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藩主帰国
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「実は、これがこの世にたった一つだけ残っておる三中散じゃ。笹川組最後の頭領が最後に調合した物の残りじゃ。他の誰も、他の永代家老三家の者すらも、ここに三中散がまだ残っていることを知らぬ。」
順三郎は言うと、木箱の蓋を閉じて、再び金庫にしまい入れた。
「何かの時の為に一応取っておいてあるが、ここにある限り奪われる心配もない」
「しかしご家老」
と、新九郎は口を開いた。
「笹川組最後の頭領はまだ生きておられるのですか?」
「うむ。歳は取り隠居はしておるが、元気そのものじゃ」
「三中散の製法を知っているのは唯一その最後の頭領。あの連中が、その隠居されている頭領を探し出し、捕まえて製法を吐かせたりすることがあるのでは?」
新九郎が懸念を口にすると、順三郎はカッカッと笑った。
「その心配は無用。あの最後の頭領の技は並外れておる。そう簡単に捕まる男ではないし、万が一捕らえられて三中散の製法を吐くように強要されても、即座にその場で自害するような男じゃ」
「そうですか」
新九郎は安心した。だが、まだ一抹の不安が残った。
最後の三中散がここにある。藩主の叔父、城戸流斎が率いるあの濃紺装束の連中が、それを知って奪いに来ないとも限らない。
すると、そんな新九郎の不安を察したのか、順三郎が言った。
「何も心配はいらん。我が大鳥家には、先ほど言った事情ゆえに、最後に笹川組にいた者たちが五人ほどいる。笹川組の中でも特に優れた術者たちじゃ。あの者らには流斎さまが使っている忍びの者らではかなわぬであろう。それ故、奴らが我が屋敷に侵入することはできぬし、三中散を奪うこともできぬ」
新九郎たちは驚いた。
確かに、大鳥家の家士たちの中には、不思議な佇まいを持つ者たちがいた。あの者たちが、大鳥家老の言うかつての笹川組の術者たちなのであろう。
また、納得もした。大鳥家老がよく自分も何々を調べてみた、と言うのは、彼らを使っているのだろう。
だが、「いかん」と、大鳥順三郎は、突然はっとして表情に影を浮かべた。
「一つ忘れておった......笹川組の者たちの消息は全て把握しているとは言ったが、一人だけわからぬ者がおったわ」
「一人だけ?」
「うむ。元太と言う名の、当時まだ十二かそこらの子供であった。まだ修行を始めたばかりであったので、正式に組の者だったわけではない。それゆえに、元太は、町民となって商売を始めると言った組の者に預けたのだが、商売は向いていなかったのか、ある日屋敷を飛び出してそのまま行方がわからなくなったらしい」
「それはもしや……」
「うむ。解散から二十年が経っておる。もしかすると、元太は屋敷を出奔した後にどこかで密かに技の修行を続け、そのうちに何かの縁で流斎さまに仕えるようになったのかも知れぬ」
「その後、流斎さまは元太を使って同じような術者を育て、自分の為だけに動くあの濃紺装束の組を作ったと……そういうことでしょうか?」
「その可能性は大いにある」
順三郎が顔を曇らせると、新九郎ら三人は顔を見合わせた。
「あの時いた、親玉らしい大男」
「ああ、あれが元太かも知れぬな」
新九郎と一馬が互いに言った。
「それらしき者がいたか」
順三郎が眼光を鋭くして二人を見た。
「ええ。他の仲間たちを指図していた頭領らしき男で、一人だけ際立って体格も良く、動きも並外れておりました」
辰之助が横から答えると、
