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三木辰之助の心
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黒須新九郎は中級の武士である為、当然その広間にはいなかった。
それどころか、藩主御目見の資格すらない。それは、三木辰之助、今井一馬らも同様であった。
下城の太鼓が鳴り響くと、帰ろうとする藩士たちは執務部屋や廊下のあちこちで、藩主政龍の帰国についてひそひそ話した。
城戸政龍は、藩主になってまだ一年と少しである。先代藩主が病死して後継した直後は藩に帰って来たが、滞在わずか一ヶ月ほどですぐに江戸に参勤していた。
それまでも世子であったが故にずっと江戸藩邸で生活して来ており、重臣と江戸詰めの経験がある藩士以外はほとんど政龍を見たことがなかった。
それ故に、年少の藩主は藩士たちの興味の的であり、密かにあれこれと噂話をしていた。
新九郎は、そんなひそひそ話を聞き流しながら廊下を抜け、城を出た。
すると、ちょうどばったりと今井一馬に出くわしたので、共に途中まで帰ることとした。
「何かが動くかもな」
一馬が囁くように言うと、新九郎も同意した。
「ああ。ご家老の話が本当ならば、敵はすぐに動く可能性もあるぞ」
新九郎は声を潜めた。
「本当も何も、あの話は確実だろう。全て、流斎さまが仕組んだと考えればこれまでの全ての道理が繋がるわ」
「まあな。だが、問題はその時期だ」
「うむ」
「そう言えば、今日は三木が登城していなかったようだな」
「ああ、あいつ、病で寝込んでいるらしい」
「病? まさか、まだ風邪が治ってないのか?」
「そうらしいぜ」
一馬が頷くと、新九郎は腕を組んで空を見上げた。
「あいつ、本当は風邪じゃなくて別の病じゃないのか?」
「可能性はあるな。でも、あの大きな身体でなあ」
一馬はふふっと笑った。
「病に身体の大小は関係ないぞ」
新九郎が真面目な顔で言うと、
「そうだな。何事もなければ良いが。どうだ、明日もまだ臥せっているようなら見舞いに行ってみないか」
「俺が行っても喜ばないだろう。お前が一人で行ってくれよ」
新九郎が苦笑すると、今度は一馬が真面目な顔で新九郎を見つめて、
「なあ、お前たち二人は何でそんなに仲が悪いんだ? 子供の頃からの道場仲間だろうに」
「知るか。俺は特に何もないが、あいつが俺を嫌っているんだ」
新九郎が横を向いて言うと、
「ふうむ……」
一馬は、考え込む素振りを見せた後、
「あれかなあ」
と、呟いた。
「あれ?」
新九郎は一馬の横顔を見た。
「いや、言っていいのかな、これは」
一馬が躊躇うと、
「そこまで言っておいてなんだよ」
「む、そうだな」
一馬は笑うと、
「以前、鈴鳴り町で共に飲んだ時にな。辰之助がぽつりと漏らしたことがあった」
「小便か?」
新九郎が冗談を言うと、一馬はぷっと噴き出して新九郎を小突き、
「違うわ。真面目に聞け」
と言ってから、
「辰之助が言っていたんだ。道場での試合では俺が大体黒須に勝っている。だが、真剣での勝負になれば、俺は絶対に黒須に勝てないだろう、とな」
「何?」
新九郎は驚いた。
確かに、戸沢道場で二人は席次上位を争っていたが、試合では辰之助が勝つことが多かった。
一馬は、続けてその時の辰之助の言葉を思い出して言った。
――俺の剣は体格を活かした上に修練の賜物だ。だが、黒須は違うんだ。時折、太刀筋の一つ一つに、名刀の輝きのような閃きを見せることがある。奴は天才かも知れん。もし真剣勝負をしたら、俺はきっと負けるだろう。
続けて、辰之助は酒を一気に飲み干して、やるせなさそうに苦笑した。
――その上、あいつは顔も良い上に性格も良い奴だ。俺は子供の頃から奴に嫉妬しているのかも知れん。
「ふうむ」
新九郎は困ったような顔で腕を組んだ。
褒められるのはもちろん悪い気はしない。むしろ、三木辰之助がそこまで自分の剣を評価し、自分を嫌っている理由がそのようなことなのがあまりに意外であった。
