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三章

エレナ・ブラウン1

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 今から2年前。


 父から呼び出されたエレナはとうとうこの日がきた、と緊張の面持ちで父の言葉を待った。

「お父様、私の婚約者が決まったのですか?」

「あぁ。スコット家の次男、ロイド様だ。彼にはお前の婿養子となってもらう」

 父から婚約者の名前が告げられる。父の爵位は伯爵。本来なら、裕福であってもおかしくない。しかし、この領地は国境近くで治安が悪い。その上、辺境伯というには国境からも遠く、国からの支援も殆どない。私財で防衛費を賄っているような状態だ。
 当然、家はかなり貧乏だ。だからこそ、この縁談は重要なものだった。


「ロイド……スコット様ですか?」

「そうだ。ブラウン家が生き残るためには必須となる縁談だ。お前はロイド様に嫌われぬよう、精一杯務めなさい」

「は、はい!」

 当家の行く末は自分の双肩にかかっている、とエレナは背筋を伸ばし答えた。

「では、早速出発の準備をしなさい。昼過ぎに、先方へ挨拶に行こう」



…………


 スコット邸に到着し、案内された部屋には当主のスコット侯爵と、背の高い美男子が座っていた。

「おお。よく来たなブラウン伯」

「お邪魔いたします、スコット侯爵。本日はご挨拶の為、娘を連れてまいりました。エレナ、こちらがお前の義理の父親になる方だ」

「はじめまして。エレナと申します。よろしくお願いいたします」

「うむ。よろしく頼む。さて、ロイド。お前も挨拶しなさい」

「はい。はじめまして。ロイドと申します。以後、お見知りおきを」

 そう言って会釈するロイド。その姿はとても優雅で、エレナは目を奪われた。
 この時、エレナは浮かれていた。自分は伯爵家の娘。多少嫌な相手であっても、拒否権なんて無い。そんな中、これ程素敵な男性の婚約者になれるなんて、と。
 けれど、そんな気持ちはすぐに霧散することになる。


 …………


「こ、こんにちはロイド様。あの……そちらの方は?」

「ん? あぁ、エレナかい。こちらは社交界で知り合った女性でね。この辺りには詳しくないそうだ。だから、こうして街を案内しているのさ」

 ロイドが紹介した女性の瞳は熱を帯びていた。一方のロイドも、自分には見せたことも無い優しい眼差しを向けている。
 そう。ロイドは生粋の遊び人だった。

 初めての茶会の時、ロイドは言った。「僕は束縛されるのが嫌いでね。正式に結婚するまでは自由にやらせてもらうよ」
 はじめは意味がわからなかった。だが、日を追う毎にその意味が理解出来た。この婚約は双方の親が勝手に決めたこと。それを否定はしないが、彼が妥協するのはそこまで。
 ソレはつまり、「誰とどんな関係になろうと、自分への文句を言うな」ということだ。ロイドにとって、エレナは形だけの婚約者。どうでもいい女でしかなかった。

「あん……ない……? 女性と……二人きりで……?」

「そういうこと。じゃ、僕達はこれで」

 そう言って離れていくロイド。

「ごめんなさいね」

 女性からも軽く頭を下げられる。ごめんなさいとはどういうことだろうか。いや、わかりきっていることだ。「婚約者を取ってごめんなさい」。それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。事実、彼女がエレナに向けた感情は敵対心でも優越感でもなく、憐憫だった。

 …………


 気落ちしたエレナは屋敷に戻った。この事を父へと報告するためだ。父だって、娘婿となる男の浮気を良くは思わないはずだと信じていた。

「お父様……」

「どうした? 今日はロイド様に合いに行くと言っていなかったか?」

「いえ、ロイド様は……その……」

「……はぁ、全く。困ったものだ」

 父は溜息をついて目頭を押さえた。少し卑怯な気もするが、父から注意してもらえばいくら彼でも目立った事は出来ない筈だった。だがーー

「自分の婚約者も捕まえられんとは。ブラウン家の恥だな」

「……え?」

 父の言葉は、想像していたものではなかった。

「エレナ。もう少しロイド様の気を引きなさい。お前がロイド様の手綱を握らないでどうするのだ」

「……あ……え?」

「返事は?」

「あ……。はい……」

「やれやれ……」

 そう言って父は手元の書類に視線を戻した。父は自分よりも仕事や建前の方が大事なのだろうか? そもそもロイドの浮気は自分のせいなのだろうか? なら、どうすれば良いのだろうか?