「ふむ。元太は歳のわりには身体が大きかった覚えがある。そ奴が元太である可能性は高いな。うちの者どもに少し調べさせてみるか」
順三郎は、太い腕を組んで虚空の一点を睨んだ。
それから、解散となった。
大鳥邸を出て行く際、
「此度の褒美と言うのもおかしいが、持って行くがよい」
と、順三郎は三人に、するめの干物と、江戸藩邸から送られて来たと言う下りものの酒を持たせた。
新九郎ら三人は、その土産を持って、大鳥家の家士たちが遠くから見守る中、それぞれの家路へと着いた。
その二日後の午後、まだ十五歳の藩主、城戸備後守政龍が江戸の参勤を終え、長旅を経て帰国した。
備後守政龍は、まず本丸中奥の間に入って一刻ほど休息を取った後、広間に移った。
藩は六万石であるので、城も大きくはない。広間もどちらかと言えば狭い方である。
その狭い広間の下段の間には、すでに筆頭家老小田内膳、次席家老大鳥順三郎、斎藤内蔵助らを始めとした重臣一同がひしめき合って座り、政龍を待っていた。
黒須新九郎らは中級の武士であり、御目見の資格すらないので、当然この場にはいない。
藩主政龍は、今回江戸より共に戻って来た側用人の宇佐美三之丞と共に広間に入ると、平伏して頭を垂れる重臣らを見回した後、上段の間に上がって着座した。側用人の宇佐美三之丞は重臣の列に加わって座った。
政龍はまだ十五歳であり、顔立ちには当然まだ幼さが残っているが、やや切れ長の目には聡明な光を宿している。
だが、その白い顔には、憂鬱そうな影が差していた。
小田内膳が重臣一同を代表して挨拶を述べると、政龍もそれに対して決まりきった返答をし、大鳥順三郎や斎藤内蔵助らといくつか言葉を交わした後、
「近頃、領内に何か問題はないか? 城下に変わったことなどは?」
と、自ら尋ねた。
すると、大鳥順三郎が待っていたとばかりに口を開いた。
「近頃、城下では、まるで以前の笹川組のような連中が現れて騒がせております。何人かの藩士がすでに殺められました」
政龍は眉根を寄せて頷いた。
「それか。手紙で聞いておるが、誠のことなのか? 笹川組は解散してとうに二十年は経っておる」
「はい。やや笹川組とは違うようですが、間違いなく忍びの技を使う者たちです」
「ふむ。城下を騒がせ、我が家臣を斬り、民を脅かすなど言語道断。これは見過ごせぬ。石川、どうなっておるのだ」
政龍は、静かな口調で大目付の石川佐内を見た。
声にもまだ子供っぽさが残っているが、血のなせるものなのか、不思議な威があった。
佐内は、大きな身体を縮めるようにして、
「誠に申し訳ございませぬ。我ら目付衆も懸命に奴らを追い、その正体を暴こうとしておるのですが、見つけても風のように消えてしまいます。殿が帰られた今、奴らは何をするかわかりませぬ故、今後は総出で奴らを追いかけまする」
「うむ、頼むぞ」
そこで、大鳥順三郎が、小田内膳を横目でちらりと見た。
「我らの会議でも、近頃このことを話し合っているのですが、小田どのがこの事にあまり積極的でないのも捜査が進まぬ一因でございましょう」
「なんと。内膳、それは誠か」
政龍が小田内膳に視線を向けた。
小田内膳は現在五十三歳。小柄だがやや小太りである。顔も丸く、目も垂れ気味であり、一見すると穏やかな老人であるが、その垂れた目の瞳の奥には笑気の無い強い光があることが、この男が油断ならない人物であることを物語っている。
内膳は話を向けられると、政龍の方を真っ直ぐに見て、
「申し訳ございませぬ。しかし、それは大鳥どのの誤解でござる。決して積極的でないわけではござりませぬ。藩政は他にも問題が多くあり、そちらの解決が優先だと思っていたまでのことでござります」
「ほう、他の問題とな。何ぞあったか」
政龍が身を乗り出すと、
