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真実、それぞれの愛の終わり方
あなたに抱かれたい
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緑山は、日曜日の婚約パーティーのために新しくスーツを仕立てに行った。
今度はあずみも雅も連れ立って英国製シルクリネンの上質な生地で、今週末までにという無茶なオーダーで請求も相当な額だったが、カードで簡単に済ませた。
その後は靴屋で、一番高いものを3足買った。そこでも支払いはカードを出した。
「こんなにしてもらっていいのか?」
「どうせ僕の金じゃない。」
「だったら僕はドレスがよかったな。ビスチェタイプの背中がたっぷりと開いた。」
「これからは男の子の洋服を着ますと、あずが宣言したんだぞ。
誰もそうしろとも言ってないのに。」
「だって・・・今回のことではお兄様に迷惑をかけたから、僕が男の子の洋服を着たらお兄様が喜んでくれるかなぁと思って・・・」
「あの人は、あずが一年中水着でも何も言わないよ。あずがあそこにいればそれでいいんだ。」
「そっか・・・じゃあ、やっぱりドレスを買ってください。」
「わかった。一番高いのを買ってやる。」
「大丈夫か?おまえ。こんなことばかりやっていて。」
「婚約するまでは誰も何も言えないんだ。ぼくには。
メシでも食って帰ろう。何がいい・・・中華がいいか?あずも中華好きだったよな。」
雅にはワザと大きな声を出してはしゃぐ緑山がなんだかとても寂しそうで哀れに思えた。
「おまえ仕事はいいのか?」
「会社の中にある僕の部屋は、すべてイタリア製の家具で揃えられる。
日当たりのいい、見晴らしのいいところさ。そこで朝9時から6時まで、何もしないでただすわっていることが僕の仕事だ。」
緑山は笑ってはいたが、雅には泣いているように見えた。
雅も山波が襲われた事件の後、大学を辞めて会社に入るようすすめた手前、緑山の現状を申し訳なく思った。
「親があまりにもしつこく言うから、よっぽど人手不足なのかと思ったら、こんな事だったなんて・・・
違うな。僕がそれを口実にあの人から逃げた。バチが当たったんだな。」
「何か俺にできることはないか?」
「今のところ何もないよ。ただ・・・友達でいてくれ。」
「わかった。今度は俺がおごるよ。」
婚約パーティーはホテルのレストランで行なわれた。
身内だけで質素にという話だったが、両家と招待客で40~50人はいた。
その時、女は着飾って、ニコニコと招待した客の中心にいた。
雅もあずみも、緑山に仕立ててもらった高級なスーツでおとなしく参加していたが、自分達にその不釣り合いなスーツが似合わないことは十分わかっていた。
緑山は、高砂席でペットボトルの水とにらめっこをしていた。
「水が沸騰しそうだな。そんな怖い顔で見つめて。」
「あ、教授。来てくれたのですね。」
如月は空いていた花嫁の椅子に座って話を続けた。
「君の死刑執行を楽しみにして来たんだがね、忌の際に、面白い話を聴かせてあげようと思ってね。」
「相変わらず、趣味が悪い。」
「そうかな・・・。
君が幼い時、ウチへ遊びに来た時、よく、パンダの絵がついたスカーフをしていただろう。」
「ええ、僕はぜんそくで喉を冷やさないようにと外出の時はいつも身につけていました。
でもあれは・・・」
「あれは風に飛ばされて、林の中へ消えた。
当然、もう見つかりっこないと思っていたものをずっと探し続けた男がいた。
山波だ。
綺麗にあらって、アイロンをかけて、翌日、君に返そうとしたが、返せなかった。君が新しいものをしていたからだ。
もうそんなもの捨ててしまったと思っていた。だけど山波はまだ持っているよ。大切に、ノートの間に挟んで。」
「どうして・・・」
「多分、何度も捨てようとしただろう。私も何度も捨てるように言った。
もう誰も必要としていないのだから、と。
でも、君があの日とても泣いていたからね、そのことを考えたら捨てられなかったんだろう。
あの日の君を笑顔してあげたい、そして、今日も君の笑顔を見ていたい。
ただそれだけだ。ただそれだけが山波の望みだ。
だから山波は、君の笑顔を独り占めしていられた短すぎた時が、どんなにか幸せだっただろう。
そして彼は、その幸せだった思い出だけを食べて生きていく獏になりましたとさ。」
「教授、獏が食べるのは思い出じゃなくて、夢ですよ。」
「そうだったか?
