怪奇短編集

木村 忠司

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とある廃墟ビルディングにて 〜天国と地獄編〜

第七話

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 二人の少女は正面に見える白い壁にひとつだけ開いたアーチ型の入り口へと歩いて行った。その向こうは、かなりの広さがあるスペースのようで、そこは十分な明るさの光が灯されていた。暗い場所に慣れた目には眩しく、中の様子が白んでよく見えないでいた。

入り口の際の壁に着いたヨウコが、中を覗くようなポーズをとろうとした。顔を出す寸前、突然室内からピアノが奏でるメロディが聞こえてきた。その音色は美しく、ほどよく響き渡り、ピアノの演奏も部屋の作りも上等であることが伺えた。

「誰かピアノを弾いてる」とレイカが小声でヨウコに囁いた。

「うん、クラッシックの曲だね」とヨウコが答える。

続いて、若い女性の歌声が聞こえてきた。伴奏に合わせて歌う、とても高い音域の裏声だ。その声はか細く、どこか嘆きの音色に感じられた。

「なんなのこれ?怖いんだけど...」とレイカが一人つぶやいた。

旋律のほぼ全部が裏声で奏でられ、サビに達すると、さらに高音域になりファルセットの長いスキャットが始まる。

「あっ、これ知ってるよ...モーツアルトの『魔笛』だ」とヨウコがひとりごとのように口にする。

「あぁ、オペラの曲だよね。でも、誰が歌ってるの...?」

「普通じゃないことは確か。さっきまでなかった、この空間。それに、この頑丈そうな白い壁も、床もこれまで見たことないくらい綺麗で磨かれている感じだし、廃墟って感じまったくしないでしょ?」

「うん」とレイカは唾を飲みこんだ。

「とにかく、中を見てみるか...」

ヨウコがそう言うと、レイカは大きく頷いた。

歌声はサビを終えてAメロに戻り、依然として長い旋律を奏でている。その演奏は同じ曲を何度も練習した手慣れたものの持つ安定感を醸していたが、どことなく神経を逆なでするような響きが混じっていた。

「君たち、入って来なさい」

突然、低音の落ち着いた男性の声が部屋の中から聞こえてきた。

魔笛の旋律が継続している中、レイカは目を見開いて息を殺した。ヨウコは表情を変えずにじっとレイカの顔を見ていて、しばらく様子を中を伺う。

魔笛を歌う声は再びサビに至り、ファルセットがはじまった。

「君たち、隠れる必要はないよ。遠慮なくお入りなさい」野太い男性の声が再びヨウコとレイカに語りかける。

「バレてる」とヨウコがつぶやく。

「うん...」まゆをひそめて頷くレイカ。

息を合わせる間をおいて、二人は少しだけ壁際から顔を出して中を覗いた。

そこは、幅10メートル、奥行きはその倍の20メートル以上ありそうな、広い空間だった。全体的に白を基調とした空間で、安楽椅子に腰掛ける白髪白ひげを蓄えた老人が杖を持ち、入り口から覗くヨウコとレイカの方を見つめている。その後ろにはピアノを弾く少女と、その伴奏に合わせて歌う少女がいる。

他にも、西洋風の立派な調度品が壁沿いに並べられていて、どれも白で統一されていた。椅子に座る老人から少し離れた場所に、材質は不明だが白色の立派なテーブルと椅子が据えられている。そして部屋の奥には、更に奥へ続く同じようなアーチ型の出入口が開いていた。

老人は黒い上下のスーツを着こなした、きちんとした身なりで、右手に白い杖を持っている。ピアノを演奏する女性と、その横で魔笛を歌う女性二人も、それぞれ青と赤の上等なロングドレスを着こなし、立派な身なりをしている。顔を見れば、ヨウコとレイカと同じくらいの年齢に見える。



