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家老の密談
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大鳥順三郎は、くつろいだ着流し姿であった。
だが、新九郎は慌てて両手をついて平伏した。
その姿を見て、順三郎は笑いながら新九郎の向かいに座った。
「空腹であろうに、箸をつけなかったか。なるほど、お主は噂に聞くように確かに真面目のようじゃな」
行灯の光だけの薄闇に、順三郎の角ばった顔が笑みを見せた。
「いえ」
「それとも、まだ何かあると思って手をつけなかったか」
「いえ、そのようなことは……」
「ふふ、誤魔化さずともよい。であれば、流石じゃ」
家老大鳥順三郎は静かに笑った。
「まずは食べるが良い。空腹であろう。毒など入っておらんから安心して食べろ」
順三郎は勧め、「どれ、不安ならば儂がまず食べて見せる」と、
行儀悪くも、膝を勧めて手で漬物を一切れ摘まんで口に入れた。
その様子に、新九郎はそれまでの張りつめていた気持ちが解け、同時に食欲が解放されて「では、いただきます」と、目の前の膳に手をつけた。
簡素な膳であるが、飯は暖かくほのかな甘みがあり、小鯛はふっくらとしながらも噛めばすぐに身がほぐれる絶妙な焼き加減。青菜の漬物はまだ瑞々しさが残る爽やかな食感であり、味噌汁は昆布の出汁がよく出ていて五臓にしみ渡るよう。
思わぬ美味に、新九郎はむさぼるように食べた。
家老大鳥順三郎は、そんな新九郎の食べっぷりを面白そうに眺めていたが、やがて新九郎が箸を置くと、女中を呼んで茶を運ばせ、新九郎にも茶を勧めながら言った。
「さて、黒須新九郎。すでに我が家の千吉から聞いているとは思うが、その方の横領抜け売りの嫌疑を証拠不十分としたのは儂じゃ」
先ほどの老人は千吉と言うのか、と思いながら新九郎は頷いた。
「ありがとうございまする」
「一応聞いておくが、お主、誠に横領や抜け売りはしておらぬであろうな?」
順三郎は真っ直ぐに新九郎の目を見つめた。
順三郎の祖先は藩祖第一の重臣であり勇猛果敢な猛将として伝えられている。その血ゆえか、順三郎自身も体格に恵まれて武芸に優れた豪傑気質である。睨むように見つめるとその眼力の圧は重い。
だが、新九郎はその視線をそらすことなく受け止めながら、
「当然でございます。まるで見に覚えなきこと」
と、きっぱりと言い切った。
「さようか。儂は信じるぞ。藩の中には、お主は公金横領で腹を切った黒須新兵衛の子であるが故、お主もやったに違いないと言う声が多いが、儂はそうではないと思っていた」
「ありがとうございまする」
「そもそも、お主の父、新兵衛の公金横領の罪が讒訴であるからな」
順三郎はさらりと言ったが、新九郎は目を瞠って身を乗り出した。
「やはり……いや、それはどういうことでしょうか?」
だが順三郎は制するように軽く手を上げて、
「ふむ、この話はいずれゆっくり説明する。それより今はお主のことじゃ。お主、儂が半ば強引にお主を釈放するようにしたが微塵も安心はできん。このままでは切腹は確実ぞ」
「え?」
新九郎が驚くと、大鳥順三郎は呆れたように、
「なんと。陥れられたことがわかっていながら呑気な奴じゃの。目付衆が調査するとは言っておるが、お主の無実を明らかにするどころか、更なる証拠を捏造してお主を切腹に追い込もうとするのは確実であろう」
「そんなまさか」
「大目付の石川はともかく、横目の佐久間は完全に小田内膳に取り込まれておると儂は見ている。他に数人の徒目付もな」