「例えば……つい最近では鉢窪村の件など」
内膳は穏やかな口調で答えた。
――なんと白々しくも図々しい奴よ。
大鳥順三郎は、心中で呆れながらも、内膳のつやつやした横顔を睨んだ。
「鉢窪村? その知らせはまだ聞いておらぬな」
政龍が首を傾げると、
「ええ、つい二週間ほど前のことでござりますゆえ。殿がお戻りになりましたらご報告申し上げようと思っておりました」
内膳は、ついでに事件のことを簡潔に報告した。
「なるほどの、その庄屋が一人でやっておったのか。元々は地侍とは言え、大胆なことをするものよ」
政龍は驚きながらも、語気に怒りをにじませた。
そこで、大鳥順三郎が口を挟んだ。
「しかし、まだ不審な点もございます。いかに祖先があの一帯を治めていた地侍とは言え、庄屋一人でそこまでできるものでございましょうか。私は再度取り調べるべきとも思っております」
「ふむ」
すると、今度は内膳がじろりと大鳥順三郎を睨んだ。
「大鳥どの、この一件は庄屋一人の犯行と判明し、それで終わっておる。今更取り上げても時間の無駄ではござらんか? 問題は他にも沢山あるのですぞ」
「しかし、藩の主要な財源でもある青苧と縮のことでござる。つまりは藩政の根幹に関わること。それがしは、今後もこのようなことが起きぬよう、しっかりと再調査をするべきと存ずる」
順三郎が反論すると、
「ふむ、一理あるが、やはり終わったことに時間を使うのは無駄と思うがの」
内膳は冷笑した。
広間にひりつくような緊張が走った。
集っている重臣一同らは皆、この二人が執政会議で度々衝突し、日ごろからも不仲であることを知っている。
一年ぶりに帰って来た藩主を前にして、二人が激しく口論するのではないかと息を呑んだ。
だが、そこで政龍が上段から言った。
「まあ、とりあえず庄屋の件は別として、その黒須とやらの疑いは晴れたのじゃな?」
「はい。無実であることがわかりました」
大鳥順三郎が政龍を見てはっきりと答えた。
「ならば良かった。我が大切な家臣が無実の罪で死に追い込まれるなど、あってはならぬ」
「ええ。黒須新九郎は実に真面目で正直な若者。そもそもそのようなことをするはずがござりませぬ」
と、付け加えると、小田内膳がまた横から水を差した。
「やけに黒須をかばいますな」
「真面目に藩に忠義を尽くす若者があらぬ疑いをかけられ、切腹寸前まで行ったのですぞ。かばって当然でござろう」
順三郎は鋭い目で内膳を見返すと、再び藩主政龍を仰ぎ見た。
「殿。実は、この一件にも、先ほど申し上げましたかつての笹川組のような連中が関わっていたような痕がございます」
「なんと、誠か」
政龍は再び驚いて脇息から肘を上げた。
「ええ、それ故に、それがしはやはり、あ奴らを捕まえることを優先せねばならぬと思っております」
順三郎の進言に、政龍は手で膝を叩いた。
「あいわかった。内膳、やはりこの件を優先することを考えるように」
「はっ、承知仕りました」
心中はどうかはわからぬが、内膳は素直に頭を下げた。
「大鳥、斎藤、石川、他の者たちも頼むぞ」
名を呼ばれた四人だけでなく、重臣一同が頭を下げた。
「しかしそう言えば……鉢窪村と言えば、確か近くに有名な川がなかったかの」
政龍が扇子で畳をつきながら、下段に控えている側用人の宇佐美三之丞に訊いた。
宇佐美三之丞は、その苗字の通り、藩の永代家老四家のうちの一つ、宇佐美家の現当主である。
まだ二十九歳と若いが、藩祖城戸頼龍を智の面で支えた祖先宇佐美勝輝の風があり、智恵者として知られている。若さゆえに今は藩主の側用人を務めているが、側用人もまた上級藩士しか就けぬ重職である。宇佐美三之丞は、その家柄からしても、将来は家老職につくのは確実、と見られていた。
