紅き龍棲の玉座

五月雨輝

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偽りの結婚

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 公暦1123年、ローヤン暦156年に起きた、ローヤン帝国によるその属国フェイリン王国総攻撃は、とある事件での皇帝イジャスラフの激怒が発端にある。

 イジャスラフの怒りは凄まじく、属国フェイリンは小国であるのに、自ら全軍を率いて攻め込んだのであった。

 その時の戦いに、当時軍才が注目され始めていたリューシスも一軍を率いて参戦し、目覚ましい戦果を挙げた。
 それに感心したイジャスラフは、ローヤンの将来を見据え、大胆にもリューシスを首都レアンドール攻略戦の総大将に任じた。皇子とは言え、異例の大抜擢である。

 軍才に光るものを見せ始めていたとは言え、当時のリューシスはまだ非常に若く、戦争経験も浅い。やはりところどころで攻めあぐねる局面が出た。
 しかし、七龍将軍チーロンサージュンの一人であるキラ・フォメンコや、当時はまだ七龍将軍チーロンサージュンに昇進する前であったビーウェン・ワンらの建言、助力を得て、見事に首都レアンドールを陥落させたのであった。

 フェイリン王国は、事実上、リューシスの手によって滅ぼされたと言ってもよいところがあった。

 首都レアンドール陥落後、イジャスラフは怒りに任せて、捕縛したフェイリン王とその子供たち、文武の重臣たちを皆処刑した。

 ローヤン民族は元々、残虐性が高いことで知られる北方民族の一つである。こういう時に、秘めていた残虐性が発露する。

 皇帝イジャスラフは、レアンドール王宮内の大広間で、国王や王子たち、重臣たちを皆裸にして座らせ、一人一人次々と首を斬らせて行った。それを、イジャスラフはフェイリン王が座っていた玉座から冷酷な笑みで眺めた。

 だが、フェイリン王のたった一人の息女であるエレーナ姫の番になって、耐えきれなくなったリューシスが進み出て咄嗟に叫んだ。

父皇フーエン、私は面白いことを思いつきました。そこの姫を、私の妻にしたいと思います」
「何? それの何が面白い」

 イジャスラフは、怒りに満ちた目をじろりとリューシスに向けた。

「ここで、重臣や兄弟たちが全て首を刎ねられたのを見せられた上で、憎い仇敵である私の妻として生かされると言う、生き地獄を味あわせてやりましょう。私は、そこの女に凌辱の限りを尽くしてやった上、更に子を産ませます。仇敵であるローヤン皇家の子を産ませると言う屈辱を与えてやるのです」

 リューシスが薄笑いで言うと、イジャスラフは「それは面白いかもしれん」と酷薄な笑みを見せ、許可した。

 だが、それはエレーナの命を助ける為に、リューシスが咄嗟に思いついた苦し紛れの策であった。

 その後、リューシスの狙いを何となく察したイジャスラフの疑惑の目を逸らす為、アンラードに戻って来てから二か月後、一応正式に婚儀は挙げて二人は夫婦にはなった。

 しかし、リューシスは最初から全てをエレーナに話し、二人は形だけの夫婦として過ごした。エレーナはリューシスの宮殿内に住んだが、二人は朝夕の食事を居間で共にするだけで、居室、寝室は別々にしていた。もちろん、その間リューシスはエレーナに手も出していない。



「別に恩を着せるわけではないけど、命は助けたんだ。おあいこってことにしてもらいたいもんだけどな」

 リューシスが言うと、エレーナは嘲笑した。

「ええ。私の命を助けてもらったことは感謝してるわ。だけど、貴方がやったことは私一人の命だけで償えるの? 一国を滅ぼし、国王とその王子たち、そして沢山の兵士達……万単位の人間を殺したのよ」
「戦争だ。仕方ないだろう?」
「あなたたち武人はすぐにそういうことを言う。戦争なら何しても許されるって言うの?」
「そう言われちゃどうにもならないけど……」