「小田内膳……筆頭家老の小田さまでしょうか? と言うことは……」
新九郎が顔色を変えると、順三郎は腰帯の扇子を取り出して畳に立てた。
「そうよ。お主を陥れたのは上司の郡奉行松山帯刀と、それに結託した勘定奉行柿崎忠兵衛、そしてその黒幕は小田内膳で間違いあるまい」
「なんと」
「小田内膳は確かに優秀で、ご先代様に抜擢されて後、数々の改革案を成功させて藩の財政を建て直した。だが、その後がいかん。先の殿が亡き後、今の殿がまだ年少であるのをいいことに、元々作っていた派閥を急拡大させ、今や藩政を牛耳っておる。それはお主も何となく聞いておるであろう?」
「はい」
「それだけでも藩には良くないことなのじゃが、その権勢拡大の勢いがおかしい。小田があちこちに金をばらまいて人を取り込み、派閥を拡大させているのは確実であろうが、その速さが異常だ。恐らく、かなりの大金を使っているであろう。だが、家老職にあるとは言え、小田内膳は抜擢された一代家老で、元は小身であるが故に禄高はわずかに七百石。役高を足してもそのような金があるわけがない。ではその金はどこから湧いておる?」
大鳥順三郎が鋭い目で新九郎を見ると、新九郎は息を呑んで、
「よくあるのは、城下の富商からの賄賂、あるいは……小物成の運上銀などの横領」
「そうよ。それしかあるまい。実は儂は、数年前から小田の動きに不審を感じ、密かに調べておるのだが、やはりどうも賄賂や横領などをしているようだ。だが奴もしたたかで、なかなか尻尾を掴ませぬ」
「では、今回の鉢窪村の件も、裏で小田さまが松山さまを操って横領し、それが露見しそうになったので鉢窪村の担当である私に罪をなすりつけたと言うことでしょうか」
「それだけではなく、勘定奉行の柿崎とその下の産物方も一緒になってやった、と儂は見ておる。」
新九郎は言葉を失った。
事実ならば巨大な不正であり、藩政は深刻に腐敗している。
「お主も当然知っておる通り、小物成などの藩の特産物は勘定方の下の産物方に回される。勘定奉行の柿崎は小田内膳と縁戚であるのもあり、小田一派の中枢にいる。不正は、小田が柿崎と共に産物方を金と権力で抱き込み、上がって来た小物成を横領したものではないかと儂は睨んだ。しかし、目付衆とは別に儂も密かに手を回して調べたのだが、怪しいところはあるものの、うまく隠蔽しているのか全く尻尾が掴めぬ。そこで、儂が矛先を転じて郡方を追及すると、奉行の松山があの小物成元帳を持って来て、鉢窪村担当の黒須新九郎が帳簿を改竄して横領した、と言って来おったのじゃ。更に、公金横領で腹を切った黒須新兵衛の息子であるが故に間違いないはず、とも付け加えてな」
「なんと……」
新九郎は愕然とすると同時に、心中に沸々と滾るものを感じた。
「恐らく、松山帯刀も小田内膳の一派に取り込まれておるのだろう」
「そんなことが……」
「それ故にじゃ。お主、自ら鉢窪村に調べに行かぬか?」
「私が?」
「そうじゃ。鉢窪村の庄屋のところには、小物成帳の控えを残しているのではないか?」
「ああ……そう言えば、あるはずです」
「うむ。ならばよいぞ。柿崎と産物方、松山が共謀してお主が小物成帳を改竄したように細工しても、鉢窪村の控えにまでは手を出せまい。そこで、お主が鉢窪村の庄屋のところにある控えを持って来て、その数字を見せるのだ。お主が本当に不正をしていたならば、鉢窪村の控えの数字も改竄しているはずであろう。だがそれがなければ、お主が不正をしていないと言う証拠にできるのではないか? もちろんそれだけでは完全に証明はできぬが、大きな助けにはなるはずじゃ」
