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ヴァレリーの決断
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表情を一変させ、緑の瞳を冷たく光らせたシーザーは、護衛の兵士らを従えたままリューシスらに近づいて行った。
そして十五メイリほどの距離にまで来ると、リューシスに声をかけた。
「リュース」
「うん? 何でしょうか?」
ネイマンらとしゃべっていたリューシスが、シーザーを振り返り見た。
シーザーは冷やかな薄笑いを浮かべて言った。
「悪いが、その長剣を見せてもらえまいか」
リューシスはぎくりと身体を硬直させた。
硬い表情で、シーザーに訊き返した。
「何故でしょうか?」
「見たいのだ。その柄に刻まれているものを」
シーザーの言葉を聞いたその一瞬で、リューシスの背に冷たいものがどっと流れ落ちた。
「見せられぬのか?」
シーザーは低い声で冷笑した。
「いや、これは先祖代々伝わっている宝剣でして……」
「ローヤン皇家のか?」
シーザーが鋭く放った言葉。
周囲の部下や兵士たちは一様に驚いた表情となり、リューシスらは固まった。
「だから見せられないのであろう?」
追い討つように言い、シーザーは腰の長剣に手をかけた。ガルシャワ一美しいと言われる男の全身が、たちまち氷のような殺気に包まれた。
その瞬間、リューシスはかかとを浮かせたが、すぐにシーザーの大声が響き渡った。
「囲め!」
命令と同時、シーザーの部下達、武装兵たちが駆けて来て、リューシスらを取り囲んだ。
リューシスは唇を噛み、長剣を抜いた。
「くそったれが」
ネイマンも腰の大刀を抜き払った。
ヴァレリーとチャオリー、神猫シャオミンは顔を青くし、息を吞んだ。イーハオとアルハオだけがきょとんとしている。
「首都アンラードから逃亡中だとは聞いていたが、まさかこんなところに……いや、まさかお前がローヤンの第一皇子、リューシスパールとはな」
シーザーは長剣を鞘走らせて薄笑いを浮かべた。美形であるが故に、殺気を放つと不気味な凄味がある。
「え? ええ? リューシス……?」
イーハオは目を丸くしてリューシスを見上げた。
リューシスは引きつった表情になりながらも、不敵に笑みを浮かべた。
「違う、と言ってもシーザーほどの男が信じるわけないよな。はじめまして、とでも言えばいいかな」
「ふふ……遠目には見たことがあったが、こうして間近で見ると、なかなかの男前ではないか」
「お前が言うと嫌味にしか聞こえないな」
「ふ……」
シーザーと、リューシスの距離はわずかに十五メイリほど。
その間に、ひりつくような緊張感が張り詰めたが、シーザーの鋭い声がそれを突き破った。
「リューシスパールを捕らよ!」
同時に、囲んでいたガルシャワ兵らがリューシスらに殺到した。リューシスは目をぎらつかせて、
「皆伏せろ!」
と叫びながら、すでに雷気を帯びた光の粒が集まっていた左手を突き出しながら身体を一回転させた。
現在、太陽は中天を過ぎたところにある。光の天法術が最も威力を強くする時間帯である。
強烈な雷光の衝撃波が円を描きながら飛散し、襲いかかって来ていたガルシャワ兵らを焦がしながら吹き飛ばした。
「チャオリー、イーハオらを頼む!」
リューシスは叫ぶと、イーハオとアルハオをチャオリーに押し付け、その背中をどんっと押してから、
「ネイマン、こっちからだ!」
と、シーザーのいる方とは逆の方へ駆け、倒れているガルシャワ兵らを躍り超えて行った。シャオミンは慌てて上空に飛翔する。
「逃がすな、追え!」
目を怒らせたシーザーは残りの兵士らを動かし、自らも長剣を握ったまま追いかけ始めたが、ふと思い直して足を止めると、左右の側近らに訊いた。
「この時間であれば、第一大隊と第二大隊、第四大隊は動けるはずだな?」
「はっ。その通りです」
「よし、その三隊を全て動かすぞ。ついてこい」
と、早口に言いながら駆け出した。
側近らは驚きながら慌ててその後を追いかける。
「全てですと? 奴らはたった二人ですぞ。あの通り兵士らが追いかけております。すぐにでも捕えられましょう」
「奴はリューシスパールだ。何が起きるかわからん!」
と答え、足を止めて振り返った。
俄かに悲鳴が交錯し、騒然とし始めた政庁前広場の中で、ガルシャワ人兵士らが逃げて行くリューシスとネイマンを追いかけている。
リューシスは時折振り返って雷光波を放ち、追跡を撃退していたが、前方からも別のガルシャワ兵の一団が現れて殺到して来た。
――畜生!
