紅き龍棲の玉座

五月雨輝

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リューシスの眼

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 ――これは駄目だ!

 リューシスの判断は速かった。

「サイフォン、シュエリー! 撤退だ!」

 咄嗟に眼下に向かって叫んでいた。

「撤退ですと? まだ早いのでは?」

 サイフォンがリューシスを見上げて言うと、

「むしろ遅い! すぐに一陣が崩れて二陣も突破されるぞ! 致命傷を負う前に退くんだ!」

 リューシスは怒鳴るように答えた後、

「大丈夫だ、準備はしてあるだろう?」
「はっ。承知仕りました!」

 サイフォンは頷き、鐘を鳴らして撤退命令を出した。
 動揺し始めていたローヤン兵士らが撤退にかかる。士気が崩れている撤退戦は最も難しい。だが――

「バーレン、ネイマン! 頼むぞ!」

 リューシスは、三陣の騎兵隊の中にいる二人に叫んだ。

「承知した!」
「おうよ、任せろ!」

 ローヤン近衛軍の中でもそうそう勝てる者はいないと評された猛者二人が、配下の兵士らを引き連れて前線へと駆けた。

 バーレンとネイマンらは、悲鳴を上げながら逃げて来るローヤン軍とは逆の前方へと走り、勢いに乗って追って来るマンジュ軍騎兵らの前に飛び出すや、

「ここからは行かせんぞ!」

 と、バーレンは豪槍を雷撃の如く繰り出し、

「蛮族ども、かかって来い!」

 ネイマンは眼を剥きながら大刀を唸らせた。

 二人の豪勇の前には、流石のマンジュ騎馬隊も勢いを挫かれた。
 馬の脚を折られて横転し、馬上のマンジュ兵は胸甲ごと肉体を斬り裂かれ、憐れにも大地を鮮血で染める。

 更に、そんな二人に牽引されて、配下の兵士達も果敢にマンジュ騎馬隊に向かって槍を突き出す。

 彼らは、こうして楯となってマンジュ軍の攻勢を食い留めながらも、徐々に徐々に後退して行った。
 これは、開戦前に一抹の不安を感じていたリューシスが、万が一の時の為に一計を案じた上で、バーレンとネイマンらに言い含めていたことであった。

 そのリューシスは、供回りの飛龍隊を率いて後方上空から飛んで行く。
 そして、バーレンとネイマンらが獅子奮迅の働きでローヤン軍の壁となりながら目標地点まで退いたのを視認すると、率いていた龍士たちに命令を下した。

「加速!」

 龍士たちが「おう!」と猛って答える。
 リューシスらは飛翔速度を上げた。
 そしてマンジュ軍の中央上空に達した時、リューシスが「放てっ!」と命令を下した。
 龍士たちが一斉に眼下に向けて火矢を放った。
 
 すると凄まじい轟音が鳴り響き、大地のあちこちが猛火と共に爆発、マンジュ騎兵らが一斉に吹き飛ばされた。

 リューシスは、予めこの地点の広範囲に渡って火薬を埋めておいたのだった。それが火矢で着火して爆発を起こしたのである。
 
 その時、バティはバーレンとネイマンの武勇に驚嘆しながらも、「勢いを削がれたのは残念だが、滅多に出会えぬ好敵手を見つけたぞ。俺自ら討ち取ってやる」と、二人を目掛けて駆け出そうとしていたがのだが、背後で起きた轟音と悲鳴に振り返った。

「しまった、備えがあったか」

 バティが舌打ちした瞬間、またも轟音が響いた。

 今度は天地がひっくり返ったの如く、足下の土が高く噴き上がった。
 その上空では、飛龍に乗ったエレーナが天法術の構えを取っていた。彼女が土の最大秘術である天地無法を放ったのである。

 この二度の爆発でマンジュ軍は混乱に陥った。
 特に、火を恐れる習性を持った一角馬たちが、最初の爆発で舞い上がった猛火を見て怯え、馬上のマンジュ兵らが落ち着かせようとしても統制が効かずに、勝手にあちこちを逃げ惑った。

 更に、「今が好機だ、行くぞ!」と、上空のリューシスらも動いた。

「降下突撃!」

 エレーナ以外のリューシスら約五十騎の精鋭飛龍隊が、混乱に陥ったマンジュ軍中央目掛けて滑空し、強力な飛龍突撃を放った。

 マンジュ騎兵らは、飛龍の鋭い角に鎧を貫かれ、前脚で蹴り飛ばされ、龍士らがすれ違いざまに振った刀槍の刃に身体を斬り裂かれた。
 わずか約五十騎と少数であるが、その衝撃力と破壊力は抜群である。
 マンジュ兵らはすっかり戦意を挫かれ、悲鳴を上げて逃げ始めた。

「王子!」

 マンジュ大将軍コルティエルが、バティの下へ駈け付けて来た。

「ローヤン軍はもう十分に叩きました。これ以上損害が大きくなる前に退きましょう」

「うむ……名高いローヤン飛龍隊には警戒していたが、ここで天法術を交えて使って来るとはな」

 バティは切れ長の眼で悔しげに自軍を見回すと、

「仕方ない。よし、退くぞ!」

 と、撤退命令を下した。

 それを見て、リューシスもまた「バーレンネイマンもういい退くぞ!」と、命令を響かせた。

 その時ちょうど、他の生き残ったローヤン兵ほぼ全員が陣城への撤退を完了していた。

 こうして、双方が致命的な損害を負う前に兵を退く形で、今回の戦いは終結した。
 それ故、一見すると引き分けと見える。

 だが、実際にはこの短時間の戦闘でローヤン軍が約一千人を超える死傷者を出したのに対し、マンジュ軍の死傷者はわずかに百人程度であり、ローヤン軍の敗北に近い。
 それはまた、リューシスにとって恐らく初めての敗戦でもあった。

 ――未知の相手とは言え、情けない。何たるざまだ。

 リューシスは、陣城内のあちこちに横たわる負傷兵らを見回しながら、心の底から悔しがると同時に、

 ――まあいい。倒し甲斐のある相手じゃないか。次は勝ってやるぞ。

 と、得体の知れぬ高揚感と共に、憤然と闘志を滾らせた。
 だが次の瞬間、「うん?」と顔をしかめた。

 ――今まで意識したことは無かったが、俺は戦が好きだったのか?