だが、新九郎自身で正直に思うが、自分はそこまでの剣才は無いと思っている。戸沢道場で席次上位を争っていただけに自信はあるが、先輩南条宗之進には遠く及ばず、三木辰之助に天才やら真剣勝負ではかなわないとやらまで言わせるほどではないと思う。
「そのうち、二人で酒でも飲んだらどうだ」
一馬が冗談めかしながら言った。
「あいつと俺が? 勘弁してくれよ」
新九郎はげんなりしながら言い、二人は笑い合った。
だが、翌日になってもやはり三木辰之助は登城しなかった。
新九郎と一馬はやはり心配になり、共に三木の家まで見舞いに行くこととした。
「一応、何か手土産を買って行こう」
新九郎が提案すると、一馬も同意して、二人は若草町へ向かった。
若草町は、広い通りの左右に商家が立ち並んでおり、小間物屋や反物屋はもちろん、手遊屋から拵屋まで様々な店があり、また白玉や水菓子などを売る棒手振りも歩いている、城下一の賑わいを見せる町であった。
二人は「何がいいんだろうな」などと話しながら店先を覗き歩いていたが、菓子屋の前で同時に立ち止まった。
「やっぱり甘い物かな」
二人は顔を見合わせて笑った。
三木辰之助は、立派な体格と武骨な顔に似合わず、密かに甘味を好んでいた。
先日も、新九郎は分水の茶屋の軒先で団子を頬張る辰之助を見ている。
二人は店に入り、狸のような丸い顔をした店主に何かいい物はないかと訊くと、
「加賀でこっそり修行して帰って来た者が作った落雁があります」
と、薄紫の和紙包みを出して来た。
加賀藩の落雁は有名で、天下に名高い。
少々値が張ったが、二人は金を出し合ってそれを購入した。
「じゃあ、急ぐか」
と、二人は落雁を抱えて店を出ようとしたが、新九郎が軒先で足を止めた。
「どうした?」
一馬が振り返ると、
「いや……」
新九郎は、店の陳列棚の隅をじっと見つめていた。
焼菓子や団子などが並ぶ棚の隅に、漆塗りの茶碗や皿と共に、かんざしや櫛などの髪飾りも無造作に並べられていた。
新九郎は、その中のかんざしに目を留めていた。
それは、銀造りの玉かんざしであった。鍍金したものではなく、良く磨かれていて美しい銀光に煌めいている上、玉の部分には蝶と鳥を彫って浮かび上がらせており、更に螺鈿で装飾していると言う凝った造りであった。
「ご主人、何故菓子屋にこのようなものが?」
新九郎は、狸顔の親父に訊いた。
「これもその、先ほど言った加賀で修行して来た菓子職人が加賀から持ち帰って来たものでしてね。菓子屋としてはおかしいですが、珍しい物なので置いているのですよ、はい。そもそも、私の親父が元々加賀の生まれでして、その伝手で……」
などと、狸顔の親父は手揉みしながら長々と話し始めた。どうやら話好きのようだ。
新九郎は二歩、三歩と後ろに下がり、軒先に掲げられている看板を見た。「加賀屋」と書いてあった。
百万石と最大の石高を誇る加賀藩は、菓子の他に漆器や蒔絵などの美術品も有名である。
「見事な装飾だ。我が藩ではなかなか手に入らないだろうな」
新九郎は感じ入ったようにため息をついた。
「ええ。そうでございます」
「いくらかな?」
「一千文でございます」
「い、一千文だと?」
新九郎は驚いて言葉に詰まった。隣の一馬も目を丸くした。
「少し高すぎるのではないか?」
新九郎が訝しむように言うと、親父は眉を八の字にして、
「いえいえ。江戸と京で修行した加賀の錺職人が銀で作ったものでございますよ。しかもこの複雑な造りと美しさ。これを作れる者は、うちの藩にはいないでしょう。一千文ならむしろ安い方かと思います」
「ううむ、そうか……素晴らしい品物だと思うが、少し高い。それに……」
新九郎は、眉を寄せて考えた後、
「かんざしは意味深すぎるな……」
と、小声で呟いた。聞き取れなかった一馬が新九郎を見た。
「あ? 何だ?」
「いや、何でもない。ああ、ええと……では親父、この櫛はいくらだ?」
新九郎は、かんざしの隣にあった櫛を手に取った。