「なるほど」
新九郎は大きく頷いた。
「できれば、庄屋もこちらに連れて来て、やっていないことを証言させれば尚良いであろう」
「はっ、承知つかまつりました。しかし、私は遠慮を命じられた身ですが」
新九郎が困った顔をすると、順三郎は扇子をとんとんと突いて、
「この為に、儂が遠慮は明日からと強引に決めさせたのだ。それに、遠慮でも夜間の外出は黙認されておる。それ故、これからすぐに鉢窪村に向かい、小物成帳の控えと、できれば他に何らかの証拠を掴み、庄屋と共に戻ってくれば良い」
「これから、でございますか?」
「そうじゃ。先ほども言った通り、本来あってはならぬことじゃが、横目の佐久間を始め、一部の徒目付どもがすでに小田派に取り込まれておる。ぐずぐずしておると目付どもが先に鉢窪村に向かい、強引に控えを奪った上で更なる証拠を捏造してしまうかも知れぬ。その前に急ぎ鉢窪村へ向かうのじゃ」
大鳥家老は猛将で知られた祖先の血の故か、正義感に溢れているが強引で性急なところがある。
今から行けと言う大鳥家老の言葉に、新九郎は顔を引きつらせた。
新九郎は、押し込めから解放されたばかりである。何もしていないとは言え、心身の疲労はたまっているのだ。
だが、家老大鳥順三郎は、そんな新九郎の心底を見透かしたように眼光を鋭くした。
「疲れを取る暇などないぞ。評定所から釈放されたその夜にお主がすぐ動くとは、敵も思ってはおるまい。その隙を突くのだ」
――戦国武将の血だな……。
新九郎は思いながら、
「なるほど……わかりましてございます」
「幸い、大目付の石川が言うには、領内で南条を見たと言う報告がいくつか上がっているらしく、明日は総出で南条捜索に向かうらしい」
「南条……? あの馬廻り組の南条宗之進さんでしょうか?」
新九郎は驚いて思わず声を大きくした。
「そう、あの南条じゃ」
大鳥順三郎は険しい顔で頷いた。
南条宗之進は、新九郎もよく知っている男であった。三木辰之助も共に通っていた城下の一刀流戸沢道場で兄弟子に当たる。
南条宗之進の剣の腕は、非凡どころではなく、戸沢道場だけでなく開藩以来最強と言う呼び声もある天才剣士であった。
だが、南条はそれを鼻にかけるような男ではなく、謙虚で優しい上に真っ直ぐな性格で、また後輩たちの面倒見が良かった。特に宗之進は新九郎を弟のように可愛がり、新九郎もまた兄のように慕っていた。
ところが、約一年半ほど前、南条宗之進は突然馬廻り組の上役を斬り、逐電した。南条宗之進の性格から言うと、何故突然そのような凶行に及んだのかが不可解であり、藩内でも不思議がられていた。
だがともかく、南条宗之進は上役を斬って逃亡した罪人である。噂では江戸に潜伏しているとのことだったが、それが領内で目撃されたとあれば、目付衆が総出で探索に出るのも当然であった。
新九郎があれこれ考えていると、大鳥家老が急かすように言った。
「まあ、南条のことはひとまず置いておいて、お主のことじゃ。目付衆が南条探索に出向く明日こそ絶好の機。鉢窪村には行くであろうな?」
新九郎は両手をつき、
「はっ。急ぎ家に戻り、すぐに支度をして鉢窪村に向かいます」
「うむ。頼むぞ。これでお主が何かを掴めれば、お主自身の切腹を回避できるだけでなく、小田内膳らの不正を暴くことができ、奴らを一気に壊滅できるかも知れぬ。引いては、藩の為にもなることじゃ」
大鳥家老は、行灯の光だけの薄闇の中、声を低くして言った。
元々は新九郎の冤罪のことだったが、話が急に大きくなった気がする。