リューシスは悔しげに唇を噛んだ。
額には大粒の汗が浮いており、表情には疲労が現れ始めている。
天法術は、無限に使えるものではない。
使用には天精と言うものが大きく関わっているとは言え、天精は結局肉体から作られ、術は身体から発動する。体力を消耗していれば術の威力は弱くなり、やがては術そのものを放てなくなる。
今のリューシスは、昨夜から一晩中走り回っている。
ホウロー山から戻って来る途中、ヴァレリーが用意してくれた馬車の中で仮眠を取ったが、それでもわずかに二、三時間である。
現在、光の天法術が最も強力な時間帯であるとは言え、リューシスの体力自体がもう限界に近づいていた。
リューシスは大声で吼え、両手を前方に突き出した。力を振り絞った渾身の一撃で、一際大きな雷光波が虚空を疾走した。
しかし、その一撃で吹き飛ばされた一団の向こう側から、より数の多い新たな一団が出現して来た。
「仕方ねえ、ここは俺に任せろ。おめえは逃げろ」
ネイマンが大きな目を怒らせて、大刀を大きく一振りした。
「そうは行くかよ」
と、リューシスも長剣を握りしめた時であった。
「皆の者! 決起の時は今ぞ! ローヤンの皇子リューシス殿下をお守りせよ!」
不意に、辺りをつんざく大声が響き渡った。
その声がする後方を、リューシスとネイマンは振り返った。
そこに、長剣を提げながら疾走してくる一人の武将がいた。ヴァレリーであった。
「同志たちよ! 今こそ立ち上がる時ぞ! ローヤンの皇子リューシス様を助け、このクージンをローヤン帝国に取り戻すのだ!」
ヴァレリーは絶叫しながら駆けて来た。
すると、リューシスの前後から殺到して来ていた集団に、突如として悲鳴と怒号が上がり、同士討ちが始まった。
ヴァレリーの呼びかけに応え、集団の中に混じっていた反乱計画の仲間たちが襲い掛かったのだ。
それに気付いて顔色を変えたリューシスの下へ、目を血走らせたヴァレリーが走って来た。
「殿下、今のうちにお逃げください!」
リューシスは愕然とした顔でヴァレリーを見た。
「ヴァレリー、何しているんだ……折角クージン奪還の為に密かに集めていた仲間たちを……これで計画は全て無駄になったぞ!」
だがヴァレリーは、迷いなき瞳をリューシスに向けた。
「わかっております。しかし、非才の私にはこれしか思いつきませんでした。今の殿下を助ける為には、ここでこうするしかありませんでした」
「お前……」
リューシスは前後を見回した。ヴァレリーの仲間たちは奮戦しているが、何せ数は少ない。明らかに劣勢であり、数人はすでにガルシャワ兵の刀槍の餌食となって倒れていた。
それを見てリューシスは、瞳に虚無の色を浮かべて呟いた。
「まただ……」
「え?」
「…………」
リューシスは悲しげで虚ろな瞳のまま何も言わなかった。
ヴァレリーはそれが気になったが、今はそれどころではない。促すように叫んだ。
「殿下、ここは我々が食い止めますので急ぎお逃げください!」
リューシスは瞳に強い光を戻し、ヴァレリーを再び見た。
「食い止める? 俺を逃がす為に死ぬ気か?」
「もちろんでございます。殿下を逃がせるのならばこの命惜しくはございません。他の者達も同じはずです」
「それは駄目だ!」
リューシスは怒って言った。
「え?」
「俺の為に死ぬな。俺一人の命の為に千人もの人間を死なせられるか」
「しかし……」
「だがこうなってしまった以上は仕方ない。とりあえず全員で城外に逃げるぞ」
「では、一気に兵営を襲い、更に政庁を占拠しては如何でしょうか? 今なら、奴らの態勢もまだ整っておりません」
「駄目だ。それでも奴らの方が遥かに人数が多い。それに相手にはシーザーがいる。すぐに全軍を動かして守りを固めるどころか、逆にこの動きの取りづらい城内で退路を塞がれ、包囲されて皆殺しにされるぞ。それに、今ここで戦えば関係の無い市民を巻き込んでしまう。それは避けたい」