夢や希望だけでは食ってはいけないが、そんなものもない生活になんの魅力があるんだ。
あの日の君達は、生きていることそのものが喜びだった。
今、高級なスーツを着てそこに座っているより、よれよれの白衣を着て山波の隣に座っているおまえのほうが、魅力的に感じるけれどね。」
緑山は何も言えなかった。何も言えなかったけれど、心の眼では山波の面影を見ていた。
現実は・・・相変わらずペットボトルを見つめ、微動打にしなかった。
そして、女が高砂席に向かって歩いて来た。
「いよいよ君の死刑の時のようだね。今の話は、冥土のみやげだ。」
如月は緑山の肩をポンと叩くと、少し笑いながら席に戻った。
そして、意地悪く緑山の正面に座りずっと微笑みかけていた。
緑山の肩に女が手をかけて、椅子に座ろうとした時、反射的に緑山は立ち上がった。
そして大声で言った。
「僕はあなたとは結婚できない。
あなたには、1ミリの魅力も感じない。お爺様のいう通りに結婚して子供を作ってなんて絶対にできない。
なぜなら僕は同性愛者だからだ。」
「則夫 やめなさい!」
緑山の両親の制止に一瞬会場の時は止まった。
その場所の呼吸が止まったかのように静まり返ったフロアに緑山の声が響いた。
「お父様、僕には、大切な恋人がいたんだ。僕の事を守ろうと一生懸命になってくれる素晴らしい人だった。その人と別れてでもあなたの会社のために働こうと思った。
なのに、あなたがくれた僕の仕事は愛のない結婚だった。
緑山の人間はみんなそうして来たかもしれないけれど、僕はしない。そんな運命には従えない。」
「おまえ、我々を侮辱するのか。代々、苦労して守って来たのに。それでおまえも何不自由なく暮らして来れたんだろう。」
「そうだね。今までありがとう。お父様、お母様。でも僕その人のところへ行きます。」
「則夫!」
会場を出て行こうとする緑山に、父親は酷く憤慨して叫んだ。
「則夫!車の鍵を置いていきなさい。」
緑山はジャケットごとテーブルに置いた。
靴もズボンも脱いで、シャツだけで出て行った。
あずみも雅もそれに続いて、テーブルの上にスーツを脱ぎ出て行った。
如月はその後ろを、少し笑って追いかけて出て行った。
駐車場の車の影で3人が如月を待っていた。
「帰ろう。・・・それとも何か食べて帰るか?」
「イジワルはもういいや。」
「そうだった。君たちは服を着ていなかったね。」
如月は楽しくてしかたがなかった。緑山が笑って暮らせる日が戻ったことが。
そしてもう一人、寂しい男にもきっと笑顔が戻ると信じていた。
如月の屋敷は、鶴屋もやってきて、ワイワイと一気に賑やかになった。
如月はその声から避難するように庭へ出た。
「教授。」
声をかけてきたのは雅だった。
「あの日、僕が今日の緑山のようにしていたら、僕達はもっと違っていたでしょうね。」
「ああ、でも終わったことだ。今さら、何を思ってみても過去は変わらない。」
「もう一度、やり直せないかな。昔みたいに。」
「私は、今の幸せを結構気に入っている。
君がそばにいて、私はいつでも君の幸せを見る事ができる。
君と、君の恋人も含めての幸せを・・・そういう幸せはだめかい?」
雅は如月の隣に立って同じように庭を見ていた。
見ていた景色は幼い頃の自分が、初めて如月を見つけた、あの日の自分を見ていた。
緑山の新居は如月の屋敷の離れになった。
緑山の服は、緑山の母親がこっそり持ってきて鈴木に預けて帰った。
もちろん、婚約は破談、でも後のことは心配するなと伝えてくれと言われたが、如月は伝えなかった。
伝えたことはただ一つ、山波が今勤めている会社の住所。
住まいはわからない。多分、その近辺には住んでいると思うとだけ伝えた。
「前に山波を見たような気がして、追いかけて行った場所と全然違う・・・」
「今度は大丈夫、見つけられるさ。」
緑山は目に涙をいっぱいためて頷いた。
「どうやって見つけるかは自分で考えろ。」
如月は緑山の頭を撫でて、母屋へ帰って行った。その日、緑山は久しぶりにゆっくり眠れた。
何も考えず幸せな夢だけを見て眠ることが出来た。