「やぁ、君たち。私の秘密のビルディングへようこそ」

老人は優雅に両手を広げ、ヨウコとレイカを歓迎するように語りかけた。

「あなたは一体、誰なんですか?」ヨウコは隠れることをやめて姿を表しながらも、入り口から中には足を踏み入れないまま、そう尋ねた。

「私はこのビルのオーナーだよ」老人は穏やかに答える。

「それじゃ、後ろの歌っている人たちは誰なの?」

「フフフ。この二人は私の娘たちだ。彼らは君たちを歓迎するために歌っていたんだよ」

老人はニヤリと笑みを浮かべながら、杖で床を軽く突いてリズムを取り始めた。魔笛の演奏に合わせて。

「これって...動画であったところじゃない?」とレイカが思わずつぶやく。

「...だね」とヨウコが答える。

「どうやら君たちはひそひそ話をすることが好きなようだねぇ」老人は少し嗤うように言った。

「そうじゃないけど、なんかおかしいと思って。ここって10年以上前に廃墟になったって聞いてたから、誰もいないはずだって話してたの」

ヨウコは部屋に一歩踏み出して中を見渡した。

レイカはまだその後ろで黙ったまま尻込みしている様子だ。

「確かに建物自体は長い年月でくたびれた外観になってしまったがね。この通り内はしっかりしたものだろう?私も、幽霊が出るとか無責任な流言飛語が流されていると知っているよ。しかし困ったものだねぇ。だがまぁ人々の噂も七十五日というからねぇ」

老人は口を少し開き、短く笑った。

ちょうどその時、魔笛の演奏が終わり、赤と青のドレス姿の少女二人は黙ったままその場で、老人の顔を伺うように見つめていた。


すると、老人の喉の奥から聞いたことのないような濁った唸り声が響き渡った。大げさな拍手をしながら、老人は言った。

「ありがとう、娘たち。しかし残念ながら、我々の歓迎の気持ちが彼女たちに伝わらなかったようだ。どうも音楽の趣味が合わなかったようだねぇ。どうか君たちからも、彼女たちへ歓迎の意思を伝えてやってくれないか?」

そう言われた青と赤のドレスを着た二人の少女は、ヨウコとレイカの方へ無機質な人形のように義務的に向き直った。そして、不自然なほど完璧な笑顔に切り替わると、ユニゾンで言った。

「ようこそおいで下さいました。私たちは、あなた方を心から歓迎いたします」

二人は一礼した。

「なんか変だよっ」とレイカが小さな声で強くつぶやく。

「...わかってるよ」とヨウコが答える。

「まぁそういうわけだ。君たちこちらへ来なさい」

老人は杖を使ってテーブルの方へ促した。

ヨウコはレイカに目で合図すると、奥へと進んでいった。レイカもしぶしぶその後に続く。

「まぁ、遠慮しないでこちらへかけなさい」

老人は自分が安楽椅子に腰掛けると、レイカとヨウコを促した。

二人は素直にしたがって、テーブルに添えられた椅子にそれぞれ腰掛けた。神妙な面持ちで、改めて辺りを見渡す。

「何をそんなに緊張しているだい? 私が何か怖がらせるようなことをしたかな?」

「いや、そうじゃないんですが...」とレイカが戸惑いながら答える。

「まぁ、ゆったりしてくれて構わない。それではお前たち、奥へ行ってお茶を持って来るように言ってくれないか?」

老人は後ろを振り返ることなく、赤と青のドレスの少女たちに指示した。

少女二人は無言で会釈すると、幽霊のように部屋の奥の方へと消えていった。

「あの、ここに何人住んでいるんですか?」とヨウコが老人に尋ねる。

「えーそうだな...娘たちは全部で何人だったかな? 十人ともう少しくらいだ。私もいちいち覚えていないがねぇ」老人は軽く肩をすくめながら答える。

「娘が十人もいるんですか?」レイカが驚いたように尋ねる。

「ああそうだ。私の愛すべき家族さ」老人は誇らしげに語る。

ヨウコの方は無言で、その意図を探るように老人の表情を見つめている。

しばらくの沈黙の後、再び赤と青のドレスの少女二人が、銀の茶器を手に部屋の奥から現れてきた。二人は優雅に歩を進め、テーブルの上に茶器を置いた。

「お待たせいたしました」二人はユニゾンで言い、再び一礼すると、テーブルの端に立って動かなくなった。

老人は手を伸ばしてゆっくりと茶器のふたを開けると、香り高い蒸気が立ち上る。

「さあ、どうぞお飲みください」老人は優雅に茶器を差し出す。

ヨウコとレイカは少し戸惑いながらも、茶器に注がれた紅茶を受け取った。

「この紅茶は私の娘たちが丹精込めて淹れたものですよ。きっと気に入っていただけると思います」

二人の少女は無表情のまま、ヨウコとレイカの様子を見守っている。

ヨウコは紅茶の香りを嗅ぎ、慎重に口に運んだ。レイカもそれに倣うように飲んでみる。

「ふふ、どうですか? 上質な茶葉を使っているので、深い味わいがあるはずです。人間社会で手に入れられる最も上等なものですからねぇ」

二人は少し緊張したせいか香り強いだけで味が分からないまま、紅茶を静かに飲み進めていった。


「あの、さっき演奏していた女の子たちは、高校生くらいかなって、思ったんですけど...」とレイカが問いかける。

「あぁ、そうだね。たしかにそのとおりだ」老人はゆったりした口調で答えた。

「あなたの娘にしては、孫くらい歳が離れてますよね?」とヨウコが問いかける。

「ああ...どうやら君は私に何か疑いを持っているようだねぇ。ひょっとして私が誘拐などする悪者とかそんな風に思っているのかな?」老人はさらに話す口調をゆったりとさせ、ふてぶてしく答えた。