先ほどのかんざしに比べると華やかさはない。だが、これもまた黒の漆塗りで、螺鈿や金粉で装飾した上に、蒔絵で桜を描いており、楚々とした美しさがある。
「五百文でございます」
「五百文……これはまた高いな」
「いえいえ。ご覧くださいませ、この見事な装飾を。漆も、加賀の山中と言う地の上質な漆を使っております。五百文なら安いものですよ」
「まあな……だが、やはり高いわ。残念だが仕方ない」
新九郎は、未練ありげに櫛を見つめながら店を離れようとした。そこへ、店主が追うように声をかけた。
「お待ちくださいませ。お武家様」
「うん?」
新九郎が足を止めて振り返ると、
「失礼ですが、この櫛の価値がおわかりでございますか?」
「まあ、当然女物には疎いが、良い物だとは思う」
「……そうでございますか。でしたら、三百文でお譲りしてもようございますよ」
親父は手揉みをした。
「何? 誠か?」
「ええ。良い品物は、価値のおわかりになる方に買っていただくのが一番でございます」
「しかし、三百文なんてほとんど半分の値段ではないか」
「構いませぬ。その代わり、今後あたくしのお店をご贔屓にしてくださいませ」
親父は、冗談めかしながら笑った。
「そうか、では買おう」
新九郎が喜んで答えると、横から一馬がびっくりして口を出した。
「おい、何でそんなものを買うんだ?」
「まあ……その、なんだ……妹にでも買ってやろうかと思ってな。普段寂しい思いをさせているからな」
新九郎は頭をかいた後に銭を出し、親父に渡してから櫛を受け取った。
店を出た後、新九郎は一馬に小声で囁いた。
「あれはきっと元々三百文だ」
「何?」
「確かに物は良いが、三百文でも高い方だ。だけど五百文と言った後に三百文にすると言ったら、かなり得だと思わされるだろう? 金が無い者でもつい買ってしまうかも知れん。そうやって三百文で売れれば良し、五百文で売れたなら尚良しの儲け物。商人とはそういうものだ」
「なるほど」
「俺もそれがわかってたから、わざと未練ありそうに渋って見せたんだ」
「ほう……お前、なんか変わったな」
一馬は、感心したように新九郎の顔を見た。
「そんなことはない。さあ、急ごう」
それどころか、藩主御目見の資格すらない。それは、三木辰之助、今井一馬らも同様であった。
下城の太鼓が鳴り響くと、帰ろうとする藩士たちは執務部屋や廊下のあちこちで、藩主政龍の帰国についてひそひそ話した。
城戸政龍は、藩主になってまだ一年と少しである。先代藩主が病死して後継した直後は藩に帰って来たが、滞在わずか一ヶ月ほどですぐに江戸に参勤していた。
それまでも世子であったが故にずっと江戸藩邸で生活して来ており、重臣と江戸詰めの経験がある藩士以外はほとんど政龍を見たことがなかった。
それ故に、年少の藩主は藩士たちの興味の的であり、密かにあれこれと噂話をしていた。
新九郎は、そんなひそひそ話を聞き流しながら廊下を抜け、城を出た。
すると、ちょうどばったりと今井一馬に出くわしたので、共に途中まで帰ることとした。
「何かが動くかもな」
一馬が囁くように言うと、新九郎も同意した。
「ああ。ご家老の話が本当ならば、敵はすぐに動く可能性もあるぞ」
新九郎は声を潜めた。
「本当も何も、あの話は確実だろう。全て、流斎さまが仕組んだと考えればこれまでの全ての道理が繋がるわ」
「まあな。だが、問題はその時期だ」
「うむ」
「そう言えば、今日は三木が登城していなかったようだな」
「ああ、あいつ、病で寝込んでいるらしい」
「病? まさか、まだ風邪が治ってないのか?」
「そうらしいぜ」
一馬が頷くと、新九郎は腕を組んで空を見上げた。
「あいつ、本当は風邪じゃなくて別の病じゃないのか?」
「可能性はあるな。でも、あの大きな身体でなあ」
一馬はふふっと笑った。
「病に身体の大小は関係ないぞ」
新九郎が真面目な顔で言うと、
「そうだな。何事もなければ良いが。どうだ、明日もまだ臥せっているようなら見舞いに行ってみないか」
「俺が行っても喜ばないだろう。お前が一人で行ってくれよ」
新九郎が苦笑すると、今度は一馬が真面目な顔で新九郎を見つめて、