そのことにやや戸惑いを覚えながら、新九郎は再び老爺千吉の案内で大鳥邸を裏口から出た。
だが、新九郎は慌てて両手をついて平伏した。
その姿を見て、順三郎は笑いながら新九郎の向かいに座った。
「空腹であろうに、箸をつけなかったか。なるほど、お主は噂に聞くように確かに真面目のようじゃな」
行灯の光だけの薄闇に、順三郎の角ばった顔が笑みを見せた。
「いえ」
「それとも、まだ何かあると思って手をつけなかったか」
「いえ、そのようなことは……」
「ふふ、誤魔化さずともよい。であれば、流石じゃ」
家老大鳥順三郎は静かに笑った。
「まずは食べるが良い。空腹であろう。毒など入っておらんから安心して食べろ」
順三郎は勧め、「どれ、不安ならば儂がまず食べて見せる」と、
行儀悪くも、膝を勧めて手で漬物を一切れ摘まんで口に入れた。
その様子に、新九郎はそれまでの張りつめていた気持ちが解け、同時に食欲が解放されて「では、いただきます」と、目の前の膳に手をつけた。
簡素な膳であるが、飯は暖かくほのかな甘みがあり、小鯛はふっくらとしながらも噛めばすぐに身がほぐれる絶妙な焼き加減。青菜の漬物はまだ瑞々しさが残る爽やかな食感であり、味噌汁は昆布の出汁がよく出ていて五臓にしみ渡るよう。
思わぬ美味に、新九郎はむさぼるように食べた。
家老大鳥順三郎は、そんな新九郎の食べっぷりを面白そうに眺めていたが、やがて新九郎が箸を置くと、女中を呼んで茶を運ばせ、新九郎にも茶を勧めながら言った。
「さて、黒須新九郎。すでに我が家の千吉から聞いているとは思うが、その方の横領抜け売りの嫌疑を証拠不十分としたのは儂じゃ」
先ほどの老人は千吉と言うのか、と思いながら新九郎は頷いた。
「ありがとうございまする」
「一応聞いておくが、お主、誠に横領や抜け売りはしておらぬであろうな?」
順三郎は真っ直ぐに新九郎の目を見つめた。
順三郎の祖先は藩祖第一の重臣であり勇猛果敢な猛将として伝えられている。その血ゆえか、順三郎自身も体格に恵まれて武芸に優れた豪傑気質である。睨むように見つめるとその眼力の圧は重い。
だが、新九郎はその視線をそらすことなく受け止めながら、
「当然でございます。まるで見に覚えなきこと」
と、きっぱりと言い切った。
「さようか。儂は信じるぞ。藩の中には、お主は公金横領で腹を切った黒須新兵衛の子であるが故、お主もやったに違いないと言う声が多いが、儂はそうではないと思っていた」
「ありがとうございまする」
「そもそも、お主の父、新兵衛の公金横領の罪が讒訴であるからな」
順三郎はさらりと言ったが、新九郎は目を瞠って身を乗り出した。
「やはり……いや、それはどういうことでしょうか?」
だが順三郎は制するように軽く手を上げて、
「ふむ、この話はいずれゆっくり説明する。それより今はお主のことじゃ。お主、儂が半ば強引にお主を釈放するようにしたが微塵も安心はできん。このままでは切腹は確実ぞ」
「え?」
新九郎が驚くと、大鳥順三郎は呆れたように、
「なんと。陥れられたことがわかっていながら呑気な奴じゃの。目付衆が調査するとは言っておるが、お主の無実を明らかにするどころか、更なる証拠を捏造してお主を切腹に追い込もうとするのは確実であろう」
「そんなまさか」
「大目付の石川はともかく、横目の佐久間は完全に小田内膳に取り込まれておると儂は見ている。他に数人の徒目付もな」
「小田内膳……筆頭家老の小田さまでしょうか? と言うことは……」
新九郎が顔色を変えると、順三郎は腰帯の扇子を取り出して畳に立てた。
