紅き龍棲の玉座

五月雨輝

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華々しい勝利の陰に

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 熱で走る体力が無い彼は、シャオミンに空からイーハオを追わせることによって、イーハオの大体の位置を探り、その進路を予測し、待ち伏せしていたのだった。

「あ……く、くそっ」

 イーハオは尚も財布に未練があったが、ここは逃げなければならない。さっと立ち上がると、背を翻して駆け出した。

「あ、おい、ちょっと待て!」

 リューシスはそれを追いかける。
 だが、今のリューシスの体力では、大人顔負けの俊足であるイーハオにはとても追いつけない。
 すぐに息が上がり、ふらつく始末である。
 しかし、遠ざかって行くイーハオの前方、十字路の左から、衛兵を撒いて来たネイマンとアーシンが現れた。

「いた! 待てこのクソガキ!」

 二人はイーハオを見つけると、目を怒らせて走って来た。
 その上、飛んで来たシャオミンが空からイーハオの頭に襲いかかった。
 悲鳴を上げて転び、土の上に両手をついた時、イーハオはついに観念した。

 地面の上に胡坐をかいて座り込み、腕を組むと、

「わかった。もういい。さあ、お役人にでも突き出せ!」

 と、大声で喚いた。

「上等だ。突き出してやる。だがその前に俺がしつけし直してやる」

 ネイマンが、怒りのままにイーハオの服の襟を掴んで持ち上げた。
 だが、リューシスがそれを止めた。

「よせ、ネイマン!」

 その声に、ネイマンが手を放した。
 リューシスは片膝をつき、イーハオと目線の高さを同じくすると、

「名前はなんて言う?」
「イーハオ」

 イーハオはぶっきらぼうに答えた。

「イーハオか。良い名前だ。で、イーハオ、何でスリなんかするんだ」
「金が無いからに決まってるじゃないか」
「だからと言って人の金を盗んでいいわけがないだろう? 父ちゃん母ちゃんに教えてもらわなかったのか? 人の物を盗んでは行けないって」

 イーハオは答えず、不貞腐れたようにそっぽを向いた。

「金が必要なら親からもらえ。それが駄目なら働いて稼げ。人の金を盗むのだけは駄目だぞ。わかったか?」

 リューシスは優しく諭した。
 しかしイーハオはそっぽを向いたまま反論する。

「親なんかいねえよ。だけど、小さな弟がいる。だから、子供の俺が働いて稼いだ金ぐらいじゃ食って行けないんだ」
「そうなのか。だけどな……」
「俺は父ちゃんを盗まれたんだ。奪われたんだ。だから俺も他人の物を盗むんだ。何が行けないんだ!」

 大きな声を上げたイーハオは、目に涙を溜めていた。

「父ちゃんを盗まれた? どういう意味だ」
「戦争に行って、そのまま帰って来なかった。戦死したんだ。大好きな父ちゃんだったのに……父ちゃんは戦争に奪われたんだ」
「そうだったのか……」

 リューシスは胸を詰まらせた。自身が軍事指揮官であるだけに、心境も複雑である。
 ネイマン、アーシンも沈痛な表情となり、シャオミンも悲しそうな目となっていた。

「聞いていいか? お前の父ちゃんは、いつ、どの戦争に行ったんだ?」

 リューシスが聞くと、イーハオは呟くように答えた。

「一年半前。セーリン川の戦い」
「何っ?」

 リューシスは愕然として顔色を変えた。

 一年半前のセーリン川の戦いと言えば、リューシスが初めてガルシャワ帝国のシーザー・ラヴァンと直接対決し、三倍のシーザー軍を撃破して天下にその名を轟かせた戦いである。
 あの時、リューシス軍は華々しい勝利を収めたのだが、当然リューシス軍にも少ないながら犠牲者は出ていた。
 そのうちの一人が、イーハオの父親なのか。

「父ちゃんの名前は何て言う?」
「ディエンだよ。リューシスパール様の親衛隊にいたんだ」
「ディエン……そうか」

 リューシスの顔色が曇った。

 知っていた。リューシスの親衛隊にいた三十代半ばの男である。真面目で腕が立つ上に、脚が速く乗馬にも長けていたので、よく斥候に出てもらっていた。
 ディエンは、元々はこのクージンの駐屯軍に所属していたのだが、志願して異動し、リューシスの親衛隊に入った。
 だが、セーリン川の戦いで、不幸にも数少ない犠牲者の一人となってしまったのである。

「父ちゃんが戦死したって聞いてから、母ちゃんもショックで病気になっちゃって……それで……」
「そうか……ディエンは真面目な男だった。いつもお前たち子供の話をしていたよ。一月に一度、クージンに帰るのをとても楽しみにしていた」

 リューシスが残念そうに言うと、イーハオが顔を上げた。

「あれ? 父ちゃんを知ってるの?」
「あ? ああ……その……俺はアンラードから来たんだが……アンラードで知り合いだったんだ」
「ふうん、そうなんだ」

 イーハオは子供ゆえの純真さで、単純に信じた。
 そこで、リューシスはふと、一つの疑問を抱いた。

「いや、待て。リューシスパールの親衛隊にいた者なら、戦死した者の家族にはその後二年間の見舞金が出るはずだ。小さな弟がいるとは言え、それだけで十分に食べて行けるだろう」

 だが、イーハオは腹立たしげに吐き捨てた。

「そんなもの、すぐに来なくなったよ! 最初の三ヶ月だけ少しのお金をもらっただけで、あとは何ももらってない。お城にも行って訴えたんだけど、知らないと言って相手にしてくれなかった」
「何だと……そんなことは無いはずだけどな……あっ」