緑山はとりあえず、山波の会社の傍のスーパーでアルバイトをすることにした。
人間は腹が減れば必ず食べるものを求めて買い物にくる。
山波だって例外ではないと思って初めてみたが、荷物は重いし手は荒れるし、
レジの扱いにもなかなか慣れず、夕方の混み会う時間はいつもベテランのレジ係に怒られてばかりいた。
バスで乗り継いで通っていたが、帰りは疲れてバスの中で眠ってしまい、乗り越してしまうこともしばしばだった。
それでも、なんだか毎日が、充実して生きている実感が持てた。
そんなことを1ヶ月ほど繰り返し、ひょっとしてこの店を山波は利用しないのかもしれない。そろそろ店を変えようと思った日に山波が現れた。
緑山は、レジを閉めて駆け寄りたかったが、閉めるタイミングをもたついて、
自分の列に人がたくさん並んでしまった。
仕方なく自分の仕事を繰り返したが、ほんの一息にでも背伸びをして山波の姿を探した。
けれど、目で追うだけで見失ってしまい、そのまま見つけることができず、
半ば諦めていた頃、ふとレジの前に立った人に視線を合わせた。
山波だった。
山波もまた、俯いてレジに並んでいたが、
「いらっしゃいませ」の短い言葉が、なぜか聞き覚えのある懐かしい声のような気がして、その声の主を探して顔を上げた。
二人はやっと見つめ合った。
だが、ほんの数秒で目をそらした。あんなに会いたくてたまらなかったのに、いざ会うと気持ちばかりが先走り、顔が熱くなり、手が震えてきた。
なんとか平常を装いレジをはじめた。
「今日はカレー?」
もっと別のことがいいたいのに、なぜかなにも思いつかなかった。
たとえ思いついたとしても、長く話をすると涙が出そうで無理だった。
「ああ。」
山波もまた、同じ気持ちだった。
一人暮らしで、さほど買い物かごに入っておらず、ゆっくりとレジをやっていたがそれにも限界がある。
何かを言わなければ・・・そう思いながら、最後の一品をレジが通った。
「僕もカレー好きなんだ。」
「そうだったな。」
「・・・僕の分もあるのかな。」
「・・・たくさん作るからな。」
「ごちそうしてくれる?」
「ああ・・・。」
「どこへ行ったらいい・・・?」
「何時に終わる・・・。」
「9時。」
「迎えに来るよ。」
「うん。」
「自転車しかないぞ。」
「うん。」
「泣くな。あと2時間だ。頑張れ。」
「うん。」
山波は手を振って帰って行った。
緑山は泣きたい訳ではないのに、涙が溢れ出てとても困った。
それからの2時間は、21年間生きてきた中で、一番長く感じる2時間だった。
9時を待ち、走って外に出ると夜の景色の中から山波の姿を探した。
山波は少し離れた街灯の下で待っていた。
お互いがお互いの姿を見つけるまで、今日のあの一瞬は夢だったのかと思った。
だから、姿を見つけたとき、その指先の輪郭、顔の色、髪の一本一本までもがはっきりと背景から浮き出たように感じられた。
「お腹空いた。早く帰ろう。」
山波が右手を差し出した。
「ごはん、待っていてくれたの?」
「二人で食べたほうがうまい。」
緑山は迷わずその手を握った。
子供のころからずっとほしいと思っていたものが、その手の中にあった。
暖かさが懐かしくて、嬉しくなって笑ってしまった。
山波もその笑顔が嬉しくて笑っていた。
如月は大学へ戻ると、恐ろしく忙しくて山波がいないとこんなに大変なんだと改めて知った。
後遺症でたまに頭が割れそうに痛む時があるが、絶対にいつかは山波が帰って来てくれる。
山波が帰ってくるまでの辛抱だと振り切るように仕事をして、今日も帰宅は9時を過ぎていた。
「今日、規夫さんから帰らないからと電話がありました。」
帰宅した如月を出迎えた汐田が荷物を受け取りながらそう言った。
「そうか。幸せの青い鳥を捕まえたかな。」
「それと警察の方から電話があって、山内先生の病院が摘発されたと言っていました。」
「そうか。山波が運命を変えてくれたおかげだな。」
久しぶりに如月は上機嫌になった。
「それでも、山内先生だけは捕まえることができなかったそうです。」
如月は汐田に背を向けたまま、チッと舌打ちをした。
その舌打ちは台所にいた鈴木にも聞こえた。