(ねぇ、誰か……教えてよ……・)

 溢れそうになる涙をこらえ、駆けだした。こんな情けない姿、誰にも見せる訳にはいかないと、自分の部屋に戻り、ベッドに顔をうずめる。

「っ……! っ……!」

 シーツを握りしめ、声にならない声を叫びながらベッドを濡らす。
 父も。ロイドも。自分など見てはいない。ブラウン家の娘。ただ、それだけでしかない。

 父は政務の面でもかなり優秀だ。そもそもブラウン家の事情を考慮すれば、侯爵家との縁談を成立させるなど、普通はあり得ない。それでも、父はその手腕で侯爵家との縁談を持ってきた。
 ロイドにしても、あんな振る舞いが許されるのは実績があるからだ。社交界では高い話術や仕草で人を惹きつけた。武芸でも高い才能を発揮し、双竜の弟子を除けば、同年代でもトップクラス。そして勉学に至っては、あのシルヴァすらも超えた。

 そんな二人にとって、自分が取るに足らない女なのは当然かもしれない。

「だけど私だってーー私だって頑張った! 勉強も、ダンスやマナーも! 美容の為に苦手な運動だってしてきたのに!
 何が足りないっていうのよ!? 何がーー何が!!」

 エレナは布団をかぶり、周囲に聞こえないように叫び続けた。
 

 …………


 だが、エレナの悩みを解決する者など、現れなかった。むしろ、社交界に出ればいつも哀れみの視線を向けられた。

「エレナ様。ごきげんよう。あら? ロイド様は?」

「……いえ。何か急用が出来たそうで」

「あぁ。今日もですか。エレナ様も大変ですね」

「……大変? 何がですか? ロイド様に女として見られていないからですか? 余計なーー」

 そこまで言ってハッとする。しまったと顔を赤くする。

「っ! し、失礼しました!!」

 頭を下げ、急いでその場を立ち去る。しかし、周囲からはあざけりの声が聞こえてくる。

「……なに、アレ?」

「男に見向きもされなくて荒れてるんでしょ。惨めなものね」

「あんな風にはなりたくないものね」

 こうしてエレナは少しずつ。しかし着実に社交界でも浮くようになった。余裕が無くなり、自分の意図しない言葉が口から出るようになる。そうして、どんどんと追い詰められていく。
 その上、父もロイドも彼女を助ける事はなく、寧ろ邪険に扱うだけ。彼女の心は既に限界だった。


 こうしてとうとう、エレナは自分を助けたシルヴァにまで、無礼を働いてしまったのだった。


 …………


「ーー以上が……私とロイド様のこれまでです」

 エレナは俯き、説明を終えた。サラ達は黙って聞き続けていたが、その表情は険しかった。
 だが、なんと言っていいかわからないのだろう。何度か口を開くが、言葉が出てこなかった。
 そんな彼女らに、エレナは話を続ける。

「ご理解いただけたでしょうか。私にはロイド様を惹きつけるだけの魅力がありません。そんな私に、ロイド様の望むものなどわかる筈がありません」

 俯くエレナの視線の先は滲んでいた。ここまでの話の中、エレナはずっとボロボロと涙を流し続けていたからだ。
 そんなエレナに、黙っていたサラが意を決したように口を開く。

「……エレナ。話してくれてありがとう。貴方の事情、よく分かったわ」

「…………」

「だけど、一つだけ教えて。貴方はロイド様と……どういう関係になりたいの?」

「……え?」

 エレナはサラの言葉に顔を上げた。

「もしも、貴方がロイド様と別れたいのなら、私も一緒に考えるわ。貴方の家の金銭的な事情を考えた上で、婚約破棄する方法を」

「え? だけどそんな事はーー」

「さっきも言った通り、ロイド様には魔人と戦っていただく必要があるからね。ロイド様もこの婚約を否定的に捉えておられるなら、私達もロイド様に借りが作れるわ。だけどーー」

 言葉を止め、両腕をエレナの両頬に当て、視線を合わせる。

「それは貴方の気持ち次第よ。貴方を無視してそんな事出来ないわ。だから教えて? 貴方の本当の気持ちはどうなの? 貴方はロイド様と、どうなりたいの?」

「私の……気持ち……?」

「えぇ、そう。安心して? 何度も言うけど、私達にも貴方に協力する理由がある。皇太子に公爵令嬢、果ては神鏡の使い手よ? 大概のことなら力になれる自信があるわ」 

「わ、私の……気持ちはーー」
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