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婚約破棄したくない(?)王子と婚約破棄したい訳あり令嬢2
しおりを挟む無知は罪だと思う。
知っていなくても罪なのだ。
子供だって、耳が遠くなったおばあちゃんだって、地方に住んでいて情報を知ることができない民だって。
彼らは何もしていないのにも関わらず、被害者にも加害者にもなりうる。
――わたくしは?
その問から逃げてきた。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。
逃げ続けた先に、わたくしは何も知らないという罪に進むことになった。
知ることはいくらでもできた。
幼いからなんて、なんの理由にもならない。
大人が教えてくれないなんて、そんなの言い訳にもならない。
知っているのに、知らないふりをした。
――そんなの、なんの意味もないくせに。
いつかは露見すること。いつか。
必ず自分に積もって返ってくるのだ。
――ある一人の少年と少女の話をしよう。
昔、それは少女たちにとってシャボン玉のような記憶である。
触れてしまうと跡形もなく消えてしまい、けれど虹色に輝いていて触りたくなる。そして、どこかふわふわと漂い、風に流されてしまうような記憶なのだ。
少女はある王国のお姫様として生まれた。
とき少し早く少年もある王国の王子として生まれた。
彼女たちは本来、運命の糸が交わることのない子供だった。
少女が、ごく普通のお姫様だったら。
少女――その幼子はすぐに母の元を離れることになる。そして、少女は少年の王国のある人に引き取られるのだ。
そこで、交わることのなかった彼女たちの糸はなぜか交わってしまう。
少女と少年は出会ってしまったのだ。
出会ってからの彼らの記憶はあっという間で、けれどシャボン玉のように小さな記憶がたくさんある。
少女も少年もまだ幼く、王族などではなくただの子供だった。
ある日、祖国の方を続けて決して笑わない少女に少年は花をプレゼントする。ただの野花だ。けれど、少女はそれだけでニコッと笑うのだ。
それが一人だけぽつんと捨てられたように、けれどもたくましくきれいに咲いていた、と少年が伝えると少女は少し口を歪めた。
――まるで、■■■■と一緒ね。
小さく呟いたその声を聞いたものはいるだろうか。
しかし、そんな少女たちの淡い記憶は終わりを告げる。
運命はどこまでも残酷だった。
少女は元の王国に引き取られ、少年は王宮に戻っていく。
やっぱり、交わることのない運命だったのだ。
あの時までは。
離れなければならないのに、運命は再び二人を合わせた。
――運命とはなんて残酷だろうか。
「おいどうしたんだ!」
ガンガン割れるような頭痛の中で殿下の怒鳴り声が聞こえてくる。
それすら、ズキッとわたくしの頭を咲いていく痛みにしかならない。
横目に見えた顔はとても怒っていて、怒らせてしまったのだと胸が痛む。
ありがとうございます、と紡いだわたくしの口は震えていて。
その時よりも頭痛が醜くなっている。
だけどわたくしに泣く権利なんてないのだ。
だからこういう時、わたくしは精一杯、無知に見えるように。
「答えてくれ」
あの時の野草みたいに。
「大丈夫です」
笑う。いつもどおりの笑顔で。
バッと殿下がわたくしの手を掴んだ。ギュッとわたくしの手が折れてしまいそうに力を込められている。
怒っているはずの殿下の目は目をそらしてしまうほど切なくて。
「答えるのだ」
美しかった。
だから、その瞳にわたくしが写ってはいけない。
「何をですか?」
一体、あなたの瞳にわたくしの何を写せるというのですか。
それでも、あなたの前では泣いてはいけない。だから笑う。できれば、あなたの瞳に映る私は笑っていてほしいなんて、都合の良い願望だ。
「何をなど……」
わたくしの笑顔を見た殿下が小さくため息をついたのが分かった。
その瞬間、わたくしは彼の手を振り払う。でも、力入れずに、クルッと自分の手首をひねって彼の手から外すだけ。
気づかれたら終わりなのに気づかれてほしいなんて、わたしは欲望に取り憑かれてしまった愚かな人だ。
そのまま身を翻し脱兎のごとく殿下の前から走る。もう、これ以上ないくらい。
「おい!」
殿下が後ろから叫ぶ声が聞こえる。
振り返ってちらっと見えた顔は驚愕で目が見開かれていて。そのきれいな瞳にはこれ以上ないくらい。
「待ってくれ!」
悲しみの色でいっぱいだった。
その瞳に見つめられたい。映りたい、映りたくない、映りたい、映りたくない、あるいは。
「さようなら。ご幸運をお祈りしていますわ」
もし、この時わたくしが彼の手を離さなかったら。
わたくしは彼のそばにいることができたのだろうか。
わたくしたちをつなぐのは触れただけで割れてしまうような、シャボン玉でできたものだった。
それは、放ってしまうと消えてしまい。触れても消えてしまい。針のような鋭利なもので刺すと割れてしまう。
きっと、運命とはそんなものなのだろう。
運命を掴み取った人はとってもやさしい手で、ずっと抱え込んでいるような人で、丸い落ち着くような温かみのある人達なのだ。
――わたくしとは違って。
わたくしは?わたくしは?わたくしは?