 彼はそのまま考え込んだが、「まあいいか」と苦笑すると、傷の痛みに呻いている兵士の下へ駆け寄った。

「今手当てしてやるからな、もうちょっと我慢してくれ」

 リューシスは救護兵から布と塗り薬を受け取り、自ら兵士らを手当てして回った。



 その夜、硬い麺包と羊肉のスープだけの簡素な夕食を取った後、リューシスは皆を集めて軍議を開いた。

「マンジュ兵の強さは予想以上だった。正直言ってあそこまでとは思わなかったわ」

 サイフォンが言うと、

「北方射法戦術を使わずにいきなり突撃して来たのも想定外でしたね」

 シュエリーは真面目な顔で言った。

「リューシス殿下の言う通りに火薬の罠を仕掛けておいて良かった。あれが無かったらどうなっていたかわからん。流石は殿下だ。それに、バーレンどのとネイマンどの、二人がいたおかげで助かった。噂通りの豪勇、感服しましたぞ」

 サイフォンは七龍将軍でありながらも、ローヤン正規武官でもない上に一回り年下である二人に向かって丁寧な口調で褒め称えた。

「あれぐらい大したことねえよ。むしろ暴れ足りなかったぐらいだぜ」

 ネイマンは豪放に笑い、バーレンは無言で微笑した。
 だが、二人共に頬や腕、脚などに小傷を負っており、顔にも疲労の色が見えた。
 流石の猛者二人にとっても死闘であったことがわかる。

「マンジュ兵の精強、一角馬イージューバの速さと攻撃力、そして意表をつく戦術。どれも想定外だったが、全てはそれを読みきれなかった俺の失策だ」

 リューシスは険しい表情で静かに言うと、

「彼を知り己を知れば百戦して危うからず。もっと情報を集めるべきだった」

 リューシスは、語気に後悔をにじませた。

「シュエリー、もっと密偵を送り込んでマンジュ軍を調べてくれ。兵士らはどんな食事を取っているか、休息時間はどう過ごしているか、など。また、敵将バティ、コルティエルらの性格、普段はどんな食を好みどのような生活をしているか、そしてどんな女を好むか、まで徹底的にだ」
「はい、承知仕りました」

 シュエリーは真面目な顔で答えた。

 その時、取次の兵士がやって来て、一つの知らせを報告して来た。

「申し上げます。マンジュ軍が野営地を畳み、ハルバン城へと引き揚げたようです」
「何、撤退したと言うのか」

 サイフォンが驚いて問いかえす。

「はい」

 兵士が答えると、皆がどよめいた。

「突然どうしたってんだ?」
「戦は終始マンジュが優勢だった。何故引き上げる必要がある?」

 ヴァレリーが卓の上で指をついて訝しむ。

 すると、リューシスが舌打ちして言った。

「少しやりすぎたかな。警戒したのかも知れない」

 それを聞いてシュエリーが答えた。

「マンジュは我らを敗走に追い込みましたが、バーレン、ネイマンどのの豪勇と火計の罠、更には飛龍隊の降下突撃による反撃。その上、我らは陣城を築いております。これは容易には勝てないと思い、一度ハルバン城に退いて策を練り、もう一度態勢を整えるつもりなのでしょう。ハルバン城も奪取したばかりで足下を固めておきたいことでしょうし」

 このシュエリーの言葉の通りであった。

 その頃、夜闇の中をハルバン城へと急ぐマンジュ軍中――

「バティ様、何故急に撤退など? 最後に反撃を受けたとは言え、我らが圧倒的に有利でした。明日再び攻撃をかければ勝利は間違いないでしょうに」

 マンジュの将軍の一人、ゼイルが不満そうにマンジュ語で訊いた。
 バティが意味深にふふっと笑うと、代わりに大将軍コルティエルが答えた。

「わからんか? 確かに戦は我らが圧倒的に有利であったが、ローヤン軍はそのような事態に備えて火計を用意していた。更にはわざわざ陣城まで築いている。そのように用心していた相手に、明日も同じような戦いができるとは限らん。しかも、お前も見たであろう。敵には我らマンジュの中でもそうそういない程の猛者が二人もおる。加えてあの飛龍隊の強さは恐ろしい。そう簡単には勝てん」
「その通り」

 バティは頷くと、

「そして、それらの手配を指図していたであろうリューシスパールは戦術に長けていると聞く。明日は何をしてくるかわからないからな。それに、我らはハルバン城を奪取したばかりで人心がまだ落ち着いていない。まずはハルバン城を落ち着かせ、態勢を速やかに整えてから再び攻勢に移る」

 と、マンジュ語で悠然と答えた。
 その様には、まだ二十五歳と言う若い王子でありながら、すでに大王の如き風格があった。
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