「い、いや悪者と言うつもりはないけど、この場所もあの少女たちもすべて何かおかしいと思って」

「まぁ、そうかもしれないねぇ。確かにここは、外から見れば異界もしくは異常にすら見えるかもしれないのは確かだ」

老人は足を組んで不敵に笑った。

するとそこに、新たな一人の少女がメイド服の姿で、お茶を載せたトレイを手に持って奥の方から現れた。

そして、テーブルの横に着くと一礼してから、ティーカップをヨウコとレイカの前に一つずつ置いた。そして、ポットに入れたお茶を静かに注ぎ始める。

「ユカ、ありがとう」

老人にユカと呼ばれた少女は、可愛らしい笑顔で答える。

「なぁ、ユカ。ここにいる二人の客人が言うには、君は私の娘と言うには若すぎると言うんだ。君は私の娘で間違いないよね?」

「はい、私はお父さまの娘です」

「ユカ、本当に君は素晴らしい。君は私の一番のお気に入りだよ」

老人はユカの頭を優しく撫でた。

レイカはちょっと嫌な顔をして、ヨウコの方も怪訝そうにしながらもユカをじっと見て問いかける。

「ねぇ、ユカさん。私は雛白高校の芹沢ヨウコっていうの。たぶんあなたも高校生くらいに見えるんだけど、ここではいつも何をやっているの?」

「わたしは身の回りの世話の他に、お父さまの好きな曲を弾けるように真面目にフルートの練習しています」とユカが穏やかに答える。

「学校には行ってないの?」ヨウコが更に問いかける。

しかし、ユカが答える前に老人が割り込んできた。

「ほら、彼女は私を愛してくれていますよ。君たちもそうしてくれればいいのだが」

老人は、ヨウコとレイカ二人に向かって言った。

「え!?」とレイカが漏らす声には、明らかな緊張が滲んでいた。

「ユカ...ありがとう。下がってくれていいよ」

「はい、お父さま」

ユカが奥へ消えていくと、老人は改めてヨウコに向き直った。

「さて、それでは君たちに逆に尋ねたいんだが、君たちは今送っている自分の生活をどう思っているんだね? そもそも幸せだと思って生きているのかな?」

「幸せですよ」レイカが言う。

「本当にそれは幸せなのかな?」

「だって家族もいるし...友達もたくさんいるし」

「そのとおり。当然家族も友達も居ることは大事だと思うよ。でもね、都内の狭い空間に1000万人も隣の人間の顔も知らず住んでいて、毎日息を詰まらすような電車に乗って、マスクから出た目でスマホだけを睨みつけた人間が棒立ちになって、誰もが身を寄せ合うほど密集しているのに、隣にいる人間を無視し合うような世界が、君は本当に幸せな世界だと思っているのかい?」

「それは...」とレイカは返す言葉がうまく見つからないようだ。


老人は口の端を上げて不敵な笑みを漏らすと、次にヨウコの方へ杖を向けた。

「隣の君の方はヨウコくんだよね。君らの話はずっと聞いていたんだ。私の耳は地獄耳なのでねぇ...。君は物凄く有望な才能を秘めた娘だ。私は非常に期待できる逸材だと感じているのだよ」

老人がそう語りかけても、ヨウコは無言のままで、しばらく返事をしなかった。

三人の間には、重苦しい緊張感が漂っていた。

少女たち二人は気づいていないが、さっき入ってきた入り口は消えていた。まるで穴が塞がれたかのように、一面ただの白壁になっている。

この大きな部屋には、何処にも小さな空気穴すら見当たらない。

果たして、この後少女たちはどうなってしまうのだろうか?

ヨウコは老人の言葉に対して、しっかりと答えを見つけようと真剣に考え込んでいる。

一方のレイカは、徐々に恐怖の色を浮かべ始めている。

この世のモノとおもえない美しくも閉塞感溢れるこの空間で、二人はつぎにどのような行動すれば、この危機的状況を脱することができるのか?

つづく



















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