一体何なんだろうか。
消えてしまいたい。
それすらわたくしの身では許されないと知ったのはいつ。いつ、それを知ったのか。
それを思ったのはいつの頃からだったのか。それすらももう。
思い出せない。
「本当に良いのだな」
いつもなら堂々と胸を張り、眼光を輝かせ、うるさい馬鹿な貴族たちに凍てつくような光を放っている姿はもうそこにはなく。
ただの人だった。
「はい、陛下」
後悔に身を染めたような。
でも、わたくしはみんなにそんな顔をさせたいわけではない。
ただ、笑ってほしいのだ。わたくしがいれば、いずれ彼らは苦しむだろう。きっと、いなくなれば。
「前々から決めていたことですわ。ね、ご迷惑おかけしてしまい申し訳ありませんでした」
笑うのだ。
だから、わたくしも最高に晴れ晴れとした笑顔で。誰も悲しまないように、誰もが笑顔でいられるように笑う。
「そうは言うものの、大人の事情だ」
難しい顔で陛下はおっしゃられる。けれども、これこそ本当に可笑しくて笑みが漏れてしまう。
「お言葉ですが陛下。国の問題ではありませんか?国の問題は私達が背負うことですわ。そこに子供も大人もないでしょう」
そう、婚約関係が成り立ったときから。いいえ、生まれたときから。
わたくしたちは国を背負う立場に生まれたのだ。
クスッとわたくしが漏らした笑い声が、この広間に響いてやけに大きく聞こえる。
二人だけだからだろうか。いつもよりもこの部屋の空気が重く感じるのは。
そんなの生まれたときからなれている。わたくしは、この空気を生まれたときから知っている。
「しかし、其方はまだそれを背負わなくてよかったはずだ。息子も、其方も」
遠い目で語る陛下の目には、一体何が写っているだろう。
国のためという国王の冠を頭に載せながら、一人の人として考える陛下の方はとてもたくましいはずなのに。
今のわたくしにはとても小さく見えた。
「いいえ。陛下は一人の人としても、私達のことを十分に気遣ってくれました。もう、大丈夫です。きっと、彼も立ち直れますわ」
「其方は本当に、本当によくやってくれた。そなたの兄もな」
陛下のその言葉でハッとした。
「兄は、民は助けてくださるのですよね」
「ああ、約束しよう」
陛下がしっかりうなずたのをこの目で確認してホッと心を撫でおろす。
「それでは、よろしくお願い足しますね。お世話になりました、陛下」
わたくしがきちんと頭を下げ、淑女の礼をすると陛下もいつもの国王の顔に戻る。
わたくしは顔を上げ、胸を張る。王族としての矜持だ。
「連れて行け。――■■■■姫」
その言葉に、わたくしはもう一度礼をする。
「さようなら」
陛下も、殿下も優しい方だ。
これで、民は笑えるだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
窓の外を眺めてはため息をつく。
どこまでも雄大に広がっている山々も、牛や羊が放牧されている姿も、少女たちが追いかけて笑っている姿も。
何もかも、見慣れた景色。
「エレー!こっちに来てよ!」
少女がわたくしの名前を呼ぶ。
覚えられていたことにどこか、心が温まった。くすぐったくて、懐かしい。
「ちょっと待てってね」
わたくしが彼女たちに声をかけると、彼女たちは一直線にこちらに走ってくる。そんな様子でさえ、わたくしはただ、ただ嬉しかった。
彼女たちが笑って遊んでいられる。それを嬉しいと思えるのはいつぶりだろうか。
「だって、もういっちゃうんでしょう?」
足元でぎゅっとわたくしに抱き着いてくる彼女たちはとても可愛らしい。その顔に、まだ数回しか顔を見たことのない妹の顔が浮かんだ。
顔の知らない姉に、裏切った姉に、彼女は何というだろうか。
「ねえ、どうしたの?」
「えっ?」
「お姉ちゃん、悲しい顔をしているよ?」
びっくりして自分の顔に手を当てる。まさか、わたくしが悲しいなんて。そんなこと、思ってはいけないのに。
「なんでもないわ。どうしたの?」
「だから、もう行っちゃうんでしょう?」
きっと、彼女たちのほうが悲しい顔をしている。でも、わたくしは何故か。何故か、悲しい顔をされてうれしいと思ってしまう。心のどこかが、弾んでいる。
彼女たちの頭を撫でて、笑う。
いつも、殿下に笑いかけたように。
一番、楽しい笑顔で。みんなが笑いたくなるような笑顔で。
「大丈夫、きっと、きっと。もう、大丈夫よ」
「何が?」
きょとっとする彼女たちに笑う。
そう大丈夫だ。
あの優しい殿下たちの元、統治されるのだろうから。
「じゃあね!エレ!またね!」
「ええ、さようなら!」
わたくしはやっぱり笑う。心から、晴れ晴れとしたような。
雄大な山々を駆け抜ける。
勿論、馬である。こういう時、わたくしは田舎で育ってよかったと思う。ではないと、こんな山や草原などを越えるための技術はつかなかっただろうから。
冷たい風が私の頬を刺すように撫でる。景色が、視界の端で景色が消えていく。少女たちの楽しそうな声はやっぱり、消えていく。
耳に残る余韻ももう、ない。
ただ。耳や手先が冷たくなっていると感じる。
何故だろうか。もともと、冷たいはずなのに。
心臓が、嫌な音を立てる。わたくしの体に、嫌な――冷たい汗がつたった。まるで、心が凍っていくみたい。
そう、わたくしはこの感覚を知っている。
わたくしはまた。
彼女たちを、この国を、みんなを。
殿下を。
――見捨てたのだ。
「ただいま戻りました。第一王女、■■■■です」
そう、わたくしは笑う。本当に、何も知らない姫として。ただ無垢で、純粋で、何も知らなくて、きちんと正しく利用された姫として。
好きです。大好きです。
ねえ、殿下。
けれど、わたくしにそれを伝える資格はない。
だって、殿下は優しい。
――見捨てたわたくしと違って。
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