「ですが……」
「だから、ガルシャワ軍の攻撃をさばきつつ、城門を閉じられる前に迅速に仲間全員で城外に出るんだ」
「城外に出てからはどうなさいますか?」
「全員でここから最も近いメイロン城に向かう……」
と、リューシスは言ったが、すぐに思い直して首を横に振った。
「いや、駄目だ。シーザーはすぐに軽騎兵を出して追って来るだろう。追いつかれて皆殺しだ」
「ではどうすれば……」
「ああ、そうだ。城外の東には、ジューハイの森があったな?」
「ええ」
クージン城はやや高台の上に位置しており、その周囲は緩やかな斜面である。そして、東の方向約二コーリー(キロメートル)の場所に、ジューハイと言う名の深い森が広がっていた。
「外に出たら、全員その手前に集まれ。そして隊列を整え、一切声を上げずにじっとしているんだ」
「はっ。しかしその意味は?」
「森の手前でそうやっていれば、奴らは森に伏兵があるか、何かしらの罠があると警戒し、すぐには攻めかかって来ないはずだ」
「なるほど。しかしその後はどうなさいますか?」
「何か策を講じて逃げるか……あるいは、奴と一戦交える」
リューシスは、瞳にぎらりと闘志を光らせた。
ヴァレリーは、思わず武者震いを感じた。だが不安がある。やや青ざめた顔で、
「奴らは一万を超えています。対して我らは一千。野戦ではとても太刀打ちできぬかと思うのですが、何か作戦があるのですか?」
「ねえよ。これから考える。どのみち、城内にいて包囲されるよりはいいだろう。さあ、行くぞ」
「では早速私は皆を動かします。殿下は急ぎ外へ」
「おう。ああ、そうだ。メイロン城へ援軍を求める使いも出しておいてくれ」
そして、リューシスとネイマンは騒然とし始めた城内を東の城門へ向かって駆け、ヴァレリーは別の方角へ走って行った。
遠くからその様子を見ていたシーザーは冷笑した。
「ヴァレリー・チェルノフ、やはり貴様だったか。睨んでいた通りだ。仕掛けていた罠にははまらず、ここでリューシスパールを救う為に蜂起するとは想定外だったが、ちょうどいい。この機会にリューシスパール共々始末してやる」
シーザーは黒い戦袍を翻して、兵営を目指して駆けて行った。
そして、兵士らも群衆も消え去った広場内の一角では、イーハオとアルハオが呆然とした顔で立ちすくんでいた。
アルハオは、幼い為にまだよくわかっていない。ただ、突然起きたことにびっくりしているだけである。
しかし、イーハオは違う。今何が起きたかをはっきりと理解しており、しかしそれが信じられないような気持ちで放心していた。
だが、リューシスとネイマンが戦いながら駆け去って行くのを見送りながら、震えるような声で呟いた。
「リュースさんはリューシスパール様だったんだ……ローヤンの皇子の……」
傍らには、チャオリーがいる。チャオリーは、イーハオの頭を撫でて言った。
「ああ、本物のリューシス殿下だ」
イーハオの瞳がきらきらと輝き始め、身体が震え始めた。
「父ちゃんが言っていたことは本当だった……リューシス様は全力で俺を助けてくれたんだ……リューシス様はローヤンの英雄だ……天下無双の英雄だ!」
イーハオの全身に、恍惚とも興奮ともわからぬ、不思議な衝動が駆け巡った。少年はそれをどうしていいかわからず、何か叫びながら飛び跳ねた。
チャオリーはそれを見て微笑んだ後、イーハオに言った。
「そうだ。イーハオ、よく覚えておきなさい。あのお方は抜けているところやだらしないところもあるがな……間違いなくローヤンの英雄だ。腐り始めたローヤン帝国を救ってくださるお方だ」
すでに早鐘がけたたましく響き、各所で武装した兵士の集団が駆け回り始めていた。
リューシスとネイマンは、彼らの目につかぬように路地を駆け抜けて行ったが、やがて路地の角から飛び出して来た一団にぶつかった。