「そうよ。お主を陥れたのは上司の郡奉行松山帯刀と、それに結託した勘定奉行柿崎忠兵衛、そしてその黒幕は小田内膳で間違いあるまい」
「なんと」
「小田内膳は確かに優秀で、ご先代様に抜擢されて後、数々の改革案を成功させて藩の財政を建て直した。だが、その後がいかん。先の殿が亡き後、今の殿がまだ年少であるのをいいことに、元々作っていた派閥を急拡大させ、今や藩政を牛耳っておる。それはお主も何となく聞いておるであろう?」
「はい」
「それだけでも藩には良くないことなのじゃが、その権勢拡大の勢いがおかしい。小田があちこちに金をばらまいて人を取り込み、派閥を拡大させているのは確実であろうが、その速さが異常だ。恐らく、かなりの大金を使っているであろう。だが、家老職にあるとは言え、小田内膳は抜擢された一代家老で、元は小身であるが故に禄高はわずかに七百石。役高を足してもそのような金があるわけがない。ではその金はどこから湧いておる?」
大鳥順三郎が鋭い目で新九郎を見ると、新九郎は息を呑んで、
「よくあるのは、城下の富商からの賄賂、あるいは……小物成の運上銀などの横領」
「そうよ。それしかあるまい。実は儂は、数年前から小田の動きに不審を感じ、密かに調べておるのだが、やはりどうも賄賂や横領などをしているようだ。だが奴もしたたかで、なかなか尻尾を掴ませぬ」
「では、今回の鉢窪村の件も、裏で小田さまが松山さまを操って横領し、それが露見しそうになったので鉢窪村の担当である私に罪をなすりつけたと言うことでしょうか」
「それだけではなく、勘定奉行の柿崎とその下の産物方も一緒になってやった、と儂は見ておる。」
新九郎は言葉を失った。
事実ならば巨大な不正であり、藩政は深刻に腐敗している。
「お主も当然知っておる通り、小物成などの藩の特産物は勘定方の下の産物方に回される。勘定奉行の柿崎は小田内膳と縁戚であるのもあり、小田一派の中枢にいる。不正は、小田が柿崎と共に産物方を金と権力で抱き込み、上がって来た小物成を横領したものではないかと儂は睨んだ。しかし、目付衆とは別に儂も密かに手を回して調べたのだが、怪しいところはあるものの、うまく隠蔽しているのか全く尻尾が掴めぬ。そこで、儂が矛先を転じて郡方を追及すると、奉行の松山があの小物成元帳を持って来て、鉢窪村担当の黒須新九郎が帳簿を改竄して横領した、と言って来おったのじゃ。更に、公金横領で腹を切った黒須新兵衛の息子であるが故に間違いないはず、とも付け加えてな」
「なんと……」
新九郎は愕然とすると同時に、心中に沸々と滾るものを感じた。
「恐らく、松山帯刀も小田内膳の一派に取り込まれておるのだろう」
「そんなことが……」
「それ故にじゃ。お主、自ら鉢窪村に調べに行かぬか?」
「私が?」
「そうじゃ。鉢窪村の庄屋のところには、小物成帳の控えを残しているのではないか?」
「ああ……そう言えば、あるはずです」
「うむ。ならばよいぞ。柿崎と産物方、松山が共謀してお主が小物成帳を改竄したように細工しても、鉢窪村の控えにまでは手を出せまい。そこで、お主が鉢窪村の庄屋のところにある控えを持って来て、その数字を見せるのだ。お主が本当に不正をしていたならば、鉢窪村の控えの数字も改竄しているはずであろう。だがそれがなければ、お主が不正をしていないと言う証拠にできるのではないか? もちろんそれだけでは完全に証明はできぬが、大きな助けにはなるはずじゃ」
「なるほど」
新九郎は大きく頷いた。
「できれば、庄屋もこちらに連れて来て、やっていないことを証言させれば尚良いであろう」