 リューシスは、エレーナの視線から目を逸らした。
 エレーナは丸窓の縁に腰かけると、外の闇に目をやりながら言った。

「私が貴方の宮殿を出て行った時のことは覚えてる?」
「うん?」

 リューシスはエレーナの横顔を見た。

「私が言ったことよ」
「言ったこと……? ああ……」

 リューシスは、忘れていた記憶を思い起こした。

 結婚してからおよそ一ヵ月半後、リューシスは、仮面夫婦の終わりをエレーナに告げた。

「もうそろそろいいだろう。世間にはやっぱり性格が合わなかったので離縁して追い出した、とでも言っておく。さあ、ここを出て好きなところへ行きな」

 だが、それを聞いたエレーナは、暗い表情で何か考え込んだ後、思い切ったように言った。

「あの……もう、逃がしていただかなくとも構いません。形だけとおっしゃいますが、もう夫婦になったのです。だから、ここに置いてくださいませ」
「え……?」

 リューシスは驚いた。リューシスにとっては意外な、信じられない言葉である。
 リューシスは、フェイリンを滅亡させた人間であり、フェイリンにとってはどこまでも仇敵である。エレーナは命を助けられたとは言え、そんなリューシスを憎悪しており、一刻も早くリューシスの下から去りたいに違いない、とリューシスは思っていた。

 事実、エレーナがアンラードに連れて来られてから二ヶ月、リューシスと婚礼を挙げてから約一ヵ月半の間、朝夕の食事の時間と、用事がある時だけの交流であるが、エレーナはリューシスに対してほとんど笑顔を見せず、態度も素っ気ないものであった。

「待て。わからないな……君は俺を恨み、憎んでいるんじゃないのか? ここにはいたくないはずだと思っていたんだけどな」
「ええ……そうですが……その……今更ここを出ても、他に行くところもなく頼る人もおりませんし」

 エレーナは俯きながら言った。

「ああ、それなら心配するな。実は、フェイリン王宮内で君の側に仕えていた人間を二人、密かに匿ってある。金も五十万リャンほど渡すつもりだ」
「ご、五十万……?」

 エレーナは驚いて顔を上げた。
 とんでもない大金である。ここにいてすでに三ヶ月、何となくリューシスの宮殿の金銭事情はわかって来ている。五十万リャンなんて大金、恐らく今のリューシスが持っている現金の全てである。

「そんな大金……受け取るわけには……」
「いいんだ、気にするな」
「でも、それだけの大金、恐らく貴方様が持っている現金の全てですよね? それを全て私に渡して、明日からどうするんですか」

 するとリューシスは、一瞬言葉に詰まって困ったような表情をしたが、すぐに屈託なく笑って、

「大丈夫だ。ちょっと一ヵ月ほど我慢するだけだ。食事は適当に雑炊ですます。外に飲みにも行かないし、賭場にも行かない」

 エレーナは、じろりとリューシスを見た。

「嘘でしょう。すぐに我慢できなくなって借金するんじゃありませんか?」
「いや……はは……そんなことは……あるかも知れないけど……」

 リューシスは歯切れ悪く苦笑いした。
 それを見て、エレーナはおかしそうに微笑した。

「お、珍しい。笑ったな。まあ、とにかくそういうことだから心配するなよ」

 リューシスは笑いながら言ったが、エレーナはまた暗い表情となった。

「いえ、でもやはり……私はここに……」

 すると、リューシスは何か考え込んだ後に、唇を噛み締めて苦しそうな表情となった。
 それを見て、エレーナは、はっとした。何故なのかわからないが、リューシスは時々憂鬱そうな表情を見せることがある。だが、ここまで辛そうで苦しそうな表情は初めて見た。
 エレーナは、自分の言ったことが何か気に障ったのかと思い、

「あの、私何か……」

 と、一歩進んで言いかけた時、リューシスは突然冷ややかな顔となり、突き放すように言った。

「駄目だ。悪いが君をここに置いておくわけには行かない」
「え……」
「確かに君とは結婚した。だけど、以前にも言ったように、それはあくまでも君の命を救う為だ。俺は君と本当の夫婦にはなれない」
「…………」

 エレーナは呆然とリューシスを見つめた。

「さあ、行きな。元気でな」

 そして、リューシスは追い出すようにエレーナを宮殿から出したのだった。



「覚えてる?」

 あの時とは顔の表情も雰囲気もまるで違う、エレーナが訊いた。

「ああ、まあ、ほどほどには……」
「…………」

 エレーナは、気まずそうな顔で視線を逸らしているリューシスを見つめながら、丸い窓の縁に腰かけた。
 そのまま、じっとリューシスの顔を睨むように見つめていたが、やがて形の良い艶やかな唇を開いた。