一団の先頭にいた一人の兵士が、リューシスを見て目の色を変えた。
――六人か。やれないことはない。
リューシスは足を止め、左手に雷気を集めた。だが、相対する兵士が慌てて手を振って叫んだ。
「殿下! 我らはチェルノフ将軍の部下です。お供します!」
「ヴァレリーの仲間か?」
「はい。急ぎましょう!」
リューシスは安堵し、再び彼らと共に城門へ向かって走り始めたが、ふと、一人の女性の言葉が脳裏を駆け抜けて行った。
――ご武運を。
リューシスは、共に走る兵士らに訊いた。
「牢獄はどこにある?」
「シェフェン街の外れです」
「じゃあ近いな?」
「ええ。ちょうどこの先になります」
「悪いがそこまで案内してくれ」
リューシスらは、兵士らの案内で通りを駆け抜け、シェフェン街に入り、その外れにある牢獄に着いた。
石造りの牢獄の建物の前には、衛兵が四人いて警備をしていた。彼らはリューシスらを見ると槍を構えた。
「な、何だ貴様らは? もしや……」
「やれ!」
リューシスは号令した。ネイマンや兵士らをかからせ、自らも長剣で斬りかかった。
衛兵らはすぐに地面に無惨な姿を晒した。
「おい、おめえ、まさか……」
顔を曇らせたネイマンに、リューシスは倒れた衛兵たちに駆け寄りながら答えた。
「エレーナを助ける」
「馬鹿野郎! そんな時間ねえだろ!」
その時、後方より鋭い叫び声が聞こえた。
「あそこにも賊がいたぞ!」
怒号しながら殺到してくるガルシャワ兵。ざっと十人ほどはいた。
「ネイマン、皆、ここは頼む!」
リューシスは叫ぶと、倒れている衛兵たちの懐から鍵の束を奪い取り、建物の中に飛び込んだ。
そして十五メイリほどの距離にまで来ると、リューシスに声をかけた。
「リュース」
「うん? 何でしょうか?」
ネイマンらとしゃべっていたリューシスが、シーザーを振り返り見た。
シーザーは冷やかな薄笑いを浮かべて言った。
「悪いが、その長剣を見せてもらえまいか」
リューシスはぎくりと身体を硬直させた。
硬い表情で、シーザーに訊き返した。
「何故でしょうか?」
「見たいのだ。その柄に刻まれているものを」
シーザーの言葉を聞いたその一瞬で、リューシスの背に冷たいものがどっと流れ落ちた。
「見せられぬのか?」
シーザーは低い声で冷笑した。
「いや、これは先祖代々伝わっている宝剣でして……」
「ローヤン皇家のか?」
シーザーが鋭く放った言葉。
周囲の部下や兵士たちは一様に驚いた表情となり、リューシスらは固まった。
「だから見せられないのであろう?」
追い討つように言い、シーザーは腰の長剣に手をかけた。ガルシャワ一美しいと言われる男の全身が、たちまち氷のような殺気に包まれた。
その瞬間、リューシスはかかとを浮かせたが、すぐにシーザーの大声が響き渡った。
「囲め!」
命令と同時、シーザーの部下達、武装兵たちが駆けて来て、リューシスらを取り囲んだ。
リューシスは唇を噛み、長剣を抜いた。
「くそったれが」
ネイマンも腰の大刀を抜き払った。
ヴァレリーとチャオリー、神猫シャオミンは顔を青くし、息を吞んだ。イーハオとアルハオだけがきょとんとしている。
「首都アンラードから逃亡中だとは聞いていたが、まさかこんなところに……いや、まさかお前がローヤンの第一皇子、リューシスパールとはな」
シーザーは長剣を鞘走らせて薄笑いを浮かべた。美形であるが故に、殺気を放つと不気味な凄味がある。
「え? ええ? リューシス……?」
イーハオは目を丸くしてリューシスを見上げた。
リューシスは引きつった表情になりながらも、不敵に笑みを浮かべた。
「違う、と言ってもシーザーほどの男が信じるわけないよな。はじめまして、とでも言えばいいかな」
「ふふ……遠目には見たことがあったが、こうして間近で見ると、なかなかの男前ではないか」
