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先日、新九郎は城の書庫より貞観政要と斉民要術の漢籍二冊を借りて来ており、今晩は貞観政要を読んだ後、斉民要術の書写をしていた。
斉民要術は唐土の最も古い部類に入る農学書であるが、農業の基本的な事柄が詰まっており、郡方に勤める身としては必読の書であった。新九郎は、郡方に配属された当初に一度読んだきりであったので、今回全てを書写するつもりで借りて来たのだ。
しかし、書写を始めてしばらくすると睡魔が襲って来て、新九郎は頭が垂れると同時に筆を滑らせてしまった。はっとして頭を上げたが、紙の上には不自然な線が走ってしまっていた。おまけに左手は墨で汚れてしまった。
――まあ、この部分を避けて書けばいいか。
新九郎は一人苦笑いをしたが、左手についた墨はどうしようもない。
――手を洗って寝るか。
立ち上がり、自室を出た。
手を洗い、ある程度墨を落として戻って来る時、ふとした人の気配を感じ、新九郎は静かに庭に面した廊下へ行った。
すると、りよが縁側の簀子の上に座って、闇の中に沈む庭を見つめていた。今晩は月が良く輝いており、白い光を庭に落としている。
「おりよ、どうした?」
新九郎がそっと声をかけると、りよは、はっとして振り返り、
「あ、申し訳ございませぬ」
と、立ち上がろうとしたが、新九郎はそれを制した。
「いや、構わぬ。休んでいたのだろう」
「はい……ありがとうございます」
りよは新九郎を見上げながら、再び腰を下ろした。
だが、その目が潤んでおり、頬には涙の筋があった。
新九郎はそれを見て一瞬狼狽えたが、ゆっくり歩み寄って訊いた。
「こんな時刻に、どうしたのだ?」
りよは潤んだ目のまま新九郎に微笑みかけると、
「桜が、咲き始めましたので」
と、再び庭に目をやった。
新九郎も庭の隅に立っている桜の木を見た。
夜闇の中に、枝の節々に開いた桜の花々が、降り注ぐ月光を照り返して淡白く光っていた。
「美しいな」
新九郎も立ったまま思わず微笑し、夜桜を眺めた。
だが、「ええ」と頷いたりよが、袖で目じりを拭ったのを見て、
「……おりよ……泣いているのか」
と、そっと言った。
「申し訳ございませぬ」
りよは目から袖を離した。
「何を謝ることがある。泣くのは自由だ」
「自由? 泣くのが自由とは、また面白うございますね」
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「そうかな」
新九郎は答えたが、確かにおかしな言い方だと思い、自分でもふふっと笑った。
りよは再び桜を眺めると、一呼吸置いてから言った。
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りよは、再び新九郎を見て微笑んだ。
その百合のような白い笑顔は美しく、新九郎は胸をつかれた。りよを抱きしめたい衝動にかられた。
だが、先日より生じていたりよに対する疑惑が、
――その話は本当なのか……。
と、新九郎の手足を縛った。
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しかし、庭を眺めるりよの横顔からは、一片の邪心も感じられない。
むしろ、枯れ野にたった一輪だけで風に吹かれる白百合の如き寂しさがのぞいた。
新九郎は、庭の夜闇に浮かぶ桜を眺めてから、深呼吸をして、
「少し待っていてくれ」
「え?」
不思議そうに見上げたりよを残し、新九郎は自室へ行き、昼間に買い求めた加賀の漆塗りの櫛を懐に入れて戻って来た。
新九郎は緊張しながらりよの隣に座った。
肩が触れ合い、りよはびっくりしたが、動かなかった。不思議そうに新九郎の横顔を見た。
新九郎はりよの隣に座ったものの、そこから言葉が出て来なかった。だが、庭の隅の桜が夜風に揺らめく様を見ると、そのまま、櫛を取り出してりよの前に差し出した。
「まあ、綺麗……」
りよは、ぱっと顔を輝かせたが、すぐに怪訝そうに、
「これはいかがされたのですか?」
「ああ……その……もらってくれ」
新九郎は顔を赤くした。
「このような高そうなもの、いただけませぬ」
りよは驚いて押し返そうとしたが、新九郎は更にそれを押し返した。
「受け取ってくれ。大した銭も出せぬのに、日ごろよくやってくれている礼だ」
「そんな……私は拾っていただいた身ですので当然でございます」
「いいのだ」
新九郎は大声を出した。りよはびくっとして身体を震わせた。
「ああ、すまん」
新九郎は狼狽えてから、りよを横目で見て、
「とにかく……何も気にせず受け取ってくれ。女中とは言え、櫛ぐらいは良い物を使ってもいいだろう」
「ですがやっぱり……奈美さまもいらっしゃいますし、まずは奈美さまに差し上げるべきでは?」
りよは、まだ受け取るのをためらった。
「奈美には、先月に帯を買ってやった。いいのだ、もう何も言わずに受け取ってくれ。それ以上言われるとどうしていいかわからぬ」
新九郎は、下を向いて頭をかいた。
りよは、そんな新九郎を見てくすっと笑った。
「……では、頂戴いたします」
りよは、櫛を左手の平に乗せ、大切そうに右手で撫でた。
「旦那様、ありがとうございます」
りよは、新九郎を見てにっこりと微笑んだ。
「気に入ってくれればよいが」
「もちろん、気に入りました。私は幸せです、うれしゅうございます。この櫛、いつまでも大切にいたします」
りよは、再び目を潤ませながら微笑した。
目元はきついが、何とも言えぬ可憐な笑顔。
新九郎はそれを見ると、心に幾重にも絡まっていた鎖が一気に吹き飛んだ気がした。
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大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
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永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
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