「はっ、魚野川の源流が流れてございます」
宇佐美は静かでよく通る声で答えた。
「そうじゃ、それじゃ」
政龍は頷くと、最後になって初めてにこりと笑顔を見せた。
順三郎は言うと、木箱の蓋を閉じて、再び金庫にしまい入れた。
「何かの時の為に一応取っておいてあるが、ここにある限り奪われる心配もない」
「しかしご家老」
と、新九郎は口を開いた。
「笹川組最後の頭領はまだ生きておられるのですか?」
「うむ。歳は取り隠居はしておるが、元気そのものじゃ」
「三中散の製法を知っているのは唯一その最後の頭領。あの連中が、その隠居されている頭領を探し出し、捕まえて製法を吐かせたりすることがあるのでは?」
新九郎が懸念を口にすると、順三郎はカッカッと笑った。
「その心配は無用。あの最後の頭領の技は並外れておる。そう簡単に捕まる男ではないし、万が一捕らえられて三中散の製法を吐くように強要されても、即座にその場で自害するような男じゃ」
「そうですか」
新九郎は安心した。だが、まだ一抹の不安が残った。
最後の三中散がここにある。藩主の叔父、城戸流斎が率いるあの濃紺装束の連中が、それを知って奪いに来ないとも限らない。
すると、そんな新九郎の不安を察したのか、順三郎が言った。
「何も心配はいらん。我が大鳥家には、先ほど言った事情ゆえに、最後に笹川組にいた者たちが五人ほどいる。笹川組の中でも特に優れた術者たちじゃ。あの者らには流斎さまが使っている忍びの者らではかなわぬであろう。それ故、奴らが我が屋敷に侵入することはできぬし、三中散を奪うこともできぬ」
新九郎たちは驚いた。
確かに、大鳥家の家士たちの中には、不思議な佇まいを持つ者たちがいた。あの者たちが、大鳥家老の言うかつての笹川組の術者たちなのであろう。
また、納得もした。大鳥家老がよく自分も何々を調べてみた、と言うのは、彼らを使っているのだろう。
だが、「いかん」と、大鳥順三郎は、突然はっとして表情に影を浮かべた。
「一つ忘れておった......笹川組の者たちの消息は全て把握しているとは言ったが、一人だけわからぬ者がおったわ」
「一人だけ?」
「うむ。元太と言う名の、当時まだ十二かそこらの子供であった。まだ修行を始めたばかりであったので、正式に組の者だったわけではない。それゆえに、元太は、町民となって商売を始めると言った組の者に預けたのだが、商売は向いていなかったのか、ある日屋敷を飛び出してそのまま行方がわからなくなったらしい」
「それはもしや……」
「うむ。解散から二十年が経っておる。もしかすると、元太は屋敷を出奔した後にどこかで密かに技の修行を続け、そのうちに何かの縁で流斎さまに仕えるようになったのかも知れぬ」
「その後、流斎さまは元太を使って同じような術者を育て、自分の為だけに動くあの濃紺装束の組を作ったと……そういうことでしょうか?」
「その可能性は大いにある」
順三郎が顔を曇らせると、新九郎ら三人は顔を見合わせた。
「あの時いた、親玉らしい大男」
「ああ、あれが元太かも知れぬな」
新九郎と一馬が互いに言った。
「それらしき者がいたか」
順三郎が眼光を鋭くして二人を見た。
「ええ。他の仲間たちを指図していた頭領らしき男で、一人だけ際立って体格も良く、動きも並外れておりました」
辰之助が横から答えると、
「ふむ。元太は歳のわりには身体が大きかった覚えがある。そ奴が元太である可能性は高いな。うちの者どもに少し調べさせてみるか」
順三郎は、太い腕を組んで虚空の一点を睨んだ。
それから、解散となった。
大鳥邸を出て行く際、
「此度の褒美と言うのもおかしいが、持って行くがよい」