「お前が言うと嫌味にしか聞こえないな」
「ふ……」
シーザーと、リューシスの距離はわずかに十五メイリほど。
その間に、ひりつくような緊張感が張り詰めたが、シーザーの鋭い声がそれを突き破った。
「リューシスパールを捕らよ!」
同時に、囲んでいたガルシャワ兵らがリューシスらに殺到した。リューシスは目をぎらつかせて、
「皆伏せろ!」
と叫びながら、すでに雷気を帯びた光の粒が集まっていた左手を突き出しながら身体を一回転させた。
現在、太陽は中天を過ぎたところにある。光の天法術が最も威力を強くする時間帯である。
強烈な雷光の衝撃波が円を描きながら飛散し、襲いかかって来ていたガルシャワ兵らを焦がしながら吹き飛ばした。
「チャオリー、イーハオらを頼む!」
リューシスは叫ぶと、イーハオとアルハオをチャオリーに押し付け、その背中をどんっと押してから、
「ネイマン、こっちからだ!」
と、シーザーのいる方とは逆の方へ駆け、倒れているガルシャワ兵らを躍り超えて行った。シャオミンは慌てて上空に飛翔する。
「逃がすな、追え!」
目を怒らせたシーザーは残りの兵士らを動かし、自らも長剣を握ったまま追いかけ始めたが、ふと思い直して足を止めると、左右の側近らに訊いた。
「この時間であれば、第一大隊と第二大隊、第四大隊は動けるはずだな?」
「はっ。その通りです」
「よし、その三隊を全て動かすぞ。ついてこい」
と、早口に言いながら駆け出した。
側近らは驚きながら慌ててその後を追いかける。
「全てですと? 奴らはたった二人ですぞ。あの通り兵士らが追いかけております。すぐにでも捕えられましょう」
「奴はリューシスパールだ。何が起きるかわからん!」
と答え、足を止めて振り返った。
俄かに悲鳴が交錯し、騒然とし始めた政庁前広場の中で、ガルシャワ人兵士らが逃げて行くリューシスとネイマンを追いかけている。
リューシスは時折振り返って雷光波を放ち、追跡を撃退していたが、前方からも別のガルシャワ兵の一団が現れて殺到して来た。
――畜生!
リューシスは悔しげに唇を噛んだ。
額には大粒の汗が浮いており、表情には疲労が現れ始めている。
天法術は、無限に使えるものではない。
使用には天精と言うものが大きく関わっているとは言え、天精は結局肉体から作られ、術は身体から発動する。体力を消耗していれば術の威力は弱くなり、やがては術そのものを放てなくなる。
今のリューシスは、昨夜から一晩中走り回っている。
ホウロー山から戻って来る途中、ヴァレリーが用意してくれた馬車の中で仮眠を取ったが、それでもわずかに二、三時間である。
現在、光の天法術が最も強力な時間帯であるとは言え、リューシスの体力自体がもう限界に近づいていた。
リューシスは大声で吼え、両手を前方に突き出した。力を振り絞った渾身の一撃で、一際大きな雷光波が虚空を疾走した。
しかし、その一撃で吹き飛ばされた一団の向こう側から、より数の多い新たな一団が出現して来た。
「仕方ねえ、ここは俺に任せろ。おめえは逃げろ」
ネイマンが大きな目を怒らせて、大刀を大きく一振りした。
「そうは行くかよ」
と、リューシスも長剣を握りしめた時であった。
「皆の者! 決起の時は今ぞ! ローヤンの皇子リューシス殿下をお守りせよ!」
不意に、辺りをつんざく大声が響き渡った。
その声がする後方を、リューシスとネイマンは振り返った。
そこに、長剣を提げながら疾走してくる一人の武将がいた。ヴァレリーであった。
「同志たちよ! 今こそ立ち上がる時ぞ! ローヤンの皇子リューシス様を助け、このクージンをローヤン帝国に取り戻すのだ!」
ヴァレリーは絶叫しながら駆けて来た。
すると、リューシスの前後から殺到して来ていた集団に、突如として悲鳴と怒号が上がり、同士討ちが始まった。
ヴァレリーの呼びかけに応え、集団の中に混じっていた反乱計画の仲間たちが襲い掛かったのだ。