「はっ、承知つかまつりました。しかし、私は遠慮を命じられた身ですが」
新九郎が困った顔をすると、順三郎は扇子をとんとんと突いて、
「この為に、儂が遠慮は明日からと強引に決めさせたのだ。それに、遠慮でも夜間の外出は黙認されておる。それ故、これからすぐに鉢窪村に向かい、小物成帳の控えと、できれば他に何らかの証拠を掴み、庄屋と共に戻ってくれば良い」
「これから、でございますか?」
「そうじゃ。先ほども言った通り、本来あってはならぬことじゃが、横目の佐久間を始め、一部の徒目付どもがすでに小田派に取り込まれておる。ぐずぐずしておると目付どもが先に鉢窪村に向かい、強引に控えを奪った上で更なる証拠を捏造してしまうかも知れぬ。その前に急ぎ鉢窪村へ向かうのじゃ」
大鳥家老は猛将で知られた祖先の血の故か、正義感に溢れているが強引で性急なところがある。
今から行けと言う大鳥家老の言葉に、新九郎は顔を引きつらせた。
新九郎は、押し込めから解放されたばかりである。何もしていないとは言え、心身の疲労はたまっているのだ。
だが、家老大鳥順三郎は、そんな新九郎の心底を見透かしたように眼光を鋭くした。
「疲れを取る暇などないぞ。評定所から釈放されたその夜にお主がすぐ動くとは、敵も思ってはおるまい。その隙を突くのだ」
――戦国武将の血だな……。
新九郎は思いながら、
「なるほど……わかりましてございます」
「幸い、大目付の石川が言うには、領内で南条を見たと言う報告がいくつか上がっているらしく、明日は総出で南条捜索に向かうらしい」
「南条……? あの馬廻り組の南条宗之進さんでしょうか?」
新九郎は驚いて思わず声を大きくした。
「そう、あの南条じゃ」
大鳥順三郎は険しい顔で頷いた。
南条宗之進は、新九郎もよく知っている男であった。三木辰之助も共に通っていた城下の一刀流戸沢道場で兄弟子に当たる。
南条宗之進の剣の腕は、非凡どころではなく、戸沢道場だけでなく開藩以来最強と言う呼び声もある天才剣士であった。
だが、南条はそれを鼻にかけるような男ではなく、謙虚で優しい上に真っ直ぐな性格で、また後輩たちの面倒見が良かった。特に宗之進は新九郎を弟のように可愛がり、新九郎もまた兄のように慕っていた。
ところが、約一年半ほど前、南条宗之進は突然馬廻り組の上役を斬り、逐電した。南条宗之進の性格から言うと、何故突然そのような凶行に及んだのかが不可解であり、藩内でも不思議がられていた。
だがともかく、南条宗之進は上役を斬って逃亡した罪人である。噂では江戸に潜伏しているとのことだったが、それが領内で目撃されたとあれば、目付衆が総出で探索に出るのも当然であった。
新九郎があれこれ考えていると、大鳥家老が急かすように言った。
「まあ、南条のことはひとまず置いておいて、お主のことじゃ。目付衆が南条探索に出向く明日こそ絶好の機。鉢窪村には行くであろうな?」
新九郎は両手をつき、
「はっ。急ぎ家に戻り、すぐに支度をして鉢窪村に向かいます」
「うむ。頼むぞ。これでお主が何かを掴めれば、お主自身の切腹を回避できるだけでなく、小田内膳らの不正を暴くことができ、奴らを一気に壊滅できるかも知れぬ。引いては、藩の為にもなることじゃ」
大鳥家老は、行灯の光だけの薄闇の中、声を低くして言った。
元々は新九郎の冤罪のことだったが、話が急に大きくなった気がする。
そのことにやや戸惑いを覚えながら、新九郎は再び老爺千吉の案内で大鳥邸を裏口から出た。
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