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第六章 互いの傷痕

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「私に、何か出来ることはありませんか? 私も、あなたの役に立ちたいです」
「……前のように、明るく健やかに笑って頂けるだけで十分です。だから――」

 フィルロードが立ち上がり、リリーシャを挟むように寝台に両手をつく。

 突然覆われるむせ返るような酒の匂いと、すぐそばで見おろしてくる紅の輝きに、リリーシャはわずかにのけ反りながら、驚きに目を丸くした。

「また急に、俺の前からいなくなるのはやめて欲しい」
「……!」
「あの時は、本当に……」

 続きの言葉が中断され、フィルロードが切なそうに歪めていた目を伏せる。
 はじかれたように、リリーシャは首を横に振った。

「ごめんなさい……、フィル。私、そういうつもりではなくて……!」
「……わかっています」

 抑揚のない声が返され、笑顔を貼りつかせたフィルロードがリリーシャの髪をそっと撫でていく。

「さあ、そろそろお眠りください。わたしは、ここにいますので」
「……はい」

 素直に頷いて、リリーシャは寝台に横になる。
 毛布や掛け布団をきれいに整えてから、フィルロードも椅子に戻っていく。

 それを見届けたリリーシャは彼とは反対側に寝返りをうつと、目を閉じた。が、なかなか睡魔が訪れず、彼女は何度も寝ようと試みたが、最後はゆっくりと目を開けた。

 あれから、どれくらい経ったのだろうか。
 彼は、まだそこにいてくれて――?

 確認することもはばかられ、リリーシャがそのまま動かずにぼんやりとしていると、小さなうめき声が聞こえてきた気がして、彼女は身を強張らせた。

 フィルロード?

 内心で名前を呼びながら、まだいてくれたことにリリーシャは嬉しくなる。が、その一方で、どこか張りつめたような雰囲気に彼女はシーツを握った。

「忘れられたと思っていたのに、どうしてまた今頃になって……」

 先ほどとはまるで違うフィルロードの声に、リリーシャは瞳を揺らした。

「姫は無事だ。もう、いなくなられることもない」

 フィルロード……?

 もう一度心の中で呼びかけるが、彼女は身動きが取れないまま、彼の苦しげな独白を背中に受け続ける。

「だから、割り切れ。割り切るしかないのは、わかっているはずだ。前々から想定もしていた。覚悟もしていた。あのときは、ああするしかなかった。でも……!」

 まくし立てるように流れていた低い声が、途切れる。

「俺が……、この手で……」

 声をかけようかどうしようかリリーシャが悩んでいるうちに、扉の閉まる小さな音が響いてくる。

 慌てて反対側を向けば部屋には誰もおらず、ただ一つ使われていない椅子だけがポツンとそこに残されていた。


 ***


 リリーシャは、ふと窓の外を見やった。

 淡く頼りなかったはずの外光が、いつの間にかくっきりとしたものへと変わっている。もうそろそろ昼時になりそうだと彼女は感じて、窓から部屋の出入り口に目を移動させた。

「フィルロード?」

 いつもなら、昼過ぎまでにはこの部屋に必ず顔を出すはずの彼が、いつになっても姿を見せない。

 何かあったんだろうか。
 昨夜のこともあって、不安だけが募っていく

 胸元で両手を重ね合わせていた彼女は、はじかれたように扉の方へ駆け寄った。

 昼間に一人でここから出るのは、どれくらいぶりになるだろう? 扉の取っ手に手をかけながらためらいが生じたものの、心配が勝った彼女は部屋を飛び出した。

「部屋は、確か……」

 前に話だけは聞いていた、彼に宛がわれている部屋へと足を向ける。

 ようやくたどり着いたそこはもぬけの殻で、きれいに片づけられた室内から彼が今までそこにいたという形跡は見あたらず、リリーシャは次に一階や中庭を歩き回ったが、目的の姿はどこにも見当たらなかった。

 途中で出会った何人かの顔見知りにも行方をたずねてみたものの、そろって首を横にふられるだけで。

「フィルロード、どこへ……?」

 昨夜の彼は、明らかに様子がおかしかった。

 笛の音は相変わらず美しいものだったが、たまに見せる憂いを帯びた紅の瞳。

 飲酒のせいだと勝手に思いこんでいたけれど、彼の独白や苦しそうな声音は、やはり何か思い悩むことがあったんだろうかと、リリーシャは唇を引き結んだ。

 二階に戻ってきたリリーシャの目に、さらに上へと続く階段が飛びこんでくる。
 彼女は一つ頷くと、そちらに歩み寄って行った。
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