「あの時、訊けなかったことがあるのよ」

 すると、リューシスも顔を上げて言った。

「俺もだ。あの時訊くのを忘れて、ずっと気になってたことがある。あの時、何で俺の宮殿に留まりたがったんだ?」
「その前に私の質問に答えて」

 エレーナがリューシスの言葉に被せるように言い、一呼吸置いてから、リューシスの目を見つめて言った。

「私が宮殿に留まらせて欲しいと言った時、貴方は苦しく辛そうな顔になった。あれは何故?」
「そんな顔になったかな……?」

 リューシスは小首を傾げた。

「ええ。いつも、何を考えているのかわからないようなところのある貴方の表情が、あの時はとても苦しそうな色になったのよ」
「…………」
「あれは何? 何であんな顔をしたの?」
「覚えてないな……」

 リューシスは下を向き、呟くように言った。

「……じゃあもう一つ」

 と、エレーナは言ったが、少し躊躇うような表情になった。 
 だが、ふうっと吐息をついて、訊いた。

「あなたは、一度でも私と本当の夫婦になろうと思ったことはなかったの?」

 リューシスは目を上げ、エレーナの白い顔を見た。
 そのままエレーナの顔を見つめた後、短く言った。

「……無い」
「そう……あはは……」

 エレーナは、声を上げて笑った。
 それから笑いを止めると、エレーナは腰帯に差していた短剣を鞘走らせた。

「わかったわ。聞かせてくれてありがとう」

 エレーナは、丸窓から歩いて来て、椅子に座るリューシスの前に立った。

「じゃあ、そろそろあなたの首をいただこうかしら。この山塞の裏手にね、私の父や兄弟たち、その他あの時の戦争で犠牲になったフェイリン人たちの供養塔を建ててあるの。あなたの首は、そこに供えさせてもらうわ。それで、皆の魂も救われるでしょう」
「待てよ。玉璽ユーシを見せてくれるんじゃなかったのか」
「安心してちょうだい。玉璽ユーシは、ちゃんとそのガルシャワのシーザーとか言う男に渡すから。ベン・ハーベンと共にね」

 エレーナは冷笑すると、短剣の切先をリューシスの左胸に伸ばした。
 リューシスは唇を噛み、エレーナの顔を睨んだ。エレーナの表情は落ち着いているように見えた。
 だが視線を短剣に移すと、その切っ先がかすかに震えていた。
 リューシスは再びエレーナの顔を見て、静かに言った。

「君を好きになるのが恐かったんだ」
「……え?」

 エレーナの短剣の微動が泊まった。
 エレーナは手を下ろし、怪訝そうな顔となった。

「どういうこと……?」
「……全て話そう。ちょっと、考えをまとめるから、離れてくれないか」

 リューシスが言うと、エレーナは無言でそこから離れ、再び丸窓の縁に腰かけた。
 そして、エレーナが窓の外に一瞬目をやったその時だった。
 椅子が、がたっと音を立てた。

 エレーナが驚いて振り返ると、縄から両手が自由になったリューシスが、テーブルに手をついて躍り超えて来ようとしていた。
 目を瞠ったエレーナの視界に、焦げて焼き切られた縄が落ちているのが目に入った。

 エレーナは瞬時に何が起きたのかを理解し、自らの迂闊さを悔いた。
 リューシスは光の天法術ティエンファーが使えることを忘れていた。夜であるが、部屋の中には燭の光がある。後ろに縛られた手の指先から、弱いながらも光を発し、その熱で縄を焼き続けていたのだろう。
 また、逆に、術の威力が弱いから、エレーナもそれに気付かなかったのだ。

貴方あなたって人は!」

 エレーナは目を怒らせ、左手に力を込めた。

「地下に連れて行かなかったのは甘かったな!」

 リューシスが飛び掛かるのと、エレーナが左の手の平を突き出したのが同時だった。
 エレーナの手の平から突風が吹いた。

天法術ティエンファー?」

 リューシスは目を瞠った。だが、咄嗟に身を捻ってそれを躱すと、続けて短剣を突き出そうとしていたエレーナの右手を早業で掴み上げた。
 そのまま捻り上げ、握っていた短剣を奪うや、逆に首筋に突きつけた。
 エレーナの動きが止まる。
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