今度はあずみも雅も連れ立って英国製シルクリネンの上質な生地で、今週末までにという無茶なオーダーで請求も相当な額だったが、カードで簡単に済ませた。
その後は靴屋で、一番高いものを3足買った。そこでも支払いはカードを出した。
「こんなにしてもらっていいのか?」
「どうせ僕の金じゃない。」
「だったら僕はドレスがよかったな。ビスチェタイプの背中がたっぷりと開いた。」
「これからは男の子の洋服を着ますと、あずが宣言したんだぞ。
誰もそうしろとも言ってないのに。」
「だって・・・今回のことではお兄様に迷惑をかけたから、僕が男の子の洋服を着たらお兄様が喜んでくれるかなぁと思って・・・」
「あの人は、あずが一年中水着でも何も言わないよ。あずがあそこにいればそれでいいんだ。」
「そっか・・・じゃあ、やっぱりドレスを買ってください。」
「わかった。一番高いのを買ってやる。」
「大丈夫か?おまえ。こんなことばかりやっていて。」
「婚約するまでは誰も何も言えないんだ。ぼくには。
メシでも食って帰ろう。何がいい・・・中華がいいか?あずも中華好きだったよな。」
雅にはワザと大きな声を出してはしゃぐ緑山がなんだかとても寂しそうで哀れに思えた。
「おまえ仕事はいいのか?」
「会社の中にある僕の部屋は、すべてイタリア製の家具で揃えられる。
日当たりのいい、見晴らしのいいところさ。そこで朝9時から6時まで、何もしないでただすわっていることが僕の仕事だ。」
緑山は笑ってはいたが、雅には泣いているように見えた。
雅も山波が襲われた事件の後、大学を辞めて会社に入るようすすめた手前、緑山の現状を申し訳なく思った。
「親があまりにもしつこく言うから、よっぽど人手不足なのかと思ったら、こんな事だったなんて・・・
違うな。僕がそれを口実にあの人から逃げた。バチが当たったんだな。」
「何か俺にできることはないか?」
「今のところ何もないよ。ただ・・・友達でいてくれ。」
「わかった。今度は俺がおごるよ。」
婚約パーティーはホテルのレストランで行なわれた。
身内だけで質素にという話だったが、両家と招待客で40~50人はいた。
その時、女は着飾って、ニコニコと招待した客の中心にいた。
雅もあずみも、緑山に仕立ててもらった高級なスーツでおとなしく参加していたが、自分達にその不釣り合いなスーツが似合わないことは十分わかっていた。
緑山は、高砂席でペットボトルの水とにらめっこをしていた。
「水が沸騰しそうだな。そんな怖い顔で見つめて。」
「あ、教授。来てくれたのですね。」
如月は空いていた花嫁の椅子に座って話を続けた。
「君の死刑執行を楽しみにして来たんだがね、忌の際に、面白い話を聴かせてあげようと思ってね。」
「相変わらず、趣味が悪い。」
「そうかな・・・。
君が幼い時、ウチへ遊びに来た時、よく、パンダの絵がついたスカーフをしていただろう。」
「ええ、僕はぜんそくで喉を冷やさないようにと外出の時はいつも身につけていました。
でもあれは・・・」
「あれは風に飛ばされて、林の中へ消えた。
当然、もう見つかりっこないと思っていたものをずっと探し続けた男がいた。
山波だ。
綺麗にあらって、アイロンをかけて、翌日、君に返そうとしたが、返せなかった。君が新しいものをしていたからだ。
もうそんなもの捨ててしまったと思っていた。だけど山波はまだ持っているよ。大切に、ノートの間に挟んで。」
「どうして・・・」
「多分、何度も捨てようとしただろう。私も何度も捨てるように言った。
もう誰も必要としていないのだから、と。
でも、君があの日とても泣いていたからね、そのことを考えたら捨てられなかったんだろう。
あの日の君を笑顔してあげたい、そして、今日も君の笑顔を見ていたい。
ただそれだけだ。ただそれだけが山波の望みだ。
だから山波は、君の笑顔を独り占めしていられた短すぎた時が、どんなにか幸せだっただろう。
そして彼は、その幸せだった思い出だけを食べて生きていく獏になりましたとさ。」
「教授、獏が食べるのは思い出じゃなくて、夢ですよ。」
「そうだったか?
