怪奇短編集

木村 忠司

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牛頭天王

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最後の学校のチャイムが鳴ったとき、チサトは大きなランドセルを背負って学校の門をくぐっていた。

空を見上げると、北の空から、砂を溶かしたような厚い雲が押し寄せている。冷たい風が吹き始め、間もなくやって来る荒天の予告を知らせている。学校の帰りに言った先生の言葉がチサトの頭をよぎった。

「今日はこれから天気が悪くなるから、早く家に帰るように」

しかし、チサトの足は家とは反対方向へ向いていた。学校の北側の緑が残る小高い丘、みんなが"裏山"と呼ぶ場所だ。長年予定があると言われながら実際に開発の手が入ることなく、自然のままの森を残している。そこの一角に大きな公園があり、すぐそばに古い神社もある。

チサトはしばらくその公園で時間を潰すつもりだったが、入口まで来て、誰もいない公園を見て気が変わった。広い公園でポツンと独りは寂しすぎる、と思った。

来た道を戻る途中で、右手の山側の斜面に上へ上る階段が延びている。この石段をのぼると古い神社がある。

道草して帰りを遅らせたい彼女は、ちょっと見るだけなら大丈夫だろうと思って、ちょっとした好奇心を胸に階段を上ることにした。

 石段は長い年月であちこちガタがきていてあちこち苔むしている。周りの木々が鬱蒼と茂り、神社への石段を覆うように立ち上がっている。チサトはそんな石段を一段一段上っていった。幸い段差が小さい造りだったので、子供の足でも上りやすかった。たまに後ろを振り返り、急な段差にびっくりしながら、それでも引き返すことなく登った。

数十段の石段を上り切り、そこで一息つくと、なんだか自分が少しだけ成長した気がした。、おそるおそる境内に入ってみると、石の鳥居が待ち構えていた。鳥居には『八雲神社』と書かれていたが、チサトには読み方が分からない。

 鳥居をくぐって境内の真ん中までくると、広い割に何もない殺風景な光景が広がっていた。あまり人が来ないのか、入されずに伸び放題の木々や、苔むした石塔だ。かつては賑わっていたのだろう参道の石畳はどころどころ沈んでいたり、外れてたりする。子供心にも、忘れられた場所なのだろうと、寂しさを感じられた。

そんな時、灰色の空からポツポツと冷たい雨が落ち始めた。

その日チサトは傘を持たず手ぶらだった。次々雨粒が落ちて来て頬を伝う。雨はまだ遠慮がちだが、強まりそうな予感があった。チサトは何処かで雨宿り出来るところがないかと、辺りを見回してみた。

奥に藁葺き造りの古い本殿が姿がみえる。

彼女にとって普段見慣れぬ佇まいに目を見張った。近くまで駆けよって見上げてみると、大きなわらぶきの屋根の下で廂が長くせり出ているので、ぱっと見てこれなら強い雨からも守ってくれそうだ、と思った。

案の定、空は色を変えていった。砂色から鉛色へ変わる中で雨脚も強まり、遠くで雷鳴が轟く音が聞こえ始める。はっきりした屋根を打つ雨音が響く中、チサトは隅っこで座っていた。

そんな時、野太い声が聞こえた。

「こんなところで独り何をしているんだい?」


チサトが顔を上げると、牛の顔をした巨大な姿が目に入った。頭に赤い角が天に向かって伸びている。明らかに人間でないのでびっくりしたが、なぜか怖くなかった。

「わぁ...牛さん?」
少し震える声でチサトは尋ねた。

「あの...」チサトは思いついたようにポケットをごそごそと探り始めた。そして「おじさん、これ食べる?」と尋ねた。

差し出す小さな手のひらに、ビニルに包まれたままちょっと解けた飴玉が乗っていた。子供ながら勝手に入って来て悪い気がしたのだ。

牛頭天王は驚いたような、嬉しそうな表情を浮かべた。「私にかい?ありがとう」

そう言いながら、在りえないほどの大きな手のひらの上に飴玉を載せてもらい受け取ると「君は優しい子だね」と牛頭天王は微笑んだ。もらった飴玉をつまみ長い舌の上に乗せて頬張ると、ゆっくりとチサトの隣に座った。