 リューシスは気付いた。

「マクシムか」

 見舞金は、リューシスが申請して、財政を司る尚書省の下の戸部が手配する。だが、マクシムが手を回して止めさせたのだろう。訴えが来ても、握りつぶしているに違いない。恐らくディエンだけではない。他の戦死者のもそうしているはずだ。全ては、リューシスの評判を貶める為に。

「どこまでも汚い男だ」

 リューシスは体調不良も忘れ、怒りを露わにした。

「父ちゃんがこのクージンの兵隊をやめてリューシス様の親衛隊に行くって言った時、俺達皆反対したんだ。だけど、父ちゃんは言ってた。今はまだ評判は良くないけど、リューシス様こそがこの国を救い、やがて天下を治める英雄になるって。だからそれを助けたいんだって。俺達と離ればなれになるのは確かに少し寂しいけど、それでも月に一回は帰って来られるし、俸給もいいから、俺達に少しでも良い暮らしをさせて上げられるからって」

 イーハオはそこで、身体を震わせ始めた。

「だけど……父ちゃんは帰って来なかった。それどころか、母ちゃんも死んで、見舞金ももらえずに……俺達の暮らしは良くなるどころか悪くなった。リューシス様は悪い奴だ。どこか英雄なんだ。俺の父ちゃんの命を奪って、俺達家族を滅茶苦茶にした。そんな人のどこが英雄なんだ。天下の大悪人じゃないか!」

 イーハオは叫んだ末、ついに堪えきれずに泣き始めてしまった。

 戦場でイーハオの父、ディエンの命を奪ったのはガルシャワ軍である。しかし、直接手を下したのが誰かなんてわからない。国から、リューシスパールの親衛隊として戦争に行き、討ち死にしたと通知が来れば、少年としてはリューシスに怒りが向くのは当然とも言える。しかも、その後の見舞金も貰えていないのだ。

 リューシスは言葉が出なかった。イーハオの叫びが、刃の如く深々と胸に突き刺さった。

 イーハオの肩に恐る恐る手を置き、しばし泣いているのを見守っていた。
 しばらくして、絞り出すように言った。

「泣くな、イーハオ……お前の見舞金のことは、俺が何とかしてやる」

 イーハオが泣き顔を上げた。

「え? 本当に? そんなことできるの? お兄ちゃん、一体誰?」
「ああ。俺は、そのリューシスパール様とも知り合いでな。今度アンラードに帰ったら、リューシス様に言って、必ず何とかしてもらう。安心しろ」
「本当に? 本当?」
「ああ、本当だ。だから、もうスリはやめろ」

 しかし、イーハオは黙りこくってしまった。

「でも……スリを止めたら俺達はどうやって生きて行けばいいんだ。外で働いたぐらいじゃとても足りないんだ」
「じゃあこれをやる」

 リューシスは、取り返した財布をイーハオの前にぽんっと置いた。

「え?」

 イーハオは驚いて目を丸くした。ネイマン、シャオミンも仰天した。

「おい、お前……何言っているんだ」

 ネイマンが狼狽えるが、リューシスはまるで気にせず、イーハオに言った。

「この中には二万リャンほどある。子供二人なら、贅沢をしなければ半年ほどは暮らせるはずだ。これを全部お前にやる」
「え? そんなに? そんな……」

 さっきは自分がすった物なのであるが、こうして全部やると言われると、却って困惑してしまう。
 しかも、かなりの大金なのだ。

「気にするな。お前の父ちゃんと、お前たちのこれまでの事を考えたら、これだでも足りないんだ。遠慮なく受け取れ」

 リューシスは革袋を取り上げると、強引にイーハオの手に渡した。

「いいのかよ、おい……」

 ネイマンとシャオミンは未練残る顔である。
 先程から黙って見ていたアーシンは、にやりと笑った。

「随分と気前がいいんだな」
「仕方ねえだろ」

 リューシスはアーシンを見ずに答える。

「その気前の良さは、罪悪感からか?」

 リューシスは、アーシンをじろりと睨んだ。
 アーシンは涼しい顔で笑うと、

「安心しろ。お前のことは誰にも言わん」
「…………」

 その時であった。

「いたぞ!」
「待て、そこを動くな、賊ども!」

 アーシンとネイマンが眉をしかめて振り返った。

「何だよ。撒いたと思ったけどしつこいな」

 アーシンが舌打ちした。
 路地の向こうより、先程の衛兵三人がこちらへ向かって走って来る。

「何だお前ら、衛兵に目をつけられたのかよ」

 リューシスが面倒くさそうに立ち上がる。

「俺じゃねえ。この喧嘩バカのせいだ」
「だから喧嘩などと言うなと。武者修行だ」

 アーシンは真面目な顔で訂正すると、リューシスを見て言った。

「ここは俺が引き受けよう。奴らを別の場所に引き付けて撒いてやる。お前らはその間にとっとと逃げろ」
「いいのか?」
「ああ。だがその代わり、後で必ず俺を訪ねに来てくれ。そこのギョロ目との勝負がまだついていないからな。近日中にもう一度勝負だ」
「…………」

 ネイマンは呆れ顔で溜息をついた。

「俺は承徳大路チェンドゥーダールーのシンスー館と言う旅館に泊まっている。必ず来てくれよ、いいな?」
「悪いな。恩に着る」

 そして、アーシンは衛兵らに向かって駆け出した。

「よし、じゃあ今のうちに逃げよう」

 リューシスがネイマンとシャオミンに言うと、イーハオが立ち上がった。

「お兄ちゃんたち、追われてるの?」
「まあ、ちょっとな。捕まるとまずい」
「じゃあ、俺の家に来て隠れるといいよ」
「何?」
「これだけ貰ったお礼だよ。さあ、早く」

 言うと同時、イーハオはすでに駆け出していた。
 リューシスらは慌ててその後を追った。
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