夢や希望だけでは食ってはいけないが、そんなものもない生活になんの魅力があるんだ。
あの日の君達は、生きていることそのものが喜びだった。
今、高級なスーツを着てそこに座っているより、よれよれの白衣を着て山波の隣に座っているおまえのほうが、魅力的に感じるけれどね。」
緑山は何も言えなかった。何も言えなかったけれど、心の眼では山波の面影を見ていた。
現実は・・・相変わらずペットボトルを見つめ、微動打にしなかった。
そして、女が高砂席に向かって歩いて来た。
「いよいよ君の死刑の時のようだね。今の話は、冥土のみやげだ。」
如月は緑山の肩をポンと叩くと、少し笑いながら席に戻った。
そして、意地悪く緑山の正面に座りずっと微笑みかけていた。
緑山の肩に女が手をかけて、椅子に座ろうとした時、反射的に緑山は立ち上がった。
そして大声で言った。
「僕はあなたとは結婚できない。
あなたには、1ミリの魅力も感じない。お爺様のいう通りに結婚して子供を作ってなんて絶対にできない。
なぜなら僕は同性愛者だからだ。」
「則夫 やめなさい!」
緑山の両親の制止に一瞬会場の時は止まった。
その場所の呼吸が止まったかのように静まり返ったフロアに緑山の声が響いた。
「お父様、僕には、大切な恋人がいたんだ。僕の事を守ろうと一生懸命になってくれる素晴らしい人だった。その人と別れてでもあなたの会社のために働こうと思った。
なのに、あなたがくれた僕の仕事は愛のない結婚だった。
緑山の人間はみんなそうして来たかもしれないけれど、僕はしない。そんな運命には従えない。」
「おまえ、我々を侮辱するのか。代々、苦労して守って来たのに。それでおまえも何不自由なく暮らして来れたんだろう。」
「そうだね。今までありがとう。お父様、お母様。でも僕その人のところへ行きます。」
「則夫!」
会場を出て行こうとする緑山に、父親は酷く憤慨して叫んだ。
「則夫!車の鍵を置いていきなさい。」
緑山はジャケットごとテーブルに置いた。
靴もズボンも脱いで、シャツだけで出て行った。
あずみも雅もそれに続いて、テーブルの上にスーツを脱ぎ出て行った。
如月はその後ろを、少し笑って追いかけて出て行った。
駐車場の車の影で3人が如月を待っていた。
「帰ろう。・・・それとも何か食べて帰るか?」
「イジワルはもういいや。」
「そうだった。君たちは服を着ていなかったね。」
如月は楽しくてしかたがなかった。緑山が笑って暮らせる日が戻ったことが。
そしてもう一人、寂しい男にもきっと笑顔が戻ると信じていた。
如月の屋敷は、鶴屋もやってきて、ワイワイと一気に賑やかになった。
如月はその声から避難するように庭へ出た。
「教授。」
声をかけてきたのは雅だった。
「あの日、僕が今日の緑山のようにしていたら、僕達はもっと違っていたでしょうね。」
「ああ、でも終わったことだ。今さら、何を思ってみても過去は変わらない。」
「もう一度、やり直せないかな。昔みたいに。」
「私は、今の幸せを結構気に入っている。
君がそばにいて、私はいつでも君の幸せを見る事ができる。
君と、君の恋人も含めての幸せを・・・そういう幸せはだめかい?」
雅は如月の隣に立って同じように庭を見ていた。
見ていた景色は幼い頃の自分が、初めて如月を見つけた、あの日の自分を見ていた。
緑山の新居は如月の屋敷の離れになった。
緑山の服は、緑山の母親がこっそり持ってきて鈴木に預けて帰った。
もちろん、婚約は破談、でも後のことは心配するなと伝えてくれと言われたが、如月は伝えなかった。
伝えたことはただ一つ、山波が今勤めている会社の住所。
住まいはわからない。多分、その近辺には住んでいると思うとだけ伝えた。
「前に山波を見たような気がして、追いかけて行った場所と全然違う・・・」
「今度は大丈夫、見つけられるさ。」
緑山は目に涙をいっぱいためて頷いた。
「どうやって見つけるかは自分で考えろ。」
如月は緑山の頭を撫でて、母屋へ帰って行った。その日、緑山は久しぶりにゆっくり眠れた。
何も考えず幸せな夢だけを見て眠ることが出来た。
緑山はとりあえず、山波の会社の傍のスーパーでアルバイトをすることにした。
人間は腹が減れば必ず食べるものを求めて買い物にくる。
山波だって例外ではないと思って初めてみたが、荷物は重いし手は荒れるし、
レジの扱いにもなかなか慣れず、夕方の混み会う時間はいつもベテランのレジ係に怒られてばかりいた。
バスで乗り継いで通っていたが、帰りは疲れてバスの中で眠ってしまい、乗り越してしまうこともしばしばだった。