「でも、どうしてこんな雨の日に独りで来たの?」

チサトは少し躊躇したが、正直に答えた。「お兄ちゃんが意地悪だから...逃げてきちゃった」

牛頭天王は静かに頷いた。「ほうそうか。それは難儀だ」

チサトは下を向いて続けた。「お兄ちゃん、昔はよく遊んでくれたんだけど...最近は怒ってばかりなの」

「強情の聞かん坊ってところか」

「うんそんな感じ...」

「もしかすると私に出来ることがあるかもしれんな」
すると、チサトの目が明るくなる。「本当?」と尋ねた。



「うん。しかしこれから雨が強くなるらしい。早く帰った方がいい」牛頭天王は優しく言った。「私は後からいくから、先に帰りなさい」


といって、牛頭天王は神社に置き忘れた誰かの大きな傘を指し示して「使いなさい」と渡した。



 チサトは言われた通り、傘を差しながら神社を後にした。

牛頭天王の言う通り、雨はすぐに本降りになっていった。大粒の雨であちこちに出来た水溜を避けながら歩いてゆく。



 アパートについて、自分の家の玄関のドアを開けて、「ただいまー」と奥に向かって声を掛けた。返事はなく、代わりに居間からテレビゲームの効果音が漏れ聞こえる。

 チサトは靴を脱ぎ、足音を静かに居間に向かった。引き戸を開けると、ゲーム画面に夢中になっている兄の後ろ姿があった。

チサトはランドセルを置いて、静かに低いテーブルの横に腰を下ろした。兄は振り向きもせず、プレイヤー同士が戦うバトルロイヤルゲームに没頭している。

チサト図書室で借りて来た本を取り出し、ページを開いた。

「くそっ、またやられた!」キャラクターの死を知らせる効果音と共に、兄のイライラした声が部屋に響き渡った。

チサトは思わず身を縮める。肩をすくめ息を殺した。兄の怒りが自分に向けられないように願った。

その願いが通じたのか分からないが、彼は再びバトルロイヤルに挑みとチサトを無視しいてゲームを続ける。しかしまたゲームに敗れた兄の兄のイライラがいよいよ頂点に達した。兄が大声を上げて、床にをグーで殴りつけ怒りを露わにする。チサトはテーブルの上で持つ本の陰に隠れるように小さくなっている。

するとその時、部屋の空気が一変した。

重く濃密な空気以外の何かが満ちていくような感じだ。壁掛け時計の秒針の音が、だんだんと遅くなっていき遂に止まった。

チサトが座っていた場所のあたりで、白い渦をまいた煙が立ち込めて、大きな人影を作った。築けばそこに少女の姿ではなく、異形の巨人が立っていた。

「お前が、この子の兄か?」牛頭天王は低い声で力強く尋ねた。その音圧に部屋中のガラスが微かに振動する。

見降ろされた兄は口を大口を開けてひっくり返り、ゲームコントローラーが手からこぼれた。

「兄であるお前が怖くてチサトは家に帰れない」

兄は恐怖におののきながらも、異形の巨人から目を離すことが出来ず固まっていた。

「もう一度言うぞ。兄であるお前が意地悪だから、チサトは家に帰れない」と牛頭天王は念を押し尋ねた。

兄は頷くしかなかった。

「チサトにやさしくするか?」

兄は再び大きく頷いた。

「私と約束出来るか?」牛頭天王は黒い目を丸くしながら顔を近づけ尋ねる。

「はい...」兄は震えながらなんとかそれだけ答えることができた。

「確かに約束したぞ。だが私との約束を破るとどうなるかわかるっているか?」

兄は頭を横に振った。

「もしお前が私との約束を破ったなら、これから見ることが、お前の身にも起きる」

そう言い終わると、牛頭天王の白い肌が赤くなりはじめた。そこに無数の水疱が浮かび上がる。水疱は膨らんで、黄土色の膿んだ液体を内包した大きな疱瘡へと成長した。それらは間もなく連鎖的な破裂を引き起こし、爆ぜた場所はピンク色の筋肉組織がむき出しになり、それもつかの間バターの様に黄色味を帯びて溶けてしまい、骨が露わになっていった。

顔面の崩壊過程は特に恐ろしいものだった。

まずは赤い角が落ち、牛の顔を形作った表皮が腐り、内部が露出た。両方の目玉は解けながら頬を伝い落ち、唇と鼻も落ちたあと、露わになった口の中で舌が壊疽したようかのように黒ずみあっという間に小さくなり消えてしまた。歯が奥歯から前歯からドミノのように抜け落ち、最期に頭蓋骨だけが残った。

 全身骨だけになると、それも次々バラバラになって崩壊した。巨大な体はすべて蒸発したように消えてしまった。

 白い煙がはれて気づけば、小さな居間にチサトがぼんやりと立っていた。

兄は震える手で自分の顔を覆った。

「チサト...」兄は小さい声で一言呟いた。
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