それに気付いて顔色を変えたリューシスの下へ、目を血走らせたヴァレリーが走って来た。
「殿下、今のうちにお逃げください!」
リューシスは愕然とした顔でヴァレリーを見た。
「ヴァレリー、何しているんだ……折角クージン奪還の為に密かに集めていた仲間たちを……これで計画は全て無駄になったぞ!」
だがヴァレリーは、迷いなき瞳をリューシスに向けた。
「わかっております。しかし、非才の私にはこれしか思いつきませんでした。今の殿下を助ける為には、ここでこうするしかありませんでした」
「お前……」
リューシスは前後を見回した。ヴァレリーの仲間たちは奮戦しているが、何せ数は少ない。明らかに劣勢であり、数人はすでにガルシャワ兵の刀槍の餌食となって倒れていた。
それを見てリューシスは、瞳に虚無の色を浮かべて呟いた。
「まただ……」
「え?」
「…………」
リューシスは悲しげで虚ろな瞳のまま何も言わなかった。
ヴァレリーはそれが気になったが、今はそれどころではない。促すように叫んだ。
「殿下、ここは我々が食い止めますので急ぎお逃げください!」
リューシスは瞳に強い光を戻し、ヴァレリーを再び見た。
「食い止める? 俺を逃がす為に死ぬ気か?」
「もちろんでございます。殿下を逃がせるのならばこの命惜しくはございません。他の者達も同じはずです」
「それは駄目だ!」
リューシスは怒って言った。
「え?」
「俺の為に死ぬな。俺一人の命の為に千人もの人間を死なせられるか」
「しかし……」
「だがこうなってしまった以上は仕方ない。とりあえず全員で城外に逃げるぞ」
「では、一気に兵営を襲い、更に政庁を占拠しては如何でしょうか? 今なら、奴らの態勢もまだ整っておりません」
「駄目だ。それでも奴らの方が遥かに人数が多い。それに相手にはシーザーがいる。すぐに全軍を動かして守りを固めるどころか、逆にこの動きの取りづらい城内で退路を塞がれ、包囲されて皆殺しにされるぞ。それに、今ここで戦えば関係の無い市民を巻き込んでしまう。それは避けたい」
「ですが……」
「だから、ガルシャワ軍の攻撃をさばきつつ、城門を閉じられる前に迅速に仲間全員で城外に出るんだ」
「城外に出てからはどうなさいますか?」
「全員でここから最も近いメイロン城に向かう……」
と、リューシスは言ったが、すぐに思い直して首を横に振った。
「いや、駄目だ。シーザーはすぐに軽騎兵を出して追って来るだろう。追いつかれて皆殺しだ」
「ではどうすれば……」
「ああ、そうだ。城外の東には、ジューハイの森があったな?」
「ええ」
クージン城はやや高台の上に位置しており、その周囲は緩やかな斜面である。そして、東の方向約二コーリー(キロメートル)の場所に、ジューハイと言う名の深い森が広がっていた。
「外に出たら、全員その手前に集まれ。そして隊列を整え、一切声を上げずにじっとしているんだ」
「はっ。しかしその意味は?」
「森の手前でそうやっていれば、奴らは森に伏兵があるか、何かしらの罠があると警戒し、すぐには攻めかかって来ないはずだ」
「なるほど。しかしその後はどうなさいますか?」
「何か策を講じて逃げるか……あるいは、奴と一戦交える」
リューシスは、瞳にぎらりと闘志を光らせた。
ヴァレリーは、思わず武者震いを感じた。だが不安がある。やや青ざめた顔で、
「奴らは一万を超えています。対して我らは一千。野戦ではとても太刀打ちできぬかと思うのですが、何か作戦があるのですか?」
「ねえよ。これから考える。どのみち、城内にいて包囲されるよりはいいだろう。さあ、行くぞ」
「では早速私は皆を動かします。殿下は急ぎ外へ」
「おう。ああ、そうだ。メイロン城へ援軍を求める使いも出しておいてくれ」