それでも、なんだか毎日が、充実して生きている実感が持てた。
そんなことを1ヶ月ほど繰り返し、ひょっとしてこの店を山波は利用しないのかもしれない。そろそろ店を変えようと思った日に山波が現れた。
緑山は、レジを閉めて駆け寄りたかったが、閉めるタイミングをもたついて、
自分の列に人がたくさん並んでしまった。
仕方なく自分の仕事を繰り返したが、ほんの一息にでも背伸びをして山波の姿を探した。
けれど、目で追うだけで見失ってしまい、そのまま見つけることができず、
半ば諦めていた頃、ふとレジの前に立った人に視線を合わせた。
山波だった。
山波もまた、俯いてレジに並んでいたが、
「いらっしゃいませ」の短い言葉が、なぜか聞き覚えのある懐かしい声のような気がして、その声の主を探して顔を上げた。
二人はやっと見つめ合った。
だが、ほんの数秒で目をそらした。あんなに会いたくてたまらなかったのに、いざ会うと気持ちばかりが先走り、顔が熱くなり、手が震えてきた。
なんとか平常を装いレジをはじめた。
「今日はカレー?」
もっと別のことがいいたいのに、なぜかなにも思いつかなかった。
たとえ思いついたとしても、長く話をすると涙が出そうで無理だった。
「ああ。」
山波もまた、同じ気持ちだった。
一人暮らしで、さほど買い物かごに入っておらず、ゆっくりとレジをやっていたがそれにも限界がある。
何かを言わなければ・・・そう思いながら、最後の一品をレジが通った。
「僕もカレー好きなんだ。」
「そうだったな。」
「・・・僕の分もあるのかな。」
「・・・たくさん作るからな。」
「ごちそうしてくれる?」
「ああ・・・。」
「どこへ行ったらいい・・・?」
「何時に終わる・・・。」
「9時。」
「迎えに来るよ。」
「うん。」
「自転車しかないぞ。」
「うん。」
「泣くな。あと2時間だ。頑張れ。」
「うん。」
山波は手を振って帰って行った。
緑山は泣きたい訳ではないのに、涙が溢れ出てとても困った。
それからの2時間は、21年間生きてきた中で、一番長く感じる2時間だった。
9時を待ち、走って外に出ると夜の景色の中から山波の姿を探した。
山波は少し離れた街灯の下で待っていた。
お互いがお互いの姿を見つけるまで、今日のあの一瞬は夢だったのかと思った。
だから、姿を見つけたとき、その指先の輪郭、顔の色、髪の一本一本までもがはっきりと背景から浮き出たように感じられた。
「お腹空いた。早く帰ろう。」
山波が右手を差し出した。
「ごはん、待っていてくれたの?」
「二人で食べたほうがうまい。」
緑山は迷わずその手を握った。
子供のころからずっとほしいと思っていたものが、その手の中にあった。
暖かさが懐かしくて、嬉しくなって笑ってしまった。
山波もその笑顔が嬉しくて笑っていた。
如月は大学へ戻ると、恐ろしく忙しくて山波がいないとこんなに大変なんだと改めて知った。
後遺症でたまに頭が割れそうに痛む時があるが、絶対にいつかは山波が帰って来てくれる。
山波が帰ってくるまでの辛抱だと振り切るように仕事をして、今日も帰宅は9時を過ぎていた。
「今日、規夫さんから帰らないからと電話がありました。」
帰宅した如月を出迎えた汐田が荷物を受け取りながらそう言った。
「そうか。幸せの青い鳥を捕まえたかな。」
「それと警察の方から電話があって、山内先生の病院が摘発されたと言っていました。」
「そうか。山波が運命を変えてくれたおかげだな。」
久しぶりに如月は上機嫌になった。
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とても嬉しいです。
山波さんは僕もおすすめの人です。
理解していただけて本当にうれしいです!!
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山波さん、鶴屋君、がんばれ・・・
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ありがとうございます
皆が愛情に恵まれ幸せになれるように・・・
ひとえに隼人君のことが心配です。
そして、如月さんの安否も・・・。
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助手の鶴屋君とともに。
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