「なあ、お前たち二人は何でそんなに仲が悪いんだ? 子供の頃からの道場仲間だろうに」
「知るか。俺は特に何もないが、あいつが俺を嫌っているんだ」
新九郎が横を向いて言うと、
「ふうむ……」
一馬は、考え込む素振りを見せた後、
「あれかなあ」
と、呟いた。
「あれ?」
新九郎は一馬の横顔を見た。
「いや、言っていいのかな、これは」
一馬が躊躇うと、
「そこまで言っておいてなんだよ」
「む、そうだな」
一馬は笑うと、
「以前、鈴鳴り町で共に飲んだ時にな。辰之助がぽつりと漏らしたことがあった」
「小便か?」
新九郎が冗談を言うと、一馬はぷっと噴き出して新九郎を小突き、
「違うわ。真面目に聞け」
と言ってから、
「辰之助が言っていたんだ。道場での試合では俺が大体黒須に勝っている。だが、真剣での勝負になれば、俺は絶対に黒須に勝てないだろう、とな」
「何?」
新九郎は驚いた。
確かに、戸沢道場で二人は席次上位を争っていたが、試合では辰之助が勝つことが多かった。
一馬は、続けてその時の辰之助の言葉を思い出して言った。
――俺の剣は体格を活かした上に修練の賜物だ。だが、黒須は違うんだ。時折、太刀筋の一つ一つに、名刀の輝きのような閃きを見せることがある。奴は天才かも知れん。もし真剣勝負をしたら、俺はきっと負けるだろう。
続けて、辰之助は酒を一気に飲み干して、やるせなさそうに苦笑した。
――その上、あいつは顔も良い上に性格も良い奴だ。俺は子供の頃から奴に嫉妬しているのかも知れん。
「ふうむ」
新九郎は困ったような顔で腕を組んだ。
褒められるのはもちろん悪い気はしない。むしろ、三木辰之助がそこまで自分の剣を評価し、自分を嫌っている理由がそのようなことなのがあまりに意外であった。
だが、新九郎自身で正直に思うが、自分はそこまでの剣才は無いと思っている。戸沢道場で席次上位を争っていただけに自信はあるが、先輩南条宗之進には遠く及ばず、三木辰之助に天才やら真剣勝負ではかなわないとやらまで言わせるほどではないと思う。
「そのうち、二人で酒でも飲んだらどうだ」
一馬が冗談めかしながら言った。
「あいつと俺が? 勘弁してくれよ」
新九郎はげんなりしながら言い、二人は笑い合った。
だが、翌日になってもやはり三木辰之助は登城しなかった。
新九郎と一馬はやはり心配になり、共に三木の家まで見舞いに行くこととした。
「一応、何か手土産を買って行こう」
新九郎が提案すると、一馬も同意して、二人は若草町へ向かった。
若草町は、広い通りの左右に商家が立ち並んでおり、小間物屋や反物屋はもちろん、手遊屋から拵屋まで様々な店があり、また白玉や水菓子などを売る棒手振りも歩いている、城下一の賑わいを見せる町であった。
二人は「何がいいんだろうな」などと話しながら店先を覗き歩いていたが、菓子屋の前で同時に立ち止まった。
「やっぱり甘い物かな」
二人は顔を見合わせて笑った。
三木辰之助は、立派な体格と武骨な顔に似合わず、密かに甘味を好んでいた。
先日も、新九郎は分水の茶屋の軒先で団子を頬張る辰之助を見ている。
二人は店に入り、狸のような丸い顔をした店主に何かいい物はないかと訊くと、
「加賀でこっそり修行して帰って来た者が作った落雁があります」
と、薄紫の和紙包みを出して来た。
加賀藩の落雁は有名で、天下に名高い。
少々値が張ったが、二人は金を出し合ってそれを購入した。
「じゃあ、急ぐか」
と、二人は落雁を抱えて店を出ようとしたが、新九郎が軒先で足を止めた。
「どうした?」
一馬が振り返ると、
「いや……」
新九郎は、店の陳列棚の隅をじっと見つめていた。
焼菓子や団子などが並ぶ棚の隅に、漆塗りの茶碗や皿と共に、かんざしや櫛などの髪飾りも無造作に並べられていた。
新九郎は、その中のかんざしに目を留めていた。
それは、銀造りの玉かんざしであった。鍍金したものではなく、良く磨かれていて美しい銀光に煌めいている上、玉の部分には蝶と鳥を彫って浮かび上がらせており、更に螺鈿で装飾していると言う凝った造りであった。