そして、リューシスとネイマンは騒然とし始めた城内を東の城門へ向かって駆け、ヴァレリーは別の方角へ走って行った。
遠くからその様子を見ていたシーザーは冷笑した。
「ヴァレリー・チェルノフ、やはり貴様だったか。睨んでいた通りだ。仕掛けていた罠にははまらず、ここでリューシスパールを救う為に蜂起するとは想定外だったが、ちょうどいい。この機会にリューシスパール共々始末してやる」
シーザーは黒い戦袍を翻して、兵営を目指して駆けて行った。
そして、兵士らも群衆も消え去った広場内の一角では、イーハオとアルハオが呆然とした顔で立ちすくんでいた。
アルハオは、幼い為にまだよくわかっていない。ただ、突然起きたことにびっくりしているだけである。
しかし、イーハオは違う。今何が起きたかをはっきりと理解しており、しかしそれが信じられないような気持ちで放心していた。
だが、リューシスとネイマンが戦いながら駆け去って行くのを見送りながら、震えるような声で呟いた。
「リュースさんはリューシスパール様だったんだ……ローヤンの皇子の……」
傍らには、チャオリーがいる。チャオリーは、イーハオの頭を撫でて言った。
「ああ、本物のリューシス殿下だ」
イーハオの瞳がきらきらと輝き始め、身体が震え始めた。
「父ちゃんが言っていたことは本当だった……リューシス様は全力で俺を助けてくれたんだ……リューシス様はローヤンの英雄だ……天下無双の英雄だ!」
イーハオの全身に、恍惚とも興奮ともわからぬ、不思議な衝動が駆け巡った。少年はそれをどうしていいかわからず、何か叫びながら飛び跳ねた。
チャオリーはそれを見て微笑んだ後、イーハオに言った。
「そうだ。イーハオ、よく覚えておきなさい。あのお方は抜けているところやだらしないところもあるがな……間違いなくローヤンの英雄だ。腐り始めたローヤン帝国を救ってくださるお方だ」
すでに早鐘がけたたましく響き、各所で武装した兵士の集団が駆け回り始めていた。
リューシスとネイマンは、彼らの目につかぬように路地を駆け抜けて行ったが、やがて路地の角から飛び出して来た一団にぶつかった。
一団の先頭にいた一人の兵士が、リューシスを見て目の色を変えた。
――六人か。やれないことはない。
リューシスは足を止め、左手に雷気を集めた。だが、相対する兵士が慌てて手を振って叫んだ。
「殿下! 我らはチェルノフ将軍の部下です。お供します!」
「ヴァレリーの仲間か?」
「はい。急ぎましょう!」
リューシスは安堵し、再び彼らと共に城門へ向かって走り始めたが、ふと、一人の女性の言葉が脳裏を駆け抜けて行った。
――ご武運を。
リューシスは、共に走る兵士らに訊いた。
「牢獄はどこにある?」
「シェフェン街の外れです」
「じゃあ近いな?」
「ええ。ちょうどこの先になります」
「悪いがそこまで案内してくれ」
リューシスらは、兵士らの案内で通りを駆け抜け、シェフェン街に入り、その外れにある牢獄に着いた。
石造りの牢獄の建物の前には、衛兵が四人いて警備をしていた。彼らはリューシスらを見ると槍を構えた。
「な、何だ貴様らは? もしや……」
「やれ!」
リューシスは号令した。ネイマンや兵士らをかからせ、自らも長剣で斬りかかった。
衛兵らはすぐに地面に無惨な姿を晒した。
「おい、おめえ、まさか……」
顔を曇らせたネイマンに、リューシスは倒れた衛兵たちに駆け寄りながら答えた。
「エレーナを助ける」
「馬鹿野郎! そんな時間ねえだろ!」
その時、後方より鋭い叫び声が聞こえた。
「あそこにも賊がいたぞ!」
怒号しながら殺到してくるガルシャワ兵。ざっと十人ほどはいた。
「ネイマン、皆、ここは頼む!」
リューシスは叫ぶと、倒れている衛兵たちの懐から鍵の束を奪い取り、建物の中に飛び込んだ。
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