と、順三郎は三人に、するめの干物と、江戸藩邸から送られて来たと言う下りものの酒を持たせた。
新九郎ら三人は、その土産を持って、大鳥家の家士たちが遠くから見守る中、それぞれの家路へと着いた。
その二日後の午後、まだ十五歳の藩主、城戸備後守政龍が江戸の参勤を終え、長旅を経て帰国した。
備後守政龍は、まず本丸中奥の間に入って一刻ほど休息を取った後、広間に移った。
藩は六万石であるので、城も大きくはない。広間もどちらかと言えば狭い方である。
その狭い広間の下段の間には、すでに筆頭家老小田内膳、次席家老大鳥順三郎、斎藤内蔵助らを始めとした重臣一同がひしめき合って座り、政龍を待っていた。
黒須新九郎らは中級の武士であり、御目見の資格すらないので、当然この場にはいない。
藩主政龍は、今回江戸より共に戻って来た側用人の宇佐美三之丞と共に広間に入ると、平伏して頭を垂れる重臣らを見回した後、上段の間に上がって着座した。側用人の宇佐美三之丞は重臣の列に加わって座った。
政龍はまだ十五歳であり、顔立ちには当然まだ幼さが残っているが、やや切れ長の目には聡明な光を宿している。
だが、その白い顔には、憂鬱そうな影が差していた。
小田内膳が重臣一同を代表して挨拶を述べると、政龍もそれに対して決まりきった返答をし、大鳥順三郎や斎藤内蔵助らといくつか言葉を交わした後、
「近頃、領内に何か問題はないか? 城下に変わったことなどは?」
と、自ら尋ねた。
すると、大鳥順三郎が待っていたとばかりに口を開いた。
「近頃、城下では、まるで以前の笹川組のような連中が現れて騒がせております。何人かの藩士がすでに殺められました」
政龍は眉根を寄せて頷いた。
「それか。手紙で聞いておるが、誠のことなのか? 笹川組は解散してとうに二十年は経っておる」
「はい。やや笹川組とは違うようですが、間違いなく忍びの技を使う者たちです」
「ふむ。城下を騒がせ、我が家臣を斬り、民を脅かすなど言語道断。これは見過ごせぬ。石川、どうなっておるのだ」
政龍は、静かな口調で大目付の石川佐内を見た。
声にもまだ子供っぽさが残っているが、血のなせるものなのか、不思議な威があった。
佐内は、大きな身体を縮めるようにして、
「誠に申し訳ございませぬ。我ら目付衆も懸命に奴らを追い、その正体を暴こうとしておるのですが、見つけても風のように消えてしまいます。殿が帰られた今、奴らは何をするかわかりませぬ故、今後は総出で奴らを追いかけまする」
「うむ、頼むぞ」
そこで、大鳥順三郎が、小田内膳を横目でちらりと見た。
「我らの会議でも、近頃このことを話し合っているのですが、小田どのがこの事にあまり積極的でないのも捜査が進まぬ一因でございましょう」
「なんと。内膳、それは誠か」
政龍が小田内膳に視線を向けた。
小田内膳は現在五十三歳。小柄だがやや小太りである。顔も丸く、目も垂れ気味であり、一見すると穏やかな老人であるが、その垂れた目の瞳の奥には笑気の無い強い光があることが、この男が油断ならない人物であることを物語っている。
内膳は話を向けられると、政龍の方を真っ直ぐに見て、
「申し訳ございませぬ。しかし、それは大鳥どのの誤解でござる。決して積極的でないわけではござりませぬ。藩政は他にも問題が多くあり、そちらの解決が優先だと思っていたまでのことでござります」
「ほう、他の問題とな。何ぞあったか」
政龍が身を乗り出すと、
「例えば……つい最近では鉢窪村の件など」
内膳は穏やかな口調で答えた。
――なんと白々しくも図々しい奴よ。
大鳥順三郎は、心中で呆れながらも、内膳のつやつやした横顔を睨んだ。