「ご主人、何故菓子屋にこのようなものが?」
新九郎は、狸顔の親父に訊いた。
「これもその、先ほど言った加賀で修行して来た菓子職人が加賀から持ち帰って来たものでしてね。菓子屋としてはおかしいですが、珍しい物なので置いているのですよ、はい。そもそも、私の親父が元々加賀の生まれでして、その伝手で……」
などと、狸顔の親父は手揉みしながら長々と話し始めた。どうやら話好きのようだ。
新九郎は二歩、三歩と後ろに下がり、軒先に掲げられている看板を見た。「加賀屋」と書いてあった。
百万石と最大の石高を誇る加賀藩は、菓子の他に漆器や蒔絵などの美術品も有名である。
「見事な装飾だ。我が藩ではなかなか手に入らないだろうな」
新九郎は感じ入ったようにため息をついた。
「ええ。そうでございます」
「いくらかな?」
「一千文でございます」
「い、一千文だと?」
新九郎は驚いて言葉に詰まった。隣の一馬も目を丸くした。
「少し高すぎるのではないか?」
新九郎が訝しむように言うと、親父は眉を八の字にして、
「いえいえ。江戸と京で修行した加賀の錺職人が銀で作ったものでございますよ。しかもこの複雑な造りと美しさ。これを作れる者は、うちの藩にはいないでしょう。一千文ならむしろ安い方かと思います」
「ううむ、そうか……素晴らしい品物だと思うが、少し高い。それに……」
新九郎は、眉を寄せて考えた後、
「かんざしは意味深すぎるな……」
と、小声で呟いた。聞き取れなかった一馬が新九郎を見た。
「あ? 何だ?」
「いや、何でもない。ああ、ええと……では親父、この櫛はいくらだ?」
新九郎は、かんざしの隣にあった櫛を手に取った。
先ほどのかんざしに比べると華やかさはない。だが、これもまた黒の漆塗りで、螺鈿や金粉で装飾した上に、蒔絵で桜を描いており、楚々とした美しさがある。
「五百文でございます」
「五百文……これはまた高いな」
「いえいえ。ご覧くださいませ、この見事な装飾を。漆も、加賀の山中と言う地の上質な漆を使っております。五百文なら安いものですよ」
「まあな……だが、やはり高いわ。残念だが仕方ない」
新九郎は、未練ありげに櫛を見つめながら店を離れようとした。そこへ、店主が追うように声をかけた。
「お待ちくださいませ。お武家様」
「うん?」
新九郎が足を止めて振り返ると、
「失礼ですが、この櫛の価値がおわかりでございますか?」
「まあ、当然女物には疎いが、良い物だとは思う」
「……そうでございますか。でしたら、三百文でお譲りしてもようございますよ」
親父は手揉みをした。
「何? 誠か?」
「ええ。良い品物は、価値のおわかりになる方に買っていただくのが一番でございます」
「しかし、三百文なんてほとんど半分の値段ではないか」
「構いませぬ。その代わり、今後あたくしのお店をご贔屓にしてくださいませ」
親父は、冗談めかしながら笑った。
「そうか、では買おう」
新九郎が喜んで答えると、横から一馬がびっくりして口を出した。
「おい、何でそんなものを買うんだ?」
「まあ……その、なんだ……妹にでも買ってやろうかと思ってな。普段寂しい思いをさせているからな」
新九郎は頭をかいた後に銭を出し、親父に渡してから櫛を受け取った。
店を出た後、新九郎は一馬に小声で囁いた。
「あれはきっと元々三百文だ」
「何?」
「確かに物は良いが、三百文でも高い方だ。だけど五百文と言った後に三百文にすると言ったら、かなり得だと思わされるだろう? 金が無い者でもつい買ってしまうかも知れん。そうやって三百文で売れれば良し、五百文で売れたなら尚良しの儲け物。商人とはそういうものだ」
「なるほど」
「俺もそれがわかってたから、わざと未練ありそうに渋って見せたんだ」
「ほう……お前、なんか変わったな」
一馬は、感心したように新九郎の顔を見た。
「そんなことはない。さあ、急ごう」
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