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仇敵の名は

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 順三郎の言葉に、新九郎は息を呑んだ。

「長い話ゆえに、簡単に話すぞ。詳しくはいずれな」

 と、順三郎は前置きしてから、

「新兵衛は、約九年前の当時、中老ちゅうろうに抜擢されたばかりの小田内膳の不正を嗅ぎつけたのだ」
「なんと……」
「新兵衛は、当時は勘定方の小頭。まずは当時の勘定奉行の赤木どのに話そうとしたが、寸前で赤木どのも小田とグルになっているらしいと気づいた。そこで、儂のところに相談に来たのだ」
「初めて聞きました」

 新九郎は目を瞠った。

「儂は驚き、これは何としても小田の不正を明らかにしなければならんと思ったが、なかなか証拠をつかめない。それに、儂も当時はまだ執政入りしておらんかったので力がなかった。それから二人でああでもないこうでもないと、密かに策を練っていたのだが、小田内膳にその動きを感付かれてしまい、逆に公金横領と言う不正の濡れ衣を着せられてしまったのだ」
「…………」

 順三郎はため息をついて遠い目をした。

「そのやり口はな、今回お主がやられたのとそっくりなものだった。儂ら二人は共に腹を切らねばならんところまで追い込まれた。だが、なんとそこで新兵衛が訴え出たのだ」

 ーーこれはそれがしが一人でやったことです。それがしに咎が及ばぬよう、大鳥さまが主導したように見せかけたのです。

 と、黒須新兵衛は無実であるにも関わらず自ら出頭し、大鳥順三郎は無関係であると主張したのだった。

「だが、それを黙って見ていられる儂ではない。儂はそれを否定し、新兵衛を守りながら小田内膳の悪行を追及したかったが、当時の儂にはそれだけの権力も能力もなかった。それでも新兵衛の切腹を回避しようと奔走する儂に、新兵衛は密かに心中の思いを話してくれた」

 ――大鳥さん、あなたの家は藩祖公以来の名門で、永代家老四家の中でも筆頭格。いずれ必ず家老になられます。家老になれば、今よりも小田内膳どのの不正を暴く力を持てるでしょう。ならば、そのようなお人がここで命を失っては行けません。ここは私が代わりに全てを引き受けます。

「と言って、新兵衛は自ら腹を切ったのじゃ」

 順三郎は目を閉じて言った。
 その目じりから涙が一筋落ち、行灯の薄い光に煌めいた。

 その件は、新九郎の父、新兵衛の自害だけで収まった。
 大鳥家は家中随一の名門である。当時の小田内膳でも、それ以上大鳥順三郎には手を出せなかったのである。

「そう……でしたか」

 新九郎は呆然とした。
 薄々、父の死は無実なのではないかと思っていたが、このような真相であったとは。

「その時から、儂は誓った。新兵衛の死は絶対に無駄にはせぬ。必ず小田内膳の不正を暴いて奴を誅殺し、同時に新兵衛の無念も晴らして見せる、とな」
「…………」
「それ故に、今回、新兵衛の息子であるお主に不正の嫌疑がかけられたと聞き、儂は何としてでもお主を守らねばならぬと思った。あの時、儂に力が足りぬ故に新兵衛を守れなかったが、今回こそは新兵衛の息子を守って見せる。そう、儂は天にいる新兵衛に誓った。一応、それは果たせたかの」
「…………」

 新九郎は、未だ呆然として大鳥順三郎の顔を見つめていたが、ゆっくりと震える両手をついて頭を下げた。

「ありがとうございまする」

 畳に、涙が一滴落ちた。

 元々、剛毅果断な上に強引な性格と言われる大鳥順三郎であったが、今回不自然なほどに強引に新九郎を助けた理由がようやくわかった。その気持ちが嬉しかった。
 そして、父の新兵衛がやはり無実であったのがわかったこと。これもまた嬉しかった。
 明らかになった真実の光が、新九郎の心底に長らくのしかかっていたどす黒いものを吹き飛ばしたようであった。
 それ故に、新九郎は思わず涙を流した。

 だが、大鳥順三郎は慌てたように、

「やめよ、そのような大したものではない」
「いえ、父も喜んでいると思います」
「そうであれば良いがの……さて、長居をしてすまなかったな」

 順三郎は照れを隠すかのように立ち上がった。

「お屋敷までお供いたします」

 新九郎は申し出たが、

「いや、無用じゃ。却って目立つであろう」
「しかし、先ほども話しましたように、小田さまが使われているあの濃紺装束の者が狙うかも知れませぬ」
「心配はいらぬ。儂の腕は知っておろう。それに、我が大鳥家じゃ。密かに護衛もあちこちに散らせてある。」

 順三郎は太い腕を叩きながら笑った。
 そして談笑しながら門のところまで共に歩いたが、ふと順三郎が憂いの顔をして立ち止まった。

「如何なさいましたか」

 新九郎が不審に思って訊くと、

「実は、今井と連絡がつかぬ」

 と、順三郎は重々しく言った。

「一馬が……何かあったのですか?」

 新九郎が一歩寄って訊くと、

「つい今朝のことじゃ。登城前に今井が儂のところにやって来てな。近頃城下を騒がせている濃紺装束の不審な連中のねぐららしきものを偶然見かけた、と言って来た。そこで、ちょうど非番なので変装して探りに行ってみる、と申してな」
「一人でですか? それは危ないのでは」
「そうじゃ。儂も言った。だが、折角の機会なので見逃せぬと言ってな。何せ、先日あの連中に殺された御金方の小柴貫左衛門は今井の従兄いとこじゃからの。抑えられぬものがあったのであろう、殺気に燃え立っておった。儂も強くは止められず、くれぐれも気をつけよ、とは言ったが、まだ家に戻っておらぬそうじゃ」
「一馬が……」

 新九郎は眉根を寄せ、

「場所はどの辺りなどと言っておりましたか?」
「桃川村の近くと言っておった」
「桃川村……」

 聞いた瞬間、新九郎は胸がざわついた。
 桃川村は、新九郎が郡方で担当している鉢窪村から近い。低い山を一つ越えた向こうであった。

 そして、大鳥家老は、来た時と同じ扮装に戻り、老爺の千吉と共に黒須家を出て行った。
 それを見送った後、新九郎はそのまま門の内側で佇んで一馬を案じた。

 ――何もなければよいが。

 今まで、このようなことはなかった。
 今井一馬はやや小柄だが、その分俊敏な動きをし、鋭い疾風のような剣を遣う。
 並の使い手では太刀打ちできない。

 ――それにしても……。

 新九郎は庭に回り、夜空を見上げた。
 改めて、父はやはり無実であったことが嬉しかった。公に無実と認められたわけではないが、その真実がわかっただけで嬉しくてたまらなかった。
 何か、これまで枷になっていたようなものが取れ、足が軽くなったような心地がする。

 だが同時に、新九郎の心の底から沸々ふつふつたぎって来るものがあった。
 父、新兵衛は小田内膳の策略に嵌められて命を落としたことになる。

 ―ー小田内膳は、藩の獅子身中の虫と言うだけではない……父の仇だった。しかも息子である俺にまで同じことをしようとしたわけだ。

 夜空の中央に、一際光る赤い星があった。
 新九郎はそれを睨んだ。

 ――小田内膳……後悔させてやる。報いは受けさせるぞ。

 穏やかで真っ直ぐな性格の新九郎には初めてかも知れなかった。
 心に炎が燃え上がったのは。
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