「鉢窪村? その知らせはまだ聞いておらぬな」
政龍が首を傾げると、
「ええ、つい二週間ほど前のことでござりますゆえ。殿がお戻りになりましたらご報告申し上げようと思っておりました」
内膳は、ついでに事件のことを簡潔に報告した。
「なるほどの、その庄屋が一人でやっておったのか。元々は地侍とは言え、大胆なことをするものよ」
政龍は驚きながらも、語気に怒りをにじませた。
そこで、大鳥順三郎が口を挟んだ。
「しかし、まだ不審な点もございます。いかに祖先があの一帯を治めていた地侍とは言え、庄屋一人でそこまでできるものでございましょうか。私は再度取り調べるべきとも思っております」
「ふむ」
すると、今度は内膳がじろりと大鳥順三郎を睨んだ。
「大鳥どの、この一件は庄屋一人の犯行と判明し、それで終わっておる。今更取り上げても時間の無駄ではござらんか? 問題は他にも沢山あるのですぞ」
「しかし、藩の主要な財源でもある青苧と縮のことでござる。つまりは藩政の根幹に関わること。それがしは、今後もこのようなことが起きぬよう、しっかりと再調査をするべきと存ずる」
順三郎が反論すると、
「ふむ、一理あるが、やはり終わったことに時間を使うのは無駄と思うがの」
内膳は冷笑した。
広間にひりつくような緊張が走った。
集っている重臣一同らは皆、この二人が執政会議で度々衝突し、日ごろからも不仲であることを知っている。
一年ぶりに帰って来た藩主を前にして、二人が激しく口論するのではないかと息を呑んだ。
だが、そこで政龍が上段から言った。
「まあ、とりあえず庄屋の件は別として、その黒須とやらの疑いは晴れたのじゃな?」
「はい。無実であることがわかりました」
大鳥順三郎が政龍を見てはっきりと答えた。
「ならば良かった。我が大切な家臣が無実の罪で死に追い込まれるなど、あってはならぬ」
「ええ。黒須新九郎は実に真面目で正直な若者。そもそもそのようなことをするはずがござりませぬ」
と、付け加えると、小田内膳がまた横から水を差した。
「やけに黒須をかばいますな」
「真面目に藩に忠義を尽くす若者があらぬ疑いをかけられ、切腹寸前まで行ったのですぞ。かばって当然でござろう」
順三郎は鋭い目で内膳を見返すと、再び藩主政龍を仰ぎ見た。
「殿。実は、この一件にも、先ほど申し上げましたかつての笹川組のような連中が関わっていたような痕がございます」
「なんと、誠か」
政龍は再び驚いて脇息から肘を上げた。
「ええ、それ故に、それがしはやはり、あ奴らを捕まえることを優先せねばならぬと思っております」
順三郎の進言に、政龍は手で膝を叩いた。
「あいわかった。内膳、やはりこの件を優先することを考えるように」
「はっ、承知仕りました」
心中はどうかはわからぬが、内膳は素直に頭を下げた。
「大鳥、斎藤、石川、他の者たちも頼むぞ」
名を呼ばれた四人だけでなく、重臣一同が頭を下げた。
「しかしそう言えば……鉢窪村と言えば、確か近くに有名な川がなかったかの」
政龍が扇子で畳をつきながら、下段に控えている側用人の宇佐美三之丞に訊いた。
宇佐美三之丞は、その苗字の通り、藩の永代家老四家のうちの一つ、宇佐美家の現当主である。
まだ二十九歳と若いが、藩祖城戸頼龍を智の面で支えた祖先宇佐美勝輝の風があり、智恵者として知られている。若さゆえに今は藩主の側用人を務めているが、側用人もまた上級藩士しか就けぬ重職である。宇佐美三之丞は、その家柄からしても、将来は家老職につくのは確実、と見られていた。
「はっ、魚野川の源流が流れてございます」
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